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杉山直久
杉山 直久(すぎやま なおひさ、1980年12月25日 - )阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。
ファンからの愛称はおすぎ。
経歴
京都府舞鶴市出身。東舞鶴高校では2年秋に地元の強豪である京都成章高校との練習試合で自らのサヨナラ死球で1対2と惜敗したものの、まともに打たれた実感はなかった。しかし、その京都成章は翌年の第80回全国高等学校野球選手権大会決勝で横浜高校の松坂大輔の前に史上2度目の決勝戦ノーヒットノーランで敗れ、格の違いを見せつけられた。高校卒業後は龍谷大学に進学し、2年春に京都産業大学戦でノーヒットノーランを達成し、秋の明治神宮野球大会では4強入り。3年秋にリーグ戦MVPを獲得。植大輔と共にダブルエースとして、大学通算15勝4敗の成績を残す。京産大の光原逸裕とは毎年のように優勝を争ったライバルだった。
2002年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースに自由獲得枠で入団。この時の背番号は18だった。
2003年は一軍で3試合の登板に終わったが、翌2004年6月15日のヤクルトスワローズ戦で先発し、プロ初勝利を挙げる。
2005年に球の出所が見やすいという指摘を受け、体で球を隠す岩隈久志に似た投法に改造した。同年は先発投手として一軍に定着し、5月18日の西武ライオンズ戰では高校時代に格の違いを見せつけられた松坂と投げあい勝利した。9月11日の広島東洋カープ戦ではプロ初完投・初完封を記録するなど、最終的に規定投球回数には届かなかったものの9勝を挙げて優勝に貢献した。
2006年は開幕して1か月間雨や日程の都合で登板機会が飛び、その後は好投するも打線の援護に恵まれず、初勝利を上げたのが8月末、成績は4勝4敗と伸び悩んだ。
2007年は開幕一軍を逃すも、4月に福原忍の登録抹消に伴い一軍昇格。しかし結果を出すことが出来ず一軍と二軍の往復が続き、8月からは先発ローテーションに定着したもののシーズン終盤は打線の援護に恵まれず白星を逃し続け、9月のヤクルト戦での不甲斐ない投球から二軍落ちした。
2008年は開幕から先発ローテーションを任されるものの雨で登板予定が流れることが多く、投球も不安定さが続いたため5月19日に二軍降格。2勝しかできず、またも期待を裏切る結果となった。同年オフの契約更改でエースナンバーである背番号18にふさわしい働きができていないこと、また当時横浜ベイスターズからFA宣言していた三浦大輔の獲得を球団が目指していたこともあって、背番号が17に変更となった。
2009年も先発ローテーション入りのチャンスを与えられたものの、前年までの名誉挽回はならず、わずか2試合の登板に終わった。
プレースタイル
最速150km/hの直球、高速スライダー、フォークボール、カット・ファスト・ボール、スプリットフィンガード・ファストボールなどを投げる。制球力と安定感に課題があり、好不調の波が激しいことや、いわゆる「逃げの投球」に陥りやすいのが欠点である。
人物
尊敬する人物は宮本武蔵で、プロ入りの際には五輪書などの武蔵本を寮の部屋に持ちこんだ。
2007年8月17日のヒーローインタビューで「今日は気合を持って投げていました」と自ら発言した後、「その気合はピッチングのどの辺に出てましたか?」と聞かれ「それはちょっと分かりません」と答えるなど天然な性格で、同学年かつ同期入団で仲の良い江草仁貴は杉山の性格について「ちょっとおかしいですよね」と冗談交じりにコメントしている。
2005年から3年連続で契約更改で保留をしているが、他の選手がショックの表情や怒りを露にして記者会見をすることが多い中、杉山はサインを済ませたかのような笑顔で会見する。しかし、背番号18の剥奪を宣告された2008年は笑顔はなく悲しみの表情だった。
登板予定が雨で流れることが多く、自ら「雨男」と認めるほどである。
初登板 2003年8月20日中日戦(大阪D) 先発し敗戦投手
初勝利 2004年6月15日ヤクルト戦(甲子園)
初完投・初完封 2005年9月11日広島戦(甲子園)
背番号
18(2003年 - 2008年)
17(2009年 - )
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