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前田智徳

前田 智徳(まえだ とものり、1971年6月14日 - )
広島東洋カープに所属するプロ野球選手(外野手)。


経歴
熊本県玉名郡岱明町(現・玉名市)生まれ。1987年熊本工業高校に入学。2年時の春・夏、3年時の夏の計3回甲子園に出場。3年時の夏には主将・4番・中堅手として出場し、敗れた2回戦では最終打者(結果は三振)となった。

1989年ドラフト4位で広島に入団。1990年2月のオープン戦でロッテオリオンズ戦に7番打者として先発出場し5打数5安打(4二塁打)。公式戦初出場となる6月6日のヤクルト戦では6番・中堅で先発出場し、二塁打を放つなど4打数2安打1打点。ウエスタン・リーグでは打率3割。1991年の開幕戦では1番・中堅で先発出場し、プロ入り初アーチとなる先頭打者本塁打を打つ。一時は打撃不振に陥り先発落ちも経験するが、6月以降は2番に定着する。129試合に出場し、打率.271、14盗塁、30犠打の成績で優勝に貢献した。外野手として史上最年少(19歳で開幕)ゴールデングラブ賞受賞、1994年まで4年連続で受賞する。

1992年の開幕戦から6月3日まで2番を打っていたが、それ以降は主に3番を任される。全試合に出場し打点王は逃すものの日本人選手では最多の89打点、得点圏打率.358を記録した。また初めて打率を3割台に乗せ(.308、リーグ5位)、これ以降規定打席に到達した年では1991年、2003年、2007年の3シーズン以外は打率3割以上を達成している。他に盗塁数18でリーグ4位、守備では刺殺数、補殺数ともにリーグトップを記録。外野手のベストナインに選ばれ、1994年まで3年連続で選出される。1993年も全試合に出場し本塁打27、リーグ4位の打率.317(日本人選手中ではリーグ1位)、リーグ最多二塁打、最多塁打を記録する。

1994年は開幕戦から4番に座るが、4月30日以降は3番に固定。パウエルとの首位打者争いの末3厘差の2位。また3年連続3割・150安打を達成。1995年5月23日のヤクルト戦で走塁時に右アキレス腱を断裂。1996年の開幕戦に先発出場するが肉離れにより数試合で離脱。5月に復帰してからはほぼ全試合に出場し、2年ぶりに規定打席に到達。この年から1999年まで、4年連続で打率3割以上・得点圏打率.340以上(.368、.368、.358、.343)を記録する。

1997年、怪我の影響もあり休養を挟みながらの出場であったため、最終戦の9回終了時点では規定打席にわずかに足らなかったが、延長戦に突入し打席が回ってきたため到達。1998年、足の負担を軽減するためセンターからライトへコンバートされる。9月13日のヤクルト戦で23度目の猛打賞。それまで与那嶺要が持っていたセ・リーグのシーズン最多記録を46年ぶりに更新した。また鈴木尚典と首位打者争いを繰り広げ、2厘差の.335で2位に終わるものの1993年以来となるリーグ最多二塁打、最多塁打を記録。4年ぶりにベストナインに選出される。

2000年、FAで巨人へ移籍した江藤智の穴を埋めるために4番で起用されるが、オールスター前に左アキレス腱の状態が悪化し休養。7月27日に腱鞘滑膜切除手術を受け、残りシーズンはリハビリに努める。この年FA権を取得したが行使しなかった。2001年3月に結婚するが足の状態が思わしくなく、公式戦出場は27試合にとどまる。本塁打ゼロはルーキーの1990年以来11年ぶり。2002年は開幕から先発出場し、4月5日に約2年ぶりの本塁打を放つ。4月6日の試合中、前田の走塁に不満を持ったルイス・ロペスに暴行を受ける。4月は5番、5月以降は6番打者として先発出場していたが、8月以降は5番に定着する。同年のカムバック賞を受賞。

2003年は移籍した金本知憲に代わってレフトを守る。2004年、開幕戦の4月2日から4月23日まで19試合連続安打(開幕からの連続試合安打としては球団記録。歴代では4位)。2年ぶりに打率3割に到達 (.312) する。2005年は5番ライトで全試合に先発出場し打率.319、32本塁打、自己最多の172安打を放つ。また三振率.073も自己最高。

2006年、ブラウン新監督から野手のキャプテンに指名される。開幕当初は出塁率の高さを買われて2番打者を務めるが、打撃不振に陥り半月で5番に戻る。5月25日に通算100補殺を達成(現役最多)。8月22日の阪神でライト前ヒットを放ち、史上40人目の3000塁打を達成。9月30日の巨人戦では5年連続20本塁打を達成。3年連続、通算11度目の3割(歴代5位タイ)。また規定打席に到達したシーズンの中では自己最高となる得点圏打率.373(リーグ2位)を残した。

2007年9月1日の対中日戦(広島市民球場)で、8回裏に投手久本祐一からライト前2点タイムリーヒットを放ち、史上36人目(メジャーリーグに所属している松井秀喜、イチローを含めると38人目)となる2000本安打に到達。31三振は4年連続のリーグ最少(規定打席到達者中)、三振率.075もリーグ最小。一方、怪我が相次いだこともあり最終戦で規定打席に到達。また4年ぶりに打率3割を切った。

2008年は84試合に出場して打率.270、4本塁打。後半は外野手の若手起用、守備と走力重視のチーム編成により先発から外れたが、代打では打率.372の成績を残す。10月10日に球団と会談を行い、FA権の不行使と2009年シーズンの選手専任での現役続行が決まった。

2009年はキャンプからコンディションが整わず、ブラウン監督の若手重視の起用方針もありプロ入り初の一軍試合出場ゼロに終わった。緒方孝市の引退試合では花束を渡し、涙ながらに抱擁をした。


背番号
51(1990年 - 1991年)
31(1992年 - 1993年)
1(1994年 - )

記録
初出場:1990年6月6日、対ヤクルト戦(広島市民球場・6番センター)
初安打:同上(1回・初打席・西村龍次から・タイムリー二塁打)
初打点:同上
初本塁打:1991年4月6日、対ヤクルト戦(広島市民球場・1回)
初盗塁:1990年6月21日、対ヤクルト戦(明治神宮野球場・7回・二盗)
100本塁打 1997年7月17日対中日(ナゴヤドーム・史上193人目)
150本塁打 2000年4月9日(史上112人目)
200本塁打 2004年4月9日(史上78人目)
250本塁打 2005年9月28日(史上47人目)
1000安打 1998年8月28日(史上189人目)
1500安打 2004年5月8日(史上84人目)
2000安打 2007年9月1日対中日(広島市民球場)(史上36人目)
1000試合出場 1999年7月22日(史上353人目)
1500試合出場 2004年9月10日(史上142人目)
2000試合出場 2008年10月7日
5000打数 2004年6月4日
300二塁打 2005年10月4日(史上44人目)
3000塁打 2006年8月22日(史上40人目)
1000打点 2007年8月12日(史上31人目)
シーズン打率3割以上:11回(1992年 - 1994年、1996年 - 1999年、2002年、2004年 - 2006年)※歴代5位タイ。
シーズン猛打賞:23回(1998年)※セ・リーグ歴代2位、両リーグ歴代3位タイ。
打率ベストテン入り:10回(1992年 - 1994年、1996年 - 1998年、2002年、2004年 - 2006年)※歴代8位タイ。
1試合6安打(1997年9月19日)※延長での2安打を含む
5試合連続本塁打(1998年8月6日 - 8月11日)
4試合連続本塁打:2回(2005年9月2日 - 9月7日、2006年9月3日 - 9月8日)
11試合連続得点(1998年4月25日対中日・ナゴヤドーム - 5月9日対横浜・熊本球場)
37試合連続出塁(2002年7月30日対ヤクルト・明治神宮野球場 - 9月13日対中日・広島市民球場)
月間安打数(41本・2002年8月、39本・1998年8月)
月間打点数(26打点・1998年8月)
通算満塁本塁打:6本

タイトル・表彰
ベストナイン:4回(1992年 - 1994年、1998年)
ゴールデングラブ賞:4回(1991年 - 1994年)
月間MVP:4回(1992年9月、1998年4月・8月、2000年4月)
優秀JCB・MEP賞:3回(1992年、1997年、1998年)
JA全農セ・リーグGOGO賞(好捕賞)(1994年6月)
カムバック賞:1回(2002年)
オールスター出場:7回(1993年、1994年、1996年、1998年、2005年、2007年、2008年)
オールスターMVP:1回(2005年7月23日第2戦・4打数3安打2打点)
オールスター優秀選手賞:1回(2007年7月20日・代打でオールスター初本塁打を記録)
広島県民栄誉賞(2007年9月12日)※史上7人目。広島東洋カープの選手としては山本浩二、衣笠祥雄、北別府学、野村謙二郎に次いで5人目。
玉名市民栄誉賞(2007年9月28日)※新設第1号。12月7日に授与式が行われた。

評価
プロ入り1年目のキャンプを訪れた野球関係者が前田の打撃を見て「これは将来凄い打者になる」と口を揃えた。当時広島の打撃コーチだった水谷実雄 は、一発長打の魅力を持つ江藤と卓越した打撃技術を持つ前田に英才教育を施すべく、2人を競わせる形で猛特訓を課し、揃って主軸打者に成長させた。また、当時オリックスの二軍監督をしていた福本豊は二軍戦で前田の打撃を目の当たりにし「なぜこんな選手が二軍にいるんだ」と驚愕したという。前田はほどなく一軍に昇格、プロ初出場初先発で初安打を放った。
前田は野球に対する取り組み方から「サムライ」「求道者」などと呼ばれる。落合博満、長嶋茂雄、星野仙一らは前田の野球センスについて「天才」と評価する。特に落合は「前田の打撃フォームはシンプルで無駄がない。これから野球を始める子供達がぜひ参考にすべきフォーム」などと絶賛している。だが当の前田本人は故障がちな身体になぞらえて、自らを「ガラクタ」と評している。また「天才」と呼ばれることに関しては「本当の天才だったら、4割打ってますよ。だいたい、落合さんやイチローのようにタイトルを獲った経験がありませんから」と語るなど、あまり気に入っていない。「侍」についても、自身が幾度も故障していることなどから「侍は、そう簡単に倒れるもんじゃないんですよ」と語っているが、その一方で自分の持ち物に『武士魂』と書き入れてもいる。
このように天性の野球センスを評される一方、己の技術を高めるために努力を厭わない「練習の虫」でもある。前田は現在でもチーム随一の練習量をこなしている。本拠地・広島市民球場の試合前には早出特打で汗を流すのが日課。練習をこなした後にはマッサージを受け、さらに足回りにテーピングを施して試合に臨み、試合後にも夜遅くまで入念なマッサージを受ける。さらに自宅に帰ってからも深夜遅くまで素振りを行い、時にはバットを抱えて床に就く事もあるほどである。衣笠祥雄は「今の前田があるのは練習の賜物」と評し、達川光男も「あいつは天才じゃない。研究熱心で、相手が自分をどう攻めるかを考えながら練習している」と舌を巻き、小早川毅彦も「夏場の練習で他の選手が『きつい』と悲鳴をあげても、前田だけは黙々とバットを振っている」と、野球に対する厳しい姿勢を評価している。
また前田の出身校・熊本県立熊本工業高等学校のOBで、かつて「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治も「天才肌だが、こつこつと努力する野球にひたむきな男」と後輩を評している。なお、同校関係者は前田を「歴代最高の天才打者」と評価している。
さらに彼らのみならず、多くのOB・評論家も前田のセンスや姿勢に強く共鳴している。辛辣な評論で知られる豊田泰光に対して自らの持論を堂々と述べたことで、かえって豊田の高い評価を得た。さらには当時NHKで野球解説をしていた原辰徳には「前田選手とイチロー選手の2人は、他の多くの選手とは打撃センスの次元が違う」と言わしめた。また掛布雅之は1995年の開幕前に「彼にとっては3割3分が最低ノルマ。他の打者と同じ基準で考えたらいけない」とコメントした(皮肉にも前田がアキレス腱断裂の大怪我を負ったのはこの年であった)。
現役選手の多くが前田を信奉しており、前田を目標としてプロ入りした選手も多い。イチローはプロ入り以来「いちばん会いたいのは前田さん」と話していた。 1994年にオールスターゲームに出場した際、前田との初対面を果たし、握手を交わしたイチローは満面の笑みを浮かべていた。また松井秀喜は 読売ジャイアンツ時代の1995年、「週刊ベースボール」誌上の「『男』を感じさせる選手は誰か?」という設問に、他の11球団の選手が自球団の選手の名前を挙げる中、松井は「前田さんの背中に『男』を感じます。怪我が治ったらまた同じグラウンドでプレーしたいですね」と、右アキレス腱断裂で戦線離脱した前田にエールを送り、その後も前田について「打撃が素晴らしいし凄みもある。広角に打てるし好機にも強く、いつも打ちそうな雰囲気が漂っている。日本で一番いいバッターかもしれません。」と語っている。さらに小関竜也も「憧れの選手は前田さん」と公言している。
中日ドラゴンズの監督に就任した落合博満は、現役時代「天才は俺じゃない。前田だよ」と語り、2005年の秋季練習では福留孝介、森野将彦ら左打者に対して前田の打撃を引き合いにし「真似していいのは前田だけだ。前田だけを見習え」と語っている。また、前田自身も落合に深い尊敬の念を抱いている。実際に福留も「理想のバッティングは前田さん」と公言しており、この秋季練習では前田の打撃フォームを参考にしてフォーム改造を試みた。また熊本工業高校の後輩である荒木雅博も前田を尊敬しており、同年のオールスターゲームに出場した際にはずっと付き添い、打撃論や野球哲学についてアドバイスを受けた。また前田から最も多くの安打を喫した山本昌は以前、浜松球場での試合で外角低めの難しいコースを本塁打された事があり「あのコースを引っ張ってホームランにされた事は今まで無かった。その時に天才だなと思いましたね」と振り返っている。
ただ江夏豊は以前、広島が低迷している原因の一つとして、前田が満身創痍の状態でプレーしていることを挙げ「こんな痛々しそうにプレーしている姿を見せて、何のためになるのか。パ・リーグの球団に移籍してDHとして出場した方が、彼のためにも広島のためにもなるのでは」などと辛辣なコメントを寄せたことがある。実際、前田も2004年オフ「このままではチームに迷惑が掛かる」と、パ・リーグ球団へのトレードをフロントに申し出たが、交渉がまとまらず広島に残留。しかし翌2005年には自身12年ぶりの公式戦全試合出場を達成、シーズン自己最多の 32本塁打を放ち、守ってもシーズン無失策、補殺数でも1位を記録するなど気を吐いた。
かつては中堅を守り、1991年から4年連続でゴールデングラブ賞を獲得した経験もあるが、故障以後は脚力が失われたため守備範囲も狭くなり、歴代の首脳陣も守備での負担を軽減するため中堅から右翼、さらに左翼とコンバートを行っている。それでも守備力は現在も健在で、返球の正確さには定評がある。また時にはランニングキャッチやダイビングキャッチなど果敢なプレーを披露し、球際の強さも見せている。
故障する以前の前田は打撃のみならず、走攻守を含めた全てのプレーに全力を注ぐのが信条であった。また常々「最も重要なのは、最後まで諦めない事」と語るなど、チームの勝利に貢献することを重要視している。このため現在でも体調が万全な時には、凡ゴロを打っても併殺を免れるため一塁へ全力疾走したり、時にはヘッドスライディングを見せるなど、果敢なプレーを試みることもある。
このように、前田の打撃技術は周囲から高い評価を受けている一方、彼自身が目指すレベルが異常なまでに高く、また練習などの取り組み方にしても、時には「奇行」に見えてしまうこともあるほどである。その一例として高校時代、全体練習後には夜な夜な黙々とティー打撃を続け、思うような打球が飛ばないとスパイクで土を蹴り上げたりバットを叩き付けて怒り出したり、時には頭を抱え込んで悩んだり、といった事を繰り返していた(「Title」2000年7月号・文藝春秋発行)。プロ入り後も、フリー打撃などで思うような打撃ができなかった時には何度も声を荒げたり不貞腐れたりを繰り返し、遂には水谷実雄 打撃コーチに「打撃投手が怖がって投げられないだろう」と説教を受けた事がある。また水谷の下で江藤智と共に猛特訓を受けていた頃にも、二人一緒に素振りをしていたところ、突如前田が練習早退を申し出たため理由を訊くと「江藤さんのスイングスピードの速さには、とてもかなわない。凄く悔しくて、気が抜けてしまいました」と話した事もあるという。現在でも完璧にミートした快打を放っても、その内容に納得がいかないと首を傾げたり、悔しそうに苦笑いしたりする事がしばしばあるが、これについて前田自身は「野球人として、バットマンとしてのこだわりがありますから」と語っている。またかつて「安打製造機」として名を馳せ、現役晩年には「奇人」と呼ばれたこともある榎本喜八(元東京オリオンズなど)は以前「前田には自分と共通するものがある」とコメントしている

エピソード
3年時の甲子園大会後、熊工には西武を除く11球団、前田の自宅にも8球団のスカウトが挨拶に訪れ、中でも地元九州のダイエーは上位指名を示唆するなど熱心だったが、同年11月に行われたドラフト会議では広島が4位指名する一方ダイエーからの指名はなかった。前田は会見場でテレビ中継を見た後1時間近く泣き続けた。前田は一旦プロ入りを拒否。何度訪問しても口を開かない前田に痺れを切らした宮川(村上)スカウトは「ダイエーは指名しなかったが、俺達は(指名の)約束を守ったぞ。男だったら約束を守れ」と叱責、とつとつと打撃理論を語った。前田は宮川の人間性に惹かれて広島入りを決意。同年広島が指名した6名の選手のうち、入団が決定したのは前田が最後だった。
1994年に三村敏之が監督に就任した際、前年まで3・4番だった前田と江藤の打順を入れ替えた。しかし共に不調に陥り「僕は4番というタイプではない。長打力のある江藤さんが4番を打つべきです」と三村に意見し3番に戻っている。その後2000年に達川晃豊が監督に就任した際にも4番に指名されたが、「自分は4番を打つだけの打者ではない」と固辞し金本を4番に据えるよう懇願。結局は達川の説得に折れて承諾、4月の月間MVPを獲得したもののその後は不振に陥り、後に「(4番を打つのは)気持ち的に中途半端で、あまり前向きになれなかった」と語っている。その後も歴代首脳陣から何度も要請されているものの、足に不安材料を抱えることから「4番打者は全試合出られるような人間でないとダメ」と固辞している。
マスコミの前では寡黙なことが多いため「求道者」「侍」と呼ばれる。「野球をやっている間は、本音はあまり言わないようにしている」と語っており、決勝打を放ったり好成績をマークした試合でもヒーローインタビューを受けることは少なかったが、主将に指名された2006年からは積極的にお立ち台の要請を受けるようになった。また同年オフのカープ特番やファン感謝デーでは饒舌ぶりを披露した。凝り性で執着心が強く、事ある毎に涙をこぼす。そして自他共に認める無類の照れ屋でもある。
プレー中に笑顔を見せる事は滅多にないが、2007年ガリバーオールスターゲーム第1戦(東京ドーム)の7回裏、ソフトバンク・馬原孝浩の直球をすくい上げるようにスイングし、右中間に飛び込むオールスター初本塁打を放った。一塁を回ったところで打球の着地点を見届けると拳を握り締め、さらに三塁手前で笑顔で手を叩いて小さくガッツポーズを取りホームイン。ダッグアウト前でナインと嬉しそうにハイタッチを交わした。前田は「落合さん(博満・セ監督)からは『楽しめよ』と言われていたし、ファン投票で選んでもらったからには頑張りたかった。三振だけはしないようにと思っていたが、まさか本塁打になるとは思わなかった。本当に嬉しかった」と話した。
2008年のマツダオールスターゲームにファン投票で選出された際「ありがたい気持ち。ただ、試合に出ていない選手が選ばれるのはどうかなと。元気な姿を見せたいが、元気がない」と不本意な成績からノミネートの経緯など投票システムに疑問を投げかけている。
イギリスの大手雑誌社の「Wallpaper*社」から広島の著名人特集の代表として取材を受け、2008年9月号に掲載された。
チームメイトとなった石井琢朗は彼を「生きた教科書」と呼び、キャンプ中も彼の打撃練習を熱心に見ていた。

前田語録
高校3年時の1989年夏、高校野球選手権熊本大会の決勝(藤崎台県営野球場)で東海大二高と対戦。0-1と熊工が1点リードして迎えた4回表の前田の打席で、東海大二側ベンチは勝負を避けても構わないと指示。投手・中尾篤孝がそれに従ってボールを2つ先行させた際、前田はバットを持ったままマウンドに歩み寄り「勝負せんかい!!ストライク入れんかい!」と怒鳴った。これに中尾が「何やと!」とやり返したため、球審が間に割って入った。プレー再開後、中尾が勝負を挑んだ球をライトスタンドへ打ち込んだ。中尾(卒業後協和発酵硬式野球部入り)は後に「今となってはいい思い出です」と語っている。この試合に勝った熊工は甲子園に出場。初戦の日大三島戦で1回表にタイムリーヒットを放ったが、攻撃が終わっても「だめです。俺はもうだめです」と頭を抱え込んで泣き崩れ、守備につこうとしなかった。前田は同学年の元木大介を強くライバル視しており、本塁打を連発する元木に負けじと臨んだ初戦で打ち損じたことに納得できなかったという。これ以前にも、練習などで打撃に納得できないと深く考え込んだり、時には当たり散らしたりすることが何度もあったという。
1990年、プロ入り後初の日南の春季キャンプでは打撃マシンを相手に快打を連発。高卒同期入団の浅井樹は後に「同い年で自分より凄い男を初めて見た」と振り返っている。ある日の練習中達川光男に「打席でどんな球を待っとるんや?」と訊かれ「いや、来た球を打つんですよ」と答え、達川は「凄いな、お前」と感心した。
1992年9月13日の対巨人24回戦(東京ドーム)、1-0と広島リードで迎えた5回裏二死無走者、川相昌弘の中前への当たりに飛び込んだが後逸、ランニング本塁打で同点となる。前田は8回表一死一塁の場面で決勝打となる勝ち越し2ランを放ち、ガッツポーズを見せた後涙を流しながらダイヤモンドを一周した。後日、決勝本塁打について「最悪でも、あれぐらいはやらなきゃ取り返しがつかないと思った」と振り返り、また本塁打後の涙について「自分に悔しくて涙が出た。ミスを取り返さなければいけなかった次の打席(6回表二死二塁)で中飛。それに腹が立って泣いたんです。最後に本塁打を打ったところでミスは消えない。あの日、自分は負けたんです」と語っている。
1994年5月18日の対巨人戦(福岡ドーム)で、広島は巨人・槙原寛己にプロ野球史上15人目の完全試合を許し敗れたが、前田はこの試合を欠場しており「この借りはいつか返す」と誓っていた。そして同年7月9日の同カード(広島市民)で槙原からバックスクリーンへ本塁打を放った。前田は「完全試合以来、槙原さんが出てくると(気持ちが)熱くなった。明らかに普通とは違った緊張感がありました。そうした逆境が僕を燃えさせるんです」と語った。
1995年に右足のアキレス腱を完全断裂した後、打撃をはじめ走塁や守備などプレー全般に精彩を欠いたことを嘆き「この足(右足)はもう元通りにはならないだろうし、いっその事、もう片方(左足)も切れて欲しい。そうすれば、身体のバランスが良くなるらしい。それで元に戻るんだったら」と語った。前田は走攻守全てに於いて常に完璧なプレーを目指すのが信条であったが、満足にプレーする事ができなくなったのが余りに不本意だったのだろうか、1996年頃から「俺の野球人生は終わった」「前田智徳という打者はもう死にました」「プレーしているのは僕じゃなく、僕の弟です」「あれは高校生が打っていたんです」などといった発言を繰り返す。またこの頃から打撃成績に関しては具体的な目標を掲げないようになり、理想の打球へのこだわりも薄れ、個人成績の目標として挙げるのは「公式戦全試合出場」だけとなった。
このアキレス腱断裂は、前田の野球人生にとって大きな転機となった。前田は1996年春のあるインタビューで「怪我する前は“自分がどこまで成長できるか”と考えると、毎日が楽しかった。(野球をやってきて)これまで努力した事はない。普通通りの事をやっていただけ。コーチから新しい事を教わっても、すぐ出来た。神様から与えられた素質、天性だけで野球をやっていたのが(怪我で)全て崩れ、訳が分からなくなってしまったんです」と語っている。また、右アキレス腱には既に前年から不安を抱えており、早く治さなかったことを後悔していたと明かしている。
「がんばって」と声をかけた女性ファンに対し、前田が「お前に言われんでも分かっとる!」と怒鳴り付けた、という逸話がファンの間で語り草になっている。これは1998年9月15日付の朝日新聞に掲載されたもので、この際前田は車の中から怒声をあげたと言われているが、その状況には不自然な点が多々ある上、由来についても「女性ファンが常連の追っかけである」「記者が又聞きした話を誇張したもの」など諸説あり、このエピソードそのものの真偽は定かではない。しかしそれ以来、このエピソードは前田の代名詞として「お前に言われんでも○○」といった形で頻繁に用いられている。
2000年、江藤智がFAの権利を行使して巨人へ移籍。新4番として迎えた3月31日、開幕戦の対巨人1回戦(東京ドーム)では、2回表に回ってきた初打席で巨人先発上原浩治から先制ソロ本塁打、4回には二塁打、8回にも犠飛を放つなど3得点に絡み、5-4で逃げ切った。前田はヒーローインタビューで開幕4番について「はっきり言って、気持ち的には中途半端で入った。前向きに考えるのが難しかったけれど(監督に)『チームのために頑張ってくれ』と言われた。それがいい結果で出たんでよかった」と話し、さらにチームのムードについて「やっぱり緊張感の中で勝てたのは大きいし、これから頑張っていきたいと思う。みんなで力を合わせて頑張るっていうのがウチの野球なんで」と語った。この「みんなで力を合わせる」という文言は同年シーズン序盤、前田の常套句となった。
同年7月、アキレス腱が伸び切って炎症が悪化し断裂の恐れがあることが判明した。27日に左アキレス腱の腱鞘滑膜を切除する手術を受け長期離脱。フリーエージェントの権利を獲得したが10月30日に記者会見で「まだ乗り越えなくてはいけない物がたくさんあるし、カープで最後までいいプレーをしたいという気持ちになったので、今回はFA宣言というものは自分には関係ないという気持ちです。大きな怪我もあったがここまでやれるとは思わなかったし、チームとファンに恩返ししたい。今年権利を行使しないということは、来年もしないという事です」と、広島に残留する旨を表明した。
2004年秋、「このままではチームに迷惑が掛かってしまう」と、指名打者制度があるパ・リーグ球団への移籍を直訴したが、交換条件が合致せず広島残留が決まった。翌2005年1月にグアムで自身初の海外自主トレを敢行。2月の春季キャンプでは「守備重視」というチーム方針もあってレギュラー特権を剥奪される厳しいスタートとなったが、毎日早出・居残りで鍛錬を続けた。キャンプ中盤の2月14日、練習後の取材に応じた前田は「今までのように(マイペースで)調整させてもらっている立場じゃない。周りから『走れん』とばかり言われているが、文句を言われんように、また走れるようになりたい。試合で(身体を)作っていくのがベストだし、オープン戦もできれば全部出たい。賭けだよ、賭け。駄目なら賭けはおしまい」とシーズンへの意欲を見せた。
2006年シーズン後の秋季練習の初日に「うまく打撃のコツもつかみたいし、そのためにはバットを振るのは普通のこと。まあ、多分つかめはしないんだろうけど。何年やっても、どう打っていいか分からん」と発言。
通算安打数「1999本」で迎えた2007年9月1日の対中日ドラゴンズ17回戦(広島市民)、前田は4打席凡退していたが6-7とリードを許して迎えた8回裏、広島は代打嶋重宣の3ランで逆転する。その後も攻め立てて二死満塁とし、打者一巡して前田の打席。久本祐一の3球目を右前へ運ぶ2点適時打を放ち、プロ通算2000安打に到達した。前田は一塁上で安堵の笑顔を見せ、長男・二男から花輪を受け取った(このとき前田は子供たちに「お母さんはどこにいるの?ありがとうって伝えておいてね。」と言った)。この回広島は一挙8点を奪って14-7で勝利、前田の金字塔に華を添えた。試合後お立ち台に立った前田はまず「自分個人の事でここまで騒がれるのは非常に残念な事。ここまでチームの戦い方を考えると悔しい思いばかりだし、自分が(怪我などで)いいシーズンを送れていないので、責任を感じています」「怪我をして、チームの足を引っ張って…。こんな選手を応援して下さって、ありがとうございます」と声を詰まらせた。そして「最高の形で(自分に打順を)回してくれたので、ここで打たなきゃと思った。今日という日は一生忘れないと思います」と喜びを語った。その後記念のボールを手に場内を一周してファンの声援に応え、チーム全員で記念撮影を行った。また試合後の記者会見では「今日は何となく負けるような展開だったが、みんなが凄い力を発揮して、最後に打たせてもらった。18年やっているけれど、こんな凄い試合は初めてです」と8回の攻撃を振り返り、「こういう記録を達成できて、こんな選手にいろんな声援を送ってくれたのに、充分応えることができなかった。これからも暖かい応援を頂きたい」とファンにメッセージを送った。




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