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2000年09月03日 の記事一覧

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松中信彦

松中 信彦(まつなか のぶひこ、1973年12月26日 - )
福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(外野手)。現役選手唯一の打撃三冠王経験者。
妻はフリーアナウンサーの林恵子。



経歴

アマチュア時代
熊本県八代市で建設会社・松中土建(優勝時の祝勝会に於いて松中をはじめ選手数人がこの会社のヘルメットを被る)を営む家庭に生まれる。兄弟は兄と弟が一人ずついる。八代一高を経て新日鐵君津に入社。

1996年にはアトランタオリンピック野球日本代表に選出され、銀メダル獲得に貢献。敗れはしたものの、決勝のキューバ戦では同点満塁ホームランを放つなど、一躍注目を浴びた。

プロ入り
五輪出場後、1996年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)においてドラフト2位(逆指名)で福岡ダイエーホークスに入団。この間に同郷のヒーローである秋山幸二の薫陶を受け、自主トレに同行するようになる。入団当時はいわゆる金属バットの弊害に苦しんだものの、2年目の1998年には二軍の本塁打王を獲得。

1999年、ルイス・ロペスの退団に伴い一塁手のレギュラーになる。主に7番打者としての出場ながら、4番の小久保裕紀に次ぐ23本塁打を放つなど、福岡ダイエーホークス初のリーグ制覇、日本一に貢献。

2000年、背番号を26から3に変更し、正式に内野手転向。開幕は7番で迎えたが、打撃好調で、小久保の後を打つ5番に定着。自身初の3割、30本塁打、100打点を記録しリーグV2に貢献。シーズンMVPに輝く。日本シリーズでは、前年までチームメートだった工藤公康から本塁打を放つものの、全6戦でこの1安打に終わり、連続日本一を逃した。この年のオフにタレント水島新太郎の仲立ちで交際を始めたフリーアナウンサーの林恵子と結婚した。

2001年、打率.334、36本塁打、122打点と打撃3部門全てで自己最高の成績を記録。この年は松中に加え小久保が44本、城島健司が31本、井口資仁が30本放ち、パ・リーグ史上初の30本カルテットを達成(日本人打者のみの30本カルテットはプロ野球史上初)し、チーム本塁打も203本とチーム記録を更新。

2002年、新ストライクゾーンの影響もあり、打撃不振でレギュラー定着後最低の打率.260に終わった。

2003年、小久保の長期離脱に伴い4番に固定される。史上最高のチーム打率.297、史上初の100打点カルテットなどを記録したダイハード打線を牽引し、2年振りの3割、30本、100打点を記録。シーズン最終戦で城島を逆転し、自己最多の123打点で初の打撃タイトルとなる打点王を獲得。

2004年、レギュラーシーズンで三冠王を達成(本塁打は当時北海道日本ハムのフェルナンド・セギノールと同数)。ベストナイン、ゴールデングラブ賞、MVPに選出された。しかし、同年より導入されたプレーオフ制度により行われたプレーオフ第2ステージでは5試合でわずか2安打に終わり、チームもレギュラーシーズン1位ながらリーグ優勝を逃した。試合終了直後、急性肝炎と診断され入院した。

2005年、ひざなどに不安を抱えることもあり指名打者として打撃に専念。2年連続の本塁打王、3年連続の打点王を獲得。史上初の3年連続120打点を記録。46本塁打で福岡ドームを本拠地にして以降のホークス最多本塁打記録を更新。しかしプレーオフでは1安打と不振で、またもチームはリーグ優勝を逃した。

2006年1月には福岡ソフトバンクと日本プロ野球史上最長の複数年契約となる7年契約を結んだ。この7年間契約は大怪我や極度の不振に陥って年俸に見合う活躍ができなくなった場合を考慮されており、10項目以上にも及ぶ出来高契約が存在し、5年目以降の契約解除権や野球協約に定められた40%を超える最大50%ダウン提示権なども契約には盛り込まれているが、全ての出来高契約をクリアする活躍を続けた場合は7年間で総額45億円となっている。

2006年のワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出され、4番を任される。「長打は捨てる」と発言した通り本塁打はなかったものの、全試合にスタメン出場、.433の高打率で日本チームの優勝に貢献。シーズンでは、交流戦以降外野手(主にレフト)としても出場。2年ぶりの首位打者を獲得したものの、本塁打、打点は前年と比較して激減した。これは、城島が抜けたことにより、シーズンで102もの四球を記録するなど勝負を避けられる傾向にあったためである。プレーオフでは自身は18打数7安打7打点と活躍したが、第2ステージで北海道日本ハムに敗退した。4年連続5度目のベストナインに外野手として選出。一塁手で3回、指名打者で1回同賞を受賞しており、異なる3ポジションでの受賞は真弓明信、落合博満以来3人目。

2007年、トレード移籍の多村仁、FAでチームに復帰した小久保とのクリーンナップ「TMK砲」が話題となったが、5月以降は3人共怪我や不振に喘いだ。自身も打率.266、15本塁打、68打点と規定打席に到達した年では自己最悪の成績に終わった。

2008年、シーズン序盤は不振に喘ぐも徐々に調子を上げ、自身3年ぶりとなる20本塁打越え、8月29日には通算300本塁打を達成。しかし小久保が骨折で離脱するなど他球団からのマークが松中に集中し、終盤は成績を落とした。シーズン最終戦となった10月7日の楽天戦では、延長12回表1死一塁、二塁の場面で打席が回るも併殺打に倒れ、王ホークス最後の打者となった。その裏馬原孝浩が打たれサヨナラ負けを喫し、チームは12年振りの最下位に終わった。

2009年、指名打者よりレフトを守っている時の方が打率がいいと言う理由から外野手登録となった。開幕戦では3安打5打点の活躍を見せ通算1000打点(史上34人目)を達成。4月21日には通算100死球(史上11人目)、5月6日の対オリックス戦で通算1500安打(史上100人目)を達成と、前半戦は記録ラッシュとなった。7月25日のオールスター第2戦では2本塁打を放ちMVPを受賞。中盤以降は肘・膝の状態が悪化したが、チームの優勝争いのため打撃も走塁も満足にできないような状態を押して出場を続けた。チームは終盤勢いを失い3位に終わり、松中はクライマックスシリーズ出場を断念し治療に専念することとなった。

プレースタイル

打撃
パワーのあるホームランバッターである。2001年6月2日の福岡ドームでの西武戦では松坂大輔の145キロのストレートを打った際、バットのグリップ部分が折れたにも拘らず左手1本でバックスクリーン横へ推定130mのホームランとした。

また、ホームランバッターでありながら三振が少なく、シーズン100三振したことはない。特に2006年は37個と自己最少だった。

内角を捌くのが非常にうまく、引っ張った時の打球が右方向へのファウルになりにくい。松中曰く「打点をバットの芯より若干根元部分にずらして打つこと(で体があまり開かない)。芯で打つと打点と体の距離が長くなり、その分体が開く」とのこと。中居正広のインタビューを受けた際には体から30cmほどの距離に柱を立てた状態でそれに全く触れることなくフルスイングをして見せた。

守備
守備が不得意であり、肩も強くはない。しかし、三冠王を獲得した2004年にはゴールデングラブ賞を獲得した。外野守備でも守備範囲は狭いが、正確な送球が出来、補殺をマークした事もある。

肩や肘などに不安があることもあり守備に対するこだわりはない。DHとして起用されていてもベンチ内ではイスに座らずナインと共に守備についている自分を想像してリズムを保つようにしているという。

人物
先輩である小久保や秋山幸二の影響で、非常に練習熱心なことで知られており、松田宣浩ら後輩選手も帯同させて指導する自主トレは「松中塾」、「松中道場」と呼ばれている。野球解説者の島田誠や若田部健一は「練習は裏切らないということは、松中を見れば実証できる」と語り、王貞治元監督は「ホークスの良い伝統を作っている」と評価している。

さらに、初心を忘れないために新日鐵君津在籍時に購入した中古の軽自動車「松っちゃん号(ホンダ・トゥデイ)」をプロ入り後も実家に残し、帰省した際には乗っているという[1]。

また、責任感が強く情に厚いタイプであり、2003年オフに無償トレードで尊敬する小久保が移籍した際には怒りを露にした。また、2006年7月5日、王監督の入院が発表された際や、2008年9月王貞治監督が退任を表明し「君にばかり負担をかけて苦しい思いをさせ、申し訳なかった」と言葉をかけられた際には涙する姿を見せた。

2005年の契約更改の席では「あまり二軍の居心地がいいと、それに安心して若手が出てこなくなる」と、若手の台頭を期し二軍施設の見直しを訴え、2007年にはFA権を取得したが「自分はホークスでユニフォームを脱ぐつもりなので、関係ない」という旨の発言をし、チームを尊重する姿勢を見せた。

音楽鑑賞ほか多趣味である。音楽は特に長年出囃子に採用しているEXILEのファンであり、ライブにもたびたび訪れている。 2002年、日本で初めて自身の応援歌を出囃子として流した。相撲観戦も好み2007年九州場所中日の大相撲中継にはゲスト出演した。競馬ファンでもあり、2007年の有馬記念の3連単を見事的中させた。払戻金は800,880円だった。

2009年1月には出身地の熊本県八代市に私財1億2000万円を投じて「松中信彦スポーツミュージアム」を開設した。館内には松中の幼少期から現在までの写真やユニホーム、バット、グラブなどが展示されている。

背番号
26(1997年 - 1999年)
3(2000年 - )

タイトル・表彰
パ・リーグMVP:2回(2000年、2004年)
三冠王:1回(2004年)
首位打者:2回(2004年、2006年)
本塁打王:2回(2004年、2005年)
打点王:3回(2003年 - 2005年)
最多安打:1回(2004年)
最高出塁率:3回(2004年 - 2006年)
ベストナイン 5回(2000年、2003年 - 2006年)
ゴールデングラブ賞:1回(2004年)
月間MVP:6回(2001年9月、2003年8月、2004年5月、2005年7月・9月、2006年6月)
オールスターゲーム出場:9回(1999年 - 2001年、2003年 - 2005年、2007年 - 2009年)※2006年にも監督推薦で選出されているが、負傷のため欠場。
熊本県スポーツ優秀大賞特別賞(2006年)

個人記録

初記録
初出場・初先発出場:1997年5月31日、対西武ライオンズ9回戦(福岡ドーム)
7番・一塁手として先発出場
初安打・初打点:同上、4回裏に石井丈裕から
初本塁打:1998年9月5日、対西武ライオンズ22回戦(福岡ドーム)
3回裏に西口文也から
初盗塁:1998年9月13日、対近鉄バファローズ27回戦(福岡ドーム)、3回裏に二盗

節目の記録
100本塁打:2002年5月3日、対日本ハムファイターズ6回戦(東京ドーム)
5回表に正田樹から右中間ソロ ※史上219人目
150本塁打:2003年9月27日、対オリックス・ブルーウェーブ27回戦(Yahoo!BBスタジアム)
5回表に窪田淳からソロ ※史上128人目
200本塁打:2005年4月17日、対千葉ロッテマリーンズ6回戦(福岡Yahoo!Japanドーム)
9回裏に渡辺俊介から ※史上82人目
1000本安打:2005年7月30日、対千葉ロッテマリーンズ12回戦(福岡Yahoo!Japanドーム)
6回裏にダン・セラフィニから適時二塁打 ※史上235人目
1000試合:2006年4月28日、対北海道日本ハムファイターズ6回戦(札幌ドーム)
4番・指名打者として先発出場 ※史上410人目
250本塁打:2006年5月6日、対西武ライオンズ7回戦(インボイスSEIBUドーム)
8回表に山岸穣から ※史上48人目
300本塁打:2008年8月29日、対埼玉西武ライオンズ20回戦(福岡Yahoo!Japanドーム)
3回裏に涌井秀章から ※史上34人目
1500本安打:2009年5月6日、対オリックス・バファローズ6回戦(京セラドーム大阪)
6回表に山本省吾から中前安打 ※史上100人目
300二塁打:2009年8月6日、対千葉ロッテマリーンズ15回戦(福岡Yahoo!Japanドーム)
1回裏に成瀬善久から ※史上52人目

その他の記録
3年連続120打点(2003年 - 2005年) ※日本記録。
シーズン7部門(打率、本塁打、打点、安打、出塁率、得点、塁打)トップ(2004年) ※史上2人目。
2003年にマークした118得点、2004年にマークした342塁打、82長打はホークスにおける年間最多記録。また、通算打率は球団歴代1位である。

出囃子(テーマソング)
全てEXILEの楽曲
「Fly Away」(2005年 - )
「YES!」(2006年)
「Lovers Again」(2007年開幕 - 6月まで)
「Everything」(2007年7月 - 9月まで)
「時の描片〜トキノカケラ〜」(2007年10月5日)
「Pure」(2008年)
「Dream Catcher」(2009年)
「FIREWORKS」(2009年8月)
ホークスの選手にテーマソングが導入された2005年から使用している「Fly Away」に加え、2006年は「YES!」、2007年からは「Everything」、「時の描片〜トキノカケラ〜」、2008年は「Pure」、2009年は自身の公式サイトでのファン投票で選ばれた「Dream Catcher」を使用している。第一打席時を除き基本的に奇数打席時は「Dream Catcher」、偶数打席時は「Fly Away」となるが、チャンスの際はイニングに関係なく「Fly Away」が流れるようになっている。8月のみ期間限定で「FIREWORKS」を使用。
2008年はMAIの「絆」を第一打席時のみ使用していた。

その他
高校時代に左肩を痛めたことが原因で一時期右投げに転向していたことがある(新日鐵君津在籍時に手術で完治させた後は左投げに戻った)。左打ちであるが、ゴルフは右で打っている。
まだ二軍にいた頃に、NHKのドキュメンタリー番組に取り上げられたことがある。同期入団の井口忠仁、柴原洋らが一軍で活躍する様子を見て思い悩む様子などが放送された。
福岡ダイエーのユニフォームは背番号に丸数字をつけていたが、2001年シーズン序盤、一人だけ角数字の背番号をつけたユニフォームで出場していた。すぐ丸数字に戻されたが、事情は不明。




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