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秦真司

秦 真司(はた しんじ、1962年7月29日 - )
徳島県出身の元プロ野球選手(捕手・外野手)。
現在はBCリーグ・群馬ダイヤモンドペガサス監督。


来歴・人物
現役時代
鳴門高校、法政大学から1984年ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。法大野球部の大先輩・関根潤三が監督に就任した1987年より、八重樫幸雄を押しのけ正捕手に定着する。

1990年、新たに就任した野村克也監督にリード・配球面で酷評され、古田敦也にその座を奪われる(開幕後数試合はレギュラーをたてるということであったが、ある試合で一死二塁、カウント0-3の場面で、セオリーから言えばストレートであるが、変化球を要求し、ストライクゾーンから外れフォアボールになった、さらに同監督から詰問されたことに対して「打ってくるような気がしたから」と答えたことが逆鱗に触れ、正捕手の座を剥奪された)。

しかし、打力と俊足を生かして外野手に転向し、右翼手のレギュラーとして活躍。91年オールスターゲーム出場、1992年の日本シリーズ第6戦では高校の後輩潮崎哲也からサヨナラ本塁打。稲葉篤紀、真中満らの台頭で控えに回った後も、貴重な左の代打として計3度の日本一に貢献した。

1992年、西武との日本シリーズで、2勝3敗で迎えた10月25日の第6戦は、シリーズ史上に残る逆転また逆転のクロスゲームの末、またも延長へ。その10回裏、秦は西武の守護神潮崎哲也から右翼席中段に見事なサヨナラホームランを放ち、このシリーズを3勝3敗のタイに持ち込んだ。ちなみに、秦と潮崎は同じ高校の先輩後輩である。

1994年10月6日、ヤクルトは神宮球場にて、対巨人最終戦を迎える。巨人が勝ち同日に中日が負ければ、巨人の優勝が決まる試合であった。7回裏に、リリーフ槙原寛己をヤクルトがとらえ、同点に追いつき、なお走者を2人残して秦が打席に立った。秦は右翼席中段に勝ち越しスリーランホームランを放った。結局ヤクルトはこの試合に勝ち、巨人と中日は10月8日の最終戦で優勝をかけてぶつかることとなった(10.8決戦)。10月7日付の朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞は、秦がうなだれる槙原を尻目にダイヤモンドを回るシーン、または打ったシーンの写真を掲載した。

1999年には日本ハムファイターズ、2000年に千葉ロッテマリーンズへ移籍し、この年限りで現役引退。

引退後
引退後、2001年ロッテ二軍打撃コーチ、2002年~2004年解説者を経て、2005年~2006年中日ドラゴンズ捕手コーチ、2007年は東北放送・NHK(MLB)解説者を務めた。

2008年、BCリーグに新加入した群馬ダイヤモンドペガサスの監督に就任。就任初年度にチームを上信越地区の後期優勝と年間優勝に導いた。

パンクラスに練習生として稽古に行ったことがある。

個人記録
通算1000試合出場 1996年8月16日(336人目)


背番号
26(1985年 - 1998年)
3(1999年)
31(2000年)
77(2001年)
82(2005年 - 2006年)
88(2008年 - )

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垣内哲也

垣内 哲也(かきうち てつや、1970年6月6日 - )
和歌山県出身の元プロ野球選手(外野手)。


来歴・人物
1988年、プロ野球初の分校出身者選手として西武にドラフト3位で捕手として指名され入団。強打・俊足の持ち主で、「秋山二世」、「和製大砲」と呼ばれる。正捕手・伊東勤の存在で出場機会に恵まれなかったが、1990年にファームで頭角を現す。

1993年には1軍定着を果たし、1994年から強打を生かす為、外野手にコンバートされた。1996年に左翼手としてレギュラーに定着し、28本塁打を放つ。翌1997年には清原和博が巨人にFA移籍。その穴を埋める期待をされるも、スランプや右膝の故障で不振に終わる。

1999年大砲として期されたアーキー・シアンフロッコ、グレッグ・ブロッサーら助っ人陣の大誤算と鈴木健が不振に喘ぐ中、チーム最多の15本塁打を放ち復活。以後3年連続で二桁本塁打を記録し左打者偏重のチームの中、和田一浩が台頭するまでは、唯一の右の強打者として存在感を見せた。

2002年オフ、椎木匠とのトレードで長距離打者不足に苦しんでいたロッテに移籍。2005年にはプレーオフ最終戦でチームの劇的勝利=優勝の引き金を引くヒットを放つなど、出場機会は減ったものの指名打者や代打の切り札として西武以来の勝負強さを発揮した。

2006年には開幕一軍に名を連ねるも、4月には二軍落ち。10月2日ロッテより戦力外通告を受け、引退。3月26日のソフトバンク戦で三瀬幸司投手から放ったスリーランホームランが最後の安打・本塁打となった。2軍イースタンの最終戦では4番で先発出場、これが花道となった。

引退後は六本木のステーキ店「シルクロード」の店長として勤務。又、ロッテのネットライブ中継の解説を2007年より西武1軍守備走塁コーチ補佐に就任した原井和也の代わりにつとめることになった。

2007年からはプロ野球マスターズリーグの東京ドリームスに所属している。

2010年から中日ドラゴンズの打撃コーチに就任することが内定している。
記録
日本シリーズ出場:3回(1993年、1994年、2002年)
オールスターゲーム出場:1回(1995年)
初出場 - 1991年6月18日 対オリックス13回戦・7番左翼手スタメン出場(山形県野球場)
初安打 - 1991年7月21日 対ダイエー14回戦・2回本原正治投手から(平和台野球場)
初打点 - 1991年7月30日 対ロッテ15回戦・1回荘勝雄投手から(川崎球場)
初本塁打 - 1991年10月13日 対ロッテ26回戦・3回今野隆裕投手から(川崎球場)
初盗塁 - 1993年7月16日 対オリックス13回戦(西武球場)
サヨナラ本塁打(1999年、2004年)
満塁本塁打(1995年、1999年、2000年)
100号本塁打(2001年9月30日)


背番号
39 (1989年)
63 (1989年途中 - 1991年)
33 (1992年 - 1993年)
12 (1994年 - 1998年)
55 (1999年 - 2002年)
38 (2003年 - 2006年)

エピソード
西武時代は39→63→33→12→55と5種類の背番号をつけてきた。西武時代の背番号は4度変更されたが、12番を返上した際に新しい番号は96番に変更すると発表されたが、直後に撤回され55番に変更となっており、これとロッテ時代の背番号38も含めると野球人生で都合6度の背番号変更となっている。
ロッテで使用されている応援歌の原曲はGOING STEADYの『愛しておくれ』であった。ファンに人気のあった応援歌で、引退した後もマリーンズのチャンステーマに使われている。西武時代は苗字と打球の音をもじって「カッキーン!」「ウッチーン!」と独特の声援があった。
2004年9月11日の日本ハム戦で1点を追う9回裏、二死無走者で打席に入りサードゴロに倒れ、敗戦と思われた。しかし敵失で出塁し、後続のタイムリーで生還して延長戦に突入する。そして、同点のままで迎えた11回裏の打席でサヨナラホームランを放つ。この日は選手会のストが中止となりプレーオフ進出をめぐって3位争いをしている中での試合だった。
ファームでも通算109本塁打を記録しており、一軍・ファーム双方で100本塁打以上を記録している唯一の選手である。
素質は清原以上と言われた。また、和歌山出身なので「ミカンの大器」と言われた。

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江藤智

江藤 智(えとう あきら、1970年4月15日 - )
埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(内野手)。
文化放送『文化放送ライオンズナイター』では江藤を「微笑みのバズーカ」と称している。



来歴・人物
関東高等学校(東京)では通算61本塁打を記録。「東の江藤、西の谷繁」と言われるほどの強打の捕手として名を馳せた。その長打力を買われて1988年、ドラフト5位で広島東洋カープに捕手として入団した。
広島時代
1990年
4月に一軍初出場。6月に初めてのスタメン出場を経験したが、このときの守備位置は右翼手だった。その後も右翼手・一塁手として38試合に出場し、5本の本塁打を打ってアピールした。
1991年
7番三塁手で初の開幕スタメン出場。肩を故障したのと打撃を生かすためにこの年から捕手から内野手(主に三塁手)に転向。正捕手に達川光男がいたなどの理由もあった。初の2桁本塁打(このシーズンチーム最多の11本)を記録した(2003年まで13年連続)が、打率は2割前半と振るわず、レギュラー定着はならなかった。
1992年
山崎隆造・山田和利らと三塁手のレギュラーを争った。5・6月は不調で一歩後退したが、後半になるにつれ打率を急上昇させ、9月はほとんどの試合で4番に抜擢され翌年への期待を抱かせた。
1993年
この年からレギュラーに定着する。開幕の3試合を除いてすべての試合で4番の座を守り抜き、初めて全試合に出場した。この年初めて規定打席に到達すると、前年の倍以上の34本の本塁打を打って本塁打王のタイトルを獲得、さらに初のベストナインに選ばれた。
1994年
前半故障で出遅れたが、6月に復帰して以降不動の4番に定着。8月には月間16本塁打の日本タイ記録。打率が初めて3割を超え、首位打者アロンゾ・パウエルに迫る打率.321を記録した。
1995年
本塁打王と打点王の二冠を獲得。シーズン終盤に急性虫垂炎で離脱したため、惜しくも40本塁打には届かなかった。また、自己最多の14盗塁も記録した。
1996年
前半から打撃好調で3割をキープ。本塁打も32本に達した。しかし8月に仁志敏久の打球を左目に当てて眼窩底を骨折し離脱。強肩の三塁手として鳴らしていたが、これ以降打球への反応が鈍くなってしまった。この年初めて最高出塁率・ゴールデングラブ賞を獲得。
1997年
出塁率は3割8分と高かったものの、打率は.252と平凡な数字に終わり、前年まで4年連続で受賞していたベストナインを逃した。
1998年
自己最多の100四死球を記録し、出塁率はこの年も3割8分を超えたものの、やはり自己最多となる103三振も記録し、打率は.253となかなか復調せず、終盤は金本知憲に4番を譲る試合もあった。
1999年
8月12日の対横浜ベイスターズ戦で1試合10打点のセ・リーグタイ記録をマーク。3割に迫る打率を残した。

巨人時代
2000年
FA権を行使し、読売ジャイアンツに入団。
広島で着けていた背番号33を当時の長嶋茂雄監督から譲り受け(これ以降長嶋監督は現役時代の背番号である3をつけた)、前半戦は不振に悩む高橋由伸に代わり3番打者として活躍、リーグ最多の勝利打点を挙げ(最多勝利打点のタイトル表彰はこの年限りであったため、江藤が最後の受賞者となった)、セ・リーグ優勝と日本一に貢献。特にリーグ優勝を決めた9月24日の中日ドラゴンズ戦(東京ドーム)では、4点ビハインドで迎えた9回裏に当時の守護神エディ・ギャラードから同点満塁ホームランを放つなど、勝負強さを発揮した。これは2000年巨人の通算200本塁打であった。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでもホームランを放っている。
2001年
移籍後2年連続のベストナイン・30本塁打を記録。スラッガーとして結果を残した。
2002年
2割台前半・本塁打18本とレギュラー定着以降最低の成績に終わり、この年から徐々に成績が低迷。
2003年
前年からの不振が続き、11年ぶりに規定打席に到達しなかった。打順は主に7番で、代打での起用も多くなった。
2004年
三塁手である小久保裕紀がダイエーから移籍してきたこともあり、スタメン出場は15試合にとどまった。
2005年
通算350本にあと1と迫っていた本塁打が遂に1本も打てず(ホームラン性の当たりが屋根に当たってしまったことがある。後述)、打率も2割を切り、スタメン出場は8試合で完全に代打要員となってしまった。同年オフの契約更改では野球協約の限度である40%を超える減俸となった。その直後、FAで巨人入りした豊田清の人的補償として西武ライオンズへの移籍が決定。「FA移籍」と「別の選手のFA移籍に伴う人的補償選手として移籍」の両方を経験した、日本で初の選手となった(翌年に現横浜の工藤公康もこれを経験)。

西武時代
2006年
西武ライオンズでは年齢、キャリア年数ともチーム最高となり、豊富な経験に人柄も手伝って若い選手の多いチームにあって貴重な存在感を示した。36歳の誕生日となる4月15日の千葉ロッテマリーンズ戦では内竜也から2年越しとなる通算350号本塁打も放った。また7月19日の福岡ソフトバンクホークス戦では、主力であるアレックス・カブレラや和田一浩といった主力打者が抜けたため4番に座り(巨人時代は一度も4番を打たなかった)、6回表に佐藤誠からレフトへの二塁打を放ち、通算1500本安打を達成した。移籍後は主に代打(対左投手)としての起用が多く、時には指名打者や一塁手、三塁手として先発出場している。
2007年
この年も代打や指名打者として活躍。西武移籍後初めて三塁の守備につき三塁手として9試合にスタメン起用され、カブレラがエラーを繰り返した際はカブレラが指名打者に回って江藤が一塁を守るなど、守備でも健在ぶりを示した。
2008年
前年までと同じく、代打の切り札として、また、クレイグ・ブラゼルが故障したときなどは4番一塁手でスタメン起用された。打率は.206と低かったが、20本の安打のうち本塁打が7本と、長打力は発揮した。この年に再度FA権を取得したが、行使せず残留することで合意。
2009年
代打での出場が多かったものの、打率1割台と不振で8月6日に2軍に降格。10月2日、現役引退を発表した。

エピソード
関東高校の同級生に漫画家の安野モヨコと元バレーボール日本代表の泉川正幸、また1年先輩にMr.Childrenの桜井和寿がいる。
ルーキー時代、キャッチャーボックスから二塁までノーバウンドで送球が出来なかった。
1992年から2004年にかけて、毎シーズン盗塁を1回以上(最多は1995年の14個)は決めていた。
2005年7月30日の読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ第12回戦では、通算350号ホームランまであと1本に迫っていた江藤がホームラン性の当たりを放つも、天井に当たりレフトフライとなってしまい、通算350号ホームランは幻となってしまった(前述のように西武移籍後達成)。
巨人時代は一度も四番スタメンはなかった。江藤在籍時には清原和博、松井秀喜、高橋、ペタジーニ、小久保が四番を打った。
西武入団会見で少年時代にライオンズ友の会(ファンクラブ)に加入していたことを明らかにした。
元チームメイトの西山秀二には「練習熱心で、後輩の面倒も良くみて、文句を言っている所を聞いたことが無い。あんなプロ野球選手、他にはいない」と言わしめる程である。巨人から西武への移籍に当たっても、「(巨人時代の)6年間はいい思い出だけ。西武に行って少しでも長く野球をやりたいので頑張ります」とコメントを残している。
西武での登場テーマ曲はジョン・レノンの「Power to the people」で、間に「江藤!」という合いの手が入る。
2007年9月29日の対オリックス・バファローズ戦でプロ野球史上33人目の通算1000打点を達成。「一生懸命振った。迷惑をかけたけど伊東監督、みんなに感謝です」とコメントした。


タイトル
本塁打王 2回(1993年、1995年)
打点王 1回(1995年)
最高出塁率 1回(1996年)
最多勝利打点 1回(2000年)
ベストナイン 7回(1993年~1996年、1998年、2000年~2001年)
ゴールデングラブ賞 1回(1996年)

個人記録
初記録
初出場:1990年4月7日、対阪神タイガース1回戦(広島市民球場)
7回裏に紀藤真琴の代打として出場、中西清起に三振を喫する
初先発出場:1990年6月14日、対中日ドラゴンズ11回戦(広島市民球場)
5番・右翼手として先発出場、3打数1安打
初安打:同上、6回裏に今中慎二から遊撃内野安打
初本塁打・初打点:1990年6月16日、対横浜大洋ホエールズ11回戦(あいづ球場)
1回表に新浦壽夫から左越2ラン
初盗塁:1992年6月25日、対読売ジャイアンツ11回戦(広島市民球場)
4回裏に二盗
節目の記録
100本塁打:1995年4月25日、対読売ジャイアンツ1回戦(広島市民球場)
4回裏に槙原寛己から ※史上181人目
150本塁打:1996年7月2日、対横浜ベイスターズ13回戦(呉二河球場)
2回裏に三浦大輔から左越ソロ ※史上105人目
200本塁打:1998年6月3日 対阪神タイガース8回戦(阪神甲子園球場)
7回表に古溝克之から左越2ラン ※史上69人目
1000試合:1999年7月17日、対東京ヤクルトスワローズ16回戦(明治神宮野球場)
4番・三塁手として先発出場 ※史上352人目
1000本安打:1999年8月29日、対読売ジャイアンツ24回戦(広島市民球場)
3回裏に桑田真澄から中前安打  ※史上198人目
250本塁打:2000年4月22日 対広島東洋カープ5回戦(広島市民球場)
6回表に苫米地鉄人から左越3ラン ※史上40人目
300本塁打:2001年7月12日、対ヤクルトスワローズ16回戦(東京ドーム)
4回裏に石井一久から ※史上25人目
1500試合:2003年7月20日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)
6番・三塁手として先発出場 ※史上139人目
350本塁打:2006年4月15日、対千葉ロッテマリーンズ5回戦(インボイスSEIBUドーム)
7回裏に内竜也から左越2ラン ※史上19人目
1500本安打:2006年7月19日、対福岡ソフトバンクホークス13回戦(福岡Yahoo!Japanドーム)
6回表に佐藤誠から二塁打 ※史上88人目
1000打点:2007年9月29日、対オリックス・バファローズ22回戦(京セラドーム大阪)
6回表に岸田護から左前適時打 ※史上33人目
1000得点:2009年6月13日、対広島東洋カープ3回戦(西武ドーム)
2回裏に片岡易之の適時二塁打で記録 ※史上35人目


背番号
51(1989年)
33(1990年 - )

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高木大成

木 大成(たかぎ たいせい、1973年12月7日 - )
東京都出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。現在は埼玉西武ライオンズ球団職員。

来歴・人物
高校時代
ファンの間では高校時代の活躍を特に強く賞賛する声もある。参加校数が多くレベルの高い神奈川県にあって、高校3年になるまで甲子園には縁がなかったが、横浜商業高等学校の古屋文雄監督からは「神奈川ナンバー1捕手」との評価を得ていた。2年時には、1学年下の国学院久我山の井口忠仁からライバル視されており、関東を代表するスラッガーに成長していた。なお、3年次のチームメイトには当時、2年生に左翼手の副島孔太、1年生に右翼手の高橋由伸がいた。

1991年第73回全国高等学校野球選手権大会に念願叶って出場すると、強肩、強打、俊足の捕手として、甲子園ファンを魅了する。県大会から主に1番打者として出場し、1回戦の塩崎真のいる熊本工戦において、試合開始のサイレンと同時に特大のセンターフライを放ち印象を残した。ちなみに1番打者であったのは強打者の打席回数を多くするためで、桐蔭学園の土屋恵三郎監督はそうした采配が多い。下級生の高橋由伸はこの時3番を打っていたが、3年時には高木と同じく1番打者になっている。

続く2回戦の柳ヶ浦高等学校戦は緒戦とうってかわって投手戦となる。後にダイエーのクローザーとして活躍した岡本克道の前に柳ヶ浦ペースで終盤戦に入る。終盤、9番谷脇外野手がヒットで出ると、このチャンスに高木はセーフティーバントを試みる(結果はファウル)。結局、高木の放ったタイムリー二塁打を皮切りに連打を浴びせた桐蔭が快勝した。

3回戦の鹿児島実業戦では、相手ベンチの状況からエンドランを察知してウエストさせ封殺に成功するなど、好守備を見せた。この他、ホームからの牽制球で2度ランナーを刺している。しかし、鹿実の打撃の前にサヨナラ負けに終わった。この試合、終盤のピンチにおいて、バントの構えをみせたバッターに対するボールの判定を巡って審判に抗議し、「高校野球らしくない」という批判を浴びる一面もあった。3回戦で敗退したものの、同大会において、星稜高等学校の松井秀喜に劣らぬほどの人気を集めた。なお、甲子園後には、高校選抜メンバーに選出され、松井らとともにアメリカ遠征に参加。代表チームのキャプテン、正捕手として活躍した。

同年のドラフト会議前は、日本ハムファイターズなど数球団がドラフト1位候補として挙げていたが、本人の強い希望により、慶應義塾大学総合政策学部(SFC)にAO入試による合格を果たし、ドラフト指名を辞退した。高木大成のドラフト辞退は、この年のドラフトの大きな話題としてマスコミに取り上げられた。
大学時代
背番号は当時のレギュラーキャッチャーの代名詞とも言える27を背負う。大学1年時から、そのシュアなバッテイングで活躍。捕手以外にも外野手などの複数のポジションをこなした。高校時代からのバッテリーである小野正史投手、高校の先輩にあたる伊藤捕手、同じく高校の2年後輩である高橋由伸らとともに、慶應義塾大学をリーグ優勝に導くなどの功績を残す。3年次には、44年ぶりの天覧試合となった春季リーグ対早稲田2回戦で本塁打を放ち、強烈な印象を残した。4年時には、当然のごとくキャプテンに指名され、後に西武からドラフト1位に指名される活躍を見せる。リーグ通算95試合に出場し360打数103安打、13本塁打、61打点、打率.286。ベストナイン3度。東京六大学屈指の中距離ヒッターとして、歴代最多の27二塁打を記録した。

1994年アジア大会決勝の韓国戦で(広島市民球場)決勝本塁打を放つ。この時の相手ピッチャーは、後に巨人に入団した趙成であった。


プロ時代
入団1年目は主に捕手としてプレーした(西武入団時の単独入団発表及び記者会見は、同球団では清原和博以来)。しかし伊東勤から完全にポジションを奪うまでには至らず、打力を生かすため1997年から一塁手に転向し、2001年には外野手に転向した。

1997年、1998年のパシフィック・リーグ連覇時には3番打者として活躍し、「レオの貴公子」「プリンス・オブ・レオ」と呼ばれた。ゴールデングラブ賞も2年連続受賞。

1998年の春季キャンプでは三塁手にも挑戦したが開幕時には一塁手に戻った。1999年以降は膝や肘など度重なる故障に苦しみ、年々出場機会が減少。この間、三塁手や二塁手コンバートに挑戦したものの、レギュラーを奪うには至らなかった。2001年にはアレックス・カブレラが一塁手に定着したため、外野手に転向した(主に左翼手)。2003年には4試合連続本塁打を放って復活の兆しを見せるが、2004年には右腕の手術からの回復が遅れ、とうとうプロ入り初の一軍試合出場なしに終わった。翌2005年もわずか13試合の出場に終わり、10月31日に現役引退を発表。引退後は球団職員(営業担当)としてフロント入りし、球団に残る。

少年時代は西武球場に熱心に通う大のライオンズファンであった。入団後も「レオの貴公子」というニックネームが示すとおり、甘いマスクで西武ライオンズきっての花形プレーヤーとして大人気を集めた。後に故障などで出場機会が減っても彼への人気は衰えることはなく、最後の引退までファンに愛され続けた選手であった。

満塁での勝負強さ
現役時代の通算本塁打は56本だが満塁本塁打を5本放っている。このうち、1997年4月15日の日本ハム戦で放った満塁本塁打はランニングホームランで記録されたものもあった。

第二の人生
高木大成は現在、球団職員として、「(株)西武ライオンズ 事業部マーケティンググループ 課長」というポストに就いている。ファンサービスについてアイディアを作り、一人でも多くのファンを獲得するためのポストである。彼はそのファンサービス計画の一環として、ライオンズ球団の公式サイト[1]に「TAISEI LABORATORY(大成ラボ)」というコーナーを設立させ、球団やファンサービスに対するファンの素直な声を質問形式で集めていた。選手時代からの知名度を生かして積極的に日の当たる場所に出ることで、よりファンにとって身近な「営業担当」となり、一般的なフロントの施策以上に率直なファンの声を集めることを可能にしている。このような人事配置は、これまでの日本プロ野球史に前例のない、極めて革命的なものである。今後はそのアンケート結果を参考にしてのファンサービスの向上計画、また第2第3のテーマを用意し、随時「大成ラボ」でファンの意見を募ることも予定しているという。

「大成ラボ」第1回のアンケートでは、1000人を超えるファンからの回答を集め、反響は大きかった。これは、今もなお彼がファンから愛され、新しいポストに就いた彼の活躍を期待している証左でもある。
「選手・高木大成」は選手生涯を通じてファンから熱烈に愛されながらも、最後は故障禍に打ち勝てぬまま若くして現役を去ってしまったが、引退した今もなおも変わらぬファンの支持を追い風として、高木大成はファンに恩返しを果たすべく、営業マンとして第二の人生を歩み始めている。主催試合の球場でのイベントにもよく顔を出すので、いまだにファンからサインを求められることが多く、本人いわく、現役時代よりサインを書く回数が多いとのこと。

なお、NPB12球団ジュニアトーナメント西武ライオンズジュニアの監督も務めている。

ライオンズコメンテーターの中川充四郎の公式サイトによると、2006年12月に結婚した模様である。

「NACK5 SATURDAY&SUNDAY LIONS」にも不定期で出演している(主催試合のみ)。2009年4月18日に出演した時は、自ら結婚について語った。


タイトル・表彰・記録
ゴールデングラブ賞:2回(1997年、1998年、※一塁手部門)
オールスター出場:3回(1997年、1998年、1999年)

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関川浩一

関川 浩一(せきかわ こういち、1969年4月1日 - )
元プロ野球選手(外野手、捕手)。愛称は「関さん」。

経歴
プロ入り前
東京都調布市出身。小学時代は調布リトル、中学時代は同シニアに所属し、中学3年の夏には全日本選手権にて優勝を果たす。その後桐蔭学園高校に進学し、入学早々の1年時の夏、後に慶應義塾大学のエースとして活躍した志村亮投手らと共に夏の甲子園に出場。6番ライトとしてスタメン出場で大活躍。高校時代は、強肩強打の捕手として活躍した。その後駒澤大学に進学し、捕手として大学リーグベストナインに2回輝く。また日米野球にも出場している。

1990年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースより2位指名を受け入団。

プロ時代
俊足巧打の捕手として早い時期から注目を浴びる。しかし捕手としての能力はあまりにもお粗末で、その適性から外野手へのコンバート案が出る事も多く、阪神時代は捕手・外野手兼任のシーズンもあり、起用法が一定ではなかった。

1997年オフ、久慈照嘉と共に、大豊泰昭・矢野輝弘との2対2の交換トレードで中日ドラゴンズに移籍。

移転前のナゴヤ球場と比べて広いナゴヤドームに適応できる野手として外野手専任となり、前年内野手として不本意なシーズン送った立浪和義、投手として伸び悩んでいた井上一樹と共に二宮至外野守備コーチの特訓受けた。当時の星野仙一監督から重用される。1999年シーズンでは自身最高の成績となる打率.330・4本塁打・60打点・20盗塁を記録。文字通りその年のリーグ優勝の牽引役を果たした。しかし日本シリーズ第1戦においてダイエーの先発、工藤公康に弱点を見破られ、そこを徹底的に突かれたことにより、バッティングの感覚に狂いが生じてしまう。2000年は去年と違うバッティングをしなければならないという葛藤からか、成績を落とした。ちなみにその工藤は翌年、読売ジャイアンツに移籍。彼と対戦することになるも、まったくと言っていいほど歯が立たなかった。

福留孝介の外野手転向や英智の台頭も有り出番が激減し2004年オフ、無償トレードで小山伸一郎とともに東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。(同い年で同じくベストナイン受賞者で同タイプの外野手飯田哲也も楽天へ)

2005年3月26日、ロッテとの開幕戦(千葉)に1番レフトで先発出場。新球団の記念すべき1人目の打者となった(初回表先頭打者として相手先発清水直行の初球を叩き左飛)。4月6日の北海道日本ハムファイターズ戦で通算1000本安打を達成。同時にこの1000本目の安打は球団史上初の猛打賞、及び球団史上初の三塁打となった。

2006年9月5日、オリックス戦(仙台)に2番で先発出場し、1試合犠牲バント4個の日本プロ野球タイ記録(過去6人)を達成した。またこの年の後半戦から、野村克也監督の「藤井彰人とカツノリが負傷した際に捕手を守らせる」という意向で、捕手守備の練習にも取り組んだ。だが実際に守備に就くことはなかった。

2007年9月24日、同年限りで現役引退を表明。引退試合の10月4日の対千葉ロッテ23回戦で、1番中堅手としてフル出場し4打数1安打。現役最後の打席は代名詞となったヘッドスライディングを見せるも一塁ゴロ。相手投手は清水直行で、奇しくも楽天最初の公式戦で先頭打者として対戦したのと同じ相手だった。試合後の引退セレモニーでは、監督に試合に出してもらえるよう頼んだところ、上記のように1番中堅手で起用されたことに感謝の意を述べ涙した。



引退後
2007年秋季キャンプから楽天一軍打撃コーチ補佐に就任。なお11月30日に自由契約公示。2009年まで務めた。2009年10月26日、球団から来季コーチ契約を更新しない旨を通知された

人物
現役時代は、一塁へのヘッドスライディングが印象的であった。

2002年、前妻との離婚を経て元テレビ東京アナウンサーの家森幸子と結婚。家森との間には2003年8月に生まれた長男と2009年2月に生まれた次男がいる。

駒大苫小牧高校野球部監督である香田誉士史は大学時代の後輩である。そのため、2006年オフに田中将大の入団が決まった折には、面倒をみてくれるよう頼まれた。

プロ17年間の思い出について、「(1999年に)星野監督を胴上げすることができたこと。あの年は星野監督の笑顔を見たくて一生懸命やっていた」と話している。

タイトル・表彰・記録
ベストナイン:1回(1999年)
オールスターゲーム出場:2回(1995年、1999年)
捕手シーズン最高守備率:1.000(1993年)

個人記録
初出場:1991年7月31日、対読売ジャイアンツ17回戦(阪神甲子園球場)、8番・捕手として先発出場
初安打:同上、2回裏に香田勲男から
初本塁打:1993年5月11日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、5回表に桑田真澄から
初打点:1992年6月30日、対読売ジャイアンツ16回戦(東京ドーム)、4回表に斎藤雅樹から
初盗塁:1993年7月16日、対横浜ベイスターズ14回戦(甲子園球場)、8回裏に二盗
1000試合:2001年6月29日、対横浜ベイスターズ14回戦(横浜スタジアム)(369人目)
1000本安打:2005年4月6日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(福島県営あづま球場)、8回裏に鎌倉健から三塁打


背番号
21(1991年 - 1996年)
22(1997年)
23(1998年 - 2007年)
81(2008年 - 2009年)

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