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藤井淳志
藤井 淳志(ふじい あつし、1981年5月20日 - )中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(外野手)。
プレースタイル
入団の2006年はスイッチヒッターも結果でず右打席に専念。2009年より再度スイッチに挑戦。パンチ力もある。
50m走5秒8の俊足で守備範囲は広いが、盗塁、走塁技術はまだまだである。
遠投120mの強肩だが正確性に欠け、ホームへの送球が大きくそれることも度々見受けられる。
走攻守に判断力に欠けるプレーや軽率なミスが時折見られる。そのため打撃好調にもかかわらず、時折スタメンを外されることがある。しかし2009年には規定打席にあと8打席にまで迫り、ほぼレギュラーに定着した。
経歴
2006年のシーズンは上田佳範、井上一樹、英智らとポジションを争い、オープン戦の活躍により2番・中堅手として開幕スタメン出場を果たした。2戦目で、山崎浩司の左中間に抜けそうなあたりをダイビングキャッチするというファインプレーをみせた。しかし打力不足の印象は否めず、5試合目からはスタメンを外れ、その後は主に守備固め・代走として出場となった。オフには左打席で結果が残せなかったためスイッチヒッターから右打ちに専念することを決めた。
2007年春季キャンプにおいて、北谷(ちゃたん)でほぼ毎日3時間かけて1562スイングと荒行を成し遂げるも落合博満監督は「これから毎日だよ。足りなけりゃ4時間でも5時間でもいい。長くなってくるよ。限界?限界なんてあるか」と発言。。藤井の目標は「総合アップさせたい。1日1600スイングで鍛える」であった。レギュラーシーズンは前年よりもスタメンの機会も多く、プロ初打点、初本塁打を記録し、自己最高の成績を収めたが、やはり守備固め、代走要員としての脱却は図れずにいる。また、捕手の田中大輔が2008年度から落合監督の意向で背番号を「22」に変更したため、「4」に変更となった。
2008年シーズンは4度の二軍落ちを経験するなど出番に恵まれなかった。オフにドミニカ・ウィンターリーグに新井良太、前田章宏とともに野手として初めて派遣された。リセイ・タイガースに所属して終盤に登録され、3打数1安打の成績であった。また、ドミニカでの経験と首脳陣の薦めもあり、ルーキーイヤーの2006年以来3年ぶりにスイッチヒッターに再転向することを決めた。自主トレでは左打者である立浪和義、福留孝介(現シカゴ・カブス)から左打ちのアドバイスを受けた。
2009年は長打力が開花した、飛躍のシーズンとなった。春季キャンプ中の練習試合で左打席、右打席双方でヒットを放ち、オープン戦でも左打席、右打席それぞれで本塁打を放つなど最終的に32安打と最多安打を放つ活躍を見せた。好調のまま迎えた公式戦では開幕直後の6試合で4本塁打と前3シーズンにおける自身の通算本塁打数(3本)を既に更新している。6月30日の対阪神戦では、3点差をひっくり返す、プロ入り初の逆転満塁本塁打を放った、4月28日の故郷豊橋での試合でスタメンで凱旋、過去の豊橋のゲームでは代打登場したが凡退、故郷豊橋では未だノーヒット。9月6日、対横浜戦新潟でのゲームで和田一浩と交錯し骨折。規定打席到達まで残り8打席での無念の戦列離脱だった。しかし、9月15日にリハビリを開始し、驚異的な回復力で10月17日、東京ヤクルトスワローズとのクライマックスシリーズ第一ステージ初戦にて一軍復帰、スタメン出場し、復帰早々3安打と復調をアピールした。
人物
入団時、入場曲を中日スポーツで公募してTHE BLUE HEARTSの『TRAIN-TRAIN』に決めた(後に変更、同曲は巨人・鈴木尚広の入場曲として定着)。しかし2008年まではカウボーイビバップのOP、『Tank!』を、2009年当初はTHE BLUE HEARTSの『キスして欲しい』だったが現在は『Tank!』と交互に使用している。
2006年の春季キャンプで、ファンから「君の名前はわからないけど、とりあえず、全員分のサインがほしいからサインして」と、言われたことがある。
少年野球時代のコーチでもあった父親は愛工大名電の投手として県大会の決勝で投げた。川相昌弘から「自分には無いものを持っている。全ての面においてレベルアップすれば億も稼げる」(2006年中日優勝記念誌から一部抜粋)と期待されている。
健康診断で利き目がないと言われた。
打席での応援歌は、5小節目と6小節目がかつての同僚であるタイロン・ウッズの応援歌の出だしの2小節と全く同じである。
梵英心とは社会人時代、ともに日本代表(ワールドカップ)に選出されて以来仲が良い(合宿中、大会中は同部屋だった)。同じ2006年にプロ入りし、その後はシーズン中も食事に行くなど深い交流がある。
2007年日本シリーズ制覇の際のビールかけに漫画「おぼっちゃまくん」の登場人物である「貧乏っちゃま」こと貧保耐三のコスプレ(前部はスーツだが後部はゴムバンドで止めてあるだけ)で参加。背中にはマジックで「鉄砲肩 バーフィールド藤井」と書いてあった。この「バーフィールド」とはかつて読売ジャイアンツでもプレーし、強肩で知られたジェシー・バーフィールドを指すものと思われる。
2008年12月18日放送のガッツだ!ドラゴンズにゲストとして出演した際、2008年で一番喜んだことはドミニカのウィンターリーグで活躍し、翌日の地元新聞のトップを飾ったこと。またウィキペディアの自身のページに『チームでのニックネームがちくわ』と記されていたことについて『言われたこともないのに・・・』っとしゃべっていた。
プロ入り時はスイッチヒッターであったが、左打席で結果が出せない(2006年はファームですら一割台)ため、落合監督の指示により2007年春から右打席一本に専念していたが、2009年から首脳陣の薦めとドミニカでの経験から再びスイッチヒッターとして再挑戦することを表明している(ちなみに、現在他の中日のスイッチヒッターは澤井道久のみ)。
右打席と左打席でバットを変えている。ちなみに左打席に使用しているバットは同僚の新井良太と同じタイプのバットを使っている。荒木雅博もたまに使っていて10月18日のヤクルト戦で決勝点になるタイムリーを放ったときに「ナイスバット」と言ったものの見事にあしらわれた。尚、荒木はこの決勝打以来はこのバットを使い続けた。
2009年のクライマックスシリーズ第二ステージで敗退し恩師の立浪和義が現役を引退、立浪がロッカーで選手一人一人に挨拶をした、その中で藤井は泣いていたと10月25日のサンドラで立浪本人が語っている。藤井自身はポストシーズン前の時はケガでリハビリをしていて立浪和義の引退試合に居られなかったことを非常に悔やんでいたらこそ泣いたのではないかと思われる。
記録
初出場・初打席:2006年3月31日、広島戦(ナゴヤD) - 2番中堅で先発、3打数無安打/1回黒田から死球
初安打:2006年4月1日、広島戦(ナゴヤD) - 6回大竹から右前安打
初打点:2007年5月25日、西武戦(西武D) - 2回グラマンから右犠飛
初本塁打:2007年5月27日、日本ハム戦(ナゴヤD) - 1回武田勝から右越ソロ
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