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1999年12月 の記事一覧

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古葉竹識

古葉 竹識(こば たけし、1936年4月22日 - )は、日本熊本県熊本市出身のプロ野球選手・監督。旧名は「古葉 毅」(読みは同じ、1964年に改名)。最終学歴は専修大学。

広島東洋カープを史上初のリーグ優勝に導き、赤ヘル黄金期を築いた名将である。

目次 [非表示]
1 経歴
2 エピソード
3 背番号
4 年度別打撃成績
5 タイトル・表彰
6 監督としてのチーム成績
7 監督通算成績
8 過去の出演番組
9 関連項目
10 外部リンク


経歴 [編集]
済々黌高校から1955年に専修大学に進学。同年夏休み、母校の高校のグラウンドに出向き後輩にプレーを見せていたところ、偶然来校していた日鉄二瀬野球部監督(当時)の濃人渉の目にとまり日鉄鉱業への入社を勧められる。古葉は実家の経済状況を考慮して専大を中退し日鉄鉱業に入社、同社の二瀬鉱業所(福岡県嘉穂郡二瀬町)が運営する同野球部に入部した。1957年12月、日鉄二瀬の同僚である江藤愼一の入団交渉に来ていた広島カープ(当時)の白石勝巳監督に対し濃人は古葉を売り込み、古葉は広島へ入団の運びとなった。この入団契約の席に古葉は参加していない。契約当日にぎっくり腰になってしまい、「契約取消になってはまずい。何がなんでもカゼで通そう」と兄が代理で契約にあたった。

1958年広島に入団。1年目から遊撃のポジションに定着。1963年に長嶋茂雄(読売ジャイアンツ)と首位打者争いを演じたが、同年10月13日の対大洋ホエールズ戦で島田源太郎のシュートをあごに受けて負傷退場、下あごの骨は真っ二つに割れた。結局2厘差で長嶋がタイトルを獲得した。その後も腰が引けて打撃に支障をきたすようになったため、機動力を全面に押すプレースタイルへ移行。1964年と1968年に盗塁王に輝く。この事がのちの監督時代のチーム作りの礎となった。

1970年、南海ホークスに移籍。1971年限りで引退。その後1972年〜1973年は、南海のコーチとして野村克也監督のもとで指導者になるための勉強を積む。1974年、南海から慰留されたが、大学の先輩・森永勝也の要請で広島に守備コーチとして復帰。1975年には15試合で帰国したジョー・ルーツ監督の後を継いで5月に監督就任。快進撃を見せ10月15日の対巨人戦(後楽園球場)で球団創設初優勝をもたらした。その後も機動力を活かした緻密な野球で1979年、1980年、1984年とチームを3度のリーグ優勝・日本一に導いた。1985年勇退。

1987年、大洋の監督に就任する。広島黄金時代の采配を期待されたが小林正之や寺岡孝、佐野嘉幸、福嶋久晃など広島時代のコーチ陣(福嶋は大洋在籍経験あり)を引き連れ組閣したことが裏目に出てチーム成績は低迷し、順位は1988年の4位が最高だった。1989年、シーズン最下位の責任をとり監督を辞任した。一方で、1988年に広島の名スカウト木庭教を招聘した。1998年の優勝時の主力の谷繁元信、石井琢朗、野村弘樹らは古葉の在任時に獲得した選手である。

大洋監督退任後の1999年野球殿堂入り。東海ラジオ放送解説者、東京中日スポーツ野球評論家として活躍。またプロ野球マスターズリーグ・札幌アンビシャスの監督もつとめる。2003年に広島市長選に出馬したが落選。2004年には自民党より比例代表で第20回参議院議員通常選挙に出馬した(タレントの安岡力也が応援演説した)が落選した。

2006年、NPO法人全国社会福祉事業援助協会、理事会長となる。

2007年から東京国際大学監督に就任することが決まったが、札幌アンビシャスでの活動がプロ活動とみなされ、2年経過しなければアマチュア登録をすることができなかった。そのため、三男の古葉隆明が監督に就任し、自らはアドバイザーとしてベンチ入りはしない指導者となった。2008年4月より正式に監督就任。

エピソード [編集]
選手に鉄拳制裁を辞さず厳しい指導をしたことは有名だが、野球自体も終盤3、4点差で、勝利が濃厚になってもさらにきびしく点を取りにいった。
古葉監督といえばベンチの端から、忍者のように体半分を出したり隠れたりする癖が有名。その事をやくみつるや河合じゅんじなどの野球漫画家によくネタにされた。古葉自身に言わせると、あそこが一番グラウンド全体が見渡せるとの事(ベンチ裏においてあったスパイモニターを見ていたとも言われている)そのイメージが定着したが、若い頃は青年監督として三塁コーチスボックスに立ち陣頭指揮を執っていた。
指導や教育の厳しさは既に述べたが、これは古葉自身の孫に対しても同じで鉄拳を見舞ったこともあったと明かす。
イチローとの確執で有名な土井正三が、「若い選手は最初は二軍に落とし青年の体を作ってから一軍に上げる」という古葉の若手選手育成法に感銘。同様にイチローを二軍に落とした事が確執の発端になったとインタビューで述べている(週刊ポスト、2007年8月31日号)。
生家が貧しく耐えて勝つの座右の銘はそこから生まれたが、大洋の弱さから勝つまで耐えると揶揄されたりもした。
選手の仲人を10人以上務めているが、首切りやトレードが常の野球界では情実にとらわれやすくなるため、一般的に監督は仲人を避けたがるものであり、古葉の例は異例である。
山本浩二(広島)と井上弘昭(中日)が首位打者のタイトルを争った1975年の広島vs中日最終戦、古葉は9毛差で打率1位の山本を欠場させ、一方故意四球を予想した中日側は井上を先発から外し、勝負せざるを得ない満塁の場面で代打として起用した。しかし、古葉はこの場面で井上に故意四球を指示。この結果山本がタイトルを獲得した。これが公式戦初の「タイトル争いのための、満塁での故意四球」となった。
広島監督時代に勝利の験を担ぐために広島市民球場の近くの喫茶店で卵カレーを食べていた。
広島監督時代、広島原爆の日に、日本テレビの『ズームイン!!朝!』の「朝のポエム」に出演し、峠三吉の『序』(にんげんをかえせ)を朗読したことがある。
背番号 [編集]
※プロ野球時代

29 (1958年)
1 (1959年〜1971年)
71 (1972年〜1973年)
72 (1974年〜1985年)
81 (1987年〜1989年)
年度別打撃成績 [編集]
表中の太字はリーグ最多数字


度 チ

ム 背

号 試

合 打

数 得

点 安

打 二

打 三

打 本

打 塁

打 打

点 盗

塁 犠

打 犠

飛 四

球 三

振 打

率 順

位 長

率 出

率 O
P
S
1958 広島 29 88 340 35 76 8 2 5 103 18 8 7 0 21 36 .224 - .303 .269 .572
1959 1 117 462 45 106 18 4 4 144 31 8 7 0 33 40 .229 24 .312 .281 .593
1960 119 442 35 118 8 2 2 136 22 18 14 3 31 30 .267 12 .308 .315 .623
1961 120 444 52 127 21 2 5 167 34 7 12 5 37 20 .286 5 .376 .341 .717
1962 120 400 40 97 9 0 3 115 28 12 6 1 32 33 .243 21 .288 .299 .587
1963 116 463 83 157 24 1 7 204 37 32 9 6 34 19 .339 2 .441 .384 .825
1964 120 476 44 104 10 2 2 124 25 57 9 3 36 51 .218 30 .261 .273 .534
1965 133 491 52 131 13 4 4 164 26 38 14 1 34 51 .267 13 .334 .314 .648
1966 135 527 58 130 16 6 3 167 39 15 9 3 37 26 .247 21 .317 .296 .613
1967 118 453 52 107 15 2 2 132 20 19 1 1 24 28 .236 25 .291 .275 .566
1968 116 412 53 92 16 0 4 120 20 39 7 1 38 47 .223 29 .291 .311 .602
1969 68 232 22 49 8 0 2 63 13 7 2 2 15 30 .211 - .272 .259 .531
1970 南海 83 234 22 64 10 0 1 77 12 3 2 2 17 18 .274 - .329 .323 .652
1971 48 51 0 11 2 0 0 13 9 0 0 0 2 8 .216 - .255 .245 .500
通算成績 1501 5427 593 1369 178 25 44 1729 334 263 99 28 391 447 .252 - .319 .303 .622

タイトル・表彰 [編集]
盗塁王:2回 (1964年、1968年)
ベストナイン:1回 (1963年)
正力松太郎賞 (1980年)
野球殿堂入り (1999年)
オールスターゲーム出場:3回 (1963年、1964年、1966年)
通算1000試合出場 1966年7月23日(112人目)※河合保彦と同日達成
監督としてのチーム成績 [編集]
年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 チーム
本塁打 チーム
打率 チーム
防御率 年齢
1975年 昭和50年 広島 1位 130 72 47 11 .605 131 .256 2.96 39歳
1976年 昭和51年 3位 130 61 58 11 .513 169 .270 4.02 40歳
1977年 昭和52年 5位 130 51 67 12 .432 163 .268 4.83 41歳
1978年 昭和53年 3位 130 62 50 18 .554 205 .284 4.38 42歳
1979年 昭和54年 1位 130 67 50 13 .573 172 .257 3.74 43歳
1980年 昭和55年 1位 130 73 44 13 .624 161 .263 3.37 44歳
1981年 昭和56年 2位 130 67 54 9 .554 181 .274 3.66 45歳
1982年 昭和57年 4位 130 59 58 13 .504 139 .254 3.30 46歳
1983年 昭和58年 2位 130 65 55 10 .542 164 .269 3.65 47歳
1984年 昭和59年 1位 130 75 45 10 .625 167 .274 3.37 48歳
1985年 昭和60年 2位 130 68 57 5 .544 160 .271 4.13 49歳
1987年 昭和62年 大洋 5位 130 56 68 6 .452 113 .259 4.26 51歳
1988年 昭和63年 4位 130 59 67 4 .468 85 .276 3.93 52歳
1989年 平成元年 6位 130 47 80 3 .370 74 .260 4.07 53歳

※1 太字は日本一
※2 1975年から1996年までは130試合制
※3 1975年は5月4日からシーズン終了まで指揮。
監督通算成績 [編集]
1801試合 873勝791敗137分 勝率.525
リーグ優勝4回、日本一3回
Aクラス9回、Bクラス5回
過去の出演番組 [編集]
東海ラジオ ガッツナイター
東京国際大監督就任に際して、プロ活動とみなされる関係上この番組への出演は取り止めることとなったが、2009年4月10日の広島対中日戦の放送では、マツダスタジアムのこけら落としの試合だったこともあり、事前録音ではあるが、広島監督時代の思い出を電話を通じて語っていた。

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