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2000年01月18日 の記事一覧

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江川事件 空白の一日

江川事件(えがわじけん)とは1978年のドラフト会議前日にプロ野球セ・リーグの読売ジャイアンツとの電撃的な入団契約を結んだ作新学院高等部、法政大学出身の投手・江川卓の去就をめぐる一連の騒動のことである。江川問題(えがわもんだい)、空白の一日(くうはくのいちにち)とも言われる。


目次 [非表示]
1 過去2度のドラフト
1.1 1973年(高校3年時)のドラフト
1.2 1977年(大学4年時)のドラフト
1.3 米国への野球留学とクラウンの身売り
2 1978年オフの選手契約
2.1 空白の一日
2.2 3度目のドラフト会議
2.3 コミッショナーの強い要望
2.4 電撃トレード
3 その後の影響
4 補足事項
5 参考書籍
6 脚注
7 関連項目


過去2度のドラフト [編集]
1973年(高校3年時)のドラフト [編集]
1973年で江川卓は作新学院のエースとして、ノーヒットノーラン9回・完全試合2回、春の甲子園における大会通算最多奪三振記録などの数々の記録を残して日本中の注目を浴びた。プロの目に止まるようになり、ほぼ全球団のスカウトが江川の家に訪問するようになるが、江川は大学進学を希望する。

当時のドラフト会議はクジによって球団の指名順位を決定する「変則ウェーバー方式」であった。ドラフト1位指名では、指名順位上位だった大洋ホエールズ・南海ホークス・近鉄バファローズ・日本ハムファイターズ・中日ドラゴンズは進学希望の江川の指名を回避して別選手を指名して選手契約を締結した。しかし、指名順位6番目だった阪急ブレーブスが進学希望の江川をドラフト1位で強行指名する(なお、このドラフトにおける巨人の指名順位は10番目だった。巨人はドラフト1位で小林秀一を指名するが入団拒否された)。しかし、江川は大学進学を変えずに入団拒否。江川は当初は慶應義塾大学を目指したが、不合格だったため、法政大学に進学する。この慶大不合格はNHKでニュース速報テロップで報道されている。

1977年(大学4年時)のドラフト [編集]
法政大学では1年目からエースとして活躍し、通算47勝(史上2位)、完封数17はリーグ記録、ベストナインにも6度選ばれ、通算奪三振数443個(当時1位、現在2位)などの記録を残す。大学4年となった1977年、巨人への入団希望を表明。巨人側も1位指名の方針を固めていた。

1977年11月に行われたドラフト会議は4年前と同じくクジによって球団の指名順位を決定する「変則ウェーバー方式」であり、この時の指名順は1番目がクラウンライターライオンズ、2番目が巨人だった。クラウンが江川指名回避に動いていると情報があったため(クラウンは地元出身の門田富昭を1位指名するという情報があった)、江川の巨人入団は確実と思われた。しかし、当時観客動員で苦しんでいた福岡市の球団であるクラウンライターが経営再建の切り札にする目的で江川を1位強行指名したため、巨人は江川を指名できなくなった(巨人は次善策として早稲田大学の捕手であった山倉和博を1位指名にして入団契約を結んだ)。

これに対し江川は「九州は遠い」という理由で入団を拒否。なお、江川は巨人でなくとも関東のセ・リーグ球団であるヤクルトスワローズ、横浜大洋ホエールズからの指名であれば入団するつもりだったとのこと。この点について江川は後に、巨人との対戦機会が多いことに加え、当時交際中だった後の夫人が東京在住のため遠距離恋愛を避けたいという点を考慮し、「首都圏のセ・リーグ球団なら」との思いを固めていたことを語っており[1]、クラウンライターは福岡市を本拠地とするパ・リーグ球団のため、江川が望む条件とは大きくかけ離れていた。なお、大学時代のドラフト会議の少し前から、江川と江川の父親は在籍していた高校の理事長であり地元出身の国会議員だった船田中とその秘書の蓮実進に尋ね、プロ野球入団について相談をしている。

米国への野球留学とクラウンの身売り [編集]
1978年、大学卒業と同時に作新学院職員という身分でアメリカへ野球留学を行った。大学から社会人野球チームに入団すると、最低2年間はプロ野球入団が禁じられるため、社会人野球への選手登録をしないで翌年のプロ野球入団が可能な野球留学を選択したと考えられる。1978年10月12日、クラウンライターの運営会社である福岡野球株式会社は西武グループに球団を譲渡、翌1979年より球団名を西武ライオンズに改める。新生西武は本拠地を埼玉県所沢市に移転させることを発表し、本拠地が関東から遠隔地という拒否理由を取り除いている。西武はクラウンライターから交渉権を引き継ぐと、西武グループ総帥であった堤義明は先代(堤康次郎)からの番頭格であった宮内巌を球団社長にし、宮内球団社長を渡米させて江川と入団交渉を行うも江川の翻意はなく、11月20日を以って西武は江川との交渉権を喪失。江川は2日後に予定されるドラフトの対象選手としてもう1度指名を待つ身となった。

クラウンの江川強行指名については、裏で西武グループへの身売り構想と交渉があり、できるだけ球団を高く売るために江川との交渉権とセットで売却したいために、江川強行指名したとする裏取引説が存在するが、当時クラウン球団代表だった坂井保之は裏取引説を否定している。

1978年オフの選手契約 [編集]
空白の一日 [編集]
1978年11月
日 月 火 水 木 金 土
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
11月20日、江川はアメリカ留学を突如切り上げて緊急帰国。その翌日の11月21日午前に、巨人は江川と入団契約を締結。巨人側は「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能」と解釈し、ドラフト外入団という形で契約締結を決行する形となった。

当時の野球協約では、ドラフト会議で交渉権を得た球団がその選手と交渉できるのは、翌年のドラフト会議の前々日までとされていた。この規定は前日まで交渉を続けた場合には、その交渉地が遠隔地だった場合に、気象の急変などによって球団関係者がドラフト会議に出席できず、ドラフト会議に支障をきたす恐れがあるため、ドラフト会議の準備期間(閉鎖日)として設けたものだった。また、当時のドラフト対象学生は「日本の中学・高校・大学に在学している者」であり、当時の江川は社会人野球にも行かなかったため、野球協約の文言上では「ドラフト対象外」だった。日本野球機構はドラフト対象の範囲を広げるために、1978年7月31日の改正によってドラフト対象選手を「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」へ改正した。しかし、この新協約は「次回ドラフト会議当日から発効する」ことになっていた。

以上のことから、ドラフト会議の前日の11月21日には西武の交渉権が消滅しており、「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」をドラフト対象とするのはドラフト会議が行われる11月22日以後であると巨人は解釈し、11月21日時点でドラフト対象外選手である江川と自由に契約できると主張して入団契約を行った。ドラフト対象選手を在学生野球選手と社会人野球選手に限定すると解釈できる文言になっていたことは野球協約の抜け穴であり、巨人は野球協約の盲点を付いたことになるが、これを認めればドラフトの骨抜きになるため、セントラル・リーグ会長の鈴木龍二は巨人との契約を無効とする裁定を下した。これに対し巨人が反発。その抗議として、翌22日のドラフト会議を欠席(ボイコット)することになる。

なお、江川本人は「空白の一日」を利用した契約の詳細については当日(11月21日)の朝に聞かされたという。実際、当初はアメリカでドラフト会議の結果を待つ予定で、会議終了後にロサンゼルスのリトル・トーキョーにある日本食レストラン「ほり川」で記者会見を行う段取りも組まれていたが、直前になり父親から「とにかく帰って来い」との電話連絡を受け、ドラフト会議前々日に慌てて帰国することとなった[2]。

3度目のドラフト会議 [編集]
他球団は江川を指名する意思は無かったとされるが、巨人の抜け駆け契約に抗議する形で江川を指名する球団が現れ、ドラフト会議において南海ホークス、近鉄バファローズ、ロッテオリオンズ、阪神タイガースの4球団が1位指名した(巨人を除く全11球団が江川指名したのではなかった。江川を指名しても騒動や裁判に巻き込まれる恐れがあり、確実に取れる選手を獲得するために江川指名を回避する球団もあった)。この年から採用された「複数球団による重複指名→抽選」方式によって、4球団の抽選の結果、阪神が交渉権を獲得。これに対し、巨人側はあくまで江川との契約の正当性を主張。「全12球団が出席していないドラフト会議は無効であり、阪神に江川交渉権獲得はない」と日本野球機構コミッショナーの金子鋭に提訴した。また11月23日、巨人側は江川卓選手の地位保全の仮処分申請を東京地裁に申請した。巨人のオーナーであった正力亨は江川との交渉権が認められないのであれば巨人がセ・リーグを脱退してドラフト制度に左右されない新リーグを作る構想を公言。そのため、12月中旬でありながら翌年の開催日程も組めない非常事態に追い込まれた。

12月21日、金子は「ドラフト会議欠席は巨人側が勝手に行ったこと」とし、ドラフト会議の結果はそのまま有効に。その上で「江川と巨人による入団契約は認めない」ことと「阪神の江川に対する交渉権獲得を認める」ことを正式に決定した。

なお、日本プロ野球においてドラフト1位指名を3回受けたのは江川だけである。

コミッショナーの強い要望 [編集]
金子は巨人の訴えを退けたが、翌12月22日のプロ野球実行委員会において「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」という“強い要望”を提示した。これは、江川獲得の正当性やセ・リーグ脱退を主張する巨人と、そんな巨人の横暴に対する批判が真っ向から対立し、今後のプロ野球運営に支障が来たす可能性が出てきていたため、「江川の巨人入り」という巨人の当初の目的を達成させることによって問題の解決を図ろうとするものだった。野球協約では新人選手の公式戦開幕前の移籍は禁止されていたが[3]、金子はそれを承知の上でトレードによる解決を提案した。この“強い要望”を公表したとき、金子は「各球団の実行委員もほぼ同意してくれた」と語っているが、阪神はこれに強く反発、球団社長の小津正次郎も「トレードには出さない」と繰り返し発言していた。一方、巨人は前記のコミッショナー裁定を受けて12月27日に「空白の一日」による江川との契約を解除した。これにより阪神が正式に江川との交渉を開始することになったが、江川サイドはトレードの確約を得られないことから阪神に不信感を抱き、契約交渉ははかどらなかった。

電撃トレード [編集]
しかし、1979年1月31日、巨人と阪神は、阪神が江川と一度入団契約を交わし、即日小林繁との交換トレードをすると発表。阪神は最終的に金子の要望を受け入れることとなった。これは巨人のごり押しに屈するというよりも、阪神にとって大物とはいえ未知数の新人よりも実績のある投手を獲得できるほうが得という計算もあったとされている。実際、当時のドン・ブレイザー監督も「新人の代わりに小林か新浦を獲れるならその方がありがたい」と語っていた。また、当時のセ・リーグ会長の鈴木は、金子がトレードを提案した時点ですでに阪神と水面下で交渉し、江川の契約即移籍の確約を得ていたはずだ(すなわち、小津が金子の要望に反対していたのはマスコミ向けの仮の姿勢に過ぎなかった)と推測している。

トレードの一方の当事者となった小林は、巨人のキャンプ地である宮崎に渡るため羽田空港に向かっていたが、ここで巨人の球団関係者に呼び止められ、阪神と契約した江川との交換トレードを告げられた。球団フロントの説明・説得に応じ、この日の深夜に交換トレードが正式決定された。この解決策は特例であり、慣例および前例とはしないこととされた。なお、このときの江川の「阪神在籍時の背番号」は3であった。

これによって江川は念願の巨人入りを果たしたが、ファンやマスコミからはあまりにも唐突な展開だったため、電撃トレードと騒がれ、その多くは非難の声であった。また、江川や巨人だけでなく、江川との交渉中は「トレードはしない」と発言していながら唐突なトレード発表をした小津も強い批判を受けることになった。

しかしその後、2月8日のプロ野球実行委員会でこのトレードの野球協約違反が再び指摘された。上記のとおり金子はこのトレードが協約違反であることを承知で要望を出していたのだが、改めて指摘されたことにより“強い要望”を全面撤回し、両者は交換トレードという形を取らず、小林は交換選手なしで阪神に移籍(契約上は金銭トレード。江川の契約金を巨人が支払うことで相殺となった)、江川は開幕日の4月7日に巨人に移籍とされた。江川が巨人のキャンプやオープン戦に参加せず、入団発表が4月7日に行われたのはこのためである。

金子は強権発動の責任を取る形でコミッショナーを辞任。辞任の際には「次のコミッショナーは法曹関係者にするように」と言い残した。後継コミッショナーは外交官であり最高裁判所判事を務めた下田武三が就任した。

また、巨人は、同日のプロ野球実行委員会において一連の騒動について全面的に謝罪し、公式戦開幕から5月31日までの約2ヶ月間、江川の出場を自粛させることとした(誤って伝えられることが多いが、あくまで自粛であり出場停止ではない)。江川は6月1日一軍選手登録され、翌6月2日の阪神戦で初登板した。これは当時、試合出場は登録翌日からと規定されていたためで、6月1日の同カードで登板していた小林との対決は実現されなかった(後述のように江川と小林の初の直接対決は1980年に実現した。なお、現在は規定が改正され、登録当日より試合出場が可能となっている)。

その後の影響 [編集]
ドラフト制度によって選手は自分の球団を選べず、憲法が定める「職業選択の自由」に反するのではないかという議論が巨人の親会社である読売新聞を中心に起こり、国会でも議題にのぼった。1978年2月16日には参議院法務委員会で質疑の対象になり、鈴木龍二、三原脩、川上哲治など球界関係者5人が参考人に呼ばれた[4]。

後年、選手が球団を選べる裁量を大きくするために、日本野球機構は逆指名制度(1993年から2007年まで)の導入やFA制度を導入したが、本事件はこれらの改革のきっかけになった。

補足事項 [編集]
コミッショナーの金子は明治生まれの硬骨のバンカー(元・富士銀行頭取)として知られていた。巨人の招聘で就任したコミッショナーであったが、上記の通り正力亨は新リーグを設立する構想を公言した。コミッショナーを支えるはずの他球団オーナーも、この年に機構へ加入した西武の堤義明は原理原則の筋論で巨人を批判し、ヤクルトの松園尚巳は巨人寄りで新リーグ加入の色気を見せ、阪神の小津正次郎もいつもの如く算盤をはじき、中日スポーツは江川叩きで関東の部数を伸ばしたとまでの伝説がある。全員バラバラに行動した結果、孤立した金子は事態の収拾に強権を発動し世間の非難を浴び晩節を汚す結果となった。元々金子は巨人ファンで、コミッショナーになるまでは財界の巨人後援会「無名会」会長だったので、なおのこと金子裁定は巨人贔屓と非難されることになった。また、当初は反巨人で結束した他球団も、次第に江川の巨人入団を認める方向に傾き、最後まで反対したのは日本ハムの三原脩社長だけだった。
量販、物流、広告(マスコミ)に挟まれていたため常に中立堅持を貫いた日本ハムの大社義規オーナーを除けば全ての関係者が権利とエゴを剥き出しにしたこの事件について、金子は最後まで自己弁護の発言をしなかったが、晩年に「コミッショナーなどやるのではなかった」と述懐している。
江川が記者会見で「まぁ、そうムキになって質問されても困るんですけどね」、「興奮しないで…(感情を)抑えて、抑えて」と記者をなだめるコメントを発したのがきっかけとなって悪役のイメージが付きまとうこととなったのは有名だが、そのきっかけとなったのは朝日新聞記者の「アンタ、阪神入団となったんだからちゃんと阪神のユニフォームを着るんでしょうね!? 安芸市(阪神の春季キャンプ地)へいくんでしょうね!?」という質問。朝日新聞はこの一件をきっかけに巨人を否定する論調を展開するようになっていく。
この事件の最大の被害者となった、トレード相手で巨人のエースだった小林繁は阪神のキャンプ地へ向かう空港で「同情はして欲しくない。ボクは野球が好きですから」と大人の対応を見せている。また、この年には対巨人戦8勝負けなしという成績を収め、意地を見せた。
この事件で毎日新聞は大阪本社の発行エリアで「江川の人間性についてどうか」というアンケートを実施していた。
一連の経緯から、「エガワる」(周囲を省みず、強引に自分の意見を押し通すこと)という言葉が、「天中殺」「ワンパターン」「ウサギ小屋」と並んでこの年の流行語になった。
この当時江川事件に加え、松沼博久・松沼雅之兄弟を巡る争奪戦など、読売ジャイアンツと西武ライオンズの球団間の争いは多岐に渡り、最終的に親会社である読売グループと西武鉄道グループの遺恨にまで発展。読売新聞・報知新聞、日テレは西武鉄道グループ・セゾングループの広告・CMを締め出し、逆に西武鉄道も駅構内ポスター・車内吊り広告から読売グループの広告を締め出した。更にこの遺恨はプロ野球中継にも波及し、新生ライオンズは西武球場における中継から日テレを締め出し、同時期に開局し当時から同球団と密接な関係にある地元局・テレビ埼玉からは当時先発の首都圏独立UHF3局(tvk・チバテレビ・群馬テレビ)で実施していた日テレ制作の後楽園における巨人主催試合のトップ&リレーナイターのネットワークを開局直後の1979年に受けただけで翌年から打ち切る事態にまで発展した。なお、1991年に当時の読売の最高実力者だった務臺光雄が亡くなってからはこの遺恨も自然消滅、以降堤義明と古くから親密である渡邉恒雄が読売の実力者となってからは両グループの関係は修復されている。事実、日本テレビにも福岡本拠地時代以来放映権が復活し、松坂大輔投手の登板した試合を巨人戦と二元中継した他、2001年にBS日テレで1試合放送された。また、ビジターの地元系列局向けの中継を読売テレビ(対阪神)と福岡放送(対ソフトバンク)が制作している。
江川は米国留学中では三菱商事の現地駐在員宅に滞在しており、入団交渉しようとして門前払いされた西武は三菱商事本社にかけあったところ「社員個人のプライベートには干渉できない」と常識的な対応をされたが、これに西武グループ総帥であった堤義明が怒り、当時西武グループ各社のバスやタクシーが三菱自動車製であったが全て他社に変更させ、西武百貨店でも三菱関連商品を全て撤去した[5])。
1980年8月16日の巨人対阪神で江川と小林が先発となり、初めて直接対決が実現した。結果は5-3で巨人が勝利し、江川が完投して勝利投手となった。小林は5回に江川に勝ち越しのヒットを打たれて4失点で降板し敗戦投手となった。
本宮ひろ志の漫画『実録たかされ』の中で江川は「どうせ悪いことばかり書かれているから、当時の新聞・雑誌やテレビの報道は見ていない」と語っている。本宮が「あれから時間もかなり経過したんだから、もういいだろう」と言って当時の新聞や雑誌を江川に見せたところ、江川は気分が悪くなってトイレで嘔吐してしまった。このエピソードは単行本第3巻に収録されている。
2001年、自身が司会を務めるスポーツうるぐすでこの事件を特集。さまざまな噂や憶測が飛び交うこの事件において、紹介VTRが事実に近かったことに敬意を表した上で、自分の知らないうちに悪役の道が張られていたと語っている。
江川が巨人入りを強く望んだ大きな理由は、慶應入学が叶わず、法政に行かざるを得なかったからとも言われている。1985年から1989年まで巨人軍の広報室長を務めた若林敏夫が著した「巨人軍の最高機密II」によれば、江川は若林に「僕もいつかは野球選手を辞めて、社会で仕事をしなければいけなくなる。そのためにもどうしても慶應に入っておきたかった」ということを話していたらしい。若林によれば、江川にとって「慶應」にかわるブランドが「巨人」だったという説明がされている。
また「巨人軍の最高機密II」では江川入団時の「密約」にふれており、引退時に相談を受けた若林が江川から「入団時に、都内に土地付きの家屋を提供するという約束が球団となされていたがまだ履行されない。しかし今(1987年当時)それを望んだら数億円でしょう。僕にも常識というものがあります。そこまでは望みません。僕自身はいいが、入団時には両親には大変な迷惑や苦労をかけた。あの約束については文章がやり取りされている。その紙がいまではボロボロになってしまっている。両親が何度も何度も見返したのでしょう。だから両親のためになにかをしてあげたいんです」と若林に訴えたという。若林はやはり密約はあったのかと強い衝撃をうけるもその場では平静を装い咄嗟の判断で江川に「江川君、片手で(5000万)どうだろうか。」と言い、江川もそれを承諾し、若林に任せることにしたという。その話を若林は、正力オーナーにしたところ「やはり、江川はそういってきたか。いいだろう。彼には入団時大変な苦労をかけてしまった。球団としてもなにかをしなければいけないと思っていた。」と語り即決でそれを承諾したという。若林の著書によれば、巨人と江川の「密約」は、「引退功労金5000万」という形で履行されたという説明がされている。
江川は引退後、「勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー」で、阪神ファンである松村邦洋と共演した際、松村から「1日だけ阪神にいた人」といわれた事がある。当の江川は苦笑いしていた。厳密には形式上は江川は2ヶ月間阪神に在籍していたが、実質的な在籍経験はしていない。
この事件で「巨人、大鵬、卵焼き」(1960年代の子供が好きなもの)をもじって「江川、ピーマン、北の湖」(嫌われもの)という言葉が生まれた。1981年に山田邦子が発表したシングルレコード『邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド編)』の歌詞に江川批難・小林庇護の一文があり、当時の江川に対するバッシングが壮絶だった事が伺える。
1978年ドラフト会議に欠席した巨人だが、新人選手獲得にはドラフト会議が終了した後でドラフト外入団という手法で新人選手を10人獲得。新人選手の一人には鹿取義隆がいる。
1978年のドラフト会議で巨人は江川の次の指名選手として東芝府中の落合博満を予定していた(巨人の抜け駆け契約がなければ、江川を指名する球団はなかったとされているため、2位指名になると想定される)。しかし、巨人のドラフト会議欠席によって流れ、落合はロッテに3位指名された。これは後に、落合自身が証言している[6]。
江川事件以降、学生時代でのドラフト指名を拒否して、翌年のドラフト指名のために数年間ドラフト指名ができなくなる大学野球や社会人野球に行かなかった選手に元木大介がいる。なお、ドラフト指名されなければ現在では四国・九州アイランドリーグやベースボールチャレンジリーグに参加すれば、国内で野球をしながら高卒及び大卒1年目での指名は可能であるが、ドラフト指名を拒否した場合は高卒は3年目、大卒は2年目まで指名できない。
江川事件以降、クラウンライターライオンズおよび後身球団である西武ライオンズは2002年度ドラフト会議で後藤武敏を自由獲得枠で指名するまで、24年間法政大学に在籍する学生選手を指名することはなかった。
2007年、清酒メーカー黄桜の企業CMで、江川と小林が「空白の一日」について語り合った。二人は今まで顔を合わせても一度も会話をしたことが無く(江川によれば、小林にはかなりの負い目を感じていたため、現役時代は顔を合わせても体が硬直して言葉が何も出なくなったとのことで、会話どころか会釈すらできなかったこともあったという[7])、事前の打ち合わせも全く行っていない二人の述懐は話題を呼んだ。この後にスポーツうるぐすにてCMの未公開映像のシーンが放送されたが、シーンが明けて江川は感想を言おうとしたが、目が真っ赤になってしまい、まともに語れずハプニングとなりCMが流れた。この一連の流れは江川の人間性について改めて評価されるようになった。

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