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1999年11月20日 の記事一覧

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山下泰裕

山下 泰裕(やました やすひろ、1957年6月1日 - )
日本の柔道家。熊本県上益城郡山都町(旧矢部町)出身。東海大学卒業。同大学大学院体育研究科修了。
東海大学体育学部教授(1996年 -)、東海大学体育学部学部長(2009年4月 - )同大学柔道部監督。柔道指導員。
前全日本柔道男子強化ヘッドコーチ(1992年 - 2000年)、前男子強化部長(2000年 - 2004年)、強化副委員長(2004年 - )。
前国際柔道連盟教育コーチング理事(2003年 - 2007年)。全日本柔道連盟理事。日本オリンピアンズ協会理事。
段位は八段。
引退から逆算して203連勝(引き分け含む)、また対外国人選手には生涯無敗(116勝無敗3引き分け)という大記録を打ち立てた。
1985年6月17日引退。
国民栄誉賞を受賞しており、現役時代のその圧倒的な強さから「史上最強の柔道家」とする声も多い。


来歴

現役時代
熊本県山都町(旧上益城郡矢部町)生まれ。幼少期虚弱だったことから、祖父・鯛蔵からスパルタ教育を受ける。熊本市立藤園中学校2年の時「将来の夢」という作文を書き、その中で「オリンピックに出場して、メインポールに日の丸を掲げながら『君が代』を聞きたい。そして柔道の素晴らしさを世界の人々に広げられるような仕事をしたい」と書いていた。

1977年10月の日ソ親善試合から1985年4月の全日本柔道選手権優勝を最後に現役引退するまで203連勝の記録を持つ(途中、引き分けを7回はさんでいる)。また、同期間内に全日本柔道選手権9連覇の偉業も達成。オリンピック正式種目として柔道が採用されて以降、史上最強の選手であるという呼び声も高い。また山下の童顔もあいまって海外での人気は絶大である。特にロシアの政治家ウラジーミル・プーチンは山下を大変気に入っている。

偉業のみ注目されているが、不運に見舞われた時もあった。

山下にとって初めての1976年のモントリオールオリンピック、当時大学1年生の山下は最終選考会に残るも補欠で代表としては出場できなかった。

蟹挟みで骨折
1980年の全日本選抜柔道体重別選手権大会で、遠藤純男が繰り出した奇襲技蟹挟みによって山下は足の腓骨を骨折、痛み分けとなった(現在のルールでは負傷による遠藤の棄権勝ちとなる)。この頃の山下は無敵であり、遠藤が山下に唯一勝てる技として、この大会のために密かに練習してきたのが蟹挟みだった。山下の敗北自体がショッキングだった上に、重傷を負ったことで、この試合及びこの技は大きく取り上げられた。また、この試合が引き分けとなったため、山下の“9年間無敗203連勝”という大記録へとつながることとなった。

蟹挾み自体はそれまでは柔道のルールで有効とされていた技だったが、この試合で危険性が見直されることとなり、禁じ手とされた。

1980年のモスクワオリンピックでは、日本がソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に抗議するためオリンピック大会不参加を選択。代表に選ばれるも試合に参加できなかった山下は、他の競技の選手と共に、マスコミを通じて文字通り涙ながらに訴えた。

オリンピック大会不参加・ボイコット当時の山下の回想によれば、『コップ酒を何杯もあおってもとてもやり切れる気持ちではなかった。枕に顔を押し付け、止め処も無く流れる涙を堪えるほか無かった』とのこと。もっともオリンピック前には前述した腓骨の骨折もあり「どちらにしろ出られなかった」との声もある。

失意の山下は、松前重義東海大学総長から「オリンピックを観戦して来なさい」と言われ、モスクワオリンピック柔道会場の観客席で観戦する。そこで世界の柔道選手と再会、交流を深め、傷つけられた心はいくらか慰められた。この不運に挫けることなく、4年後も再び日本代表に選ばれた。柔道のモスクワオリンピック代表のうち、4年後も再び代表に選ばれたのは山下ただ一人であった。結局山下は初めてオリンピックを目指してから3大会目にしてようやく代表として出場できることになった。

ロサンゼルスオリンピックで金メダル
山下が唯一出場した、1984年のロサンゼルスオリンピックでは、2回戦・西ドイツのシュナーベル戦で軸足右ふくらはぎに肉離れを起こしてしまった。山下は左に組むため、右足・軸足の肉離れで大変に不利な状況に立たされた。2回戦は送り襟絞めで勝利を収め、試合後控え室に引き返すまでの間、山下は肉離れを決して悟られまいと平然に振舞って普通に歩いたつもりが、誰にもわかってしまうほど明らかに足を引きずっており、それは映像にもはっきりと映っている。山下が控え室に戻るなり、コーチ陣に慌てた表情で問い質されたことで、自分の肉離れが全て悟られてしまったことに気がついた。

山下は一旦は落ち込むが、次の試合時刻が迫ってくる中開き直り、“足を引きずってもいいから相手を見据えて胸を張っていけ”と自身に言い聞かせ準決勝に臨む。準決勝の相手はフランスのデル・コロンボ。過去の対戦から組みし易い相手と山下は考えていたが、軸足の肉離れが影響したためか、開始30秒で大外刈りによる効果を取られてしまう。直後は動揺したものの直ぐに我に返り、激しく自身を鼓舞、守りに入ったコロンボ選手を大内刈りと横四方固めの合わせ技で逆転した。

決勝
エジプトのモハメド・ラシュワンとの決勝戦前、山下の頭には『金メダルを取り表彰台の中央で観客に満面の笑顔で応える山下』と『タオルを被って号泣してうつむく山下』の両方のイメージが交互に浮かんだ。師匠の佐藤は「投げられても一本取られなければいい、寝技に持ち込んで勝つ方法もある」と冷静にアドバイスする。一方山下も、同じ控え室で気合を入れて調整をしている試合直前のラシュワンに対し、意図してにっこり微笑みかけた。目が合い、笑顔で応じたラシュワンの緊張が解けた様を見て、山下は勝機を感じていた。

ラシュワンの指導者は「初めの一分間は我慢して攻めないように」とラシュワンに指示したが、ラシュワンはそのアドバイスを忘れたかのように強気で攻め始める。冷静な山下はラシュワンの攻めに無意識に反応、ラシュワンが体勢を崩した瞬間を捉えて押さえ込みに持っていき、横四方固め。一本を伝えるブザーが鳴った瞬間、山下は畳に両手を力強く突いて立ち上がり、涙でくしゃくしゃになった表情を隠そうともせずに喜びを表現した。この表情は繰り返し放送され、山下の決して平坦ではなかった道のりを示す名場面となっている。全て一本勝ちでの金メダルである。

表彰台の中央に上ろうとする山下に、ラシュワンは山下の足を気遣って手を差し伸べ、友情の証として世界から評価された。またラシュワンも、山下の右足を狙わなかったと述べたことから、そのフェアプレーの精神を称えられた。

オリンピック以降、そして引退
その後も国内外で不敗神話は続いたが、斉藤仁との戦いでは引き分けが続いた。斎藤も左利きで、山下との試合では防御に徹し、山下得意の大外もかからなかった。

また怪我も完治しなかったことから、不敗記録が途切れぬまま28歳という若さで1985年6月17日引退を決断した(斉藤は次のソウルオリンピックで重量級代表として出場、不振の男子陣で唯一金メダルを死守し、その後引退した)。1984年10月9日、山下は国民栄誉賞を授与されている。

引退後の監督時代
選手時代から全日本監督時代にかけての数々の海外遠征、そして留学経験などの様々な実績を買われ、2003年9月、国際柔道連盟の教育コーチング担当理事に就任する。

一説によると山下は、海外小説の原書を読むことができるほど英語に堪能。NHKの「土曜インタビュー」において「英語で1時間半も続けて演説した」というエピソードを披露した。また海外への出張中は英語のニュースを聞き「半分程度は理解できる」と謙遜混じりに述べた。選手生活を引退した翌年にはイギリスに一年間の留学をしている。

指導者としては「勝つ経験ばかりしている自分が負けた選手の気持ちを理解できるだろうか」という考えのもと、海外遠征では現地で選手をバスで観光させて見識を広めさせるなど、柔道の枠を越えて一個人を大きく育てていくという広い視野に立った指導を進めている。

国際柔道連盟理事就任〜落選
シドニーオリンピックでの篠原信一の銀メダル誤審問題により、国際試合での判定を厳密に審査する点においてシステムを見直す必要を感じ、2003年国際柔道連盟総会(大阪)教育・コーチング理事に立候補し、対立候補が無く当選。就任して改革に務めた。

2007年9月、国際柔道連盟総会(リオデジャネイロ)で国際柔道連盟の教育・コーチング理事に再度立候補するもアルジェリアのメリジャに61対123で落選。事前の予想では既に山下が不利であることが知られており、山下自身も「情勢は大変厳しく、みんなは勝ち馬に乗るだろう」と選挙2日前に述べていた。マリウス・ビゼールはメリジャを支持したため、この選挙は「ビゼール対山下」の戦いと言われた。山下が落選したため日本は初めて議決権を持つポストを失った。

NPO法人・柔道教育ソリダリティー
2006年4月からはNPO法人・柔道教育ソリダリティーの理事長として柔道を通じた国際交流を行っている。主な活動内容は、柔道用品(リサイクル柔道衣・畳)の無料配布、外国人指導者・選手の受け入れ、そして柔道教材の製作である。「自他共栄」をモットーに柔道を通じた人づくりに励んでいる。

柔道スタイル
山下は左組み手で、本人曰く“(階級の割りには)上背の無いいわゆるアンコ型”である。一番の得意技は最初に覚えた大外刈りで、大事な場面ではこれを使うという。大外と相性のいい大内刈も得意。内股は高校で覚えたが、海外の選手には非常に有効だったらしく、山下の選手人生で後半に使用度が高まった技だという。他にも小外、支え釣込み足、体落としと多彩であり、連絡技や組み合わせで相手を崩し一本を取るのが巧みな選手であった。 上背がないこともあり、大きな外国選手と戦うことを考えて、奥襟は取らない柔道であった。また、寝技での勝利も多く、特に投げ技からの移行がうまかった。

オリンピックには一度しか出場せず、怪我で早々に引退したものの、『世界史上最強の柔道家』に推す声はいまだ多い。小川直也は、世界選手権大会前の全日本合宿で乱取り稽古をつけてもらったが歯が立たず、「なんでこの人(山下)が代表として出ないんだろう?」と引退を疑問に思った。井上康生も、全日本選手権3連覇直後の専門誌による取材に、「いまでも寝技は山下先生が一番強いと思います」と答えている。

主な戦績
全日本選手権優勝9連覇(1977年 - 1985年)
世界選手権95kg超級3連覇(1979年、1981年、1983年)
世界選手権無差別級優勝(1981年)
ロサンゼルスオリンピック金メダル(1984年)

エピソード
丸顔と柔和な表情のため、温厚な性格と思われることが多いが、実際には子供の頃から大変な負けず嫌いであった。これは、祖父の厳しいスパルタ教育によるところが大きいという。
山下の影響でその後の世代に左組み手の柔道家が増えた。
選手時代は身長180cm・体重128kgの巨体にもかかわらず、100mを13秒台で走る俊足であった。
かつて皇居の園遊会に招かれ、昭和天皇から「柔道は、骨が折れますか(柔道は、大変ですかの意)」と尋ねられ、「はい、昨年骨折しました」と答えて周囲の爆笑を誘ったエピソードは、実直な人柄を表して有名である。
ロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得、国民栄誉賞も受賞した山下は、そのキャリアの絶頂期に結婚。相手は、銀座和光で店員をしていた一般女性。山下は、和光での買い物の際に彼女から見初められる。もともと山下のファンだった彼女は顧客リストから山下の住所を調べ、写真と手紙を送るなど積極的にアプローチし、交際が始まる。彼女の才色兼備ぶり、当時は女性からの積極的なアプローチが珍しかったこと、高級百貨店・和光の店員という経歴などから、当時の女性週刊誌を中心とするマスコミに格好の話題を提供した。同時に「『顧客リスト』を私用に使うとは何事だ」という上得意客からの非難もあった(当時は個人情報に対する認識がまだ薄い時代である)。

幻の新日本プロレス入団
山下に目をつけた新日本プロレスの代表者であるアントニオ猪木が山下の祖父に契約金の一部を先に渡し、話を進めようとした。これは、山下の祖父と新日本プロレスとの間の水面下での話であり、この話に山下本人は一切関わっておらず、プロレスラーに転向するつもりも無かった。報道によってこの件を知った山下は祖父を説得し、祖父は全額を返還、“プロレスラー・山下泰裕”計画は白紙となった。

社会的活動
文部科学省中央教育審議会委員(第1期 - 第2期)
骨髄バンク啓発ポスターのモデルになった。




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