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下柳剛

下柳 剛(しもやなぎ つよし、1968年5月16日 - )
阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。
2009年現在の阪神において現役最年長投手で、同い年の金本知憲・矢野輝弘と共にチームの精神的支柱と言える選手。



プレースタイル
若手時代は直球しか投げないほどの速球派投手だったが、阪神移籍後は130km/h台の直球にスライダー、シュート、フォークボールなどを交えて丹念にコーナーを突き、打たせて取る技巧派にモデルチェンジした。その老獪な投球術は「のらりくらり投法」とも呼ばれる。

阪神移籍後は先発ローテーションに完全に定着したが完投は滅多になく、6回前後を投げて後はリリーフに託すのがパターン化されているが、最多勝を獲得した2005年はシーズン最終戦で先発し、岡田彰布監督に続投を志願して延長10回完投勝利を挙げ、スタミナは未だに衰えていないことも示した。

インタビューなどに対してはシャイだがグラウンドでは激情家で、味方の失策などには怒号を飛ばしたりグラブを叩きつけたりしている。(試合後に自分の行動を反省し、失策した選手に謝っている。)また、自身が降板した後はリードして降板した場合のみならずKOされた時でもベンチに残り、率先して声を出しナインを鼓舞する姿がよく見られる。

経歴
長崎県長崎市出身。瓊浦高等学校から高校野球の指導者を目指して八幡大学に進学するも、1年で中退。しばらくは仕事をせずバイクを乗り回す生活を続けていたが、恩師の紹介で社会人野球の新日鐵君津に入社し、1988年にはエースとしてチーム初となる第59回都市対抗野球大会出場に貢献。予選全試合を1人で投げ抜き、試合で完投した後でも平然と200球近くの投げ込みを行なうなど、当時からタフネスぶりを見せていた。なお、瓊浦高校には下柳が作った「下柳マウンド」が存在する。

1990年のプロ野球ドラフト会議で福岡ダイエーホークスから4位指名を受け入団。制球力に難の有る速球派投手だったが、根本陸夫監督や権藤博投手コーチは「毎日打撃投手、毎日中継ぎ登板」という過酷な投げ込みで克服させた。1993年に50試合、1994年には62試合に投げ、連日のように登板する鉄腕投手として活躍した。その鉄腕ぶりからアイアン・ホークのニックネームがつき、当時の応援歌の歌詞にも取り入れられていた。

1995年4月20日未明に愛車を民家の塀に激突させる交通事故を起こして鼻骨骨折等の負傷を負い、年俸の1割の推定610万円が罰金として科され、この負傷が原因でシーズンを棒に振り、同年オフに武田一浩・松田慎司とのトレードで、安田秀之と共に日本ハムファイターズに移籍。

1997年には216打席連続無三振を続けていたイチローを三振に打ち取って「イチローキラー」と話題になり、1試合に先発した以外は全てリリーフ登板で規定投球回に達した。同年から1999年まで3年連続60試合登板を記録するなど中継ぎ投手として活躍するも、チーム事情や本人の希望から2000年以降先発投手に転向。8月26日に古巣のダイエーを相手にプロ10年目にして初の完封勝利。オフの契約更改では日本人選手として初めて代理人交渉を行った。2001年頃から勤続疲労の影響か度々故障で戦線離脱し、成績も低迷した。

2003年、山田勝彦、伊達昌司、坪井智哉との複数トレードで中村豊、野口寿浩と共に阪神に移籍。抜群の制球力で相手打者を「のらりくらり」とかわす技巧派の投球を見せ、10勝を挙げてリーグ優勝に貢献した。同年オフ、FA宣言。阪神が残留要請を行ったほか、横浜ベイスターズも獲得に名乗りを上げたが、阪神若手投手陣を中心に「残留コール」を受けた事もあって阪神に残留。

2005年、8月25日の広島東洋カープ戦で通算1000奪三振を達成した。9月21日の中日ドラゴンズ戦では、13勝目を挙げた下柳が岡田監督の命令でお立ち台に立った。その際、下柳はインタビュアーの「今日のピッチングはどうだったか」、また「マウンドを降りてベンチからJFKをどのように見ていたか」との質問に「勝てたらいいなと思ってました」と一言で応じ、場内のファンを沸かせた。この日本塁打を放って共にお立ち台に上がっていた金本は「あの打席、ホームランは頭にあったか」という質問に、下柳のセリフをそのままいただき「勝てたらいいなと思ってました」と答え、ファンの爆笑を誘った。最終的には自己最多、黒田博樹と並んでリーグトップの15勝を挙げ初タイトルとなる最多勝利を獲得。36歳で開幕迎えての最多勝獲得は、阪神往年のエース若林忠志と並ぶ最年長記録タイ記録、セリーグ新記録となった。また、規定投球回数未満での最多勝獲得は1988年の伊東昭光以来史上2人目。

2006年4月5日の広島戦で通算500試合登板を達成。前年に引き続いて安定した成績を残した。9月24日、後にチームメイトとなる日本ハム時代の後輩である金村曉がトレイ・ヒルマン監督の采配を批判して出場停止となった夜、同じく日本ハムから阪神に移籍した片岡篤史と共に金村へ電話をかけ、「俺はお前にそんな事を教えたか!目を覚まさせてやる!今から来い!」と怒鳴り、都内の飲食店に呼び出した。金村は殴られるものと覚悟していたが、二人は「こういう経験がないと大きくなれない。良い勉強と思って前向いてやれ。成長するステップと思って頑張れ」と励ました。11月23日、長崎県の「ブランド大使」に任命された。

2007年は先発ローテーション候補の福原忍や安藤優也らが出遅れたこともあって、1リーグ制時代を含めても球団史上2位、2リーグ制になってからは球団史上最年長となる38歳10ヶ月での開幕投手となり、6回2失点で敗戦投手となったものの黒田からチーム初安打を放つなど投打に渡り執念を見せた。通算100勝目を達成した7月6日の中日戦でのお立ち台では、それまでのインタビューでの受け答えの様子とは全く違った饒舌ぶりであったため、当日の中継を担当していた解説者らも驚いていた。最終的には規定投球回数に到達せず防御率も4点台ながら、先発投手陣が崩壊したチームの中で唯一シーズン通してローテーションを守りきり、チーム最多の10勝を挙げた。オフの11月7日に契約交渉を行ったが決裂し翌日2度目のFA権行使をする意向を表明、11月13日付で公示された。

2008年1月22日に正式に阪神と契約合意に達し、FA宣言中はメジャー数球団からもオファーが有ったが前回FA宣言した時と同じく阪神に残留した。8月21日の広島戦においてプロ野球史上5人目、球団史上若林以来59年ぶりとなる40代での2桁勝利を挙げるなど同年もシーズンを通してローテーションを守り抜き、規定投球回に達した投手の中ではリーグ5位、チームトップで自己最高成績となる防御率2.99を記録し、11勝を挙げた。

2009年は8勝8敗と5年連続2桁勝利を逃してしまう。7月20日には怪我から復帰した矢野輝弘とNPB史上初の40代バッテリーを組み登板した

人物
愛犬家で、東京の自宅ではラガー(黒のラブラドール・レトリーバー)とルビーという名前の犬を飼っている。FA宣言した際、阪神と横浜の間では自分に対する待遇の話はほとんどなく、ラガーの待遇(遠征の際の世話など)条件の出し合いばかりだったため、「契約交渉というよりラガー君争奪戦だった」と、ジャンクSPORTSに出演した際に明かした。ラガー以外にも多くの犬を飼っており、ラガーの子どものバド、ミラー、コロナ、ギネス、ヒナノ、レオ、オリオン、チンタオ、ホープといる。飼い犬達の名前は、ラガーを含め、全てビールの銘柄が名前の由来となっている。

好物は芋焼酎のお湯割り。

シャイな性格のためか、お立ち台に上がるのを拒否する事が多く、自分がお立ち台に呼ばれそうなのを察知すると、「今日は何も無い、お疲れっ!!」とだけ記者にコメントしたり、金本にヒーローインタビューで「ファンの皆さんによろしくお伝え下さい。」と伝言を残し、早々とロッカールームに引き揚げてしまうことが多い。それを阻止するため、矢野がベンチ裏で待ち伏せして、無理矢理お立ち台に連れて行かれたこともある。

新人時代、選手名鑑の「思い出」の項目に「あまり嬉しい思い出も悔しい思い出もない」と書いており、飄々とした淡白な性格は新人時代からのようである。

髭はめったに剃らず、風呂には数日入らなくても平気というかなり不精な性格であり、ダイエー時代の同僚だった潔癖症の内山智之とは仲が悪かった。これは「投手の肩は消耗品」が口癖であった権藤コーチから「あいつはいくら放っても壊れないから」ということで毎日のようにロングリリーフをさせられ、家に帰ったら疲れ果てて何もする気がなくなったことが由来である。吉井理人はその風貌を「変わった奴っちゃな」とテレビ解説の席で評している。

上述のように下柳が先発する試合は大抵リリーフ投手も登板するため、藤川球児からは「社長」と呼ばれている。藤川曰く、その心は「仕事をくれるから」。

プロレスラーの高山善廣や総合格闘家の桜庭和志は親友であり、年明けの自主トレでは桜庭らとともに総合格闘技式のトレーニングに励む。かつては兄が所属していた縁で自衛隊でもトレーニングをしていた。2003年・2005年の優勝時のビール掛けではオープンフィンガーグローブを装着して藤本敦士ら後輩に腕ひしぎ十字固めを仕掛けていた。2006年12月31日に催された「Fields K-1 Premium2006 Dynamite!!」ではオレンジ色の胴衣を纏ってタイガーマスクを被り、桜庭と共に登場。2人とも右脚から踏み出すというパフォーマンスを見せて試合では桜庭のセコンドに付いた。翌2007年の大晦日も前年同様にタイガーマスクを被って桜庭と共に登場し、セコンドに付いた。しかし、格闘技トレーニングに関しては張本勲から怪我をしたらどうするのかという理由で喝を入れられている。

オフには活発にテレビ出演をしている。ひょうきんな一面も有り、飲み会では伊良部秀輝や広澤克実とトリオ漫談をすることもあったという。

独身で、島田紳助によると島崎和歌子とお見合いをしたが、島崎が出来上がってしまったため破談となったらしい。また2005年正月放送の特番『プロ野球場外乱闘4』に出演した際、「彼女と別れた」と暴露されるなど身辺はにぎやかである。バレンタインデーに女性ファンからもらうチョコレートの数もチーム1、2を争う。

日本ハム時代からダンカンや松村邦洋らがいることで有名な中野猛虎会の会員だった。

背番号「42」は「死に番」として日本人選手には敬遠される場合が多いが、ダンカンによると背番号「24」に対して強いこだわりがあるらしく、阪神移籍時には桧山進次郎が24番を背負っていたため数字を逆にした42にしているという噂もある。ダイエー時代には背番号が24であることから、JR九州が発売していた「二十四茶」のCMにも出演していた。

水島新司の野球漫画『ドカベン プロ野球編』の作中で、山田太郎がプロ入り初本塁打を打った投手である。また、水島漫画において実在する現役選手の中ではかなり登場回数が多い。たいていは山田らオリジナルキャラに打たれる役回りである。

タイトル・表彰
最多勝利:1回(2005年)
月間MVP:2回(2000年8月、2005年9月)

背番号
24 (1991年 - 1995年、1997年 - 2002年)
11 (1996年)
42 (2003年 - )

個人記録

初記録
初登板:1991年8月9日、対近鉄バファローズ16回戦(西京極球場)、救援登板、1/3回4失点
初奪三振:1993年4月23日、対オリックスブルーウェーブ1回戦(グリーンスタジアム神戸)、7回裏にケルビン・トーベから
初セーブ:1993年5月1日、対近鉄バファローズ3回戦(藤井寺球場)
初勝利:1993年5月6日、対オリックスブルーウェーブ6回戦(福岡ドーム)、救援登板、3回無失点
初先発:1993年6月12日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(福岡ドーム)、5 2/3回5失点で敗戦投手
初先発勝利:1993年6月22日、対西武ライオンズ戦(西武ライオンズ球場)
初完投勝利:1993年9月29日、対日本ハムファイターズ25回戦(東京ドーム)
初完封勝利:2000年8月26日、対福岡ダイエーホークス22回戦(東京ドーム)
初安打・初打点:2003年4月13日、対読売ジャイアンツ3回戦(東京ドーム)、4回表に上原浩治から

節目の記録
1000投球回:2003年9月4日、対広島東洋カープ22回戦(広島市民球場)、5回裏に野村謙二郎から空振り三振で2死目を奪い達成 ※史上294人目
1000奪三振:2005年8月25日、対広島東洋カープ16回戦(広島市民球場)、2回裏にマイク・ロマノから ※史上116人目
500試合:2006年4月4日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、先発登板で6回無失点 ※史上116人目
100勝:2007年7月6日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤドーム)、先発登板で6回3安打無失点 ※史上122人目
1500投球回:2007年8月1日、対ヤクルトスワローズ13回戦(阪神甲子園球場)、2回表にセス・グライシンガーを投手ゴロに打ち取り達成 ※史上158人目


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