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2000年12月17日 の記事一覧

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吉田 義男

吉田 義男(よしだ よしお、1933年7月26日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手(内野手)。

現役時代は阪神タイガースでプレーし、引退後は3度にわたって阪神の監督を務めた。2008年現在、阪神の監督を3度経験した唯一の人物である。監督退任後は野球解説者およびプロ野球マスターズリーグ・大阪ロマンズの監督を務める。

ニックネームは「よっさん」。フランスのナショナルチーム監督を務めてからは「ムッシュ」とも呼ばれる。甥の谷真一も近鉄バファローズの元プロ野球選手。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 アマチュア時代
1.2 プロ入り後
1.3 現役引退後
1.4 監督時代
1.4.1 第1期
1.4.2 第2期
1.4.3 第3期
1.5 監督退任後
2 プレースタイル
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 監督としてのチーム成績
3.3 背番号
3.4 タイトル・表彰
4 著書
5 現在の出演番組
6 脚注
7 関連項目


経歴 [編集]
アマチュア時代 [編集]
旧制京都市立第二商業学校(京都二商)在学中、名古屋金鯱軍監督だった岡田源三郎や、阪急ブレーブスの浜崎真二監督にその才能を認められるなど、プロから注目されていた。戦後の学制改革による京都二商の廃校に伴い新制府立山城高校に編入学。浜村淳・山城新伍・釜本邦茂・毎日放送アナウンサーの野村啓司は高校の後輩である。高校2年の夏の甲子園に出場するも、初戦で北海高等学校に敗退。高校3年の夏の甲子園の府予選では決勝で平安高等学校に敗退。立命館大学に進学するが、1953年に中退し、阪神タイガースに入団。大学時代の同級生には俳優の長門裕之がいるが長門も中退している。

阪神入団の経緯は、阪神スカウト・青木一三からの歓誘で、殺し文句は「藤村富美男さんが『君なら絶対プロでやっていける』と言っている」というものだった。しかしこの話は青木の創作で、藤村はおろか阪神の他の選手の誰も吉田のことは知らなかった[1]。

プロ入り後 [編集]
阪神では俊足巧打・好守の遊撃手として1年目から16年間不動のレギュラーとしてプレー。1964年には生涯唯一の打率3割 (.318) を記録し、投高打低であった当時では奇跡と言われる179打席連続無三振を達成するなど、チームのリーグ優勝に大きく貢献。これは1975年に小川亨に更新されるまでプロ野球記録であった(セ・リーグ記録としては1978年に藤田平によって更新されるまで存続)。

1969年はコーチを兼任し、後継の遊撃手・藤田平の台頭を見届け、同年をもって現役を引退し、コーチも退任。球団にも残らなかった。これについて吉田は、秋季キャンプで戸沢球団社長から村山実の監督就任を告げられた際に「村山に協力してほしい」と要請されたが、後日球団事務所で戸沢から引退を勧告されたと記している[2]。この際、球団を二分するほどの村山との確執がささやかれた。 現役時代の背番号「23」は吉田の引退後につけた選手は一人もなく、のち1987年には阪神の永久欠番となった。

現役引退後 [編集]
現役引退後、フジテレビ・関西テレビで野球解説者(1970年~1984年。ただし阪神監督であった1975年~1977年を除く)として1984年まで出演。また、当時フジテレビアナウンサーだった岩佐徹とはその後も親交が深く、何度も野球中継で解説者・実況の間柄で共演を果たしている。

2度目のフジテレビ・関西テレビ解説者時代の1978年~1984年はプロ野球ニュースの解説を担当していた。

監督時代 [編集]
1975年~1977年、1985年~1987年、1997年から1998年の3期にわたり阪神の監督を務めた。

第1期 [編集]
最初の監督は金田正泰の後を受ける形で就任し、監督としては異例ともいえる背番号1番をつけた(メジャーリーグのビリー・マーチンにならったもの)。最初の年はライバル巨人が低迷する中、初めて本塁打王を獲得した田淵幸一らの活躍によりシーズン後半まで広島・中日と優勝を争ったが9月に脱落して3位に終わる。就任時に「走るチームにします」という抱負を語ったが、終わってみると2リーグ分裂後では当時最低となる31盗塁という皮肉な一面もあった。シーズン終了後、南海との間で江夏豊の放出を含む大型トレードを敢行した。

吉田によると、監督就任時に球団はすでに江夏をトレードに出す方針を固めていたが、吉田は再生を期して「結果が出なければトレードを覚悟してほしい」と本人に言い含めた上で残留させた。しかしそのシーズンの成績がふるわなかったことからトレードが決まり、その際に「人事の話はフロントから言う方がいい」という長田球団社長の意向に従って吉田は「トレードのことは知らない」と言い続け、本人に直接伝えることはなかった。この点に関して、吉田は「江夏に申し訳ないことをした。自ら伝えるべきだった」と記している。

吉田は攻撃力を重視する方針を取り、マイク・ラインバックとハル・ブリーデンの2人の外国人選手を獲得した。これに急成長した掛布雅之が加わり、1976年のシーズンはチームで193本塁打の当時のプロ野球記録を作る。一方、江夏が抜けた投手陣は交換で獲得した江本孟紀を先発に据えるとともに、山本和行と安仁屋宗八の2人を「ダブルストッパー」として抑えに起用した。これらの戦力により、終盤まで巨人と激しい優勝争いを展開し、勝率6割を超えながら最後に2ゲーム差で力尽きた。守備で衰えの見えた田淵への対応を巡ってヘッドコーチの辻佳紀と対立し、辻はオフに退団した。3年目の1977年は田淵の不調や投手力の不足から勝率5割を切る4位に低迷し、監督を退任した。

第2期 [編集]
1985年、2度目の監督に就任。当初阪神が就任を依頼して固辞された西本幸雄と解説者として親交があり、野球観が共通しているというのが球団側の説明した理由であった。吉田は著書で西本からの推薦があったとしている。吉田はチームの潜在力は認めたが、今すぐに優勝争いができるとは考えておらず、初年度は基盤固めを目指す方針であった。

ところがチームは三冠王を獲得したランディ・バースを筆頭に4月から猛打を炸裂させて勝ち進み、21年ぶりの優勝という声が6月頃にはファンやマスコミの間で聞かれるようになる。吉田はそうした状況でも試合後のインタビューで「チーム一丸となって、チャレンジャー精神で戦うだけ」と言い続け、「チーム一丸」「チャレンジャー精神」はファンの間でちょっとした流行語になった。しかし、なかなか「優勝」の2文字を口にしないことに川藤幸三が苦言を呈し、選手に対しては8月下旬になってようやく「優勝しよう」と語ったという。

シーズン終盤、優勝のプレッシャーがないかと聞かれて「ほとんどの選手は経験したことないからわからんのと違いますか」ととぼけたこともあった。また優勝マジックが1となった際には報道陣からの「これで王手ですね」「いよいよリーチですよ」との問いに対し「王手とリーチはどう違いますんかな?」と答えて笑わせていた。「阪神フィーバー」が社会現象と言われる盛り上がりの中、10月16日にリーグ優勝、日本シリーズでも西武を退けて、阪神は初の日本一に輝いた。リーグ優勝と日本一のインタビューにおいては「ファンの方々の声援が我々を奮い立たせてくれた」というコメントを連発した。

セ・リーグ新記録となる219本塁打などの猛打が注目される中、犠打も当時のセ・リーグ新記録、完投能力を持つ選手の少ない投手陣は細かな継投を駆使するなど、このシーズンは豪快さと手堅さを併せ持った采配であった。シーズン終了後に、阪神を優勝に導いた功績により正力松太郎賞を受賞している。

この年21年ぶりにリーグ優勝したことで、当時の久万俊二郎オーナーからは「吉田が自分から辞任しない限り永久に監督をやってほしい」と言われた。このことから、吉田は麻雀では「久万」をもじって”「九万(チューマン)」だけは絶対に切らない”と言われた。

翌1986年は掛布がケガで戦線を離脱する中、バースが前年に続いて三冠王の活躍を見せ、チームは夏頃まで巨人・広島と首位を争ったが脱落して3位に終わる。投手起用を巡ってコーチの米田哲也と対立し、シーズン後に米田は退団した。前回監督時の経験から吉田は解説者仲間からコーチを起用し、「一蓮托生内閣」と称したが、再びコーチが途中で交代することとなった。1987年は2年前の優勝が嘘のような低迷にあえぎ、バースが雑誌のインタビューで監督批判を行う、打撃コーチ補佐の竹之内雅史が吉田と采配などで対立し退団するなど、チームの雰囲気は悪化した。

またマスコミとも険悪になり、試合終了後ロッカールームから出てきた吉田に向けたカメラのフラッシュに嫌気がさし、「傘(を)差したろか?」とつぶやいたコメントが翌日のスポーツ紙には「傘(で)刺したろか?」と歪曲されて報道され、激怒した吉田はしばらくマスコミ不信に陥った。シーズン終了後に退任。後任の村山の就任に当たって「祝」という見出しを付けた在阪のスポーツ紙もあったほどで、21年ぶりに優勝に導いた監督という功績は十分に顧みられない状況であった。

ただし、球団は退任にあたり吉田の現役時代の背番号を永久欠番に指定している。吉田は後に、初年度の優勝の影で本来の目的であった基盤作りができなかったことを指摘している。吉田は退任後「天国(優勝)と地獄(最下位)を体験した」として、「一蓮托生内閣」のコーチたちと「天地会」という親睦会を作った。現在はこの2つのシーズンを経験した他の阪神OBも加わっている。

第3期 [編集]
退任から10年を経て、3度目の監督に就任。チームの戦力補強は思うに任せず、「(ユニホームの)縦縞を横縞に変えても」とFAでの獲得を目指した清原和博には断られ、3億円以上の年俸で獲得したマイク・グリーンウェルは5月に退団・帰国してしまった。それでも1997年は何とか3年連続の最下位は免れた。

翌1998年、寅年にちなんで「阪神が優勝した」という仮定の上での優勝会見が、エイプリルフールの4月1日に日本外国特派員協会で開催された。壇上に置かれたコップの中身が水ではなく酒であるなど、あくまでギャグの会見で、吉田自身も「皆様1年間、応援ありがとうございました。こんなに嬉しいことはないです」「優勝したと言えと裏で言われるんですけれども、心が小さい私には、大変難しいんでございますが」「身に余る祝辞を賜りまして、穴があったら入りたい」などとジョークを飛ばし、外国人記者はもちろん日本人にも大受けであったが、その甲斐もなく同年チームは最下位に終わり、退任した。

第3期の2年はどちらのシーズンも優勝決定戦の相手となる(1997年はヤクルト、1998年は横浜の優勝を目の前で見る屈辱を味わった)。これらの試合は全国ネットで中継され、1997年は16対1の大差をつけられるなど「弱い阪神」を多くの人に印象づける結果になった。そんな中で、人材補強の面では在任中に今岡誠・関本健太郎・濱中治・坪井智哉・井川慶らを獲得し、今岡と坪井は吉田の監督時代にレギュラーに定着、他の選手も退任後に一軍選手として優勝に貢献した。

監督退任後 [編集]
第3期監督退任後からは現在に至るまでABCの野球解説者と日刊スポーツの客員評論家を務める。

1989年から1995年までの7年間、フランスで野球を教え、ナショナルチームの監督も務めた。かつてはハングリー精神をむき出しにするなど頑固な性格で知られたが、フランスから帰国後は監督賞を奮発したり、ユーモアのある発言をするなど温厚な性格として知られるようになり、解説者としてテレビ・ラジオに出演の際も天然ボケキャラのユーモラスな語り口や饒舌さが人気となって、『人気者でいこう!』などのテレビ番組でタレントとしても活動。「芸能人格付けチェック」に強く、「一流芸能人」の座を2回獲得して一流芸能人殿堂入りを果たした。

1989年から1996年まで野球フランス代表の監督を務めた。

1992年、野球殿堂入り。

2001年から始まったプロ野球マスターズリーグで大阪ロマンズの監督を務めていたが、2007年限りで他のチームの監督とともに勇退。

プレースタイル [編集]
華麗で俊敏な遊撃守備は、「捕るが早いか投げるが早いか」「蝶が舞い蜂が刺す」「史上最高の遊撃手」などありとあらゆる賞賛をうけ、その身のこなしから「今牛若丸」と呼ばれた。その守備力は、17年間の現役生活で15度のリーグ最多守備機会を記録し、1試合15守備機会、シーズン94併殺など数々のリーグ記録、日本記録を更新した。

ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)設立以前の当時は、遊撃手や捕手についてはベストナインがゴールデングラブ賞の代わりとなっていたが、吉田は9度も受賞している。三塁の三宅秀史、二塁の鎌田実と組んだ内野守備は史上最強と言われた。

「名手吉田」と呼ばれる陰には人知れぬ精進があった。入団当初、しばらくはグローブとボールとをいつも手元に置いていた。食事の合間にも、グローブからボールを離す動作を止めなかった。右手の指の感覚でボールの縫い目を瞬時に探す練習であった。こうして、プレー中も捕球からスローイングの敏捷な動作が生まれたのである。その捕球から送球への俊敏な動作は敵打者はおろか味方の一塁手すらついていけなくなりそうになることがあり、一塁を守っていた遠井吾郎に「もう少しゆっくりほうって下さい」と頼まれたこともあるという。しかし、それは猛練習によって身についた動きのリズムを逆に崩すことになるため、いくらチームメートのお願いでも譲るわけにはいかなかったため、走者がいないのにわざわざ二塁へ送球して鎌田から一塁の遠井へ送球していた。それでもぎりぎり追いつくかどうかだった。

当時監督だった松木謙治郎は、ボールをグラブにぶつける動作を繰り返したことで手首も強化され、非力だった打力の向上にも役立ったとしている。ただし、キャンプ等で相部屋となった選手は、吉田がボールをグラブに入れる「バシ」という音が四六時中繰り返されるため、閉口したという。

巨人の広岡達朗は学生時代から存在を意識した遊撃手のライバルであった。広岡は、当時は吉田の華麗な守備と常に比較されたため「甚だ迷惑した」と語っている。広岡は基本に忠実、正確確実なプレーを信条としたが、これは吉田への対抗意識も多分にあるという(文春Numberビデオ「熱闘!阪神vs巨人1200試合」)。一方、吉田は広岡について「現役時代は私のほうが上だと言ってもらえることが多かったが、監督としては足元にも及ばない」と語っている。ただし、1985年の日本シリーズでは広岡の率いる西武に勝っている。

打撃も粘り強く、三振が非常に少なく、確実に進塁打を打つ能力に長けていたため、相手投手に嫌がられ、特に金田正一は、吉田とだけは対戦したくないと常々口にしていたほどである。4度のリーグ最多犠打、通算264犠打を記録している。このうち通算犠打は引退当時はプロ野球記録であった。また、1954年に51盗塁、1956年に50盗塁で2度の盗塁王に輝いた。阪神では20世紀最後の盗塁王である。通算350盗塁は40年にわたって阪神の球団記録であったが、2008年シーズンに赤星憲広がこれに並び、2009年4月4日に吉田の記録を更新する351盗塁を記録した。

詳細情報 [編集]
年度別打撃成績 [編集]

度 球
団 試
合 打
席 打
数 得
点 安
打 二

打 三

打 本

打 塁
打 打
点 盗
塁 盗

死 犠
打 犠
飛 四
球 敬
遠 死
球 三
振 併

打 打
率 出

率 長

率 O
P
S
1953 大阪
阪神 128 492 445 62 119 12 8 2 153 34 22 8 28 -- 18 -- 1 13 13 .267 .297 .344 .641
1954 119 515 432 80 118 16 3 3 149 41 51 13 31 4 46 -- 2 30 15 .273 343 .345 .688
1955 128 568 523 67 147 24 5 3 190 28 38 20 21 0 20 0 4 23 16 .281 .313 .363 .676
1956 127 547 487 65 141 20 7 8 199 34 50 22 11 2 46 4 1 19 4 .290 .351 .409 .759
1957 111 465 421 60 125 13 5 8 172 32 25 13 3 2 36 6 3 19 5 .297 .355 .409 .764
1958 127 517 455 59 130 17 5 2 163 27 18 10 27 1 32 1 2 13 8 .286 .335 .358 .693
1959 130 522 467 60 127 18 8 5 176 32 13 7 21 1 29 0 4 20 5 .272 .319 .377 .696
1960 126 528 458 60 114 21 9 5 168 24 20 7 22 1 43 3 4 23 11 .249 .318 .367 .685
1961 115 465 412 44 94 13 5 5 132 22 18 5 9 2 39 1 3 20 10 .228 .298 .320 .619
1962 127 527 482 52 126 25 2 3 164 22 22 10 9 1 27 2 8 22 8 .261 .311 .340 .651
1963 120 464 416 50 109 25 4 4 154 31 10 7 4 1 39 4 4 14 1 .262 .330 .370 .701
1964 123 496 434 75 138 20 2 8 186 29 23 7 13 2 36 0 11 17 5 .318 .383 .429 .812
1965 119 435 389 48 103 14 0 4 129 12 20 9 16 0 25 1 5 19 11 .265 .317 .332 .649
1966 103 378 335 39 88 10 3 2 110 20 10 9 11 2 23 1 7 16 6 .263 .322 .328 .650
1967 113 390 351 29 82 7 2 2 99 22 6 10 22 1 13 1 3 20 13 .234 .266 .282 .548
1968 114 357 318 36 73 13 2 2 96 21 3 1 14 1 20 1 4 21 9 .230 .283 .302 .585
1969 77 169 155 14 30 5 0 0 35 3 1 1 2 1 6 0 5 16 4 .194 .246 .226 .471
通算:17年 2007 7835 6980 900 1864 273 70 66 2475 434 350 159 264 20 498 25 71 325 144 .267 .321 .355 .676

各年度の太字はリーグ最高
大阪(大阪タイガース)は、1961年に阪神(阪神タイガース)に球団名を変更
監督としてのチーム成績 [編集]
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打 チーム
打率 チーム
防御率 年齢
1975年 阪神 3位 130 68 55 7 .553 6.0 128 .252 3.34 42歳
1976年 2位 130 72 45 13 .615 2.0 193 .258 3.54 43歳
1977年 4位 130 55 63 12 .466 21.5 184 .267 4.38 44歳
1985年 1位 130 74 49 7 .602 - 219 .285 4.16 52歳
1986年 3位 130 60 60 10 .500 13.5 184 .271 3.69 53歳
1987年 6位 130 41 83 6 .331 37.5 140 .242 4.36 54歳
1997年 5位 136 62 73 1 .459 21.0 103 .244 3.70 64歳
1998年 6位 135 52 83 0 .385 27.0 86 .242 3.95 65歳
通算 1051 484 511 56 .486 Aクラス4回、Bクラス4回

※1 順位の太字は日本一
※2 1975年から1996年までは130試合制
※3 1997年から2000年までは135試合制
背番号 [編集]
23 (1953年 - 1969年) ※1987年より阪神の永久欠番
1 (1975年 - 1977年) ※阪神の歴代監督の中では最も若い背番号。ニューヨーク・ヤンキースのビリー・マーチンへの憧れから
81 (1985年 - 1987年)
83 (1997年 - 1998年)
タイトル・表彰 [編集]
盗塁王:2回 (1954年、1956年)
最多安打:1回 (1955年) ※当時はタイトルではない
ベストナイン:9回 (1955年~1960年、1962年、1964年、1965年)
正力松太郎賞 (1985年)
野球殿堂入り (1992年)
オールスターゲーム出場:13回 (1954年~1966年)
オールスターゲーム最優秀選手 (1956年第2戦)
著書 [編集]
『阪神タイガース』(新潮新書、2003年 ISBN 9784106100314)
『牛若丸の履歴書』(日本経済新聞社、2009年) - 日本経済新聞連載の「私の履歴書」に加筆再構成したもの。
現在の出演番組 [編集]
スーパーベースボール
ABCフレッシュアップベースボール
脚注 [編集]
^ 日刊スポーツ「連載  我が野球人生」2007年12月11日、3頁。
^ ただし、この間の経緯については吉田の著書でも記述にぶれがあり、『阪神タイガース』では「協力」の内容は知らされず、吉田は現役として残るニュアンスで受け取ったとしているのに対し、『牛若丸の履歴書』ではコーチとして協力するよう求められ、後日球団事務所に行った際には「コーチ契約の話かと思ったら身を引けと告げられた」となっている。

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