SEO対策:プロ野球SEO対策:野球選手SEO対策:セリーグSEO対策:タイガースSEO対策:阪神
2ntブログ
ブログ更新者⇒ドカント
-阪神タイガース最高 ただの野球好き[専ら観戦]です。
基本タイガースファンですが全体的に好きなんでどんな話&ネタでもドンドンコメントetcよろしくです。
mixitwitter

1999年12月02日 の記事一覧

| | ひとつ古い記事へ≫



スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


>>もっと面白い球界裏情報や面白ブログはここでチェック



ランキング参加中ですクリックのご協力お願いします
にほんブログ村 野球ブログ 阪神タイガースへ野球愛ランキング

王貞治

王 貞治(おう さだはる、中国語拼音:Wáng Zhēnzhì、1940年5月20日 - )
日本生まれ・台湾籍の元プロ野球選手、監督。
日本国民栄誉賞の初受賞者。
現在は福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長、読売巨人軍OB会会長、福岡市および宮崎市名誉市民。



概要
父王仕福は中国人中国浙江省青田県出身、母王登美は日本人。東京生まれ。

現役時代のニックネームは「ワンちゃん」。「世界の本塁打王」、「世界の王」とも呼ばれる。左投左打で内野手(一塁手)であった。現役引退後は巨人で助監督と監督、その後解説者、ダイエー・ソフトバンクの監督を歴任した。

2008年シーズン終了と同時に福岡ソフトバンクホークス監督を退任し、同球団取締役最高顧問に就任。2009年1月1日より取締役会長に昇進。日本プロ野球組織(NPB)コミッショナー特別顧問。

読売ジャイアンツ(巨人)の主軸として積み上げた通算本塁打数868本は、大リーグのハンク・アーロンの755本を抜き、世界最高本塁打数記録である。その他数々の日本プロ野球記録を保持する。巨人では入団から監督を退くまで背番号1を背に戦った。背番号に関して同一人物による途切れ無しでの30年間使用は日本最長である。1989年3月16日に巨人は1番を永久欠番に指定した。また、ダイエー・ソフトバンクでの監督時代の背番号89は、ホークスの永久欠番にするかどうかが検討されている。

第1回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の優勝監督でもあり、第2回大会では監督相談役を務める。世界少年野球推進財団の提唱者で、理事長。「ふるさと清掃運動会」実行委員長。福岡市名誉市民(2004年12月16日選定)。野球特別大使(2009年2月26日委嘱)。叙勲は中華民国(台湾)二等景星勲章(2009年2月05日受賞)。二女・王理恵はタレント。

経歴

少年時代
東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)で中華民国籍(浙江省青田県出身)の王仕福、日本人(富山県氷見市出身)の登美(旧姓:當住)の次男として生まれる。

実は、王貞治は5月10日に二卵性双生児の弟として出生したが、戸籍上の出生日は5月20日である。実際の出生日と戸籍上の出生日が異なる理由は諸説あり、取り上げられても泣かないほどの未熟児であったため両親が出生届の提出を躊躇したという説と、家業の中華料理ラーメン店「五十番」が多忙のため出生届の提出が遅れたなどの説がある。なお、双子の姉・廣子(ひろこ)は1歳3か月で死去した。一方の貞治は「3つの歳まで立つことすらおぼつかなかった」と貞治本人が述べている。

太平洋戦争中の一時期、王一家は母親の旧姓『當住』を名乗っていたこともあったという。

父・仕福は長男・鐵城を医師に、次男・貞治を電気技師にして、兄弟ともに母国に戻り働いてもらいたいと考えていた。だが区立本所中時代に、のちに指導を受ける荒川博(当時毎日オリオンズ)に野球の素質を見出され、荒川の母校早稲田実業学校高等部商業科に進学することになる。高校受験での第一志望先である都立墨田川に落ちた結果であった。

荒川との出逢いは、犬の散歩をしていた荒川が、通りがかったグラウンドで王が出ていた少年野球の試合を眺めていたというものである。試合を観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」と質問すると、「それは、オヤジから箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右でもたないと親父に文句言われると思って…」と言った。

それを聞いて荒川は「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」と言った。それを聞いた王はすぐに左打ちを実践したところ二塁打を打ち、以後左で打つようになった。荒川はその時の王の印象を「なんて素直な少年なんだと思った。普通は試合中に右打ちから左打ちに変えるなんて人に言われたってしない。それをスパッとやってしまうのはすごい」と語っている。

また、この出逢いの時から王は身長176cmで当時の若者としては長身だった。王の素質を認めた荒川は「君は今何年生だ?」と聞き、王が「二年生です」と答えたのを受けて荒川は高校生と勘違いし、「そうか、じゃあ早稲田大学(荒川の出身校)はどうかな?」と勧めたところ、「はい、そうなるといいのですが、その前に高校に行かないと」と王が答えた為、荒川は「二年生というのは中学生なのか」と驚いたと言う。

小学生の頃、当時の横綱:吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。そして本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。野球部にも在籍していたが、グラウンドが使えなかったために休部同然の状態であった。

早実時代
早稲田実時代は、1年生の時に外野手兼控え投手としてチームの夏の甲子園出場に貢献。2年生の時にはエースとなり、センバツで3試合連続完封により決勝戦へ進出。

決勝では4試合連続完封を逃したものの、完投勝利で関東に初めて選抜優勝旗をもたらし人気を集めた。夏の甲子園では2回戦で延長11回を完投しノーヒットノーランを達成(延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では春夏を通じて唯一の記録である)。当時の王はノーワインドアップ投法を用いていた。3年生のセンバツでは30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放った。しかし、夏の甲子園には、東京都予選の決勝戦で敗れたため出場できなかった。

なお、国体には、当時の国籍規定(王は中華民国国籍である)のため出場できなかった。

現役時代

低迷期・1959年 - 1961年
1959年に契約金1500万円、年俸140万円、背番号1という高卒新人としては破格の条件で読売ジャイアンツに入団(なお、前年に大卒で入団した長嶋茂雄の契約金が1600万円だった)。背番号1については、中国語で「王」を「ワン」と発音することから、英語のoneにかけてつけられたという説もあるが、背番号そのものは、南村侑広の引退によってたまたま1が空いていたため、それを付けることになったというのが実情である。プロ入りの同期には村山実・板東英二・河村保彦・江藤愼一・田中俊幸・張本勲・足立光宏らがいる。

当初は投手として入団したが、監督の水原茂に「王、お前はピッチャーとして大成しない」と言われ、すぐに一塁手に転向した。

当時エースの藤田元司は王の印象として、「甲子園で活躍するなど高校時代に頑張りすぎたのか、僕が見る限り投手としての王君はくたびれていましたね」と語った。また、前年に引退しこの年からコーチになった川上哲治は、「何というか、球筋がやさしいんですね」、「投手としては特に特徴もなく、このままなら埋もれると思った。しかし打撃はすごい才能があると思った。」と語っている。川上によれば、王のバッティングは構えからスイングまで全く頭が動かず、18歳の若さで既に基本が完成していたという。当時二軍監督だった千葉茂は練習後に王と入浴した際、「王の体格には驚いた、非常にいい筋肉をしておる。ただし、いかり肩で大成した投手はいないだけに、投手としては厳しいだろう」と感じ、水原に「ピッチャーとしてはあきまへん。でもバッターなら川上の半分は打ちます」と野手起用を進言した。王自身は「(自分が投手として通用しないことは)薄々感づいてはいた。だけど、やはり野球をやる者なら誰でも投手に憧れるもので、『おまえ、明日からは野手だ』と言われた時は正直に言えば寂しかった」と語っているが、川上の引退直後であり、その後継一塁手としての期待は大きかった。ライバルはこれも既に峠を過ぎていた与那嶺要くらいで、その与那嶺もキャンプでの王の打撃練習を見て「ボク、(一塁のポジション争いではかなわないので)外野手に戻るよ」と言ったという。

オープン戦で5本塁打を放つなど順調にシーズンを迎え4月11日に国鉄スワローズとの開幕戦では高卒新人ながら7番一塁で先発出場を果たした。しかし、この試合で金田正一と対戦し、3打席で2三振1四球に終わった。この結果は長嶋茂雄の初試合4打席連続三振とよく比較される。これをきっかけにオープン戦と一転して当たりが止まってしまい、26打席無安打が続いた。

4月26日の対国鉄戦7回表、0-0、ランナー1塁という場面で王に打順が回った。水原は代打策も考えたが、当時チームは開幕ダッシュに成功して余裕があったこともあり、まだ新人の王に経験を積ませることを優先した。国鉄の村田元一が投じた内角カーブをすくい上げた打球はライトスタンド最前列に落ちた。プロ初安打がホームラン。これが王の記念すべき1号本塁打となった。

同年6月25日の天覧試合では7回、2-4と2点ビハインドの場面で小山正明から4号同点2ラン。これが長嶋茂雄とのONコンビ・アベック本塁打1号である。

しかしそれ以外はほとんど目立った活躍もなく、1年目は.161、7本塁打と当初の期待からすれば物足りない結果に終わった。特に目立ったのが72を数えた三振の多さで(2.7打数に1三振に相当)、「王は王でも三振王」などと野次られる始末だった。ただし、主力選手でも遠慮していた水原監督の隣の座をいつも占め、「監督、今の一塁手のプレーにはどういう意味があるのでしょうか?」と堂々と質問したり、記者から「(不振の)重圧はありませんか?」と尋ねられても、「別に。使っているのは監督さんですから」と答え、新人としては異例の姿勢だった。また、期待はずれの成績にも関わらず、2年目の年俸は推定140万円から160万円にアップした。これは練習の球拾い時に自腹で専用の糸を購入し丁寧にボールの破れを修繕していたことを球団代表が評価したため。なお、この球団の評価に感銘した王は、以後現役引退するまで一度も契約更改でもめることはなかった。1974年の更改は2年連続三冠王にも関わらず現状維持であったが、それでも文句1つ言わずサインしている。

プロの水に慣れた2年目は.270、17本塁打(このシーズンのチーム最多)と主軸として恥ずかしくない成績を残し、オールスターゲームにもファン投票選出された。これは、東京六大学野球の大型一塁手、木次文夫の入団で危機感を抱いたことも好影響を及ぼしたといわれる。しかし三振も101個と依然として多かった。

3年目の1961年、川上が水原の後を継いで監督に就任。川上は王に長嶋に次ぐ中心打者としての活躍を期待したが、.253、13本塁打と2年目より成績を落とし、期待に応えることはできなかった。この年中日に入団し、ルーキーながらエースとして活躍した権藤博は王について「速球はある程度対応してくるけど、カーブを投げておけば簡単に空振りして尻餅をついていた。かわいいもんだと思った」と語っている。高卒3年目としてはそれなりの成績は出していたが、契約金の額や首脳陣の期待からすれば物足りない数字だった。

大きな期待がかかりながら伸び悩む王には、阪急ブレーブスのエース・米田哲也との交換トレードの話も持ち上がっていた(結果的に阪急が断ったため、このトレードは行われなかった)。

転機の1962年 一本足打法
1962年、荒川博が巨人の打撃コーチに就任する。荒川就任は、読売新聞の関係者が広岡達朗を介して、川上に荒川を推薦したもの[1]であり、川上は榎本喜八を育てた荒川の打撃コーチとしての手腕に王を託した。川上は、王の成績が思うように伸びない理由は、練習に身が入らない(王はしばしば寮を脱走して夜遊びをした)ために結果が出ず、そのために自信を持てず、さらに練習に身が入らない、という悪循環のためだと考えた。川上が荒川に最も強く期待したのは、王に練習に身を入れるように『意識改革』をさせることだった。秋季キャンプで久々に王を見た荒川は「なんだ、こんなスイングではドッジボールにも当たらんぞ。遊びは上手くなったかもしれんが、野球は下手になったな」と言い放った。王は内心カッとなったが、言い返せなかった。しかし、荒川は同時に「これだけ悪い打ち方(荒川の説明では、王は打ちにいく際に、手足の動きがバラバラで不安定・一定でないため、簡単にスイングを崩される)でも、.270打ったこともあるのだから、やはり素質は素晴らしい」と感じたという。

荒川は、王はプロの速球に対応しようとするあまり、ボールを前に迎えに行ってしまうためにグリップポジションが安定しないことが欠点であると判断し、それを修正するためにさまざまなフォームを試した。そのうちの1つが一本足打法だった。但し、キャンプの時はいくつか試した打法の1つに過ぎず、ほんの2、3日練習しただけだった。

1962年シーズンが開幕、しかし3ヶ月経ってもわずか9本塁打と成績は伸びず、自信を持てない王は荒川との練習にも身が入らなかったという。チームもなかなか波に乗れず、2位と3位を往復するばかりの状態だったシーズン半ば「王が打てないから勝てないんだ」と八つ当たりぎみに別所毅彦ヘッドコーチが言うのを耳にした荒川が、「私は王に三冠王を取らせようと思って指導しているんだ、ホームランだけならいつでも打たせてやる」と返し、この日(7月1日)から一本足で打つことを王に命じた[2]。

なお、王本人によれば「一本足を始めた経緯は記憶が定かでない。(中略)僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっその事右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えている[3]。

1962年7月1日の対大洋ホエールズ戦ダブルヘッダー(川崎球場)第一試合でこの打法を敢行、先発稲川誠から第一打席2-0からの三球目を右前安打、第二打席初球の内角球をライトスタンドへ10号本塁打(通算第47号、16試合68打席ぶり)、結局この試合5打数3安打4打点(第二試合は4タコ)。後に荒川コーチは「あの日ヒットが出なかったら一本足打法は止めさせていた」と語っており、たった一日で王の運命が左右されたことになる。

王自身もこの日結果が出たことで、一本足打法に本気で取り組む気持ちになり、猛練習に打ち込むようになった。その壮絶な努力はつとに有名である。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。また、剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けた[4]。

特に有名なエピソードとして、天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という精神鍛錬の目的もあった。

このような王の練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗、藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ(広岡)」、「部屋の中は王くんの素振りの音と荒川コーチの声が聞こえるだけでしたね。王くんが少しでも悪い素振りをしたら『気を抜くな!そんなことなら、さっさと帰れ!』と荒川コーチに叱られ、王くんも『すみません、もう一回お願いします』と言って練習が再開される。あんな場に居合わせたら、胡坐をかいたり、寝そべって見られませんよ(藤田)」とコメントしている。

南海ホークス時代の野村克也も自身の著書『巨人軍論』の中で、王の練習の凄まじさを振り返っている。ある日、王と野村がそれぞれ友人を連れ銀座の飲食店で呑んでいた際、夜10時になったところで王が「ノムさん(野村の愛称)、悪いけど荒川さんとの練習があるので、僕はここで失礼します」と言い、野村が引き止めても、王は練習に向かった。

その時、野村は「ああ…、俺はいつかこいつに抜かれるなあ…」(この逸話の段階では、野村のほうが王より通算本塁打数が上だった)と感じたという。その後、野村が荒川コーチに頼んで王の練習を見学させてもらったところ、ただ「すごい」と感じるのみで、とても王に話しかけることのできる雰囲気ではなく、「王の素振りに比べれば私のそれなんて、遊びみたいなものだった」「あれだけの練習した王だから、世界記録を作ってもなんら不思議ではない」と記している。さらに「実績ある選手は周囲が意見できないことをいい事に、何かと言い訳をして手を抜きたがるものだが、王は一切妥協せず自分に厳しかった。中心選手はチームの鑑でなければならず、王はまさにそうだった」と評価している。

この年38本塁打、85打点で初めて本塁打王、打点王を獲得。以後、王は引退まで一本足打法を貫くこととなった。1977年の梶原一騎との対談[5]では「二本足でなら打率4割は狙える」と言う梶原に対し、「一本足がダメになったら引退だ」という趣旨の発言をしている。

前述のとおりルーキーシーズンは王をカモにしていた権藤博も、一本足打法になった王の変化に驚いた1人である。「全く隙のないバッターになった。こちらの思うところに完璧に投げられなければ抑えられない。球1個分外れればボールになるし、球1個分中に入ればホームランという感じだった」と語っている。

翌1963年、初めて打率3割、40本塁打を記録。長嶋とのコンビを「ON砲」と呼ぶ呼称も定着し、巨人の2枚看板を背負うようになった。

周知のとおりこの打法で世界新記録が達成されるが、米メディアからは「フラミンゴ打法」とも言われるようになった。メジャーリーガーには「フラミンゴ・サダハル・オー」と呼ぶものもいたが、これに由来するものである。1981年~1987年までは後楽園球場・1998年~現在は東京ドームの1番ゲートは「王ゲート」と称されているが、そのモニュメントで再現されている。また2002年に王の現役時代のバッティングを再現した「王貞治スーパーリアルフィギュア」(868体限定)が販売されたが、それにも一本足打法が再現されている。

シーズン55本塁打
1964年シーズン、5月3日の対阪神タイガース戦(後楽園球場)では1試合4打席連続本塁打を記録。この時点で既に17本塁打。手のつけられない打棒対策として、当時の広島カープの監督である白石勝巳が、王の打球がフィールドの右半分に集中することを考慮に入れ野手の内6人をライト側に守らせる「王シフト」と呼ばれる守備体系を考え出したことで話題になった。しかし、王は王シフトにも動じることはなく、その試合でも18号本塁打を叩き込んだ。

また、この年の国鉄との開幕戦(後楽園球場)で、開幕投手の金田正一からライトへの場外本塁打を放っている。打球はライトスタンド場外に設置されていたローラースケート場の屋根まで飛び、推定飛距離151mとされている。金田からすると本塁打を打たれた球は見逃せばボールの球で王から三振を奪える絶対的な球と語っている。

この本塁打は金田の度肝を抜いたが、金田は一本足打法転向後も王をカモにしていたこともあり打たれた球種、コースを根気よく投げ続けるが、この年の王にはことごとく打たれたという。これにより金田は「長嶋は対戦する前から事前に研究をしたが、王は打たれてから研究した。」と語っている。この年、王は金田から同一投手に対するシーズン本塁打数のタイ記録である7本塁打を奪った。

9月6日の大洋戦で52号、53号を叩き込み、前年野村克也が作ったシーズン本塁打記録52本を一気に抜き去り、その記録を55本まで伸ばした。これは今でもプロ野球記録である。55本塁打のうち24本は飛距離400フィート(約122m)以上という大リーグの球場でも十分にスタンド中段に届く大型ホームランであり、決して球場の狭さに助けられた記録ではない、と宇佐美徹也は評価している。この年、巨人は優勝しなかった(優勝は阪神)にも関わらず、王はMVPに選ばれた。

それまで、王と荒川コーチは一本足打法に必ずしも強い執着を持っていたわけではなく、実際このシーズンのキャンプでは二本足に戻すことを検討していたほどだった。しかし「シーズン55本塁打」という偉業達成を機に、王は一本足打法こそ自身のバッティング・スタイルであると確信した。 また、王は「自分は打率を気にするバッターではない」と語っているが、相手バッテリーが警戒して四球・敬遠が増えた関連で打率が残り始め、1964年は江藤慎一と最後まで首位打者を争い続けた。翌1965年も江藤と首位打者争いを繰り広げた。

ライバル対決
1968年9月17日阪神甲子園球場の阪神戦にて、プロ2年目の江夏豊に稲尾和久と並ぶシーズン353奪三振を喫する。江夏はそこからわざと8人から三振を奪わず、再び王から新記録となる354個目の三振を奪って見せた。王はわざと三振を取らずに一巡させたことについては「俺はこれ(眉に唾をつける動作をしながら)だと思う」と懐疑的だが、江夏との対戦については「三振を恐れるようなスイングだけは絶対にしたくなかった。それに中途半端なスイングじゃ江夏の球は打てないしね」と常に全力で対決に臨んだことを証言している。王が最も三振を奪われた投手は最大のライバル江夏からであるが、その江夏が最も本塁打を打たれた打者は王である。そして約250回の対戦で死球は只の1回だけであり、関係者から指摘されるまで、お互いに死球はゼロだと思っていた。王は江夏について「『こいつは絶対に抑えてやる』『こいつから絶対に打ってやる』とお互いに強い意識を持った相手という意味で最高のライバルだったんじゃないかな」と語っている。

その翌日(9月18日)阪神戦では、ジーン・バッキーから危険球を投げつけられ、バットを持ってバッキーのもとに詰め寄った。この時、王は第1打席でバッキーから死球を受けており、この第2打席でも頭の付近へ危ない投球があり、捕手の辻佳紀に「今度(危険球が)来たらもう我慢できんぞ」と言っていたところに2球目も腰の付近に来たというものであった(ただし王自身はバッキーとは仲は良く、「おいおい」とたしなめる程度のつもりであったという)。その後、荒川コーチがバッキーと乱闘して2人が退場となった。さらに交代した権藤正利の投球が王の頭を直撃。その後、同僚の長嶋が権藤のボールをレフトスタンドに叩き込み、事実上の報復を果たした逸話は有名である。王も頭部陥没骨折の重傷を負っていたが接骨医の懸命の治療で大事には至らず2試合欠場しただけで復帰、復帰した試合では2本の本塁打を放っている。なお、この事件で荒川と乱闘を演じたバッキーは指を骨折。投手生命を絶たれる原因となった。

なお、王は1965年4月12日の中日戦(後楽園球場)で中日の柿本実の長嶋への危険球を発端とする乱闘(この乱闘で金田正一が柿本に足蹴りを見舞い、退場となっている)でも乱闘に参加せずベンチで独り手を洗い水を飲んでいたという逸話があるほど争いを好まず、乱闘の口火を切ったのはこのバッキーとの諍いが唯一である。

スランプ、そして三冠王
ますます一本足打法に磨きがかかり、打撃の確実性が増した王は1968年、初の首位打者を獲得。以後1970年まで3年連続首位打者を獲得した。

しかし1971年のシーズン後半、深刻なスランプに見舞われた。打席に立つのが「怖かった」と振り返るほどの不振で、3年連続首位打者だった打率は.276まで降下、本塁打も39本に終わり、10年連続の本塁打王こそ守ったものの、8年続けていた40本にはわずか1本届かなかった。

しかし、この年の9月15日、阪神戦(阪神甲子園球場)にて江夏に3連続三振を喫した後4打席目(9回表)に放った逆転3ランは王にとって756号に匹敵する忘れられない本塁打の1つだという。極度の不振に陥っていた中で打った本塁打だったこともあり、ダイヤモンドを一周する間号泣していた。王が「現役時代に唯一涙を流した本塁打」となった。この対決及び本塁打のことは江夏もよく覚えており、二人とも「このような対決こそが野球の醍醐味」と語っている。なお、この本塁打は通算485号に相当した。 また、同年日本シリーズ第3戦(10月15日)では、当時パ・リーグを代表する投手だった山田久志からシリーズの流れを決める逆転サヨナラ3ランを放ち、チームの日本一に貢献。この本塁打についても、「宙に浮くようなフワフワした気持でベースを一周したのは後にも先にもあれだけ」と語っており、通算本塁打にこそ含まれないものの、よく覚えているという。

一方、スランプは翌1972年まで尾を引き、あまりの深刻な不振に川上哲治監督も二本足に戻すことを勧めたほどであった。しかし王は頑なに一本足打法を貫き、ついにスランプを脱出、同年9月には公式戦7試合連続本塁打の記録を達成。これは1986年にランディ・バースに並ばれたものの、未だに日本プロ野球記録である。この年、前半のスランプの影響で打率こそ2年連続で3割を割ったものの、48本塁打と再び大台を突破、当時の自己最多の120打点を記録、復活を遂げた。

1973年、打率.355、本塁打51、打点114で王にとって初めての三冠王を獲得。この年、通算本塁打数でも野村克也を抜き、プロ野球歴代1位に踊り出た(1973年シーズン終了時・王585本、野村579本)。

翌1974年も打率.332、本塁打49、打点107で史上初の2年連続三冠王に輝いた。この年の8月4日、対阪神タイガース戦で、古沢憲司投手から史上8人目となる通算2000本安打を達成。

この頃になると、長嶋が既に現役最晩年で往年の打棒が望めず、他球団のマークは王に集中していた。これは1973年124四球(38敬遠)、1974年158四球(45敬遠)という記録にも表れている。そんな中での2年連続三冠王は特筆に値する。特に1974年は四球と敬遠に加え、出塁数294、長打率.761も日本プロ野球のシーズン最高記録を更新、非公式の記録では出塁率.532、OPS1.293、本塁打率7.86などもシーズン最高記録であった。これらの記録の内、長打率以外の記録は未だに更新されていない。

しかし、当時の巨人は僅差の試合に非常に弱く、いかに王が怪物的な打棒を振るおうとも、チームの優勝争いでは苦戦を強いられていた。結果として、1973年にはかろうじてシーズン最終戦でセ・リーグ優勝を決め、日本シリーズでも優勝したものの、1974年には中日にセ・リーグ10連覇を阻まれた。

本塁打記録への挑戦
王の通算本塁打が600本を越えた頃から、ファンの間でも王の記録がメジャーリーグの記録に迫るものであることが認知され始めた。折りしも1974年、ハンク・アーロンがベーブ・ルースを抜く715号を記録したことで日米ともに本塁打記録への興味が高まっていた頃であり、巨人の看板選手であった長嶋が引退したことも相まって、野球ファンの注目は王の記録に集まり始めた。

そんな中で1975年、キャンプ中に足を故障したことの影響で大きく出遅れ、33本塁打に終わり、13年守り続けた本塁打王の座を田淵幸一に明渡すこととなった。この時点で王は35歳であり、限界説もささやかれた。

しかし、記録への挑戦をモチベーションとして翌1976年再び打棒が爆発。64試合で30号に到達、オールスターゲームまでに32本塁打というハイペースで本塁打を量産した。「64試合で30号」は、2001年にアレックス・カブレラがタイ記録を作ったものの、現在も最速記録である。通算700号を目前にしてやや足踏みが続いたものの、オールスター戦明け間もなくの7月23日、通算700号を達成。なお、700号を打った川崎球場では、ホームチームでない選手の記録にも関わらずスタンドインした付近のフェンスに記念プレートが設置された。

そして10月10日の阪神戦で古沢憲司から2本塁打を放ちベーブ・ルースの714号に並ぶと、翌10月11日、山本和行から715号本塁打(シーズン48号)を放ち、一気にルースを抜いた。

同年、アーロンが引退。王の目標はアーロンの記録である755本に定まった。

756号本塁打
新記録の756号まであと40本で迎えた1977年も全盛期と変わらぬ打棒を発揮。8月31日の大洋戦でアーロンに並ぶ755号(シーズン39号)を三浦道男から放った。

そして9月3日、対ヤクルト戦第2打席で、カウント2-3から鈴木康二朗の投球をライトスタンドへ打ち返し、メジャーリーグ記録を抜く756号を達成した。

756号本塁打の表彰のために15万円分のカーネーションで飾られた表彰盾が贈られる手はずとなっていたが、2日間本塁打が出なかったため製作していた花屋は30万円分のカーネーションを無駄にすることになった(ボランティア製作だったようである[要出典])。また一・三塁側スタンドには記録達成が近づくとそれぞれ3つずつ(計6個)のくす玉が吊るされ、記録達成とともに一斉に割られ、「祝・王選手756号」の垂れ幕で祝福した。

この試合で、王は両親を後楽園球場に招待した。記録達成の瞬間同球場一塁側1階席で観戦していた両親の元に、記録達成を祝うファンから握手を求められた他、先述のカーネーションのプレートを王から直々に両親に手渡す瞬間もあった。

一方、756号を打たれたヤクルト・鈴木康二朗は当時、報道陣から取材攻めに遭っていた。これを慮った王は鈴木に声を掛け「俺のせいでえらいことになってしまったな。色々言われるだろうが、絶対に負けるなよ」と励ました。鈴木は「自分がこのまま潰れたら、王さんの記録にも泥を塗る事になってしまう」と奮起、翌1978年には13勝を挙げてヤクルト球団史上初のリーグ優勝と日本一に導き、近鉄バファローズ移籍後には救援投手として活躍。プロ引退後も軟式野球に転向して永らく現役を続けた(現在は野球ではなく、アマチュアゴルフで活躍している)。また、鈴木はプロ野球機構から新記録を打たれた記念としてサイパン旅行を打診されたが、プロの意地としてこれを断っている。

日本テレビ放送網は当時巨人主催試合を独占中継していたが、この756号の本塁打は生放送できなかった。というのも、当時の中継は19:30からの放映で、記録を決めた19:10の段階ではそっくりショー(讀賣テレビ放送発)を放映していた。その為、視聴者からかなりクレームが付いたとされている。なお、記録達成の映像は中継開始と同時にVTR再生されたほか、当日のスポーツニュースおよび深夜の特番「おめでとう王選手 世界新記録だ756号!!」で繰り返し流された。

この偉業が称えられ、当時の福田赳夫内閣総理大臣から初の国民栄誉賞を授与された。また、756号を達成した後楽園球場では外野の落下地点に記念のモニュメントが設置された(現在は東京ドーム内の野球体育博物館に飾られている)。

王が756号を打った当時、日本では「世界一」と評されたが、ギネスブックは、球技においてはリーグのレベル等条件が必ずしも平等でないという観点から、競技全体の世界記録という概念を認めておらず、確認できる最高記録と一定のレベルのリーグ戦における記録を併記していることが多い(これは野球に限らず、どの球技についても同様である)。王の記録は、アーロン、バリー・ボンズやジョシュ・ギブソンの記録と並んで本塁打記録の1つとして記載されている。また、本塁打においては球場の広さも重要な因子となるが、王の現役時代に巨人が本拠地としていた後楽園球場は、当時のメジャーリーグの球場と比較しても著しく狭い球場であった[6]。

王貞治は日本では「世界の(本塁打)王」と呼ばれたが、日本以外の世界ではあくまで「日本の本塁打王」として知られており、英語圏のニュースでは Japanese home run king Sadaharu Oh として紹介される。日本でも落合信彦が『そしてわが祖国』(1995年集英社文庫)で、アメリカ人が王を本塁打の世界一と認めていないことを指摘していた。

ただし、アーロン自身は、王の記録達成に心から敬意を表し、紳士的に祝福した。以降、王とは現在も深い親交がある。

756号を打った9月3日は深夜までTV出演やインタビュー、祝福の電話の対応などでほとんど眠れなかったにも関わらず、翌9月4日のヤクルト戦にも普段通り出場し、通算757号となるサヨナラ3ランを放った。これを含め、このシーズンさらに10本塁打を上積みし、自身3度目となる50本塁打を達成した。

記録への挑戦が続いた1976年、1977年の2年はそれぞれ49本、50本で再び2年連続の本塁打王に返り咲き、連続でMVPに選ばれた。

晩年 -1980年、そして引退
翌年の1978年には前人未到の通算800号を達成するが、本塁打は39本に終わり、本塁打王のタイトルは44本塁打の山本浩二に明け渡すことになる。この年は8年連続となる打点王を確保するが、これが現役時代最後に獲得した主要打撃タイトルとなった。

1979年は、打率.285、33本塁打、81打点に終わり、一本足打法に切り替えた1962年以来、初めて打撃三冠タイトルを1つも取れずに終わった(ベストナインには選出)。16年間連続で続いていたOPS10割、100四球の記録もこの年は.980、89四球と衰えは誰の目にも明らかであった。なお、この年の9月21日阪神戦で王にとって唯一の代打本塁打を放っている(ちなみに長嶋茂雄は13度の代打出場があるが代打本塁打は1本も記録していない)。

そして1980年、打率は.236(その年の規定打席到達者の中で最低の打率)、30本塁打、84打点に終わり、ついにベストナインの選からも漏れる。OPSに到っては.803と一本足打法に切り替えた1962年以来では自己最低の数字であった。

30本塁打は一般的にはスラッガーとして恥ずかしくない数字だが、ファンが王に求める数字としては物足りないものであり、王自身もそれを自覚していた。それでも王は、30号本塁打を放った時のインタビューで「来年の目標?笑われても言うよ、40本って」「来年は大台(通算900号)という目標があるからね。もうひと踏ん張りだね」と語ったり、圧縮バットが禁止される翌シーズンに向けて練習では白木のバットを使い始めるなど、現役続行に意欲を見せていた。後年、王自身が43歳まで現役を続けたかったと語っており[7]、すでに引退した大豊泰昭や現役の小久保裕紀、松中信彦、タフィ・ローズなどの強打者に対し、「43歳まで頑張ってプレーしなさい」と伝えている。

ところが10月、長嶋茂雄監督辞任、藤田元司監督の就任が発表され、藤田から助監督就任を要請された。藤田は要請にあたり現役兼任を考えていたと語っているが、現役続行か引退か迷っていた王はこの要請を受け、ついに決断を下した。

同年10月12日にヤクルトの神部年男投手から打ったホームランが公式戦最後のホームラン(通算868号)となった。

11月4日、現役引退を表明。「王貞治のバッティングができなくなった」が引退発表時の言葉だった。王が後日、引退を決意した瞬間について、「その年(1980年)の後楽園球場での中日ドラゴンズとの試合で、先発した戸田(善紀)君の球がものすごく速く見えた。前の自分なら打てるはずの球が打てなくなったので、『ああ、俺ももう御仕舞いかなあ…』と思ったんだよ」と語っている。

通算868号の本塁打を打ったバットは徳光和夫が所有しており、徳光が『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)に出演した際に鑑定のため持ち込んだことがある。王は後述する八代亜紀のエピソードにもあるように、本塁打を打ったバットを知人にプレゼントすることが多かったため、当初徳光は自分の持つバットが本当に868号を打ったバットとは思わず、自宅で青竹踏み代わりに使っていたという。

引退表明から4日後の11月8日にナゴヤ球場で行われたセ・リーグ東西対抗戦では1本塁打を含む3安打と活躍、引退を惜しませた。

11月16日、藤崎台県営野球場(熊本)で行われた対阪神・秋季オープン戦の最終打席にてライトスタンドへホームランを放っている。3塁を回ったところで阪神の選手たちがベンチを飛び出し、王は一人ずつと握手を交わした後ホームイン。これが最後の打席・最後のホームランとなった。

引退セレモニーは11月23日のファン感謝デー・イベントの最後に行なわれ、ピッチャーマウンド上のマイクで挨拶があり、挨拶終了後に自ら左打席にバットを置き、そのまま歩いて一塁ベース上にはファーストミットを置きに行いて、同時に引退となる高田繁を呼び挨拶を行うように呼びかけた。この引退時のパフォーマンスは山口百恵のそれを取り入れた、といわれている。

この時、堀内恒夫を投手として招いて正真正銘の最終打席を行った。が、堀内の渾身のストレートにより空振り三振に仕留められた。また入団時のポジションである投手に戻って堀内と勝負したが、こちらも堀内にレフトに本塁打を浴びた。王の最後の打席への堀内の投球は、1球目にドロップ(縦のカーブ)。2球目もドロップ。3球目にストレートであった。

1980年に現役引退をしたが選手時代の活躍を讃え、後楽園球場が閉場となる1987年まで1番ゲートは「王ゲート」と称された。また閉場の際、同球場の1塁ベースも寄贈されている。東京ドームとなってこのゲートの名前は一旦無くなるも、1998年に開場10周年を記念して同球場で1番ゲートは「王ゲート」として復活して現在に至る。

監督時代

巨人助監督・監督時代
1981年から3年間巨人助監督を務め、監督・藤田元司、ヘッドコーチ・牧野茂とのトロイカ体制で1981年の日本一、1983年のリーグ優勝に導く。1984年、藤田元司からバトンを受け継ぎ、監督就任。しかし、前年リーグ優勝したチームを受け継ぎながら3年間優勝から遠ざかり、監督としての資質に疑問を呈する声がファンや評論家からあがる。また、ランディ・バースに対する敬遠攻めを止めなかったことに対する非難を受けたりもした。王自身はあまり感じていなかったが若手との意識の断絶も激しく、85年には中畑清のワン公(犬の意味)発言を誘発している。

監督就任4年目、主砲原辰徳を前年の故障で欠き、落合博満を中日ドラゴンズが獲得するなど、チームはかつてない危機を迎えていた。中日との開幕戦での西本聖の完封勝利で1987年のシーズンが幕を開ける。ウォーレン・クロマティを4番に据え、ストッパーに回った鹿取義隆と、2年目19歳のエース桑田真澄、復活した江川卓を軸に若手投手陣は躍動する。攻撃面も打撃ベスト10に篠塚和典、吉村禎章、中畑清、復帰した原とクロマティの5人が3割を記録した強力打線であった。終わってみれば独走でのリーグ優勝であった。しかし、日本シリーズで西武ライオンズに2勝4敗で敗れ日本一とはならず、「巨人の監督」としての手腕は高く評価されなかった。

翌1988年は(ちなみに東京ドームの元年)クロマティ・吉村のケガによるリタイア、江川卓の引退からくる投手陣の衰えから優勝した中日に12ゲーム差をつけられ2位に終わり、フロントから責任を問われる形で辞任(事実上の解任)。藤田元司がバトンを受け継いだ。巨人監督辞任により、前述のように30年間使用された背番号1が野球界から姿を消すこととなった。巨人監督退任後はNHK野球解説者を務めた。

ダイエー・ソフトバンク監督時代
1995年、福岡ダイエーホークスの監督に就任。前年チームは4位ながら貯金9と躍進しており、この年も大物助っ人・ケビン・ミッチェルや、西武ライオンズから工藤公康、石毛宏典が加入するなど期待は大きかったが、故障者続出などにより、借金18の5位に終わる。

翌1996年5月9日、日生球場で行なわれた近鉄バファローズ戦では、この頃最下位を走るホークスのファンから、王や球団代表・瀬戸山隆三を強烈に批判する内容の横断幕が掲げられ、外野スタンドは試合前から殺伐としていた。試合は、初回秋山幸二の本塁打で先制したものの、先発の吉田豊彦があっさり逆転を許してしまう。9回表に吉永幸一郎の本塁打で1点差まで迫るが、2-3で近鉄に敗れた。

その後球場から出てきたホークスナインの乗ったバスに、「お前らプロか?」と言う罵声を皮切りに次々と生卵がぶつけられる事件が勃発した(いわゆる「生卵事件」)。この事に王は「俺はこんな仕打ちをされるために、博多に来たんじゃない!」と激怒した。この時、王は「我々が卵を投げ返すのは簡単だが、これをファンの意見と取るならば、勝つ事しかないんだよ」とコメントした(この試合は、日生球場で行われた最後のプロ野球公式戦である。それから10年後の2006年5月9日、日生球場の跡地で「生卵事件を偲ぶ会」を当時の近鉄ファンとダイエーファンが行っている)。

巨人監督を辞任する際にV逸の責任を「球団フロントから」問われたのとは違い、「チームのファンから」心無い仕打ちを受けるという、スター街道を進んできた王にとっては今まで味わった事のないほどの耐え難き屈辱を受ける時期が続いた。王はそれらに対し、ひたすら「俺は辞めない」「我々は勝つしかない。勝てばファンも拍手で迎えてくれる」と発言しながら耐え忍び続けた。

1998年は、シーズン残り5試合まで優勝の可能性を残す奮闘を見せる。その5試合は全敗したものの、オリックス・ブルーウェーブと同率で21年ぶりのAクラスとなる3位に入った。前身の南海時代から続いていたBクラスの連続年数はプロ野球記録であり、ホークスの低迷を象徴するものだった。この久々のAクラス入りによって選手の勝利に対する意欲が高まったことが、翌年の優勝につながる非常に意義のある年だったとも王は後に語っている。

また、巨人、ダイエー初期時代は、実績が劣るコーチ陣(王から見れば全員がそうだが)の進言になかなか耳を貸さず、コーチ陣も「世界の王にはどんな意見も釈迦に説法」と進言をあきらめ、両者の間に溝があった。例えば、王に相談せずコーチが選手に思ったことを指導し、事後報告したら、「それは監督が決めることだろう!」と怒鳴りつけたこともあったという。また、投手が完投する時代を生きた王は、投手交代の采配が苦手で、しかも投手コーチの意見をなかなか聞かないため、終盤リリーフ陣が打ち込まれる試合が多く、「閉店間際のダイエー大バーゲン」と揶揄された。
しかし1998年オフに尾花高夫投手コーチの招聘で投手陣の整備が進み、1999年の開幕前に根本陸夫球団社長の「お前達、何を構えてるんだ。この人は、今では『世界の王』と言われているが、昔はラーメン屋の倅だったんだ。お前達と何も変わりゃしない。そう思ってやりなさい」という言葉で王とコーチ・選手の溝が埋まった、といわれる[8]。王も「選手というのは想像以上に俺の顔色をうかがっている。だから俺もあまり難しい顔をせず、選手が失敗を恐れず、のびのびできるようにしないと」と選手に歩み寄る発言をした。このあたりから、ホークスの台頭が始まったという。

監督経験を重ねた力が実を結び、1999年に球団創設11年目にして初のリーグ優勝、さらに中日との日本シリーズも制し監督として初の日本一になった。翌2000年もリーグ優勝してV2を成し遂げるも日本シリーズで敗退するが、2003年に再び日本一に輝く(日本一になった年の対戦チームの監督はいずれも星野仙一であった)。

2000年の日本シリーズは長嶋茂雄が監督を務める巨人との「ON監督対決」として注目された(この年の福岡ドームでの日本シリーズが変則日程で行なわれたが、3年前に福岡ドームを先約していた日本脳神経外科学会の日程を優先させたためである。上述のように、1997年までのホークスはBクラスの常連で、その当時はホークスの躍進が予想できず、学会の予約を承諾してしまったためだと言われている)。

2002年のドラフトで、スキャンダルが発覚して横浜ベイスターズに指名回避された多田野数人を事実を知った上で獲得しようとした。球団社長・高塚猛もGOサインを出したがオーナー・中内正の強い反対にあって実現はしなかった。

2004年6月7日には日本ハム戦で監督通算1000勝を達成。監督就任11年目となる2005年1月28日、ホークスのソフトバンクへの正式譲渡と同時に取締役副社長兼ゼネラルマネージャーに就任(監督もそのまま兼任)し、就任間もない時期からは考えられないほどの長期政権となった。

なお、指揮を取るホークスは2003年から3年連続レギュラーシーズン1位となったが、パ・リーグにおけるプレーオフ制度導入となった2004年、2005年と2年連続でプレーオフセカンドステージで最終戦まで行きながらも2004年は西武ライオンズに、2005年は千葉ロッテマリーンズにリーグ優勝を譲っている。

2006年3月開催の「第1回 ワールド・ベースボール・クラシック」日本代表チーム監督に就任。3月21日の決勝戦でキューバを10-6で破り、日本を初代チャンピオン(世界一)へと導き、選手・監督として名実共に「世界の王」となった。

この偉業が讃えられ、2006年12月12日、毎日スポーツ人賞の感動賞をWBC日本代表チームと共に受賞した。12月20日、日本プロスポーツ協会からWBC日本代表として日本プロスポーツ大賞を受賞した。また、個人として日本プロスポーツ特別賞も同時に受賞している。なお、WBC期間中のオープン戦の監督代行は、チーフ兼内野守備走塁コーチ・森脇浩司が務めた。

2006年7月5日の西武戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)後に記者会見を開き、胃に腫瘍ができていることを発表。翌日より胃の上部に生じた癌の治療のためチームを離れ休養に入った。監督代行はWBC開催時同様、森脇浩司コーチが務めた。

術前診断は粘膜下層までの浸潤、1群リンパ節転移。7月18日、慶應義塾大学病院で腹腔鏡下に胃全摘・Roux en Y法再建と2群までのリンパ節郭清が行われた。8月2日に退院・記者会見。ファンを大切にする王らしく「みなさんの激励に支えられて生還できた」と喜びを語った。なお、術後の病理診断結果は公表されていない。

2006年9月29日、福岡ドームで行われたホークス2006年最終戦セレモニーに出席し、85日ぶりに公式の姿を現した。

2007年春の宮崎キャンプから監督業に復帰した。2007年シーズンは3位で、クライマックスシリーズでも第1ステージで敗退。試合終了後、選手達へ「来季はラストシーズンのつもりでいる」と、成績次第で2008年シーズン限りの退任を示唆したことを明らかにした。

2008年・7月1日~3日開催のセ・リーグ公式戦「巨人-ヤクルト」は永久欠番シリーズで「王貞治シリーズ」となっている。永久欠番シリーズとして開催されたものの「当事者は他球団のユニフォームを着て指揮」している唯一の監督となった。この日程はトレードマークである一本足打法が誕生した日(7月1日)に因んでいる。

2008年6月6日の交流戦で現役時代に日本シリーズで5度戦った「南海ホークス」の復刻ユニフォームを着用して指揮を執った。「南海ホークス」のユニフォームを着た初の外様指揮官(現役時代は所属経験無し)となった。復刻した濃緑のユニフォームに袖を通した際、「最近は派手なユニフォームが多いけど、こういう色はいいねえ」と感想を述べた。

同年7月8日の西武ドームでの埼玉西武ライオンズとの試合で、西武の細川亨捕手のブロックが走塁妨害だとして、5分近くにわたる審判団への抗議を行い、もし遅延行為と認められた場合は現役・監督時代通じて初の退場処分も心配されたが、杞憂に終わった。王は「あんなラフプレーはいかん。世界中にあの映像を流してもいいくらいだ」と激怒した。前年にも西武戦で多村仁外野手が同じく本塁上のブロックを掻い潜る際に負傷しているだけに、警戒感が高まっていたといわれる。

7月26日史上8人目となる監督通算1300勝を達成。オリックスの大石大二郎監督は「王監督は選手たちの力を信じて指揮を執っておられる。ただ、作戦はあまりないですね。」と評している。

しかしこの年は早々に中継ぎの久米・小椋が離脱、オリンピックで強行出場をした川崎が疲労骨折する等選手の故障が相次ぎ、シーズン終盤の9・10月には27戦で21敗という大失速をし、12年ぶりの最下位という不本意な結果となった。この終盤での低迷が王自身に監督退任を決断させる一因となった。

9月23日、試合終了後に記者会見を開き、体力的な問題を主な理由にシーズン終了で監督職を退くことを表明した。「50年、いい野球人生でした。50年間ひとつの道にこれだけどっぷりつかって、心をときめかせて68歳までやれたことは、とても幸せでした」と述べた[9]。翌日のヤフードームでの本拠地最終戦では、オリックスに敗れて11年ぶりのBクラスが決定したが、試合後のセレモニーでは選手たちから胴上げされた。

10月7日、シーズン最終戦となるクリネックススタジアム宮城での楽天戦が最後の試合となった。この日の天気予報は雨。対戦相手の楽天・野村監督は「今日は涙雨やな」、王自身は「オレに涙雨ってのは似合わないよ」とコメントした。試合は投手戦となり、0-0のまま延長戦に突入。試合終盤から時折小雨が降る状態となった。12回表のチャンスに松中信彦が初球を打って併殺打に倒れた直後、雨が一気に激しくなった。12回裏、馬原孝浩が山崎武司にサヨナラ安打を打たれ、最終戦を飾ることは出来なかった。またこの敗戦により、楽天の5位、ソフトバンクの6位が確定した。試合終了後には「勝負師としては最後を飾れず残念」、「野球好きな僕にふさわしく、12回もやれた。その点では良かった」と語った。試合後には敵地にも拘らず王の引退セレモニーが行われ、現役時代からライバルであった楽天・野村監督から花束の贈呈を受けた。

監督としての通算記録は、2507試合で1315勝(プロ歴代8位)1118敗74分となった。

監督退任後
監督退任後、引き続きソフトバンク球団会長となった。また、12月7日には長嶋茂雄の後任として読売巨人軍OB会の会長に選出された。

人物

野球選手として
王の鼻は曲がっているのだが、これは高校時代に練習で激しいノックを受け、そのうちの一球が顔面に直撃したためである。

通算846号の本塁打を打ったバットは、歌手の八代亜紀にプレゼントしている。これはイベントで知り合った八代が、語呂あわせで"やしろ"となる846号を打ったバットを欲しがった為である。このお礼に、八代は王に直筆の肖像画をプレゼントしている。

左打者ながら左投手を苦にしなかった。通算868本塁打のうち192本を左投手から放っている。また、対左投手通算打率は.295であり、通算打率.301と比べほとんど遜色ない。特に最初の三冠王に輝いた1973年から756号を打った1977年までの、打者として最も円熟していた5シーズンでは、対右投手.320に対して対左投手.341と、むしろ左投手をよく打ち込んだ。しかし、プロ入り当初は、並の左打者と同じく左投手を苦手にしていた。デビュー戦で左投手の金田正一の前に無安打、2三振に終わったのは来歴の項のとおり。プロ入り2シーズンに打った24本塁打のうち、左投手から奪ったのはわずか2本だった。特に学生時代から練習試合で対戦し、弱点を知り尽くされていた大洋の鈴木隆を苦手にし、第1打席から代打を送られたこともあった。1962年7月1日の大洋戦で一本足打法に踏み切ったのも、前日の試合で鈴木に抑え込まれたためであった。しかし一本足打法により打撃開眼したこの年、鈴木からも初めて本塁打を奪い、1964年には当時の日本タイ記録となる52号本塁打を奪うなど、苦手を克服した。デビュー戦できりきり舞いさせられた金田からも、1964年の1年だけで7本塁打を奪っている(同一投手からのシーズン本塁打数タイ記録)。

本塁打を打っても大はしゃぎするようなことが無かったのは兄の鉄城の影響である。高校時代、本塁打を打ってホームベース上で喜ぶ王を見た鉄城は「打たれた相手のことを考えろ」と王を叱りつけた。以来、王は本塁打を打っても喜ぶそぶりをしなくなった、と言う。ただし、756号の際に「バンザイ」をしたり、1971年の日本シリーズ第3戦の逆転サヨナラ本塁打で手を叩き飛び跳ねたなどの例外はある。

現役・監督時代を通じ数々の表彰を受けてきたが、そこでもらったものは人にあげたり寄贈したりすることが多く、家にはそれに関するものはほとんど残っていないらしい(長嶋茂雄も同じ)。

上手い打撃で相手側チーム選手が出塁すると「ナイスバッティング!」と声を掛け、相手側チームの打者であってもその技術を評価した。

足腰は非常に強く、一本足で立った状態で子供にぶら下がられてもびくともしなかった。しかし、腕力は弱く、腕相撲は巨人の野手の中では一番弱かったばかりか(この話は漫画「巨人の星」にも出てくる)、「東洋の魔女」と当時呼ばれていた女子バレー日本代表の選手たちにも負けてしまい、「王さん、手加減しないでくださいよ」と言われてしまったことがある。そのとき王は、「いや、これで精一杯なんですよ」と弁解した(巨人で一番腕相撲が弱かったのは投手の高橋一三。宿舎などで同僚にコロコロ負けてしまう王はその後必ずといっていいほど高橋を捕まえて腕相撲に勝って機嫌を直していたと言う)。

ファンサービスに熱心で大スターでありながらサインを断ったことがない。少年時代、巨人選手にサインを貰おうとするも、川上哲治などには見向きもされず、与那嶺要に貰えることができたそうで、その与那嶺の姿勢に王も倣っているという。世界記録のかかったときなど、サインを求める声は後をたたなかったらしいが、その時代のサインも寸分も崩れることなく、美しい書体で書かれていたという。当時チームメイトの土井正三は「王さんがサインする時間を休みや、練習に充てていたら、ホームラン1000本は打っていたと思うよ。でも真面目な人だから、ファンからサインを頼まれると、断れないみたいだ」と語るほど、王は膨大な数のサインをしていたといわれる。ファンサービスに熱心なのは監督になってからも変わらず、ソフトバンクの選手にもファンサービスを熱心に行うよう指導していたという。まだ若手時代の小久保裕紀がマスコミのインタビューにふてぶてしく答えた後、翌日のスポーツ新聞の小久保の記事を読んで「ファンの事を考えてコメントをしろ!」と激怒した事もある。近年の王は、サインをする際に俺は今までサインを書きすぎてるから、ネットオークションに出したって1銭の価値も無いよと笑って冗談を交えながらサインをする。

澤宮優の著書『打撃投手』によると王は打撃投手にも非常に親切で、長年王専属の打撃投手を勤めていた峰投手が辞めることとなり、1974年に来日したハンク・アーロンとのホームラン競争での王への投球が引退の場となった。ホームラン競争の後、峰が引退の記念に王のサインを頼んだところ王は「いいよ峰、それなら一緒にアーロンのサインももらったらどうだ」と言い、アーロンの控え室に行き彼も快く応じて、王とアーロンのサインを寄せ書きで三枚もらったという。この他にも、王は「俺は禁酒するから、車に入っているウィスキー、君が飲んでくれないか」と酒の入ったケースを渡したり、「これは正月の餅代といったらあれだけど僕の気持ちだ、今まで僕のために投げてくれてありがとう」と札束の入った封筒を渡したり、礼を尽くしたという。

一方、野球に対しては相当な頑固者だった。打撃が不調のとき他人から助言されても、「俺より打ってる人の言うことなら聞くけどね」と、たとえ相手が年長者でも聞き流していた。絶対的な存在である川上哲治監督の「そんな不安定な打ち型(一本足打法)は止めて、基本の二本足に戻したらどうか。君の力量なら充分四割も狙える」との提案に対し、一本足打法に絶対の自信を持つ王は断ったという。また、晩年の長嶋が周囲に打撃について聞き回っている姿を見て、「何であんなに才能のある人が簡単に人の言うことを聞くんだろう?打つのは自分なんだから、ほいほい人の話を聞き入れていたら、かえって選手生命を縮めるのでは」と不思議がっていたという。

また、現役時代に巨人軍の4番を長く務めていたこともあり、4番打者にはかなりのこだわりがある。1999年に不調で4番降格を小久保が相談しても頑なに起用を続け、ホームランの出ない日々が続く松中や、その松中に代わり再び4番を勤めるも、チャンスで凡退を繰り返す小久保を怪我をしない限り4番として起用し続ける。
しかしこれには、得点力の低下や、思うように勝てない事で苛立ちの溜まったファンから不満が噴出し、SNSなどで負けた試合の後に采配批判が続出していた。評論家の豊田泰光もこれに関しては「ワンちゃんの四番とはホームラン打者というこだわりはすごく、彼にホームランのことを言うのは難しいからねえ」と苦笑している。

空白の一日事件に対して、「江川の代わりに阪神に行く小林繁はトレードマネーとして1億でも2億でももらったらいい」と公言していた。

作家・山口瞳と夜の街で呑む際、「俺が行くとみんな俺がカネ持ってると思って高いものばっかり出すんだ」と、自慢に聞こえるように言っており、山口も最初はムッとしたが、後で王の優しさを感じ取った。

1987年オフ、江川卓の引退の意向を受けて球団より慰留を要請され江川の説得にあたったが、「なぜオレがこんなことやらなきゃならんのだ」と不満を漏らしていたという。江川との確執を物語る逸話とも伝えられているが、それ以上に自らの役割をわきまえている(監督の仕事はグラウンドでのチーム管理、選手の契約はフロントの仕事)ことによる言葉だったとされる。 原辰徳が読売ジャイアンツの監督に再任した年の秋季キャンプ時、生放送のテレビ番組のインタビューで巨人原監督の話題の時、エールとして「ジャイアンツの監督なんてなりたくてなってる人間なんかいないんだから、のびのびやればいい」と送っている。

『ザ!鉄腕!DASH!!』で胴上げに関する企画を行う際、その年の日本一になったこともあり、理想の「上げられ側」のモデルとされた。ホークスでは鷹の羽ばたきを意識してか両腕を横に広げることが多いが、WBCではオーソドックスに上の方に伸ばしていた。

ワールドベースボールクラシック優勝により、福留孝介の代打起用(その他の選手での準決勝、決勝戦における代打策も100%全て成功)やイチローを中心とするスモール・ベースボールなどの采配、「世界の王」としてのチームのモチベーションへの影響力などが改めて見直され、メディアもこれらを大々的に報じ、ホークスでの2度の日本一の時以上に監督としての王の名が世間に知れ渡ることとなった。さらに日本を世界一に導いたことで、「世界の王」という名称が今まで以上に使われるようになった。しかしながら本人は、「世界の王」とはバットを持っていた時(=現役当時)の話であり、既に現役を引退し監督となり長年経過した現在は「世界の王」ではないとインタビュー[10]で話している。

WBCの際、イチローが王に対し「監督は現役時代に、バッティングが簡単だ、と思ったことはありますか?」と質問し、王は「バッティングの極意を掴んだ、と思ったら逃げていく、その繰り返しで結局、そんなことは一度もなかった」と答えた。イチローはこれを聞き「王監督だってそうだったんだ」と感じ、バッティングで悩むのは当然だ、と再認識でき、安心したという。

中日ドラゴンズの落合博満監督は王の引退について、「日本でスーパースターといえるのはONだけ。そんじょそこらの選手とは訳が違う。俺が辞めるのとは意味合いが違うんだ」と語っている。

米国での評価
王の存在は米国でも早くから評価されていた。1970年行われた日米野球(サンフランシスコ・ジャイアンツ戦)では1試合2本塁打など活躍、親善試合でありながらMLBの投手が敬遠するという光景も見られた。1976年には日本プロ野球選手として初めて米国の代表的スポーツ雑誌である「Sports Illustrated」の表紙を飾った。

日本プロ野球とはいえ868本の本塁打を打った事実は大きく、現在でも王を尊敬するメジャーリーガーは少なくない。また、王の現役時代に日本でプレーして王のプレーを直接知る者も同様に王を尊敬する者が多い。例えばメジャーリーグでも高名な選手だったクリート・ボイヤーは「メジャーリーグでも間違いなく最高のスラッガーになれる」と評し、巨人時代に指導者としての王に接したレジー・スミスは王について「今まで会った誰よりもバッティングのことを知り抜いている」と語っている。

アメリカのマスコミからよくインタビューを受けたりコメントを求められる事があるが、常に誠実で謙虚な発言に感銘を受ける者が多い。

第1回 ワールド・ベースボール・クラシックでは観客から日本チームの誰よりも大きな拍手と声援で迎えられ、日米野球ではサインや握手を求めるメジャーの選手が殺到するほどである。実際に、2005年ソフトバンクでプレーしたトニー・バティスタ経由で、サミー・ソーサやミゲル・テハダが王のサインボールを手に入れている。WBC決勝の時に中継したアメリカのアナウンサーは英語でMr.Ohとは呼ばずに中継中ずっと日本語で「王さん」と呼んでいた。発音が似ている「awesome(すごい、素晴らしい)」という単語と引っかけて「王さん is awesome」と敬意をもって紹介していた。

ON砲
長嶋とはチームの主力・顔として16年間の長きにわたり活躍。ON砲(あるいはON、ONコンビ)と呼ばれ、2人で数多くのアベックホームランを放った。初のONアベックホームランは1959年6月25日、天覧試合となった後楽園での阪神戦。最後は1974年10月14日長嶋の引退試合まで通算106本(連発は29本)のONアベックアーチを放った。ON砲の詳細は同項参照。長嶋引退後も選手・監督として、王の引退後は監督同士、時には親友として、長く交友を続けている。また「尊敬する野球選手は?」という質問をされた際には、ハンク・アーロン、川上哲治とともに、必ず長嶋の名前を入れる。 ただし長嶋の監督一年目に長嶋が不甲斐ない試合内容に檄を飛ばした際に王が反発し激しいやり取りになり試合後の空気が 騒然とした事があったという。

人柄・性格
真摯で誠実な人柄で知られ、夫人の葬儀に参列した全ての人物に直接電話し感謝の言葉を述べたという。葬儀に参列した金村義明は、まさか自分のところに王本人から電話がかかってくるとは思わずにいたが、本人の不在中に王からかかってきた電話に出た彼の三男が「ママ、"ダイエーのおう"から電話!!」と受話器を塞がず大声で取り次いだため、妻が電話口で平謝りしたというエピソードを披露している。

若い頃、名古屋の寿司屋で当時中日の人気選手であった板東英二(王とは同じ学年であり、仲が良かった)と偶然会った際、自分の知人(父親の同胞)が営んでいる小さな中華料理店に連れて行き、「板東もたまには食べに来てやってくれないかな」とお願いした。このことを板東は自分の著書で「王の生い立ちと、優しい人柄が理解できた」と語っている。

律儀な性格で、ファンレターや年賀状の返事は必ず書いていた。キャンプ地に持ち込んだ葉書や便箋の量は、数万通とも言われている。

ただし、若い頃は門限破りの常連で、夜な夜な銀座や赤坂のクラブ通いをした時期もあった。王自身も後に、「高校出立ての体力でお金があって、綺麗なシャンデリア、美しい女性、おかしくならないわけ無いじゃないですか」と述懐している。ただし、荒川コーチに「お前、本当に上手くなりたいのなら、今日から三年間、酒・タバコ・女全部やめて俺のところで練習しろ。そのかわりその三年の後は十年遊んでも、プロとして飯が食えるようになるからな」と言われ酒・タバコを禁止されてからは、完全に改心している。長年巨人の寮長として活躍した武宮敏明によると、歴代の3ワルは王、柴田勲、堀内恒夫とのこと。3人とも名球会入りしている。

また、若い頃は自動車の運転が乱暴で、スピード狂といってもいいくらいだった。ある記者が初めて王の運転する車に乗る際、夫人から「気をつけて下さいね」と声をかけられ、その時は王に対しての言葉だと思っていたが、高速道路で鼻歌を歌いながら猛スピードで車を抜かし続ける王の運転から、王の助手席に乗る自分への気遣いの言葉だったと後に気付いたという。ただし、756号本塁打を打ち国民栄誉賞を受賞してからは、交通ルールを遵守しているという。ホークス監督就任後、テリー伊藤(早稲田実業での王の後輩にあたる)に「巨人にいた頃は、いくら車が走っていなくても、横断歩道のない所で道路を渡るなんてできなかった」と語っている。また、愛車及び送迎車は共にレクサス・LSである。

大食漢として知られる。子供の頃はおやつ代わりにラーメンやカレーを平らげ、夕食を食べた後もうどんを平らげていた。大人になってもそれは変わらず、中華料理屋でも出てきた料理を片っ端から平らげる。そのため、誰も隣に座りたがらなかったという。大食漢で知られる川上哲治さえも「王はもっとすごい。朝飯が終わると『今日の昼飯は何かな』と言い、昼飯が終わると『今日の夕飯は何かな』と言う。あれにはかなわん」と“敗北宣言”している。さらに酒豪でも知られ、若い頃は毎晩のように銀座の高級クラブに繰り出し、浴びるように酒を飲んでいた。飲み比べをして勝てなかったのは横綱の大鵬だけという(実は王と大鵬とは同学年であり、長年に亙る親交がある)。福岡に来てからはグルメに凝り出して体重が激増。更にテレビのグルメ番組や料理番組も見始めたという。第1回ワールド・ベースボール・クラシックの優勝時には、部屋にあったビールを全部1人で飲み乾してしまった程である[要出典]。

庶民的感覚も持ち合わせており、外食に行く際、連れが高級な店を薦めても「俺は中華料理屋(もしくはラーメン屋)の倅(せがれ)だから」と大衆的な店にふらりと立ち寄るらしい。その口癖は、胃がん手術後の退院会見にて「胃がなくなり消化できないのでしばらく食べられない」という意味でも使われ、周囲を笑わせた(しかしその際の発言内容は、解釈によっては「ラーメンは体に良くない」とも受け取れる内容だったため、皮肉にも本人の意図とは裏腹に「ラーメン屋に対する営業妨害だ」として球団にラーメン屋からの苦情が殺到する事態になった)。『(中国人の)ラーメン屋の倅』という文句は、現役時代から他の球団の人達が王を揶揄する時の文句でもある[要出典]。

胃がんの手術をした際に体重が減った上に一度に物を多く食べられなくなり、もともとの大食漢ぶりや福岡に来てからの食道楽を意識してか退院会見の際、「痩せたね」と、体重が減って喜んでいるような発言をした。 道具を丁寧に扱うことで現役時代から知られており同じミットを十年以上も使い「新しいものだとゴワゴワしてて 慣れるまでに時間がかかる。」と自ら裁縫してまで使い続けた。(ライバルの長嶋茂雄はエラーしたり不調が続くとゲン直しにすぐにグラブを替えたため、生涯で何十ものグラブが使用された)。

趣味
好奇心が非常に旺盛。よくメモを取る。自宅にいても気が付いたことは必ずメモする。また、ウインドーショッピングが大好きである。「何にでも興味を持たないと」と王本人はコメントしている。

現役時代、独学でピアノを習い、試合前に自宅で精神集中のためによくピアノを演奏していた。しかし、本当の理由は王自身が"大スター"になってしまったために、王の利益等を目当てに取り付く取巻き等を近づけさせないためで、本当はアウトドア派である。そのため、王本人はピアノを趣味だと思われるのは嫌らしい。しかしながら現在も時々ピアノを弾くようである。

東京在住時には料理を全くしなかった王だが(しかし、スパゲティだけはかなりの凝りようで、クロマティにも作り方の指導していたエピソードがある)、単身赴任となった現在では魚を3枚に下ろせるほどの腕前らしい。生家が中華料理屋であったので元々ある程度の料理は習得していたという説もある。

もともとアナログ人間だったというが、単身赴任生活ではパソコンを使いこなす必要に迫られ、四苦八苦しながらも習得した。タッチタイピングもできるとのこと。孫の画像を見るのが何よりの楽しみといい、WBC期間中はソフトバンクのオープン戦の動画をアメリカから視聴。パソコンは富士通のノートを愛用。わからないことがあるとよくコールセンターに電話をしていたが、その際「王ですけど」とわざわざ名乗ってかけていた。この際、口調がたいへん丁寧だったため、コールセンター中で人気があった。 正月には箱根駅伝を沿道で観戦し、応援していることがある。

家族
王の父親は大陸から一人で日本に渡って来た天涯孤独に近い境遇で、また戦時中は敵国人でもあったため、日本人である母方の親族から正式な結婚を許してもらえなかった。そのため終戦後に晴れて入籍するまでは、王とその兄弟は(表向きは王姓を名乗りつつも)法的には母親の私生児として日本国籍を保有していた。

10歳年上の実兄:王鐵城は貞治が2006年に胃癌の手術を受けた際、自身の出身であった慶應義塾大学病院に入院させ、後輩の医師だった北島政樹に貞治の手術執刀を依頼するなど、弟の闘病を蔭で支えていたが、2008年秋に体調を崩し、12月20日、呼吸不全にて78歳で逝去した。貞治は「私の父親代わりだった」と兄:鐵城の死を悼んだ。

1966年結婚した夫人との間に三女あり。夫人は王の新人時代、よく練習を見に来ていた女子学生2人組の1人で、一人は快活に話す子だったが、もう1人の「大人しい子だな」と王が感じた女子学生が後の夫人である。妻へのプロポーズの言葉は「ドドンパはお好きですか?」だったという。三女が産まれた時に、王は男の子が欲しかったが、また女の子だったので舌打ちをしてしまい夫人に怒られた(当時は「男の子=ストライク、女の子=ボール」と考える野球選手が多く、稲尾和久や張本勲もこのような話をしている)。家ではかなりの亭主関白だったらしく、本当に家の仕事は全く何もしなかったという。屋根の修理さえも妻の仕事。ただ、しつけだけは王の担当であり、礼儀作法に厳しく、娘たちが自分の言った事に対して口答えをすると容赦なく鉄拳を振るい、鼻血が出るまで殴っていたこともあるという。

3人の娘にはすべて「理」と付く名前をつけた。これは、いずれ嫁に行き、姓が変わってしまう娘だが、王の娘としていてほしい、里は王家だ、という意味をこめて「里」に「王」の偏をつけた「理」とした。

二女の理恵が「ふくらはぎが太いのは、お父様のせいだ!」と王に八つ当たりしている。この事から王は、娘にお父様と呼ばせていることが判明した。

夫人は2001年10月に逝去。その後、夫人の遺骨が墓地から盗み出されて300万円を要求される事件が起きたことがある。

国籍について
中華民国国籍。かつて大陸・中国の与党は中国国民党であり、国号を中華民国としていた。その頃、王を含めた中国外に住む中国人はみな中華民国国籍であった。 その中国国民党は第二次世界大戦後、中国共産党との覇権争いに敗れて中国大陸を脱出し、逃亡先の台湾島に政権を確立するが、1971年には国連を脱退し、国際社会の主な国々との正式な国交を断絶してしまう。しかし、王は自らの知名度を政治的に利用されることを嫌い、その後においても世界中より正式な国家として承認された中華人民共和国や、自身が生まれ育った日本国の国籍に、利便性のために帰化することをよしとしなかった。このため、王は現在でも日本や中華人民共和国ではなく中華民国(台湾)国籍である。これは中華民国籍の在日中国人として生涯を全うした父親の遺志を尊重した結果でもある。

王の同学年の友人で、よき理解者でもある張本勲(王も張本も、互いに「親友」ではなく「心友」と書いての「しんゆう」と呼ぶそうである)が、「母は日本語を使わず韓国語を生涯通した」「父と姉は広島の原爆が原因で亡くなった」ことから日本国籍取得をよしとしないことと共通する。張本も周囲から帰化を奨められたことが多かったがこれまで応じていない。

なお、国民栄誉賞は初代受賞者である王が中華民国国籍であることから、現在も国籍は要件とされていない。

交友関係
野球界以外にも広い人脈を持つ。昭和を代表する歌手の美空ひばりとは、『義姉弟』(王貞治本人談)という程、相肝照らす仲であった。ひばりが亡くなった日(1989年6月24日)、王は台湾に出掛けており、その日の夕方に新東京国際空港へ帰日した際、報道陣から「(美空)ひばりさんが亡くなられましたよ」と告げられて「それは本当か」と言って絶句した。7月に行われたひばりの本葬では、王が弔辞を読んでいる。 司会者の大橋巨泉とも現役時代から仲が良く、互いに「ワンちゃん」「巨泉さん」と呼び合う仲である。大橋巨泉から「ワンちゃんも早くリタイアして、カナダでのんびりと暮らしたらどうだい」と、カナダでの居住生活を勧められていたが、福岡で監督業の仕事が入ってしまった為、実現出来ずに現在に至る。政治家の二階俊博とも旧知の仲である。

その他の逸話
王貞治がプロ三年目に知り合った心臓病の野球少年に「僕もホームランをかっ飛ばす選手になるから、君も早く元気に野球をやれるように頑張れ」と励まし続けた。しかし、その少年は薬石効なく僅か13歳でこの世を去ってしまう。この少年の両親が東京都品川区の海徳寺に、息子を悼んでバットを持った地蔵を建立し、王も現役時代、シーズンが終わると毎年のようにこの地蔵にお参りしていた。そうしたことからこの地蔵をいつしか『ホームラン地蔵』と呼ぶようになったという。
1965年4月4日放送の毎日放送制作『アップダウンクイズ』で、ゲスト出場者(同回はプロ野球選手大会)として初めて10問正解し、ハワイ旅行を獲得した。また1967年8月6日放送の同番組では「夏休み特集・中学生大会」のシルエットクイズのゲストを担当した。
1981年から1993年の13年間、毎年朝日放送製作(自らの個人事務所・オフィスフラミンゴ協力)で、正月に「新春ビッグ放談」と題した対談番組のホストを担当した。(途中1989年だけ王自身は巨人監督を辞任関係などから出演せず)毎年スポーツ界を代表する選手との対談を実施。最終年の1993年は当時巨人監督に復帰した長嶋茂雄とのON対談が実現した。
1996年オフに当時の巨人監督だった長嶋茂雄の息子で同じ巨人選手だった一茂が父から戦力外通告を受け記者から戦力補強でダイエーに獲得するのかの問いに「長嶋さんの息子の獲得は厳しいね。長嶋さんにも苦労を掛けているしね。」と獲得に乗り出さなかった。 結局一茂は怪我等もあり引退する。
2003年夏にフジテレビジョン|フジテレビ系バラエティ番組『ワンナイR&R』の中で王監督に対する侮辱的シーン(コント「ジャパネットはかた」にて、“王シュレット”という王監督の顔を模った温水洗浄便座を紹介)が放送され当時のダイエー球団サイドが抗議し、同球団はフジテレビ系列の取材を一切拒否。後日フジテレビは放送上等で謝罪するが、同年の日本シリーズでの放送権を剥奪され、また通信販売業のジャパネットたかたからも「あまりにも良識の範囲を超えている」と抗議された。それ以降フジテレビ系列(福岡地区ローカルのテレビ西日本以外)でのホークス戦の放送を自粛していたが、2005年5月17日のソフトバンク対巨人戦から解禁された(詳細は王シュレット事件を参照)。
開幕戦先発出場のセリーグ高卒新人は王以外に1957年日大三高卒業し阪神入りした並木輝男外野手、小学4年で王に憧れ野球を始め1988年PL卒業し中日入りした立浪和義遊撃手の2人。1988年のオールスターゲーム_(日本プロ野球)ではオールセントラルの監督が王でファン投票選出遊撃手が立浪、王は立浪を3試合連続で出場機会を与えナゴヤ球場での第2戦は先発起用した。
2005年以降、巨人主催試合の中継を日本テレビではなくテレビ朝日が実施することがあることについて、日本テレビに批判的なコメントをした。
2006年11月のアメリカ誌「タイム」アジア版において、アジア版60周年を記念して特集された、政治、ビジネスなど5分野で活躍した66人が英雄に選ばれる「60年のアジアの英雄」の一人に選ばれた。
ダイエーの監督として連覇を果たした2000年のシーズンオフに、巨人のOB戦(テレビ放映)があり、新調された背番号1のユニフォームを纏って参加している。しかしそのころにはもう「巨人の王」というより、「ホークスの王」として人々に強く認知されていたためか、ほとんど話題にならなかった。

タイトル・表彰・記録

タイトル
MVP:9回(1964年 - 1965年、1967年、1969年 - 1970年、1973年 - 1974年、1976年 - 1977年)※9回は歴代最多。
三冠王:2回(1973年 - 1974年)※2年連続は連続記録として最多タイ。
首位打者:5回(1968年 - 1970年、1973年 - 1974年)※5回は歴代4位タイ、セ・リーグ歴代2位。3年連続はセ・リーグタイ記録。
本塁打王:15回(1962年 - 1974年、1976年 - 1977年)※15回、13年連続はいずれも歴代最多。
打点王:13回(1962年、1964年 - 1967年、1971年 - 1978年)※13回、8年連続はいずれも歴代最多。
最多出塁数:12回(1967年 - 1978年)※1967年から表彰
ベストナイン:18年連続18回(1962年 - 1979年)※回数、連続回数ともセ・リーグ最多
ダイヤモンドグラブ賞:9年連続9回(1972年 - 1980年)※1972年から表彰
最多得点:15回
投手や打者のシーズン記録や通算記録は、用具(ボールの反発力、等々)や設備(球場の広さやグランドの状態)、あるいはルール等の諸条件が変更されることにより、投手・打者いずれかが優位になれば更新される可能性がある。しかし、シーズンのリーグ1位獲得回数という記録は、同一シーズンに全選手が同一の条件で争った上での結果であるため、用具や設備、ルールに左右される度合いが低い。王の各年度記録を見ると、王が長期間にわたってセ・リーグで傑出した力を発揮し続けたことが分かる。

表彰
オールスター出場:20回(1960年 - 1964年、1966年 - 1980年)
オールスターMVP:3回(1963年第2戦、1977年第3戦、1979年第1戦)
正力松太郎賞:4回(1977年、1999年、2003年、2006年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回(1963年)
日本シリーズ技能賞:6回(1965年、1966年、1968年、1970年、1971年、1973年)
日本シリーズ打撃賞:1回(1972年)
野球殿堂入り(1994年)

記録

レギュラーシーズン
通算出場試合:2831(セ・リーグ記録)
通算打席:11866(セ・リーグ記録)
サイクルヒット(1963年4月25日)
5504試合連続退場なし(1959年 - 1988年、1995年 - 2008年、日本記録)
通算1000試合出場 1966年8月24日(116人目)

= 本塁打 =
通算本塁打:868(世界記録)
通算満塁本塁打:15(日本記録)
通算サヨナラ本塁打:8(セ・リーグタイ記録)
通算400本塁打到達スピード1位:1422試合
通算450本塁打到達スピード1位:1559試合
通算500本塁打到達スピード1位:1723試合
通算550本塁打到達スピード1位:1864試合
通算600本塁打到達スピード1位:1983試合
通算650本塁打到達スピード1位:2134試合
シーズン最多本塁打:55本(1964年、日本タイ記録)
シーズン最高本塁打率:7.86(規定打席到達者・1974年)
シーズン50本塁打以上:3回(1964年、1973年、1977年、日本記録)
シーズン40本塁打以上:8年連続含む13回(1963年 - 1970年、1972年 - 1974年、1976年 - 1977年、日本記録)
シーズン30本塁打以上:19年連続19回(1962年 - 1980年、日本記録、20本塁打以上でも日本記録)
シーズン10本塁打以上:21年連続21回(1960年 - 1980年、日本タイ記録)
シーズン30本塁打到達スピード1位タイ:64試合(1976年)
シーズン40本塁打到達スピード1位タイ:97試合(1966年、1967年)
シーズン50本塁打到達スピード1位タイ:122試合(1964年)
4打席連続本塁打(1964年5月3日、日本タイ記録)
1試合4本塁打(1964年5月3日、日本タイ記録)
7試合連続本塁打(1972年9月11日 - 9月20日、日本タイ記録)
1試合2本塁打以上:95回(日本記録)
公式戦では通算868本の本塁打を記録しているが、そのほか、日本シリーズ戦で29本、オールスター戦で13本、東西対抗戦で1本、日米野球戦で23本、オープン戦で98本と、生涯通算では1000本を超える本塁打(1032本)を放っている。

同時代の選手で通算本塁打数2位である野村克也の657本に200本以上の大差をつけ、通算打率1位の張本勲の記録にも300本以上の差、長嶋に400本以上の差を付けている。野村の所属した南海ホークス本拠地の大阪球場は両翼84m、中堅115.8m(1972年に両翼のみ91.4mに拡張された)と、狭いとされる後楽園よりもさらに狭いグラウンドであった。

このように王の傑出性は同時代の一流プロ野球選手と比較して突出しており、1980年代に川崎球場を使用していた落合博満や、ラッキーゾーン付きの甲子園球場を使用していたランディ・バースなどのような、日本プロ野球の技術向上と箱庭球場のアンバランスさが生んだ「怪物」とは異なるといえる。

なお、雨天で試合途中にノーゲームで無効となった本塁打等、いわゆる「幻の本塁打」は1本もない。1964年9月23日大洋戦(後楽園球場)で放った最後の55号本塁打は強い雨の中で打ったものだったが、東京オリンピックのために日程消化を急いでいた事情も手伝ってなんとか5回まで強行し試合成立させた結果、55号は幻になることを免れた。
なお、1966年の日米野球・対ドジャース戦では走者を追い越し、本塁打が取り消しとなっている。

本拠地であった後楽園球場で412本の本塁打を放っている。この本数は球場別通算本塁打数の中で歴代1位であり、未だに破られていない。

= 打率・打点 =
通算安打:2786(セ・リーグ記録)
通算長打率:.634(4000打数以上で歴代1位)
シーズン最多出塁数:294個(1974年)
シーズン最高出塁率:.534(1974年)
シーズン打率3割以上:8年連続含む13回(1963年 - 1970年、1973年 - 1974年、1976年 - 1978年、セ・リーグ記録)
シーズン100安打以上:21年連続21回(1960年 - 1980年、日本記録)
打率ベストテン入り:16年連続含む17回(1960年、1962年 - 1977年、日本記録)
全イニング出場首位打者(1969年、史上初、他にイチロー(1995年)と松井秀喜(2001年)が達成)
プロ通算打率は.301。実働20年を越えて3割を記録したのは他に張本しかいない大記録であるが、本人はこの維持を気にかけていたらしく、引退会見では「王貞治のバッティングができなくなった」としか述べなかったが、後に「頭になかったといえば嘘になる」とそれが引退の一因であることを明かしている。

= 長打力・得点能力 =
通算得点:1967(日本記録)
通算打点:2170(日本記録)
通算塁打:5862(日本記録)
通算犠飛:100(セ・リーグ記録)
シーズン最高OPS:1.281(1974年)
シーズン100打点以上:7年連続含む14回(1963年 - 1969年、1971年 - 1974年、1976年 - 1978年、日本記録)
メジャーリーグで強打者度を見るための指標に用いられるOPS(出塁率+長打率)では1.080(.446+.633)という数字を残している。出塁率4割以上、長打率6割以上が超一流の数値であり、その和であるOPSが10割を超える選手は数少ない。日本プロ野球界でOPSが10割を超える打者は王、ロベルト・ペタジーニ(1.078)、ランディ・バース(1.076)、の3人のみであり、4000打数以上の選手の中では王のみである(2位は松井秀喜の0.995)。またシーズン記録でも日本プロ野球史上で9度しか達成されていないOPS12割も一人で5度記録している。

OPS、XR、RCなどさまざまな得点算出能力で1位である。例えば走塁能力を加味した得点能力はイチローが通算2位、次いで長嶋が通算3位まで跳ね上がるが、やはり1位は大差をつけて王である。打撃各部門でのシーズンのリーグ1位獲得回数も突出している(合計213個、年度別打撃成績参照。213という数字には、下表にはない最多長打数と最多出塁数が含まれている)。

= 四死球 =
通算四球:2390(日本記録)
通算故意四球:427(日本記録)
通算死球:114(歴代8位、左打者では歴代1位)
シーズン最多四球:158個(1974年、日本記録)
シーズン最多四死球:166個(1974年、日本記録)
通算四球は2390個は2位の落合博満の1475個に1000個近くの差をつけてダントツの1位。王の引退当時は本塁打数とともに四球数もメジャーリーグの記録(ベーブ・ルース、2062)を上回っていた(現在はバリー・ボンズが更新)。

シーズン四球数は歴代1位から4位まで独占、歴代5位の金本知憲(2001年、128個)を挟んで再び6位から11位タイ(121個、2度、2007年のタイロン・ウッズとタイ)まで王の名前が並ぶ。これらを含め、シーズン四球数歴代20傑のうち延べ15を王が独占している。また、連続7打席四球を2度(1971年、1973年)記録している(これは歴代5位の記録だが、1位・松永浩美の11打席、2位タイ・掛布雅之、宇野勝の10打席、4位・ダリル・スペンサーの8打席はいずれもタイトル争いに絡んだ記録である)。

さらに、通算敬遠427個も2位の張本(228個)に200個近い差をつけての歴代1位。この中にはランナー無しでの敬遠が13回含まれる。初回無走者での敬遠もあり、本人は「相手にそれだけ怖がられているんだろうと、むしろ誇りに似たものが溢れてきた」と語っている。イニング別では1回が一番多い。なお、満塁で敬遠されたことはない。

通算死球数は一般に死球が少ないといわれる左打者の中で歴代1位。一本足の死角とされる足元付近への投球が多かったため、特に足への死球が多かったという(文春Numberビデオ「スラッガー列伝」)。シーズン最多死球を2度記録している。

= 守備 =
シーズン守備機会:1607(1963年、一塁手としてのセ・リーグ記録)
シーズン刺殺:1521(1963年、一塁手としてのセ・リーグ記録)
シーズン守備機会連続無失策:991(1980年4月25日 - 10月10日、一塁手としてのセ・リーグ記録)
王本人は「バッティングに比べたら守備は気を抜いていた」と語っているが、実際にはプロ入り2年目でアメリカ製のファーストミットを取り入れるなど守備にも力を入れており、打撃とともにその守備力も高く評価されていた。特にショートバウンドの処理、バント処理が抜群で、1972年から制定されたダイヤモンドグラブ賞に、1980年に現役引退するまで毎年選出されている。

長年王とともに内野を守った長嶋茂雄は、「一塁手ではワンちゃんが抜群に上手かったですよ。我々内野手はどんな送球でも安心して放れましたから」と振り返っている。また、現役時代バントの名人であり、監督としても王のいる巨人と対戦した吉田義男(阪神)も、「ワンちゃんにあれだけ迫られたらバントが成功する気が全然しない」と語っている。一塁手として、1963年にシーズン守備機会数とシーズン刺殺数のセ・リーグ記録をそれぞれ更新しており(1607守備機会、1521刺殺)、現役最後の1980年にも守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を更新(991守備機会連続無失策)している。ただし現役生活が長く守備機会が多かったこともあり、一塁手としての通算失策数も歴代1位である。

ハンク・アーロンの本塁打記録に並んだ1977年8月31日の大洋ホエールズ戦とアーロンの記録を超えた9月3日のヤクルト戦では、「外野のファンにお礼がしたいから」と言って、途中から右翼手として出場している。公式戦で王が外野手として出場したのはこの2試合だけである。

日本シリーズ
通算出場回数:14(シリーズタイ記録)
通算出場試合:77(シリーズ記録)
通算得点:58(シリーズ記録)
通算本塁打:29(シリーズ記録)
通算犠飛:5(シリーズ記録)
通算四球:83(シリーズ記録)
シリーズ本塁打:4(1963年、シリーズタイ記録)
シリーズ四球:9(1967年、1976年の2度、シリーズ記録)
シリーズMVPの受賞は1度もない。シリーズタイ記録の4本塁打を放った1963年や第3戦で阪急の山田久志からサヨナラ3ランを放った1971年も、MVPを手にすることは出来なかった。

オールスターゲーム
出場試合:58(歴代1位)
通算打数:188(歴代1位)
通算犠飛:3(歴代1位)
連続打数無安打:33(歴代1位)
2年目の1960年から現役最終シーズンの1980年まで21年連続でオールスターゲームにファン投票選出された(1965年のみ怪我のため出場辞退、出場回数は20回)。ファン投票選出回数(21回)、連続選出回数(21回)ともに野村克也と並ぶタイ記録である(選手としての最多選出回数は野村の22回)。

オールスターでは通算打率.213、本塁打率14.46と本来の力を発揮できなかった。上記のとおり、連続33打数無安打(途中5四球あり)という不名誉なオールスター記録も持っている。王が野村の通算本塁打記録を破った1973年以降のオールスターでは、野村がマスクをかぶった試合で27打数1安打0本塁打と完全に押さえ込まれたこともその一因である。

>>もっと面白い球界裏情報や面白ブログはここでチェック



ランキング参加中ですクリックのご協力お願いします
にほんブログ村 野球ブログ 阪神タイガースへ野球愛ランキング

« | HOME |  »

cork_board template Designed by ARCSIN WEB TEMPLATES
TMP Customized by I'm looking for.