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久保田智之

久保田 智之(くぼた ともゆき、1981年1月30日 - )
阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。


プロ入り前
埼玉県比企郡吉見町出身。小学3年生から野球を始めエースで4番だったが、他に出来る者がいないという理由で捕手にコンバートされ、コンバート後は登板してもリリーフとしてだった。才能を認めた監督からはリトルシニアで硬式野球に慣れるよう薦められたが、経済的理由で断念した。

その後、自分でも活躍できるだろうと進学した無名の滑川高校でも捕手を務めていたが、監督に投手をしたいと申し出ると「エースと違う投げ方をするなら試合で使ってやる」と言われ、アンダースローなども試すうちに監督が練習中にトルネード投法で投げていたのを真似て投手も兼任するようになった。この際に野茂英雄を参考にしたことは一切なかったという[1]。

高校3年時の1998年に正捕手・4番打者・2番手投手として第80回全国高等学校野球選手権大会に同校初となる出場を果たす。1回戦の境高校戦では7回にマスク・プロテクター・レガースを外してリリーフ登板し、背番号2を打者に見せる投法が強烈な印象を与え、翌日のスポーツ新聞では「滑川の大魔神」「トルネード久保田」という見出しがつけられた[1]。3回戦で後にプロでチームメイトとなる久保康友を擁する関大一高に敗れたが、計3試合6イニングを投げて無失点に抑えた。

高校卒業後は投手として誘われた[1]関甲新学生野球連盟所属の常磐大学に進学。本格的に投手転向して2年時から主戦となるが、地肩の強さに頼った投げ方で連投できなかった[2]。3年時に東海大学との練習試合で153km/hを記録するなどプロから注目されるようになり、2002年春には読売ジャイアンツのキャンプに招待選手として参加。大学では小野寺力と共に活躍したがリーグ戦の優勝は無く、全国・国際大会にも縁がなかった。同年秋のドラフトで阪神タイガースから5巡目で指名され入団。

プロ入り後
入団直後の新人合同自主トレに体重超過で臨み、いきなり80万円の罰金を科されるも「活躍して倍以上にして取り返してやる」と発言し話題となる。

2003年5月11日にプロ初登板。5月24日のヤクルトスワローズ戦で、福原忍の球団最速記録を塗り替える156km/hを記録した。6月1日の巨人戦ではプロ初先発し、新人ながら先発投手と中継ぎを兼任して活躍したが、チームがリーグ優勝を決める直前に故障して日本シリーズでは登板機会がなかった。

2004年開幕当初は先発として起用されたが打ち込まれた上に再度故障。復帰後は中継ぎで好投していたが、ジェフ・ウィリアムス、安藤優也のアテネオリンピック代表招集やジェロッド・リガンの故障離脱に伴いクローザーに転向する。

2005年はウィリアムス、藤川球児とともにJFKと呼ばれるリリーフトリオを形成する活躍を見せる。5月4日の巨人戦では同点の延長10回表から登板して無失点に抑えるとその裏の攻撃で四球を選び出塁し、矢野輝弘の適時打で本人曰く人生初でクローザーとしては珍しいサヨナラのホームを踏む。チームが優勝を決めた9月29日の巨人戦では胴上げ投手となった。また、同年は自身の球団最速記録をさらに更新する157km/hを記録した。しかし、リリーフ投手としてはやや安定感に欠けて走者を出してはギリギリで抑える場面が多く、野球解説者やファンから「劇場型クローザー」と呼ばれることもあった。

2006年はWBC直前に負傷した黒田博樹の代替選手として日本代表に選ばれ、黒田が着ける予定だった背番号15で登録されたが登板機会はなかった。阪神では引き続きクローザーを任されたが序盤から安定感に欠け、6月21日にベビーカーから落ちそうになった娘をかばい利き手である右手の甲を地面に強く打ちつけて骨折し戦線離脱。この行動はファンのみならず藤川など同僚からも「父親として当然の行動」と評されたが、球団シニアディレクターの星野仙一には「自分の商売道具である手を大事にしていない」と批判された。シーズン後半には復帰したものの打ち込まれる場面が目立ち、長期離脱があったにもかかわらず7敗した。

藤川がクローザーを務めた2007年は、セットアッパーとして起用される。先発投手陣の不振もあってシーズン通してフル回転し、90試合に登板してシーズン最多登板数の日本記録を更新。防御率1.75、シーズン46ホールドの日本タイ記録と55ホールドポイントの日本新記録を樹立。下柳剛の10勝に次ぐチーム2位の9勝を挙げ、リリーフ投手ながらチーム2位、リーグ22位の投球回数を投げ、リーグ15位の奪三振数を記録するなどプロ入り後最高の成績を残し、初タイトルとなる最優秀中継ぎ投手を獲得。オールスターにも監督推薦で初出場し、7月20日の第1戦に登板すると1回を三者凡退に抑えて勝利投手となった。

2008年は前年の登板過多や同年も延長を含め1試合で4回を投げたりした影響からか防御率が倍近く悪化し、特にシーズン終盤は不安定な投球が度重なった。そのため、勝ちパターンの中継ぎの座をスコット・アッチソンに譲る形になった。オールスターにはファン投票で選出され2度目の出場。第1戦の9回裏に登板したが、山崎武司にサヨナラ安打を打たれるなど4安打2失点で敗戦投手となった。同年も12球団最多の69試合85回1/3に登板して37ホールドポイントを挙げ、2年連続の最優秀中継ぎ投手となったものの、12月22日の契約更改では推定1,000万円のダウンとなった[3]。

2009年は本人の希望と真弓明信新監督の意向もあり先発投手に転向することとなったが、キャンプ中に肩を故障して離脱。7月16日の中日ドラゴンズ戦で5年ぶりの先発となる一軍復帰登板も3回途中4失点で降板し、翌7月17日付で二軍に降格した。結局この年はわずか1試合の登板にとどまる。

プレースタイル
高校時代よりも捻りが少ないトルネード気味のオーバースローから最速157km/h、常時150km/h前後の速球、好調時には140km/hを超えることもある縦横2種類のスライダー、フォークボールに加え、稀にカーブも投げる。

マウンド上では基本的にポーカーフェイスを保っており、ロングリリーフで連投する場面も多々見られるタフネスさも特徴。

人物
大学時に右投両打に変えたが、死球等で利き腕に当たる危険性を考えプロ入り後に右投右打に戻した。

反骨心が強く、高校最後の夏だけでなく日本シリーズも「自分が出ていないのに見るなんて時間の無駄」と、一切観戦しなかった。あまりの反骨心の強さに、雑誌では「反逆児」などと書かれたこともあった。また松坂大輔と同世代の選手を松坂世代と称することについて「松坂だけで成り立っているみたいじゃないですか。同い年ってだけで繋がりはないし」と発言している。

ふてぶてしい面構えに、ピンチでも動揺しない強心臓の持ち主ということでクローザーに抜擢されたが、本人は「緊張しないわけがないですよ。なのに打者から見たら弱気に見えないらしい」と語った。与えられた役割にはこだわりを持ち、2006年6月12日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で岡田彰布監督が久保田の不振と疲労を考慮して前日好投した藤川を抑えとして登板させると、翌日にはコーチを伴って監督室へ赴き真意を問い質した。一方で「日本シリーズでは先発したい」と語るなど、普段から先発志望であることを公言している。

2007年オフにシーズン90試合登板を記念して母校の常磐大学から特別表彰を受けた際、プロ入り時に大学の卒業単位を満たしておらず自主退学していたことを明かした。大学側は卒業要件に関する規定を一部改訂、久保田を卒業生に準じる「名誉修了生」として扱うことにした。正式な卒業ではないため大卒(学士)の資格は得ていない。

背番号
30 (2003年 - )

タイトル・表彰・記録
最優秀中継ぎ投手:2回(2007年、2008年)
シーズン最多登板:(2007年、2008年)
シーズン最多登板記録:90試合(2007年)



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