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タフィ・ローズ

タフィ・ローズ(Karl Derrick "Tuffy" Rhodes、1968年8月21日 - )
オリックス・バファローズに所属するプロ野球選手(外野手)。
球団公式サイトでは「タフィー・ローズ」と表記されている。



人物
通算450本塁打(外国人枠選手ではローズのみ)・1500安打を放つなど、日本プロ野球界で「史上最強助っ人」との呼び声が高い。パワフルな打撃とインタビューなどでの明るいトークと親しみやすい性格などで人気がある。自身のことを「大阪人」と呼び、大阪を第二の故郷と語る。バファローズファンや関西マスコミからはミスターバファローズと称されるなど、外国人でありながら名実共にオリックス・バファローズの顔となっている。

1996年から2003年まで近鉄バファローズ(1999年から大阪近鉄バファローズ)に所属。2004年から2005年まで読売ジャイアンツに所属後自由契約。2006年、シンシナティ・レッズとマイナー契約後、成績不振から降格通告を受け、3月21日に現役引退を表明するが2007年、オリックス・バファローズ入団。

オハイオ州シンシナティ生まれ。血液型O型。シアトル・マリナーズのケン・グリフィー・ジュニアとは幼馴染で、いつも一緒に野球をプレーしていた。グリフィー家とローズ家は母親同士が古くからの友人であり、家族同士での付き合いもあったという。

略歴
1986年、ドラフト3位でヒューストン・アストロズに入団。
1990年、メジャーリーグ昇格。
1993年、シーズン途中でシカゴ・カブスに移籍。
1994年、開幕戦のニューヨーク・メッツ戦で1番として出場し、メッツのエースであるドワイト・グッデンから第1打席より3打席連続本塁打を放ちメジャーリーグで名が知れ渡る(開幕戦3本塁打は現在もメジャー記録)。
1995年、シーズン途中でボストン・レッドソックスに移籍。
1996年、近鉄に入団。シーズン3本のサヨナラ本塁打を放ち、この年チーム三冠王となる活躍を見せる。
1997年、8月にパ・リーグ新記録(当時)となる4試合連続猛打賞を記録するなど活躍し、初のベストナインを獲得した。
1999年、シーズン途中からチームが最下位に低迷する中で成績を伸ばし、40本塁打・101打点を記録して、初の本塁打王・打点王のタイトルを獲得した。
2001年、9月24日の大阪ドームでの西武ライオンズ戦で松坂大輔から本塁打を放ち、日本タイ記録となるシーズン55本塁打を達成してチームのパ・リーグ優勝に貢献。初のMVPにも選出された。日本シリーズでも第2戦で決勝3ランを放つなど活躍し、敢闘賞を受賞した。
2002年、打点王を獲得した。
2003年、51本塁打を放ち、3度目の本塁打王獲得(当時、外国人選手の受賞回数最多タイ)。また、3年連続ベストナインにも選出された。同年オフに近鉄との契約交渉が難航し(詳細は後述)、巨人に移籍した。
2004年、落合博満に次ぐ史上2人目の両リーグでの本塁打王獲得。同年途中にフリーエージェントの権利を取得し、翌シーズンから日本人扱い(郭泰源に続き2人目)。近鉄時代とは異なり、中堅手としての守備起用が主となる(近鉄時代は、守備は左翼手か右翼手が多かった)。
2005年
5月29日の試合で球審に暴言を吐いたとして通算9回目(近鉄で6回、巨人で3回)の退場処分(金田正一を抜いて最多記録)。
8月9日に右肩の故障のためであるとして出場選手登録を抹消され二軍落ち。その後、帰国し手術を行ったためシーズン中の復帰は絶望となった。
11月7日、巨人から戦力外通告を受ける。
年末頃からオリックス・バファローズとの契約へ向け本格交渉している動きがある、と報じられた。
2006年
2月16日、シンシナティ・レッズとマイナー契約する事で合意、契約に至る。しかしオープン戦では12試合で27打数6安打と奮わず、レッズからマイナーリーグ降格を通達された。
3月21日に現役引退表明。
2007年
2006年のオフにオリックス・バファローズの球団関係者に電話で「日本で野球をやりたい。手術した右肩の状態も大丈夫」と日本球界への復帰を伝えた。2007年に入り、キャンプでテストを実施する事が決定、オリックス・バファローズの入団テストが実施され、2月26日にテスト合格した。3月1日正式に入団が決定。背番号は8。理由は「近鉄で8年間プレーし、親友の中村紀洋がつけていた番号だから」(入団テスト期間中は、もし合格したなら背番号は近鉄に入団した年にちなんで96がいいと言っていた)。
4月4日の対ロッテ2回戦で小野晋吾から第4号本塁打を放ち、日本球界では歴代28人目、外国人選手では初となる通算1000打点の記録を達成した。(1325試合目での達成は落合博満、藤村富美男に次ぐ史上3位のスピード記録)
4月25日の対楽天4回戦で、山崎武司に与えた死球をめぐり乱闘となり、山崎に対し暴力行為を働いたため、通算10回目の退場処分を受け、退場最多記録を更新した。選手として在籍した3球団で退場処分を受けたのは、日本プロ野球史上初である。
5月10日の対ロッテ8回戦で、1354試合目の出場となり、ロベルト・バルボンが持っていた外国人選手の最多出場記録を更新。
5月27日の対巨人2回戦で、「全球団から本塁打」を達成。
6月13日の対巨人戦で、在籍11年連続20本塁打を達成。
6月30日の対日本ハム戦で、通算1500本安打を達成。外国人選手ではレロン・リー(通算1579本安打)に次ぎ史上2人目である。
9月2日の対ロッテ戦で通算400本塁打を達成。日本プロ野球において、外国人選手の400号は初。(1435試合で400号達成は、王貞治の1422試合についで史上2番目のスピード記録)また、39歳4ヶ月での400号到達は門田博光に次ぐ2番目の年長記録。
9月18日の対西武戦で、42号本塁打を放ち山崎武司に1本差をつけたがこの試合で左股関節を悪化させる。2004年以来の本塁打王獲得間近だったが、シーズン途中で無念の帰国となった。結局この年は43本塁打の山崎が本塁打王となった。
長打率.603は両リーグ通じてトップ、出塁率.403、四球数88個、三振数147個はパ・リーグ1位である。
2008年
4月12日の対楽天戦でレロン・リー(通算1579本安打)が持つ外国人選手通算最多安打を抜き、通算安打数が1582本になり、外国人通算安打の新記録を達成。
5月26日の対横浜戦出場し、1500試合出場記録を達成した。
8月24日の対ロッテ戦で、唐川侑己から1980年の王貞治(30本)、1988~90年の門田博光(44本・33本・31本)に次ぐ史上3人目の40代での30号本塁打を記録する。
10月1日の対ソフトバンク戦で、杉内俊哉から1988年の門田博光に次いで史上2人目となる40代での40号本塁打を達成。
打点王を獲得。1988年の門田博光(40歳)による本塁打王・打点王に続いて史上2人目の40代でのシーズンタイトルの快挙。
4年ぶり、そして所属3球団で全てとなるベストナインに選出された。
2009年
4月26日の対日本ハム戦で榊原諒から史上12人目の通算450本塁打を達成。日本プロ野球において、外国人選手の450号は初(1609試合で450号達成は、王貞治の1559試合についで史上2番目のスピード記録)。また、これによって通算224人の投手から本塁打を記録。清原和博が持つプロ野球記録を更新した。
5月13日の対西武戦で星野智樹から死球を受け、右手第五中手骨折と診断され戦線離脱を余儀なくされた。
8月4日の対楽天戦で戦線復帰を果たし、岩隈久志から先制適時打を含む3安打猛打賞を記録した。
8月7日の対ロッテ戦で通算300二塁打を達成。

エピソード
野球を始めたきっかけは、母親がしていたソフトボールに影響されてとのこと。
「タフィ」はタフ(tough)からきている。この由来に関しては、幼少時代、顔面に死球を受け鼻血を出したにもかかわらず翌日の試合では元気に試合に出場している姿を母親に「タフだ」と言われたから、同様に顔面に死球を受けたにもかかわらず試合に出続けた姿を見た監督が「タフな奴だ」と言ったからの2説が一般に流れているが、前者の母親が絡んでくる話は巨人入団後のプロフィールに記載されたものであり、それ以前の近鉄在籍時には監督絡みの話であったことから母親絡みのほうが誤りである可能性が高い。
MLB在籍時代、俊足の持ち主でもあるローズにはトップバッターとしての活躍が首脳陣から期待されていたが、ローズはホームランバッターとして試合に出たかった為に首脳陣と折り合わず、その夢を実現する為に日本に来ることを決意した。

近鉄時代
ローズはバットを上段に構えてひょこひょこ振ってタイミングを取る独特のバッティングフォームをしているが(一部の書籍では「水平打法」と記載)、実は1998年までは「バットを寝かせて構える」、1999年以降は「バットを立てて構える」、といった微妙なマイナーチェンジがなされている(2冠王となった1999年にフォームを変えたことで成績が良くなったと本人が話している)。また、上段から振り上げるそのバッティングスタイルのせいか、内角低めの膝元に来る球に非常に強かった。
凡退や審判への不満でよくヘルメットを壊していた。特に来日当初はヘルメットを壊して当たり散らすことが多く、困った用具係が苦肉の策としてシーズン中に壊したヘルメットの数をシールにし、ヘルメットに貼り付けていた。だが、ローズは当初このナンバリングの意味が分からず「どうして背番号じゃない番号が貼ってあるんだろう」と首を傾げていたという。
ヒーローインタビューでは、当時監督だった佐々木恭介の台詞「ヨッシャー!!」を絶叫していた。また、シーズン中には様々な形で日本文化に触れ、またオフの帰国中にも日本語を学ぶなど、日本に強い興味を抱いている。あるインタビューでローズは「今度生まれ変わったら日本人に、それも関西人に生まれてきたい」と語っている。
来日当初は大阪市中心部から藤井寺球場まで近鉄南大阪線を使って電車通勤していた。大型バイクに乗るのが好きで、その後バイクまたは自動車での通勤が認められ、日本のバイクメーカー川崎重工業のZZR400やVULCAN1500 クラシックツアラーなどを愛用していた。
大阪ドーム外野席には55号本塁打が着弾した(とされる)座席を「ローズシート」とし、一番近い入り口に記念プレートを設置し、ホームランボールが当たった座席は特別にローズ色(バラ色)に塗られている。
2001年、シーズン最多本塁打記録の更新に挑んだが、9月30日の福岡ダイエーホークス戦で敬遠四球を受けたこともあり、達成できなかった。この際に当時ダイエーのバッテリーコーチであった若菜嘉晴が試合前、監督不在のミーティングで「どうせあいつはアメリカに帰るんだから、俺たちが監督の記録を守ってやらないといけない」と言って敬遠を指示した。このことは、日本以上にアメリカで反響を呼んでしまい、「王貞治の記録を守ろうとする日本プロ野球の閉鎖的な姿勢」「人種差別と戦ったハンク・アーロンの記録を抜いた王自身が、人種差別をして自らの記録を貶めた」などと地元誌やニュース放送等で非難されることになってしまった。王貞治はこの試合前の練習の際に直接ローズに対して本塁打新記録達成を望む声を掛けていた。それにも拘らず試合では敬遠を止めなかったため、若菜だけではなく現場の最高責任者である王にも責任があると王を非難する声もあった。更に、ローズは1打席でも多く立てるようにと1番バッターとして出場していたが、1打席目からボール球ばかりで、業を煮やしたローズはボール球に手を出し凡退、2打席目も同様で、3打席は四球、4打席目は敬遠であり、この日ローズには2球しかストライクゾーンにボールが飛んでこなかった。ローズの1番起用にはバッテリーの敬遠を避ける意図(1回の先頭打者から敬遠することは通常ありえないため)もあった。ローズは試合前に王監督から上述のように声をかけられたにも拘らず試合では敬遠を受けたため、試合後に「日本プロ野球に失望した」という悲しみのコメントを残した。試合は4-12で敗戦。なお、事態はこれだけに留まらず、翌10月1日、当時のプロ野球コミッショナー川島廣守がフェアプレーを訴える異例のコミッショナー宣言を出し、個人記録への妨害を意図する行為の排除を強く求めた。また10月2日、パ・リーグの小池唯夫会長はダイエーに対し、ローズとの勝負を記録阻止のために意図的に避けたともとれる言動をしたとして厳重注意を行った
張本勲はこの敬遠に対して「投手だって打たれたくないのだからしょうがない。(中略)そんなに打ちたいなら2球ストライクが入っているのだからこれを打てばいい。」とサンデーモーニング内で発言している。
同年、ローズが王貞治のシーズンホームラン記録55本の記録を塗り替えようとしている時、日本テレビ系『THE・サンデー』徳光和夫が生放送中に「肌の色が違って、血液型もよくわからないような奴に王さんの記録を抜いて欲しくない」と発言した。なおローズの血液型はO型である。
大阪近鉄は同年、12年ぶりのリーグ優勝を果たしたものの、日本シリーズではヤクルトスワローズの前に敗れた。しかし同年シーズン、ローズと中村の合計本塁打数101本、打点263点は当時の日本記録。この記録はお互いのアドバイスが大きいと当時の2人は語った。また、3番ローズ、4番中村紀洋、5番礒部公一でのクリーンアップでの合計打点354点も日本記録(後にコンビ合計・クリーンアップ合計の打点は2005年阪神の金本知憲、今岡誠、アンディ・シーツが更新)。
同年オフ、川崎重工業はローズに対し、55号本塁打達成記念として排気量1500ccの大型バイク・VULCAN1500 ミーンストリークをベースにしたオリジナル仕様の「ローズバイク」を贈呈した。ローズが以前からカワサキのユーザーである事を公言していたのが縁となった。このバイクは名字のローズ(バラ=ROSE。タフィはRHODESでつづりが違う)にひっかけて色は赤を基調とし、後部には「狼主」の文字が刻まれていた(同年ファン感謝デーで本人に1台、ファンに抽選で1台プレゼントされた)。
2001年、少年サンデー超2001年11月号に「タフィ・ローズ物語」が掲載された。
2001年~2003年、ローズは西武ライオンズのアレックス・カブレラと3年続けて本塁打王争いを繰り広げることとなる。ローズは2001年、2003年と2度に渡りカブレラを上回り、本塁打王を獲得した。これによりカブレラは、「50本塁打を記録しながら本塁打王になれなかった」プロ野球史上初の選手となった(2001年ローズ55本、カブレラ49本。2002年ローズ46本、カブレラ55本。2003年ローズ51本、カブレラ50本)。終盤のホームラン争いでの西武×近鉄で、近鉄のバッテリーがカブレラと勝負をしなかった(会場はブーイング。ローズは外野で頭にグラブを乗せ、下を向いていた。)時、ベンチに帰ってから「俺に気を使っているならやめてくれ。そんな事までしてホームラン王を獲りたくない。」とチームメイトに言った。その結果、次の打席でカブレラはホームランを打った。ローズはカブレラと仲が良く、試合後に食事に行った際に「今回はカブレラがホームラン王。俺は来年頑張ればいい。フェアに勝負していきたい。」と語った。
2003年序盤戦、近鉄の主砲であるローズと中村は厳しい内角攻めを受けていた。5月21日に大阪ドームで行われた西武ライオンズ9回戦の5回裏、中村が西武二番手の青木勇人から左肘に死球を受けた。この際、青木が帽子を取って謝罪しなかったため、中村と青木がもみ合いになった。また一走だったローズも激高し、一塁からマウンドに駆け寄ると青木を激しいタックルで突き飛ばし、その場に押し倒してしまった。青木は突き飛ばされた瞬間に頸部と右足首を捻挫し途中降板、大阪市内の病院に直行した。この時、青木は投捕間にだけ目をやっていたため、左後方からローズが突っ込んでくることには全く気付かず、当然身構えてもいなかった。このように青木を“不意討ち”したローズは暴力行為で退場となったが「ノリを守るためにやった。どうして青木は帽子を取らなかったんだ? 日本の野球では球をぶつけたら、投手が帽子を取って打者に謝るのが普通じゃないか」と主張した。しかし翌日パ・リーグは2試合の出場停止処分、近鉄球団も厳重注意と30万円の罰金を課した。また、このローズの行動に対し西武は猛反発、刑事告訴検討にまで発展した。小野球団代表は「病院で診断書が出たら、暴力行為として刑事告訴する。帽子を取る取らないは別として、第三者が入ってくる理由は何もない」と語気を強め、伊原監督(当時)も「(告訴は)そりゃそうですよ。ふざけんな、なめてんのかよと。そこ(内角)を突かないと投手は生きていけない。それを関係ない人間がね。やみ討ちだから。ようローズに言っといて、日本では外道がすることだって」と怒りを表した。
ローズはこのような血気盛んな性格もあってか、日本プロ野球在籍中に課された退場処分は通算14回を記録しており、これは日本プロ野球史上最多である。またオープン戦での退場や1試合に2回退場を宣告されたという珍しい記録もある。
2003年シーズン終了後、中村の5年契約を引き合いに出して2年ないし3年の複数年契約を望んでいたが、近鉄フロントは「複数年契約を認めない」と主張した。ローズは当時「外国人差別的なフロントの言い分に失望した」「どんなに活躍しても『ガイジン』としてしか扱ってくれない」と発言し、フロント及び日本プロ野球界を非難した。外国人選手に対しての複数年契約は認めないという話は2002年にも言われたという。
梨田昌孝監督には「養子にしたいくらい」と可愛がられていた。
近鉄時代のヘッドコーチ伊勢孝夫を「日本のお父さん」と慕っており、彼がヘッドコーチからフロントへ転進した後も打撃がスランプに陥った際は指示を仰いでいた。
来日してから1999年頃までは主に中村紀、フィル・クラークらとクリーンアップを組み、年によって打順は3番~5番の間でバラバラであった。しかし2000年頃から2003年まで3番ローズ、4番中村紀で打順がほぼ固定された。2001年頃には、日本記録ペースで本塁打を量産するローズを4番に据えた方が良いのではないかという声も上がったが、ローズ自身が「俺は気楽に打てる3番のほうがいい、4番はノリに任せた」という趣旨の発言で否定した。
2003年近鉄退団が決定したシーズン終了後、愛車を知人を介してヤフーオークションに出品した。

巨人時代
2004年に巨人移籍。事故による負傷を防ぐため、通勤手段は車のみに切り替えたが、国際運転免許証の更新が切れていたことが発覚し、日本での運転は自粛。その後は主にハイヤーで通勤していた。
ヒーローインタビューは、近鉄時代は日本語での受け答え(「ヨッシャー」等)を行っていたが、巨人では誤解を招く可能性がある事から原則通訳を介したインタビューとなっていた。インタビュアーの質問を通訳を介さずに直接聞き取り自らの英語の答えを通訳に日本語に訳してもらうという一風変わった場面も見られた(後に入団した李承も同様のシーンが見られる)。また「ヨッシャー」も関東の球団に移籍したのに合わせて「ヤッタゼー」に変更するプランもあったようだが実現せず、チームメイトの阿部慎之助がインタビューなどで発する「最高でーす!」を多用するようになった(オリックス入団後もしばしば発している)。
2005年正月の報知新聞インタビュー上で「登録を狼主(ろうず)にしたい」「巨人引退後は和室を作り、バットを飾りたい」と答えており、野球人生を巨人で終える考えを持っていた。
2005年4月26日、福岡Yahoo!JAPANドームで行われたヤクルトスワローズ4回戦の9回表、アレックス・ラミレスが放った左中間への打球を追わなかったのを、当時守備・走塁コーチ兼打撃コーチ補佐の弘田澄男に「緩慢プレーだ」と指摘されると、ローズはこれに激高し、弘田に掴み掛かるなど激しい口論となった。結局試合は敗戦で5連敗。試合後もローズは怒りが収まらず、ドームから宿舎に向かう通路で報道陣からこの騒動について問われると、必死になだめる通訳を制して「どんどん(記事に)書いて」と前置きした上で「負けたのは俺のせいだと弘田さんが言った。日本で10年間やってきたけど尊敬がない。投手があれだけ打たれるのも俺のせい? ピッチャーも悪い。みんな悪い。ジャイアンツ下手くそ。ジャイアンツ大嫌い。東京に帰る」と日本語でまくし立てた。この言動は物議を醸し、後日オーナー側から罰金を徴収された。結果としてこの発言が、シーズン後の戦力外通告の遠因になったと言われている。後に、巨人でチームメイトから常に疎外されていたなどの事を暴露した。

オリックス時代
バファローズ入団を決めた際の記者会見の第一声は日本語での「タダイマ」であった。
近鉄時代から大好きだったバイクを封印。現在は怪我をしないよう大型のRVで球場まで通勤している。
自宅が同僚(当時)のランス・カーターと近かったらしく、車で通勤する際は彼を同乗させて球場まで送っていた。
近鉄時代の友人から親指大のビリケン人形をもらい、それ以降成績が上昇している(本人談)。その人形をベンチ前のフェンスに設置した小さな椅子の上に置いており、お守りとしている。このインタビューをした梨田昌孝が、「今年は50本(のホームランを)打つ。達成したらチュー(キス)する」と言い、それに対してローズは、「結構です!」と日本語で笑いながら答えていた。(2007年6月21日NHK大阪放送局「かんさいニュース1番」スポーツコーナーの特集より)
ドージマ地下センター「ドーチカエンジェルサマーフェア07」のフェア応援団長を務める。
オリックス球団の「サラリーマン応援デー」の企画発表会見に登場し、メガネをかけたスーツ姿、それに自慢だったドレッドロックスを丸刈りにして報道陣をビックリさせた(球団が作成したサラリーマン姿のローズのフィギュア人形も丸刈りだった)。
ローズの応援歌は、曲自体は近鉄時代と同じであるが、歌詞は『ローズにとって再出発』という意味で変更された。
2008年4月20日のロッテ戦より、本拠地でのスターティングオーダー発表の際、スタジアムアナウンサーの堀江良信から、「“ミスターバファローズ”タフィ・ローズ」とコールされるようになった。

その他・野球関連
大振りしてしまった際に、自分を戒めるためにバットでヘルメット(自分の頭)を叩く癖がある。
几帳面な性格で、打席に向かう前にネクストバッターズサークルの道具をきちんと並べる。この並べ方は毎打席同じ並べ方で、滑り止めのスプレーに貼付されているラベルの方向も同じ。
ほぼ一球ごとに、バッティング・グラブのマジックテープをしめなおしたり、打席の土をならしたりしている。
息子(カール・ジュニア)が来日するとバッティングの調子が上がっていた。そのため一部のファンからはずっと息子に滞在して欲しいという声が上がった(バッティングについては、夜遊びできなくなるため普段より良いコンディションで試合に望めただけという説もある)。
2009年に至るまで、年間本塁打数を30本台で終えたことが一度もない。少ない年は20本台、多い年は40本台から50本台の本塁打を打ちながら、間の30本台がないという珍記録である。
清原和博との仲が非常に良く、「ジャイアンツに移籍した時にキヨさんがセ・リーグ投手の特徴を良くアドバイスしてくれた」「(オリックス入団時)又、キヨさんと野球が出来るのが楽しみ」というコメントを残している。清原が引退した2008年には、足の故障の為クライマックスシリーズに出場しない事を明らかにした清原に対し「ベンチに座っているだけでいいから一緒に出てください」と目を腫らしながら頼んでいた。そして、清原の引退試合では40号本塁打を放った後ベンチ前で清原と抱擁を交わし、「キヨさんの最後の試合に一緒に出て、ホームランを打てたことがうれしい」とコメントしている。
サインには英語とカタカナを用いているが、カタカナの「ロ」の書き方に特徴がある。「ロ」の1画目に続けて本来の3画目を書き(英語の「L」のような書き方)、最後に2画目を書く。合計3画の「ロ」を2画で書き終えることになる。

その他・プライベート関連
長い日本での生活にも慣れ、「狼主」と漢字名の名前をサインに使ったりしている。日本語のレベルもかなり高く、漢字も読める。ローズ本人は関西暮らしが長いため、大阪弁を話す場面がよく見受けられる。チームメイトとは日本語で会話を交わし、ヒーローインタビューでもインタビュアーの言葉をほぼ理解しているので英訳は必要なく、ローズが英語で話し通訳が和訳する、というスタイルで行われている。インタビューの内容によっては、通訳を介さず、日本語で直接答える。また、近寄ってきたファンにも日本語で会話をしている。巨人移籍時、発言によるトラブルの発生を避けるため、「記者と会話する際は、基本的に通訳を介して話すように」という契約が交わされている。判定に対する文句を英語で言った際、その審判が元オリックス・ブルーウェーブで英語の通訳をしていた丹波幸一であり、ローズの発言に対して退場を宣告した。これに対して、ローズは試合後「あの審判は英語が話せるのを忘れていた」と発言していた。
焼き鳥が好物で近鉄時代は焼き鳥チェーン店によく通っていた。オリックス入団後、関西に帰ってきた事もあり再び同じ焼き鳥チェーン店に通っている。店では焼き鳥や料理に舌鼓を打ちつつ、日本語と簡単な英語を交えて店員や居合わせた客と談笑するなどリラックスしている。ローズはこの店を「野球の話題を忘れられる唯一の場所」と語っている。また、「他の外国人選手にも成功してほしい」と語っており、カブレラ(当時西武)など他の外国人選手を連れて店を訪れ、所属球団に関係なく日本野球について教えることも多い。
2000年頃まで新聞記者に「横浜のロバート・ローズと何か関係があるのか?」と尋ねられることが何度もあったそうだが、その度にローズはユニフォームの背中部分を見せ、「よく見てくれよ。俺のはROSE(バラ=ロバートの表記)じゃなくてRHODES(ロドス島)だろう?」と呆れながら答えていたらしい。なお、語源的にはrose(薔薇)とRhodes(ロードス島)は関係がある。
近鉄にスタジアムジャンパーを提供していた会社が、スタジャンと同じデザインの革ジャンをローズにプレゼントした。ローズは大喜びで受け取ったが、背ネームが「ROHDES」と書かれていたため、怒って革ジャンを投げ捨てた(フジテレビ系『プロ野球珍プレー好プレー』にて)。
SMAP出演のフジテレビ系『SMAP×SMAP』の看板コーナー「BISTRO SMAP」に出演した際、木村拓哉に「ローズさんだけに」とロースハムを出された。
長期に渡る在日年数により、近鉄時代から同じチームに所属する新外国人選手の様々な面での相談役であり、かつてのチームメイトだったジェレミー・パウエルには日本野球の攻守に於ける特長や生活に関しても相談を受けていた。パウエルの好物である焼き鳥はローズに教えられたものだとパウエル自身が発言している。
NHK大阪放送局の取材に応える前川勝彦の後ろで、何故か大仏を模した覆面を被って邪魔をしていた。

背番号
4(1990 - 1993、アストロズ)
25(1993 - 1995、カブス)
29(1995、レッドソックス)
20(1996 - 2005、近鉄・巨人)
8(2007 - 現在、オリックス)

タイトル・表彰
MVP:1回(2001年)
本塁打王:4回(1999年、2001年、2003年、2004年)
打点王:3回(1999年、2002年、2008年)
最高出塁率:1回(2007年)
ベストナイン:7回(1997年、1999年、2001年 - 2004年、2008年)
日本シリーズ敢闘賞:1回(2001年)

個人記録

初記録
初出場:1996年3月30日、対西武ライオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)
5番・左翼手として先発出場
初安打:1996年3月30日、対西武ライオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)
4回表に新谷博から
初打点:1996年4月2日、対オリックスブルーウェーブ1回戦(藤井寺球場)
1回裏に長谷川滋利から
初盗塁:同上、5回裏に二盗
初本塁打:1996年4月4日、対オリックスブルーウェーブ3回戦(藤井寺球場)
6回裏に清原雄一から

節目の記録
100本塁打:1999年7月20日、対千葉ロッテマリーンズ16回戦(大阪ドーム)
150本塁打:2001年5月13日、千葉ロッテマリーンズ9回戦(大阪ドーム)
7回裏に小野晋吾から ※史上117人目
200本塁打:2002年4月22日、対日本ハムファイターズ4回戦(東京ドーム)
1回表にカルロス・ミラバルから ※史上76人目
1000本安打:2002年8月13日、対オリックスブルーウェーブ20回戦(グリーンスタジアム神戸)
8回表にエド・ヤーナルから左前安打 ※史上210人目
250本塁打:2003年5月12日、対福岡ダイエーホークス7回戦(福岡ドーム)
5回表に山田秋親から ※史上387人目(外国人選手5人目)
1000試合:2003年6月10日、対オリックスブルーウェーブ13回戦(大阪ドーム)
3番・左翼手として先発出場 ※史上387人目
1000三振:2003年9月13日、対千葉ロッテマリーンズ25回戦(大阪ドーム)
1回裏に小林宏之から ※史上35人目
300本塁打:2004年5月2日、対広島東洋カープ5回戦(東京ドーム)
8回裏にジョン・ベイルから右越ソロ ※史上28人目(外国人選手初)
350本塁打:2005年6月14日、対東北楽天ゴールデンイーグルス4回戦(東京ドーム)
4回裏に朝井秀樹から右中間へ2ラン ※史上18人目(外国人選手初)
1000打点:2007年4月4日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(京セラドーム大阪)
9回裏に小野晋吾から右越2ランを放って達成 ※史上28人目(外国人選手初)
1500本安打:2007年6月30日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(京セラドーム大阪)
7回裏に江尻慎太郎から右前安打 ※史上91人目
3000塁打:2007年8月7日、対千葉ロッテマリーンズ16回戦(千葉マリンスタジアム)
4回裏に久保康友から左越ソロを放って達成 ※史上41人目(外国人選手初)
400本塁打:2007年9月2日、対千葉ロッテマリーンズ19回戦(千葉マリンスタジアム)
9回表に薮田安彦から中越ソロ ※史上14人目(外国人選手初)
1000得点:2008年5月21日、対阪神タイガース2回戦(スカイマークスタジアム)
4回裏に後藤光尊の右中間適時二塁打で生還して達成 ※史上34人目(外国人選手初)
1500試合:2008年5月26日、対横浜ベイスターズ2回戦(横浜スタジアム)
4番・左翼手として先発出場 ※史上158人目(外国人選手初)
1500三振:2008年6月8日、対阪神タイガース3回戦(阪神甲子園球場)
7回表に渡辺亮から ※史上6人目
450本塁打:2009年4月26日、対北海道日本ハムファイターズ5回戦(スカイマークスタジアム)
4回裏に榊原諒から右中間へソロ ※史上12人目(外国人選手初)
300二塁打:2009年8月7日、対千葉ロッテマリーンズ13回戦(京セラドーム大阪)
1回裏に渡辺俊介から左中間二塁打 ※史上53人目(外国人選手初)
3500塁打:2009年9月25日、対千葉ロッテマリーンズ22回戦(千葉マリンスタジアム)
2回表に成瀬善久から右越安打を放って達成 ※史上23人目(外国人選手初)

最多記録・最多タイ記録
シーズン本塁打プロ野球最多タイ記録:55本塁打(2001年)
シーズン個人得点パ・リーグ最多記録:137得点(2001年、プロ野球史上2位)
シーズン塁打数パ・リーグ最多記録:364塁打(2001年、プロ野球史上3位)

その他の記録
2試合連続満塁本塁打(2003年6月23日 - 6月25日、プロ野球タイ記録)
10年連続シーズン100三振以上(1996年 - 2005年、プロ野球史上初)
在籍12シーズン連続100三振以上(1996年 - 2005年、2007年 -)
なお、2008年シーズン終了現在通算1581三振である。これはプロ野球史上歴代単独4位。

登場曲
2001年、「Ms. Jackson」 アウトキャスト
2003年、「In Da Club」 50Cent
2004年、「Betta Ask Somebody」 Gユニット、「Yeah! feat. Lil' Jon & Ludacris」 アッシャー
2005年、「How We Do feat. 50Cent」 ザ・ゲーム 、「Bring Em Out」 T.I.
2007年、「You Don't Know」 エミネム、「This Is Why I'm Hot」 Mims
2008年、1打席目「Roc Boys(And the winner is)」 Jay-Z、2打席目「Got Money」 リル・ウェイン、3打席目「get money」 50Cent、4打席目「I'll stil Kill」 50Cent、5打席目「Big things popin」 T.I.

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