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2000年04月11日 の記事一覧

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青木宣親

青木 宣親(あおき のりちか、1982年1月5日 - )
東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手(外野手)。
ヒットを量産することから「安打製造機」と称される。


人物・来歴
宮崎県日向市立日知屋小学校、富島中学校、中学時代は非常に我が強くチ-ムから孤立しがちだった。宮崎県立日向高等学校、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に進学した。高校時代は投手だったが、大学入学後、投手の練習は走り込みが多いと知り、外野手に転向した。

早大の同期には鳥谷敬、比嘉寿光、由田慎太郎らが、1学年上には和田毅、1学年下には田中浩康、2学年下には武内晋一、越智大祐がおり、主に1番・田中、2番・青木、3番・鳥谷、4番・比嘉、5番・武内、6番・由田という、後に6人全員がプロ入りした強力打線において、チャンスメーカーとして活躍し、早稲田大学野球部史上初の4連覇に貢献している。

2002年の3年春の東大1回戦では5打数5安打5打点1四球の活躍で、1試合6得点という六大学野球記録を達成した。同年の東京六大学野球秋季リーグ戦では、打率.436で首位打者のタイトルを獲得した。同リーグにおいて、ベストナインを3回受賞している。通算58試合出場、190打数63安打、打率.332、0本塁打、20打点。

2003年のドラフト4巡目指名を受け、ヤクルトに入団した。

プロ入り後
2004年、シーズンは一軍出場わずか10試合に終わったものの、二軍では打率.372でイースタン・リーグ首位打者、最高出塁率のタイトルを獲得。またリーグ2位の21盗塁を記録し、自慢の俊足をアピールした。同年のフレッシュオールスターゲームではMVPを獲得した。

2005年、稲葉篤紀の移籍で、開幕から中堅手としてレギュラーに定着した。2番を打っていた序盤は低打率にあえぎ三振を量産していたが、徐々に安打が出始め、6月からは1番に定着した。10月6日にはセ・リーグ記録の192安打を更新。10月11日、イチロー以来史上2人目となるシーズン200安打を達成した。最終的にはイチローの210安打に届かなかったものの、プロ野球新記録のシーズン169単打を記録するなど、計202安打を放ち、最多安打。更に、打率.344でセ・リーグ首位打者のタイトルも獲得。また新人王に選出された。

2006年、WBC日本代表に選ばれ、6試合に出場して優勝に貢献した。7月21日に行われたサンヨーオールスターゲームの第1戦目(神宮球場)ではMVPを獲得。フレッシュオールスターMVP経験者によるオールスターMVP受賞は、簑田浩二(阪急)、石井浩郎(近鉄バファローズ)以来となる3人目の快挙となった。ちなみに翌日には藤本敦士(阪神)もMVPを受賞し、4人目のダブル受賞者となっている。

シーズンでは2年連続の200安打と首位打者こそ逃したものの、両リーグトップの192安打を放ち2年連続の最多安打のタイトルを獲得。課題であった三振と四球がそれぞれ減少・増加し、本塁打や打点、出塁率も大幅に向上した。得点圏打率.399はリーグトップ。また、41盗塁を記録して赤星憲広の6年連続を阻止し、自身初の盗塁王を受賞した。

契約更改時に球団からMLB移籍が決定となった岩村明憲がつけていた背番号1の後継者として要請されたが、本人が現状の背番号23に思い入れがあるため固辞している。

2007年、7月10日に出場373試合目での史上最速500本安打を達成。チームメイトのアレックス・ラミレスとはシーズン終盤までハイレベルな首位打者争いを繰り広げ、リーグ4位の80四球と警戒されたが、打率.346で2度目の首位打者と初の最高出塁率のタイトルを獲得した。安打数はリーグ1位のラミレスの204安打に次ぐ193安打を記録。2005年に記録した自身のセ・リーグシーズン最多安打記録(202安打)はラミレスに抜かれた。また3年連続100得点以上となる114得点でリーグ最多得点を記録。本塁打も20本の大台に乗せ、長打率は初めて5割を超えた。

2番が犠打の少ないアダム・リグスから犠打の多い田中浩康に変わったことにより出塁→バントのパターンが増え、盗塁数は41から17と激減した。前年まで3番だった岩村明憲の移籍や俊足の飯原誉士の台頭などで、シーズン中は1番だけでなく2番・3番での起用も多かった。引退した古田敦也の引退試合では、古田の前の4番を打った。オフには足の回転を速くする新たなバッティングフォームに変えている。

2008年、5月5日にわき腹痛で初の怪我による登録抹消を経験するが、5月29日に復帰後は着実に安打を積み重ね、例年以上の高打率をマーク。内川聖一(横浜B)と共に熾烈な首位打者争いを繰り広げた。8月にはチームメイトの宮本慎也とともに、北京五輪代表に選出された。 西武から移籍した福地寿樹が1番打者として定着したため、シーズンでは主に3番打者として起用。得点圏打率が前年より下がり、また首位打者・最高出塁率のタイトルもともに内川に譲ったものの、自己最高の打率.347をマーク。リーグ最少の47三振と安定感を見せ、チームでは盗塁王に輝いた福地に次ぐ31盗塁も記録した。

2009年、WBCに2度目の出場。左翼を本職とする選手がいないチーム事情から、経験の少ない左翼手を中心に出場するも、堅実な守備を披露。3番打者として全試合に出場し、37打数12安打、打率.324、7打点の好成績で、大会ベストナインに選出された。

シーズンでは、死球や背中を痛めた影響でレギュラー定着以降では初めての大不振に陥り、一番ピークで悪い時は打率.230台で、前半戦の打率は.249と低迷。更に中堅での怠慢守備も指摘され、一時期は福地との配置転換で左翼手に回されるなど苦しんだ。しかし、オールスター明けの後半戦から一転、バットを変えるなどの試行錯誤を繰り返し、後半戦では4番も務め、後半戦の打率が4割台と復活しチームの3年ぶりのAクラスの確保とクライマックスシリーズ出場に貢献。打率を3割3厘に乗せ、昨年の欠点だった得点圏打率も3割7厘に浮上させると共に、自身2度目の最高出塁率のタイトルを獲得した。 クライマックスシリーズでは要所で打点を記録したが,3点差の2死1,2塁の場面で岩瀬仁紀に空振りの三振を喫しラストバッターになった。

10月1日にテレビ東京のアナウンサー大竹佐知との入籍が公言され、11月10日に大竹佐知との入籍を10月中にした事を明らかにした。

プレイスタイル
日本でもトップクラスの俊足による盗塁と、確実性の高いシュアなバッティングを武器に安打を量産するアベレージヒッター。広いミートを活かした広角打法とレフト方向への流し打ちが持ち味だが、2006年以降は長打力も上がっており、クリーンナップの一角を担うこともある。
通常、野球選手は一つのバッティングフォームを徹底的に追求するが、青木の場合は複数のバッティングフォームを使い分ける。理由としては「もし打てない時期が続いてもフォームを切り替えることで不振の時期を短くすることが出来るから」とのこと。また青木のバッティング理論は下半身に重点を置いており、力の入るポジションを探していたら自然と低く構えるようになっていった。できるだけコンパクトに回転するように心掛けコマをイメージしている。
打撃だけでなく、俊足を生かした守備範囲の広い中堅守備にも定評がある。2006年、2007年と2年連続で300刺殺以上でセ・リーグトップの刺殺数を記録し、ゴールデングラブ賞にも選出されている。また積極的にボールを追いかけるせいでの失策をすることもかつてはあったが、現在では失策も減り、2008年は守備率.996でセリーグ1位を記録している。肩は特段強いというわけではないが、送球は正確である。
「複数ポジションをこなせるように」との、古田敦也選手兼任監督(当時)の方針で、外野のほかに二塁守備も経験済みである。2006年に1試合だけ公式戦で守ったこともある。

エピソード

プレー関連
大学時代には2番打者だったが当時、東京六大学リーグ三冠王の鳥谷敬が次の3番を打っていたため、自然と出塁するバッティングになり、三遊間へ転がしての内野安打が増えていった。
バッティング練習ではコーチの奨めからヘッドの重い長距離打者用のバットを小野公誠から借り、重さからヘッドが遅れてくる感触を感じ取り、それを自分のバットの時に生かす練習をしていた。これにより遠心力を使ってボールをうまく打てるようになった。
2005年開幕時はバットを立てて構えていたが、イチローを参考にしてバットを寝かしたフォームに変更した。以後快進撃を続け、200本安打を達成した。
2006年のオールスター第1戦目でMVPを獲得した際は、松坂大輔から先頭打者安打、二盗成功のあと三盗失敗、平凡なライトフライを落球、吉井理人からホームランを打つなど、積極的なプレーで観客を盛り上げた。
2009年のWBCの終了後には韓国代表の投手陣からは「勝負したくない打者」と言われている。

その他
大学の卒業論文のテーマは「盗塁」だった。
2006年1月1日に放送されたスポーツマンNo.1決定戦の「ショットガン・タッチ」で世界新記録となる13m60cmを記録。パワーフォースでもNo.1を獲得し、総合3位に輝いた。
2009年3月26日に、WBCの活躍により、東国原英夫宮崎県知事から宮崎県民栄誉賞を授賞。
2009年11月5日に三角骨を摘出するために両足首の手術を受けた。
2009年11月10日に、テレビ東京の大竹佐知アナウンサーとの入籍を発表。挙式日は未定。

タイトル
首位打者:2回(2005年、2007年)
最多安打:2回(2005年、2006年)
盗塁王:1回(2006年)
最高出塁率:2回(2007年、2009年)
新人王(2005年)
ベストナイン:4回(2005年 - 2008年)
ゴールデングラブ賞:4回(2006 - 2009年)
日向市民栄誉賞第1号(2008年)※黒木知宏と同時受賞

表彰
セ・リーグ会長特別賞:1回(2005年)
月間MVP:2回(2005年8月、2007年3・4月)
オールスターゲームMVP:2回(2006年第1戦、2009年第1戦)
優秀JCB・MEP賞:1回(2005年)
WBCベストナイン:1回(2009年)

個人記録
初出場:2004年7月17日、対読売ジャイアンツ15回戦(東京ドーム)、8回表に石井弘寿の代打として出場、中村隼人の前に遊撃ゴロ
初先発出場:2004年10月6日、対阪神タイガース戦(明治神宮野球場)、1番・中堅手として先発出場
初安打・初盗塁:同上、8回裏に中前安打・二盗(投手:安藤優也・捕手:矢野輝弘)
初打点:2005年4月5日、対中日ドラゴンズ2回戦(明治神宮野球場)、5回裏に朝倉健太から適時二塁打
初本塁打:2005年4月6日、対中日ドラゴンズ1回戦(明治神宮野球場)、1回裏に落合英二から中越ソロ
初満塁本塁打:2006年5月9日、対西武ライオンズ1回戦(明治神宮野球場)、2回裏にアレックス・グラマンから左翼席へ

背番号
23 (2004年 - )



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