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畠山和洋

畠山 和洋(はたけやま かずひろ、1982年9月13日 - )
東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手である。


人物・来歴

アマチュア時代
小学校から野球を始め、4年時には地元の少年団チームに加入した。当時は野球だけでなくバスケットボールなど他のスポーツも楽しんでいた。進学した花巻市立湯口中学校にはバスケ部が無かったため、野球に集中する。抜きん出た飛距離のバッティングで活躍したが、フォームは我流であった。中学3年の時に県大会で優勝している。その後、実兄がエースを務めており、1972年に実父も投手として所属し選抜出場を果たしている、専修大学北上高等学校に進学した。1年から三塁のレギュラーに定着し、打撃フォーム矯正にも成功した。

1998年夏の甲子園では、如水館高校との1回戦で、引き分け再試合を含む2試合に5番三塁で先発出場。計7打数6安打3打点と早くも頭角を現すが、チームは惜しくも再試合で敗退した。

2000年夏の甲子園で2度目の大舞台に登場。しかし一回戦で森岡良介がいた明徳義塾高校と対戦し敗退。自身も4打数無安打であった。

1年後にヤクルトから2巡目で指名を受ける梶本勇介は、高校の1年後輩である。当時は2年生の梶本がエースで4番をつとめており、畠山は3番三塁での出場であった。

2000年のドラフト5位で、ヤクルトスワローズから指名を受け、入団にいたる。高校通算62本塁打と長打力に定評はあったものの、待って取る守備や、走塁能力の低さなどから評価を下げ、下位指名となっている。


プロ入り後
2001年
一年目ながらファームのレギュラーに定着し、打率.265、11本塁打、イースタン・リーグ4位の49打点を挙げる活躍を見せた。反面スイングの安定感や守備面での課題が指摘され、一軍昇格はならなかった。

2002年
前年に続きファームのレギュラーとして活躍し、19本塁打、56打点でイースタンの本塁打王と打点王の二冠に輝いた。ただし打率.259、72三振という数字が示す通り、この頃の打撃は確実性に欠けるものであった。また19失策は中島裕之に次いでリーグ2位だった。

当時からその長打力にはチームの期待がかかっていたが、その期待故に池山隆寛など複数のチーム関係者から、複数の媒体にサボり癖を指摘されるなど、一軍実績の無い若手選手としては異例の形で物議をかもした。

2003年
打撃の確実性アップに取り組み、練習態度を取りざたされる事も減ってきた。その事が功を奏してか、二軍でチーム2位の打率.286と結果を出すことに成功。反面本塁打が9本と半減してしまい、やはり一軍昇格はならなかった。

2004年
二軍で前年以上の打率.310という安定した打撃を発揮。8月にラミレスの離脱にともなって、一軍初昇格。8月6日対横浜戦でプロ4年目にして初出場を果たした。この時は代打で2試合に出場するも、結果を出せず二軍に逆戻りとなった。しかし消化試合の10月には、再度一軍に昇格。一塁で2試合にスタメン出場し、2試合目の10月7日対巨人戦で、高橋尚成から一軍プロ初安打を放った。

2005年
一軍でオープン戦を迎えるも、結果を出せず二軍降格。以降ファームで過ごしていたが、二軍で打率.282、8本塁打を放ち、8月19日に古田敦也に代わって一軍登録された。その日の阪神戦(神宮)で藤田太陽から、代打でプロ初の本塁打を放った。その後9月まで一軍に置かれたが、代打を中心に11打数2安打2打点に終わる。長打に期待されての起用にも関わらず、打席での消極性が指摘されるなど評価は芳しくなく、一軍定着の機会を逃してしまった。

2006年
キャンプから当たりが出ず、開幕は二軍戦スタート。6月に一軍昇格するも7打数無安打と、またしても結果を残すことが出来なかった。しかしファームでは好調を維持し、打率.313、7本塁打、101安打でイースタン・リーグ最多安打のタイトルを獲得している。当時の二軍監督である小川淳司らは、確実性を意識すると長打が減ってしまう傾向を指摘し、目標を高く置くよう求めていた。

2007年
岩村明憲が去った後の後継三塁手のレギュラー候補として期待された。キャンプからオープン戦では好調を維持し、監督の古田敦也をはじめ、首脳陣の高い期待に応えた。シーズンでは自己最多の37試合に出場し、2年ぶりに本塁打も放ったが、三塁のレギュラーには飯原誉士が定着してしまい、打率も.227と伸びず一軍定着は出来なかった。

二軍では打率.358、11本塁打(リーグ3位)と、前年までの課題であった打率を維持しての長打を見せていたが、一軍では打撃以外にも勝負どころでの失策も見られ、信頼を掴むにはいたらなかった。

2008年
スピードを重視する監督の高田繁の方針もあって、キャンプ・オープン戦は二軍でスタート。開幕後もファームで過ごしていたが、川島慶三の故障やアダム・リグスの不振なども手伝って、4月8日に一軍に登録された。4月15日の対横浜戦で本塁打を放つなど幸先の良いスタートを切ったが、三塁守備での悪送球も手伝って、手薄な三塁でのレギュラー取りには失敗した。その後は主に一塁か代打での出場となったものの、5月7日には自己シーズン最多を更新する2号2ランを放つなど、打撃は好調を維持した。

5月18日対阪神戦で、右肘痛の続くアーロン・ガイエルに替わって初めて四番三塁手のスタメンで起用され、以降シーズン終盤まで四番打者として出場した。四番スタメンに定着以降、長く本塁打が出ず、7月22日に初めて四番で本塁打を放った時は話題となっている。また推定年俸900万円の、12球団で最安値の四番打者としても注目を集めた。

最終的に121試合に出場し、自己最多の9本塁打・58打点をマークしている。打率も9月に低下したものの、.279を記録した。好球を待って右方向に流すヒットが多く、53四球はチーム最多(セ・リーグ7位)であった。反面三塁手として6失策、一塁手として5失策と守備に安定感を欠き、四番打者でありながら試合終盤には代走や守備固めを送られて交代するケースも多かった。9月14日以降には、後輩の梶本が畠山の代走に入るなど、同じ試合に出場する場面も見られた。

プレースタイル
どっしりした構えから、鋭い打球を見せる。逆方向へも強い打球が打てるのも持ち味。ただ、ブレイクを果たした2008年までは一軍の試合では速球に差し込まれ、変化球を待ちきれずに空振りするなど、ややその対応を苦にする傾向があった。
守備・走塁で売り出すタイプではなく、外国人の助っ人選手とポジションがかぶりがちである。

その他
入団8年目の2008年現在も、選手寮のスワローズ戸田寮に在住。近所のパチンコ屋では、「常連」として顔が通っている。主力として試合に出るようになってからは、宮本慎也に「何か我慢しろ」と言われ、大好きであったパチンコを自ら封印している。
よく顔がいかつく、迫力があって威圧感があると言われることがあると言うが、「顔だけじゃなくて、打者としてそういう存在になりたい」と語っている。
2009年10月にモデルと結婚していたことが球団から発表された。

個人記録
初出場:2004年8月6日、対横浜ベイスターズ18回戦(平塚球場)、6回表に代打として出場
初先発出場:2004年10月6日、対阪神タイガース28回戦(明治神宮野球場)、8番・一塁手として先発出場
初安打:2004年10月7日、対読売ジャイアンツ28回戦(明治神宮野球場)、6回裏に高橋尚成から中前安打
初本塁打・初打点:2005年8月19日、対阪神タイガース15回戦(明治神宮野球場)、7回裏に太陽から左越ソロ(代打本塁打)
初盗塁:2008年8月30日、対横浜ベイスターズ19回戦(横浜スタジアム)、1回表に二盗(投手:小林太志、捕手:相川亮二)

背番号
33 (2001年 - )



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