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2001年03月 の記事一覧

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和田一浩

和田 一浩(わだ かずひろ、1972年6月19日 - )
岐阜県出身の中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(外野手、2001年までは捕手登録)。
ニックネームは同姓の和田勉にちなんだベンちゃん(ベン)、もしくはビッグベンなど。


経歴
西武時代
1996年度のドラフトで西武から4位指名され、捕手として入団。 ルーキーイヤーの1997年は、主に代打として17試合に出場し、プロ初安打・初打点を記録した。 1998年は、正捕手伊東勤の厚い壁のため、捕手だけでなく外野手としても出場機会を増やし、外野手で9試合にスタメン出場した。この年プロ初本塁打を記録した。

1999年は、伊東、中嶋聡に次ぐ3番手捕手としてなかなか出場機会に恵まれず、代打要員に留まったが、シーズン終盤には1番左翼手として起用された。

2000年には、打撃が認められて出場機会が増え、規定打席未満ながら3割を打った。9月9日には4番も任され、9番以外のすべての打順でスタメン出場した。守備位置は捕手9試合、一塁手15試合、外野手18試合、指名打者12試合と、徐々に捕手から外野手へとシフトしていった。

シーズン前、同僚の中嶋聡が捕手らしい番号を欲しており、当時背番号22だった和田は当時中嶋がつけていた1ケタの番号5を譲ってもらった。

2001年は、東尾修監督に「次世代を担うバッテリー」として松坂大輔と開幕戦でスタメン起用され、その後も松坂と7回にわたってバッテリーを組んだ。打撃も好調で一気に16本塁打、規定打席未満ながら打率.306を打って注目を集めた。守備位置はまだ捕手と外野手で一定せず、打順も2番と4番以外すべてに起用され、本格的にレギュラー獲得とはいかなかった。

2002年、新たに監督に就任した伊原春樹の勧めでこの年から外野手一本に絞り、5番左翼手のレギュラーに定着した。初めて規定打席に到達し、打率.319、本塁打33本、81打点と、定着1年目から中軸打者として申し分のない成績を残し、4年ぶりのリーグ優勝に貢献した。しかしレギュラーとして迎える初めての日本シリーズでは15打数無安打と不振だった。指名打者部門で初のベストナインを受賞。

2003年は、前年よりさらに成績を上げ、打率.346、30本塁打、89打点を記録。自己最高の出塁率.428、長打率.632を叩き出した。また柴田博之が出場する際には中堅手や右翼手としても起用された。この年から4年連続で外野手部門でベストナインを受賞する。

2004年は、アレックス・カブレラの開幕出遅れで、6月まで4番を任された。打率.320、30本塁打、89打点の成績で、3年連続3割30本80打点を達成。5月30日の函館市千代台公園野球場での北海道日本ハムファイターズ戦で芝草宇宙から本塁打を放ち、通算100本塁打を達成。この年からパ・リーグで開催されたプレーオフでは、第1ステージ第3戦北海道日本ハムファイターズ戦で、横山道哉からサヨナラホームランを放ち、チームを勢い付ける。 後に移籍することになる中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、打率.310、4本塁打、6打点で12年ぶりの日本一に貢献し、優秀選手に選ばれた。

2005年は、春先は絶不調であったが後半戦からは打率.370と一気に追い上げ、シーズン打率.322で初の個人タイトルとなる首位打者を獲得。同時に153安打で最多安打のタイトルも獲得した。パ・リーグの右打者による首位打者獲得は1993年の西武・辻発彦(打率.319)以来12年ぶり。4年連続30本塁打には3本届かなかった。

2006年3月、ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出された。しかし尿管結石を発症するなど体調を崩し、1次リーグでの代打起用のみに終わった。

シーズンでは6・7月に不調に終わり打率が伸びず、後半巻き返したが打率.298で惜しくも5年連続打率3割はならなかった。本塁打も19本に終わった。しかし自己最高の95打点を記録し、5番打者としてチームに貢献した。チームメイトの赤田将吾と並んでリーグ最多補殺を記録。

2007年は、9月8日の日本ハム戦で吉川光夫から安打を放ち、通算1000本安打を達成。前年より打率を上げてリーグ3位の打率.315を記録した。本塁打はレギュラー定着後最低の18本、打点は前年の約半分の49(9月半ば頃まで打率.239の細川亨より打点が低かった)に終わった。この年は走者が詰まっている場面(一塁・一塁二塁・満塁)では打率.224と低迷し、リーグ3位の22併殺打を記録した(逆に走者なしでは.353と好調であった)。

この年初取得したFA権を行使し、12月9日、中日ドラゴンズとの入団交渉の末、地元の岐阜に最も近い球団という事もあり、本人曰く「幼いころからのあこがれの球団」である中日への移籍を数分で即決した。なお、背番号は西武時代と同じ"5"が内定し、3年契約となる。なお、それに伴う人的補償で岡本真也投手が西武に移籍した。



中日時代
2008年、中日入団1年目も、西武時代と同じく5番を任される。序盤は不振であったが徐々に調子を上げていく。また、主砲であるタイロン・ウッズが不調の時には4番も務めた。この年通算1000試合出場を達成。2年連続3割を打つなど活躍したが、得点圏打率は.275とチャンスでは期待されたほどの成績を残せなかった。契約更改の際、「2009年シーズンはチャンスでもっと打っていきたい」と発言している。

2009年は、前年3割を打ったにもかかわず「ぜんぜんダメでしょ。自己ベストより1本でも1厘でも1打点でも上にいきたい」と春季キャンプで打撃改造を行い、オープンスタンスの幅や足の上げ方を変えた。昨年主砲のウッズ、中村紀洋が退団したため主砲として期待され4番に座る可能性もあったが、開幕はいつもの5番でスタートし、開幕戦1試合2本塁打と最高のスタートを切った。4月25日の対巨人戦でプロ通算200号本塁打を西武時代の同僚豊田清から放った。6月21日、平野佳寿から先制の満塁本塁打を打った打席で通算4000打数に到達し、通算打率にランクイン。この時点で川上哲治や落合博満をも上回る通算打率.315で、歴代6位・日本人右打者最高となった。6月には打率.415、6本塁打、15打点の成績で、2度目の月間MVPをチームメイトの川井雄太とともに受賞した(川井の投げる日は3試合連続本塁打、打率4割と相性が良かった)。交流戦では打率4割、7本塁打(ともに2位)と打ちまくった。7月15日には4年ぶりの20本塁打と自己最多ペースで本塁打を量産し、9月15日には10回表に永川勝浩から決勝の3試合連続本塁打を打った。打率.302で7度目の3割をマークし、29本塁打、87打点、出塁率.382と前年より大きく成績を上げ、打撃主要部門すべてでリーグトップ10に入った。守備面でも元捕手の強肩を生かした堅実な送球で12補殺を記録し、2年連続セ・リーグ最多補殺に輝いた。また、この年初めてシーズン全試合に出場(144試合)した。



プレイスタイル
独特の打撃フォームから弾き出す安定した打撃が特徴。2009年6月21日の対オリックス戦で通算打率ランク算出の最低ラインとなる4000打数に到達したが、その時点での通算打率.315は日本人右打者としては最高打率であり、三度の三冠王を獲得した落合博満(現中日監督、同じく右打者)をも上回る。率だけでなく広角に長打も打てる強打者でもあり、2005年は全27本の本塁打のうち8本を右方向へ放ち、右打者の右方向への長打率でリーグNo.1になっている。西武在籍時は、5番に和田がいることで相手バッテリーが4番カブレラとの勝負を避けられない場面が多かった。

バットを上段に構えて上下に揺らし、極端なオープンスタンスから左足を大きく上げ、全身を回転させるようにしてバットを背中の後ろまで一気に振り抜く独特のフォームによるフルスイングが持ち味。一見非常に粗いフォームでありながら、バットコントロールが巧く、三振は少ない。スイングの後、腰が落ちたような形になるので、左方向への長打を打ったのに三塁線へのファウルボールを打ったように見えることもある。最後まで振り切るフォームであることとあまり足が速くない事により併殺打が多い。

2009年度は打撃改造に伴って構え方が変化、和田特有の極端なオープンスタンスは見られなくなった。オープンスタンス自体は維持しており、更にバットの振り方も従来とさほど変化していないため、安定した打撃は健在である。

独特の打撃フォームも手伝って、右方向への打球が非常に良く伸びる。テレビ画面上で見ると、一見詰まった当たりに見えてもスタンドまでぐんぐんと伸びていくのが特徴である。和田によると流し打ちというと通常、力を加減してボールに合わせるイメージであるが、流し打ちをする時も「右に引っ張る」と言う意識をもつことで、引っ張った時と同じ力で打てるようになったといい、プロ入りしてから数年かけてこれができるようになったという。打撃開眼については金森栄治の指導が大きかったと語っており、金森の打撃理論を理想的に実践しているため金森自身も和田の打撃を最高傑作と語っている。

捕手出身として考えれば特別強肩というわけではない。しかし捕手出身だけあって捕球してから投げるまでが速く、コントロールが正確であるため補殺は多い(肩が強くないという印象が強いため、和田のところに打球が飛ぶと走者が本塁へ突入するということも一因ではある)。和田のスローイングに関して、谷繁元信は「上品な球」と表現している。しかし守備範囲は狭く、打球を見失うようなプレーがまれに見られることもある。そのため、西武在籍時には指名打者で出場することも少なくなかった。中日時代はT.ウッズ放出後に、一塁へのコンバート案が浮かび上がったこともある。

レギュラー定着後、7年で3割以上を6度記録など華々しい記録をもっているが、シーズン100打点を記録したことは1度もない。原因としては故障などでフル出場した年が無いことと、前打者であるカブレラがホームランバッターであるためランナーが既にホームランによって帰されている場面があった事が挙げられる。得点圏打率は年によってややムラがある事も特徴。2006年シーズンは100打点にはとどかなかったものの19本塁打で95打点であった。しかし、その年は和田がレギュラー定着後、唯一打率3割(.298)を切った年でもある。逆に、翌2007年シーズンは打率.315、18本塁打を記録したものの、49打点と前年からほぼ半減させてしまっている。

人物
週刊ベースボールに「和田勉」と誤植されたことがあった。

県立岐阜商業高校の同級生にはシドニーオリンピック女子マラソン金メダリストの高橋尚子がいる。ただ、和田と高橋は高校時代は互いに面識こそあったものの会話をしたことは一度もなかったという。母校では和田と高橋尚子、高木守道の3人をまとめて“ビッグ3”と呼ばれている。2004年11月23日、地元の岐阜メモリアルセンターでこの3人のトークショーが行われ、イベントは大盛況のうちに終わった。

捕手としての出場は2002年以降はないが、「捕手陣に故障者が出た場合、捕手として起用するかもしれない」と中日首脳陣に言われたことがある。

2009年からスタートした自身のブログによると、今までパソコンではソリティアでしか使用したことがないらしい

ヒーローインタビューでは余程のことがない限り、長嶋茂雄ばりの「んー、そうですねー」というくだりから始められる。

若い頃から髪が薄いが、本人はそれほど気にしている様子も無く時々ネタにしているほどである。タイムリーヒット等を打った後の攻守交替時に守備位置につく際に外野席から「和田コール」が起こったときも、威勢よく帽子を取って応えている。

小さい頃から、大のドラゴンズファンだったという。07年オフのFA移籍により、憧れの球団に入ることができたということになる。


タイトル・表彰
首位打者:1回 - 2005年(.322)
最多安打:1回 - 2005年(153安打)
ベストナイン:5回 - 2002年(DH部門)、2003年 - 2006年(外野手部門)
JA全農Go・Go賞:2006年9月強肩賞、2007年7月好捕賞、2008年9月強肩賞、2009年9月強肩賞
日本シリーズ優秀選手賞:1回 - 2004年
埼玉県「彩の国スポーツ功労賞」- 2004年(アテネオリンピック野球日本代表としての、8番指名打者で出場したキューバ戦の本塁打などで貢献した銅メダル獲得の功績を評価されて)
オールスターゲーム出場:4回 - 2003年(オールスター新人賞を獲得)、2004年、2005年(第1戦でオールスター優秀選手賞を獲得)、2008年(第1戦は代打出場で1安打1打点を記録、第2戦は5番左翼手で先発出場、5打数2安打2得点を記録)

個人記録
初出場:1997年4月30日、対近鉄バファローズ5回戦(大阪ドーム)、8回表に伊東勤の代打として出場、初対戦投手:背尾伊洋
初安打:1997年5月7日、対福岡ダイエーホークス3回戦(福岡ドーム)、7回表に倉野信次から単打
初本塁打:1998年8月4日、対近鉄バファローズ17回戦(大阪ドーム)、8回表にロブ・マットソンから2ラン
100本塁打:2004年5月30日、対北海道日本ハムファイターズ11回戦(函館オーシャンスタジアム)、10回表に芝草宇宙から満塁本塁打
150本塁打:2006年7月4日、対福岡ソフトバンクホークス9回戦(福岡Yahoo!Japanドーム)、2回表に和田毅から
200本塁打:2009年4月25日、対読売ジャイアンツ5回戦(東京ドーム)、9回表に豊田清から
1000本安打:2007年9月8日、対北海道日本ハムファイターズ23回戦(札幌ドーム)、2回表に吉川光夫から左前安打
1000試合出場:2008年5月17日、対横浜ベイスターズ7回戦(ナゴヤドーム)(427人目)、5番・左翼手として先発出場
マツダスタジアム初の本塁打:2009年4月10日、対広島東洋カープ1回戦、2回表にコルビー・ルイスからソロ本塁打


背番号
22(1997年 - 1999年)
5(2000年 - )

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