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佐伯貴弘

佐伯 貴弘(さえき たかひろ、1970年4月18日 - )
横浜ベイスターズに所属するプロ野球選手(内野手)、背番号は26。



経歴
大の鉄道好きで、子供の頃は近鉄電車の運転士か野球選手になるのが夢であったという。またその事から子供の頃は近鉄電車が親会社である近鉄バファローズのファンであった。この当時負け試合に腹を立て金村義明(当時近鉄)を野次ったところ、金村に睨みつけられた。後に日本シリーズで当時西武に在籍していた金村と選手として再会するが、金村は佐伯が当時自分を野次った少年だと気づいたという。

尽誠学園高校時代に伊良部秀輝と寮で同室だった。大阪商業大学時代には二度の三冠王を獲得している。また通算12本塁打で当時の関西六大学野球の最多本塁打記録を持っていた。

1992年に大商大からドラフト2位で横浜ベイスターズに入団(「ベイスターズ」としては初のドラフト)。入団当時の背番号は26。入団当時は長距離砲として期待されていた。5月23日の広島東洋カープ戦に代打で初出場。

1995年、1996年とオールスターゲームに2年連続出場。

1997年はビル・セルビーとの兼用により出場機会に恵まれず、打率.260、4本塁打という成績に終わる。この年の契約更改では提示された金額に納得が出来ず保留。その際「相手が標準語では話が弾まない、大阪弁の人を用意してほしい」と発言したが、2度目の交渉時に球団が大阪弁の職員を用意。その職員が「これでどないや?」と尋ねると、同じ金額で更改した。

1998年は移籍してきた中根仁との併用でマシンガン打線の一員として活躍、リーグ優勝・日本一に貢献。7月15日の巨人戦で槙原寛己との打席でライトフライとなった際、槙原のモーションがボークをとられた為アウトが取り消しとなった。その仕切りなおしの打席で本塁打を打った。この試合は当初、7-0で巨人の一方的な展開であったが、この本塁打で12-12の同点となり、この日のサヨナラ勝利を呼び込むきっかけとなった。

2001年に背番号を10に変更。3回目のオールスター出場、140試合フル出場を果たす。

2004年は夏場以降調子を上げていき、最終的にリーグ3位の打率.322を記録するなど自己最高の成績を残した。7月16日の広島東洋カープ戦でジョン・ベイル投手から遊撃内野安打で1000本安打達成。9月3日のヤクルトスワローズ戦では鎌田祐哉投手から通算100本塁打を達成する。日米野球ではフランシスコ・ロドリゲスから日本人選手では全試合でただひとり本塁打を放った。しかし、シーズン終了後にFA権行使をした場合、球団としては引き止めないという話を球団からされ、当初は「涙が出るくらい悲しかった」と言い「もうこの球団には残れない」という主旨の話をした。だが、翌年から新しく監督の就任が決まっていた牛島和彦が引きとめた事もあり横浜に残留した。同年の契約更改の際には、たくさんの人に来て欲しいということから、入場料を安くして欲しいという条件も提示したこともある。

2005年はタイロン・ウッズの代替として獲得したケビン・ウィットがインフルエンザで欠場したため、牛島新監督より開幕から4番に指名される。ウィット復帰後もウィットの打撃不振により、結果的に4番として全試合出場を果たした。9月3日の阪神タイガース戦では、球審がボールカウントを間違えるという「珍事」があった。カウント2-3で相手投手安藤優也が投じた球はボールの判定で四球となり、佐伯は一塁へと歩こうとしたが、カウントを勘違いしていた球審が佐伯を呼び戻し試合を続行。結果この打席で佐伯はカウント2-4から安打を放った。

2006年も引き続き開幕から4番を任されるが極度の打撃不振で打率が2割前後に低迷。それでも4番での起用が続き「四番佐伯」とコールされると対戦相手のファンから拍手が起きた。4月28日の対広島戦では決勝点となる逆転3ランを放ちお立ち台に立ったが、それまでの打撃不振から涙を流す一幕もあった。その後も打撃不振は続き、結局6月になってからは成長を見せていた村田修一に4番の座を明け渡した。 8月23日の対巨人戦で9回表の同点、一死満塁の状況からバックホーム体制を敷いているにも関わらず、ファーストゴロで先に一塁を踏みに行き、その間に三塁走者の鈴木尚広が生還。決勝点を与えてしまう。この際、実況のTBS松下賢次アナウンサーに「どうしたんだ佐伯、何のための前進守備だ!」と言われてしまった(本塁に投げる理由についてはフォースプレイも参照のこと)。このように守備でも精彩を欠く場面が目立った。9月7日の広島東洋カープ戦で、延長10回・2アウト満塁の場面で佐伯に打順が回ってくるが、カウント1-2からファールを打った際に捕手の石原慶幸のミットが佐伯のバットに当たった為、打撃妨害となり31年ぶりとなる「サヨナラ打撃妨害」で勝利するという珍事があった。佐伯は満面の笑みで選手達とハイタッチを交わす中、その時テレビ中継では「ヒーローは佐伯じゃなく、この佐伯のバット!」と実況されていた。

2007年は初心に返るという意味合いを兼ねて背番号を入団時の26に変更。一塁は吉村裕基が固定されたため、開幕はベンチからのスタートになった。しかし他の選手の不振もあり3年ぶりに外野でスタメン起用されると好調な打撃を見せ5番に定着。本来の当てにいく打撃を取り戻したことで三振が半減、2年振りの規定打席と2桁本塁打、3年ぶりの3割到達となった。

2008年は開幕戦から5番一塁で出場するが打撃不振に陥り、打撃好調の内川聖一に一塁のポジションを明け渡した。代打での打率は.304を記録し中盤からは代打の切り札的存在として活躍した。意表をつくバントヒットも幾度か成功させるなど代打要員として新たな境地を築いた1年ではあったが、オフの契約更改では70%ダウンの年俸3000万で更改となった。会見では「税金のこともあるし、これからは缶コーヒー1本買うのにも気をつけなくてはいけない」という冗談を発した。

2009年は新助っ人のダン・ジョンソンがファーストで起用されていたため主に代打の切り札として使われていたが、ジョンソンの成績不振により交流戦以降は一塁のスタメンで出ることが多くなった。7月15日には3年ぶりの盗塁をホームスチールで飾り、横浜の2年ぶりの4連勝を演出した。8月9日の中日ドラゴンズ戦で中田賢一投手から通算150本塁打を達成した。惜しくも規定打席には届かなかったが、代打の切り札から5番一塁のレギュラーに復帰して2年ぶりの100試合出場・2ケタ本塁打を記録した。

人物・エピソード
愛称は「ハマの男前」。明るい性格でチームのムードメーカー。ベイスターズの実質的な番長は三浦大輔ではなく佐伯であるという。また、自分が大好きであり試合で活躍した日には録画した中継を編集し「俺特集」を作成するのが決まりであるという(saku saku 2005年2月2日放送分より)。
また一時期「メカゴジラ」を自称していた(略して「メカ」)。松井秀喜(当時読売ジャイアンツ)のニックネームが「ゴジラ」である事に対抗し、自ら「松井くんがゴジラなら、僕はメカゴジラでいきます」と宣言、ヘルメットのつば部分にも「MECHA」の文字を貼り付けていた。
タレント性を備えたプロ野球選手は数あれど、一つ頭を抜けたタレント肌でオフシーズンにテレビ出演することも多く、プロ野球オールスタースポーツフェスティバルで子門真人のモノマネを披露するなど多芸に秀でる。また本人も「お金払ってでも出たい」と言うほどのテレビ好きである為テレビ出演には非常に積極的である。
その人柄から他球団のファンから声援を送られる事も少なくなく、また関西出身ということもあり阪神甲子園球場での阪神戦で佐伯が右翼手として守備についたところライトスタンドの熱狂的阪神ファンから熱いエールを送られた事もあった。
入団時に彼の母親が「息子は若い女性を見ると股間を膨らませてしまう若輩者ですが、どうぞよろしくお願いします」と発言した事がある。
1993年のとある日の巨人戦で、チャンスの場面で佐伯が代打で登場。するとスタンドで観戦していた1人の小学生の少年から「打って!」と声をかけられ、佐伯はこれに「坊主、打ってくるから見とけ!」と答えた。するとその打席で、佐伯は3ランホームランを放ったという。それ以来その少年は佐伯のファンになったが、それは13年後に横浜ベイスターズに入団してきた内藤雄太であった。
2001年の開幕直後、佐伯が試合で隠し球をした事を根に持った他チームのファンが、佐伯の車のタイヤ四本を盗んだ事がある。その際佐伯本人は、バック・トゥ・ザ・フューチャーのデロリアン号かと思い記念撮影した。
2002年頃より、阪神タイガースのマスコットトラッキーとよくプロレスごっこを行うパフォーマンスを行っていた。このパフォーマンスのきっかけは、かつて横浜スタジアムで暴れていたトラッキーに佐伯がジャイアントスイングをお見舞いしたことがきっかけで、このパフォーマンスは観客のウケもよく、両球団のファンから歓声が上がるほどであった。しかしながら、「トラッキーがかわいそうだ」「青少年の教育上よくない」という声や、トラッキーが佐伯の顔面にドロップキックを決める事などもあり佐伯自身のケガの心配もある為に封印。しかし中の人(スーツアクター)の男性と非常に仲がよく、その後の2003年中旬に男性がスーツアクター交代によって阪神タイガースから解雇された際に佐伯が男性に横浜入りを勧め、結果として新マスコット「ブラックホッシー」が生まれることとなった。しかし、男性は2005年に新規参入球団である楽天に引き抜かれてしまった。
このトラッキーとのプロレスごっこに関して「勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー」の取材を受けた際に、「あの虎は、俺がケガしたらどないしようとか思わへんのかな?」と語っている。
バラエティ仕立ての音楽番組『saku saku』のファンで、また当時司会を務めていた増田ジゴロウが大の横浜ベイスターズファンであった事から2005年にsakusakuにゲストとして出演した。その際にジゴロウに「俺の歌を作って欲しい」と懇願、ゲルショッカーの衣装での応援を提案、さらに2005年度のリーグ優勝を誓うもいずれも実現はしなかった。

タイトル・表彰
月間最優秀選手賞(1996年4月)
オールスターゲーム出場3回(1995年、1996年、2001年)

個人記録
初出場:1993年5月23日、対広島東洋カープ8回戦(横浜スタジアム)、8回裏に代打で出場、四球選ぶ
初安打:1993年6月5日、対中日ドラゴンズ8回戦(ナゴヤ球場)、8回表に上原晃から右前安打
初本塁打・初打点:1993年8月1日、対広島東洋カープ17回戦(広島市民球場)、6回表に佐藤剛から
初盗塁:1993年10月16日、対読売ジャイアンツ26回戦(横浜スタジアム)、4回表に二盗
1000試合:2002年6月16日、対ヤクルトスワローズ12回戦(福島県営あづま球場)、7番・一塁手として先発出場(378人目)
1000本安打:2004年7月16日、対広島東洋カープ14回戦(横浜スタジアム)、2回裏にジョン・ベイルから遊撃内野安打
100本塁打:2004年9月3日、対ヤクルトスワローズ21回戦(横浜スタジアム)、1回裏に鎌田祐哉から2ラン
1500試合:2007年4月14日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、9回表にホセロ・ディアスの代打として出場
1500本安打:2009年6月2日、対福岡ソフトバンクホークス1回戦(福岡Yahoo!Japanドーム)、2回表にD・J・ホールトンから右越ソロ
150本塁打:2009年8月9日、対中日ドラゴンズ15回戦(横浜スタジアム)、9回裏に中田賢一から3ラン

背番号
26 (1993年 - 2000年、2007年 - )
10 (2001年 - 2006年)



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