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松井秀喜

松井 秀喜(まつい ひでき、1974年6月12日 - )
石川県能美郡根上町(現能美市)出身のプロ野球選手。
ポジションは外野手(現在は指名打者)。
愛称はゴジラ。代理人はアーン・テレム。



経歴

幼少期
1974年6月12日、石川県能美郡根上町(現能美市)に、宗教法人瑠璃教会の司教である父・昌雄と母・さえ子の次男として生まれる。生まれたときの体重は3,960グラムであった[1]。家族は両親と兄の他に祖父の与三松がいた。瑠璃教会の開祖である祖母の瑠璃寿は秀喜が生まれる前に既に他界していたが、生前に「神の子が生まれる」「そのうち松井という名前が新聞を賑わす時代がやってくる」という予言を残していた[2]。「子供も大人と同じように一人前に扱う」という両親の教育方針から、「ひでさん」と呼ばれて育てられた[3]。3歳で自宅近くの根立山口保育園に入園。好き嫌いなくよく食べたため、当時から既にずば抜けて大柄な体格で、保育園史上最大の園児と言われた。当時の保育園の先生は「8歳ぐらいに見えました」と語っている[4]。父の影響で阪神タイガースのファンになった秀喜は、6歳の夏休みに初めて阪神甲子園球場に観戦に訪れ、掛布雅之のサインボールを手に入れた。以降、掛布は秀喜の憧れの選手となる[5]。

体格が一際大きかったため、根上町立浜小学校1年生の時に3年生以上で構成される軟式野球チーム「根上少年野球クラブ」に特別に入団させてもらったが、まだ幼すぎて監督の指示などが理解できず、一旦野球をやめてしまった経験がある。4年生の時に父から再入団を勧められるが、幼少時のショックは大きく、拒否している[6]。しかし、野球に打ち込む3歳上の兄・利喜に触発され、小学5年生の夏休みに再び軟式野球チームに入り、本格的に野球を始めた。その頃から、既にプロ野球選手を夢見ていた[1]。右利きの松井が左打者になったのは、この兄たちと野球をしているとき、あまりにも打ちすぎるためにハンデとして左で打つように言われたことがきっかけである[7]。小学生時代には町の少年柔道教室に在籍しており、わんぱく相撲大会で優勝した経験もある。小学5年生の時には、柔道の石川県大会で3位になった。当時の柔道指導者は、「あのまま柔道を続けていればオリンピックも夢ではなかった」と語っている[8]。当時の松井は、周りの子供に比べると一際体が大きく、どちらかというと目立ちたがり屋な性格だった。しかし、本人曰く「要領がよかった」ため、先生に怒られることはあまりなかったという[1]。当時から自宅横の倉庫でのティー打撃を毎晩行っており、小学6年の時、昌雄さんにボールをトスするマシンを買ってもらった。この日課は高校卒業まで続き、巨人入団後もしばらくはトスマシンを寮に持ち込み、練習に使った[6]。

三、四歳頃からピアノも習い始めており、小学校四年生で兄と「マイ・ウェイ」を連弾するほどの腕前で、モーツァルトを愛聴していたこともあり、「根上のモーツァルト」と称された。現在もクラシック音楽を好んで聴くが、巨人入団後はピアノを弾く機会が無くなり、今はもうピアノは弾けなくなっている[9][10]。

中学時代
中学進学にあたって、野球をやるか柔道を続けるかで悩むことになる。地元の根上町立根上中学校には柔道部がなかったため、柔道部のある中学に越境入学するプランもあった。しかし、「高校生になったら甲子園に出たい」という夢を実現させるために、根上中学校に進学して野球に専念するようになった[11]。中学時代は高桑充宏監督の下で捕手をつとめ、2年夏なら投手に転向した[12]。通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。3年生になると飛距離は130mにも達し、軟球を割ることもしばしばあった。代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになったという[13]。練習試合で敬遠気味の四球を受けた際、バットを叩きつけ投手を睨み付けるという不貞腐れた態度をとった。これを見た自軍のコーチが激昂し、試合中にもかかわらず、松井を呼びつけて顔を何度も張った。この経験が後の5打席連続敬遠の際の落ち着いた対応につながったという[14]。中学三年生時の松井の体重は90kgを軽く超えていて、肥満気味の体型だった。星稜高校の山下智茂監督は同校の試験を控えた松井に対し、「うちの野球部に来るなら、体重を80kgまで落としてきなさい」と伝え、入学時には言われたとおりに、10kg以上の減量をしてきたという[15]。

高校時代
1990年
星稜高等学校に入学。当初は自宅から近く、兄も通っていた公立の小松明峰高校に進学するつもりだった。しかし、既に松井の実力を高く評価していた星稜高校の山下智茂監督からの熱烈な勧誘や、中学野球部の監督やコーチに薦められて星稜に進学することに決めた。また、当時は高校卒業後に直接プロ入りするのではなく、慶應義塾大学への進学を希望していた[16]。
投手として入部したが、本人曰く「投手はあまり好きではなかった」ため、すぐに野手(一塁手)に転向[17]。その後、三塁手に転向する。星稜高校の入学式前から野球部の練習に参加し、他校との練習試合では「4番・サード」で出場してヒットを放った。1年生から4番打者を務め、(5番は3年生の村松有人だった)夏の甲子園では3打数0安打でチームは初戦敗退。ちなみに、この大会には中村紀洋や、イチロー(鈴木一朗)も出場したが、いずれも初戦で敗れている。秋は北信越大会で松商学園に敗れ、選抜出場を逃す。この年には、練習試合で愛工大名電と対戦しており、当時2年生のイチローと初めて顔を合わせ、一塁ベース上で言葉を交わしている[18]。
1991年
高校2年夏の甲子園では、強打のみならず俊足も話題に上っていたが、初戦(2回戦)沼津市立高戦では松井の走塁で沼津市立高をかき回し接戦に勝利した。3回戦の竜ヶ崎一戦でライトスタンドに甲子園初本塁打を放った。準々決勝では松商学園に勝利して北信越大会の借りを返す。夏休みに部内で体力測定を行った際、背筋力250kg、バーベル上げ150kgと、関係者曰く「清原和博以来の数値」を出した。もちろん部内では圧倒的だった。新チームでは山下監督にキャプテンに指名される。星稜では毎年キャプテンは部員による投票によって選んでいたが、山下監督が松井の統率力や影響力を高く評価していたため、特例として任命したのだという[19]。秋の明治神宮大会では勝ち進み優勝をする。
1992年
高校3年春のセンバツでは、阪神甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されて本塁打が激減したにもかかわらず、松井は開幕試合である初戦の宮古戦で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打と、当時の大会記録をマークした。2回戦の堀越戦で難しいカーブを本塁打したのを長嶋茂雄が見ていたのがきっかけで巨人入りしたという話は有名である[20]。しかし、準々決勝の天理戦では本塁打は出ず、自らのエラーもありチームは敗退した。この年に、全国的に有名になった松井は星稜高校のほぼ全校生徒からサインを求められ、さらに生徒が他の人物に譲るために複数枚のサインを欲した。その要望に松井は拒否することもなく全て応えていたが、それを見た教員達が心配して「松井君のサインは1人5枚まで」と生徒および学校関係者に通達したという。
夏の甲子園は2回戦の対明徳義塾戦で敗退。この試合で松井が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を開くなど、社会問題にまで発展した。明徳義塾の馬淵史郎監督は試合後、『(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた。』とコメントしている。
高校通算打率は.450、本塁打は60本(ホームランボールは60個全部は揃っていないという)。高校通算60号は国体の対尽誠学園戦の第4打席、高校最終打席で記録。ちなみに、「柵越えしたものがホームラン」という松井のこだわりから、ランニングホームランは数に含まれていない。ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、打撃練習であまりにも柵越えを連発するため練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、桁外れの話題性から「10年に1人の怪物」と言われていた。9月には韓国・ソウル で行われた日米韓3国親善高校野球大会に日本代表の一員として出場した[21]。
ドラフトの目玉となった松井には報道陣が殺到し、11月になると星稜高校の校門前に毎日多くの記者やカメラマンが待機するようになった。「このままドラフト本番を迎えれば、えらい騒ぎになる」との声が地元で上がり始め、ドラフト前には異例の「報道規制」が敷かれた[22]。11月21日のドラフト会議で巨人、阪神、中日、ダイエーの4球団から1位指名を受け、抽選の結果交渉権を獲得した巨人に入団。契約金は1億2,000万円。年俸は720万円。外れ1位で阪神は安達智次郎、中日は佐藤秀樹、ダイエーは大越基を指名。
松井の交渉権を引き当てたのは13シーズンぶりに巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄。当時の松井は阪神入りを熱望しており、ラジオで交渉権が巨人に決まったことを知ると、記者会見で複雑な表情を浮かべ、「阪神に行きたい、という希望がありましたから。まだ整理もついていないけどその気持ちも次第に薄れていくと思う」と語った[23]。その後、長嶋から直接電話を受けて感銘を受け、すんなり巨人入りを決めた。阪神ファンである彼の気を引くために、長嶋は監督就任会見の前に旧知の記者に「星稜高校の松井秀喜選手が大いに注目されていますが、監督はどうお考えですか?」と質問するよう頼んでおき、「ほしいですね、この手で是非育ててみたい逸材です」と答えた。これを自宅のテレビで見た松井父子は興奮し、巨人入りの意思が高まったという[24]。なお、この年のドラフト会議で、当初巨人フロントは松井ではなく伊藤智仁を指名する予定だったが、長嶋が松井の獲得を熱望したため松井指名に切り替えている。
星稜高校時代、「居眠りしても死角になるから」という理由で窓際の一番前の席が教室での「指定席」となっていたが、山下監督は「(松井の)授業態度はよかった」と打ち明けている。野球部の練習が大変で、通学に時間もかかるため、授業で全てを覚えようと心掛けていたため、成績も良好であった。野球部の活動以外での欠席は1日もなかった[6]。星稜高校の卒業式では、野球部での活躍が評価され、同高校を経営する学校法人稲置学園から「総長賞」を贈られた[25]。

巨人時代
巨人入団会見で、他の新人選手が抱負として憧れの選手名、具体的な成績目標を述べる中、松井は「サッカーや相撲に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べた。新人ながら球界全体を考慮した発言をした。

プロ初のキャンプでは150m級の場外弾を連発し、ファンの度肝を抜く。キャンプ2日目にはフリー打撃で13本の柵越えを放ち、「こんな高校生、見たことがない」とコーチに言わしめた[26]。川上哲治、青田昇等の野球評論家は「王貞治より上」と絶賛した。テイクバックが小さくフォロースルーが大きい力任せでない本当のスラッガー、という評価だった。高校時代は三塁手であり、入団時は原辰徳を始め内野手の衰えもあり、引き続き三塁を守ると思われたが、長嶋監督は外野手へとコンバートした。長嶋は「あの程度の三塁手はごまんといますよ、それよりも100m11秒台の俊足、遠投110mの強肩をもっと活かしてみたいと思い外野手とします」と説明した。松井本人には「ジョー・ディマジオのような皆に愛され、夢を与えられる選手になれ」と激励した。

1993年
オープン戦に7番で出場するも、プロの投球の速球に手こずり[27]、三振と凡打の山を築く。オープン戦は53打数5安打、打率.094に終わり、20三振は全体トップだった[28]。4月7日に長嶋監督から二軍落ちを通告され、公式戦開幕は二軍で迎えた。二軍落ちを通告された際には、「落としたことを後悔させるように頑張る」と語り[6]、その宣言通り、イースタン・リーグの開幕戦で新人の伊藤智仁からホームランを放つなど12試合で.375、4本塁打の活躍を見せ、5月1日の対ヤクルトスワローズ戦(東京ドーム)に7番レフトで一軍デビューを果たした。初打席は西村龍次からセカンドゴロ。2打席目には同じく西村からライトフェンス直撃の2塁打を放ち、初安打初打点を記録。翌日の試合では、9回裏に高津臣吾から内角の直球(ヤクルトの野村克也監督が松井が内角球に強いという話を確かめるために高津に投げさせた。別の説では当時の高津はストレートで勝負する癖があったためおまえのストレートは左の強打者にはこんなもんだと示したかったため投げさせたとも。)をライトスタンド中段に運びプロ入り初本塁打。興奮の余り、試合後ロッカールームから引き揚げる際、足元はスリッパのまま「打っちゃった」と喜びを露わにした[6]。その後は各球団のマークに遭い、6月には二軍に降格するが、8月下旬に再び一軍に昇格するとヒットを連発し、セ・リーグ高卒ルーキー新記録となる11本塁打を放った。オフの契約更改では1060万円増の1900万円でサイン。目標の2000万円には届かず、会見では渋い表情を見せた[29]。
1994年
開幕戦で2本塁打。4月には自身初の月間MVPを受賞した。同年のオールスターゲームではセ・リーグ史上最年少で4番を打った。中日ドラゴンズとのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「10.8決戦」でも本塁打を放つなどチームのリーグ制覇に貢献。迎えた日本シリーズでは西武ライオンズを破りチームは日本一、自身も2年目で20本塁打を記録した。オフに石川県の実家に帰宅した際、父・昌雄は彼がマスコミを一瞥し片手を上げる仕草に驕りを感じたという。そして、「自分を主観的に評価してはいけない。世間の人々は野球という君のごく一部の面を評価しているだけで、君という人間全てを評価しているわけではない。それなのに、今日の君のマスコミへの対応には明らかに傲慢さを感じました。お父さんには分かります。謙虚さを失った君の姿は周囲から見て醜く映るだけではないか」と諭した。松井は「確かに僕は日本一に貢献できたことで得意満面だったから、父の言った通りだと思います。あのような言いづらいことを言わせてしまったことを申し訳なくも思うし、また感謝している」と話している。
1995年
22本塁打を放ち、初のベストナインを受賞。8月24日の横浜戦でレギュラーシーズンでは初の4番を打った。1995年頃、フジテレビ系の子供番組ポンキッキーズの企画で、室内練習場にて野球少年と対決した。結果は、1人目はファーストゴロ、2人目はライトスタンド上段への本塁打だった。ヤクルトが最高勝率マジック1で迎えた9月30日神宮球場で行われた試合では9回裏二死で打席に立ち、その年の最優秀バッテリー賞受賞するテリー・ブロス及び古田敦也にセンターフライに仕留められた(優勝決定時の中堅手は飯田哲也)。この年のオフには、苦手な内角球を克服するために、身体に当たりそうな極端な内角球を打つ練習を行った。その甲斐あって、翌年から成績が飛躍的に向上することになる。後に、松井はこのシーズンオフが野球人生のターニングポイントだったと回想している[30]。
1996年
自身初の開幕4番スタートだったが、5月からは落合博満が4番に返り咲き、松井は3番に戻った。その後チームの上昇と共に成績も上昇し、夏場には7月、8月と2か月連続で月間MVPを獲得するなど、大逆転優勝に大きく貢献。初のセ・リーグMVPを受賞した。リーグ最終戦まで山崎武司、大豊泰昭と本塁打王を争っていたが、山崎に1本リードされて迎えたシーズン最終戦の中日戦では、すべての打席で敬遠されてタイトルを逃した。それでも、22歳での38本塁打は王貞治に並ぶ年齢別最多本塁打記録である。また、同一投手からのシーズン最多本塁打のタイ記録の7本塁打を斎藤隆から放った。この年の斎藤隆との対戦成績は25打数7安打で、安打のすべてが本塁打であった。最終的に130試合に出場し、打率3割1分4厘、38本塁打、99打点の成績で、名実ともにスーパースターの仲間入りを果たした。オフには各種表彰、パーティーの出席が相次ぎ、取材も殺到。契約更改では倍増の1億6000万円で一発サインした。高卒選手ではイチローと並ぶ史上最短(当時)の入団四年目で一億円プレーヤーの仲間入りを果たした[31]。
1997年
4月27日の広島戦で通算100本塁打を達成。4月は好調で10本塁打を放つ好スタートを切った。最終的に打率は3割を僅かに下回ったが、37本塁打を放った。しかし、ドゥエイン・ホージーとの本塁打王争いに1本差で敗れ、史上初の2年連続1本差でタイトルを逃すことになった。打点は初めて大台を突破する103打点を挙げるが、ルイス・ロペスに及ばず無冠に終わった。
1998年
キャンプ中に左膝を痛め[32]。そのまま左膝の具合が思わしくないままシーズンを過ごし、その影響でプロ生活最大のスランプにも悩まされた。開幕戦は4番を打ったものの、スランプの影響で清原和博に4番の座を奪われる。4月は打率.190、2本塁打に終わったが、5月は月間MVPを受賞するなど本来の調子を取り戻し、その後は順調に打ち続け、7月28日のヤクルト戦で通算150本塁打を達成。最終的には34本塁打、100打点で自身初のタイトルとなる本塁打王、打点王、最高出塁率のタイトルを獲得。オールスターでは4試合連続本塁打(新記録)を放った。左膝は当時のチームドクターから「棚障害」「軟骨破損」と診断されるほどの重傷であったが、患部の周囲の筋肉を鍛えることで乗り切り、手術による長期離脱は回避した[33]。この時の負傷は長きに渡って松井を悩ます「古傷」となり、10年後の2008年には遂に症状が悪化し、同年9月に手術に踏み切っている。
1999年
前年の日米野球でサミー・ソーサからアドバイスを受け、シーズン前に広角に打つことを意識したフォームに改造[34]。5月29日の東京ドームでの阪神戦でダレル・メイ投手からデッドボール(二塁走者の清水隆行の三盗阻止のためと思われる)を受け、怒りの表情を出して即バットを放り投げ、メイに2、3歩歩み寄った際、球審に止められてその場でうずくまり、これより球場全体が一瞬どよめいた。試合後『あれは絶対故意に違いない』とコメント。その後試合ではサヨナラ三塁打を放った。6月5日の横浜戦から6月10日の中日戦まで5試合連続本塁打を記録する。9月21日の阪神戦では通算200本塁打を達成。7月のオールスターで代打出場した際にわき腹を痛め、7月30日の広島戦で遂に先発メンバーから外れた。この時点で現役最多だった連続フルイニング出場が574試合(当時歴代3位)で止まる。長嶋監督が松井に負担のかからない形で連続試合出場記録を尊重することを決め[35]、以後8月中旬までは記録のために1イニングだけ守備固めとして出場する。ケガの影響が響いてロベルト・ペタジーニと2本差で本塁打王を逃すことになるが自己最高の42本塁打を記録。日本人のシーズン40本塁打は1989年の落合博満以来10年ぶりの快挙だった。また巨人では1977年の王貞治以来22年ぶりの快挙であった。シーズン終了直後の10月24日には、ヤンキー・スタジアムで初めてメジャーリーグの試合(ALCS第2戦)を生観戦している。この経験は強く心に刻まれ、後のメジャーリーグ挑戦を決断する要因の1つにもなった[36]。
2000年
この年は開幕から四番に座り、以後日本シリーズ、日米野球なども含めて、他の打者に四番を譲ることはなかった。右小指をグリップにかける打法に変えたことで、あまり強くバットを握らずにリラックスして構えられるようになったことで打撃は凄味を増し、シーズン半ばまでは三冠王を狙える勢いで打ち続けた[37]。7月12日の広島戦で通算1000本安打を達成。最終的に135試合全イニングで四番に座り、いずれも自己最高の打率3割1分6厘、42本塁打、108打点をマーク。シーズン全試合四番出場は巨人では1950年の川上哲治以来50年ぶりの記録だった。本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP、日本シリーズMVP、ゴールデングラブ賞を受賞し、巨人の日本一の立役者となった。なお、この年の日本シリーズMVP受賞によって川上哲治、大下弘、福本豊に次ぐ史上4人目の「シーズン、オールスター、日本シリーズにおけるMVP獲得者」となった。プロ野球界に最も貢献した人物に贈られる正力松太郎賞も初受賞した[38]。同年の日米野球では、メジャーリーグ選抜のボビー・コックス監督に「ゴジラはいいねえ。バットスイングが速い」と称賛された。この時点では「大リーグなんて、そんな」とメジャー挑戦に否定的だったが、「野球をやっていて、大リーグを全然考えないと言ったら、うそになるかもしれません」と2年後のFA移籍に含みを持たせた[39]。11月21日には石川県県民栄誉賞を受賞した[40]。契約更改では、松井のメジャー流出を危惧した球団側が8年総額56億円という破格の長期大型契約を持ちかけたが[41]、松井は「一年一年が勝負という気持ちでプレーしたい」として単年契約に拘り、球界最高(当時)の年俸5億円でサインした[42]。
2001年
4月12日の中日戦に1000試合目の出場で通算250本塁打を達成。5月3日の中日戦で当時史上5人目の1000試合連続試合出場を達成[43]。5月5日から8月13日までセ・リーグ歴代1位の65試合連続出塁を達成する。9月27日に自身初の1試合3本塁打を記録するなど9月は打撃好調で月間MVPを受賞した。この年、初の首位打者のタイトルを獲得したが、全イニング出場での首位打者は王貞治、イチローに次ぐ史上3人目の快挙である。一方で、本塁打数はなかなか伸びず、20号本塁打を放ったのは8月7日であった。8月まで年間30本に届かないペースで推移していたが、9月にようやく量産体制に入ると、シーズン最終戦での3本塁打を含む月間11本塁打と巻き返したが、最終的な本数は36本とやや数を落とした。本塁打王のタイトルは当時本塁打王争いをしていたペタジーニに再び奪還される。この年の松井は、打球が上がらずにホームランが出ないという悩みに悩まされていた。この年の打撃について、松井は後に「あの年首位打者を取ったけど、打撃は最後まで狂ったままだった」と語っている[44]。FA権獲得が目前に迫り、下交渉では球団から5年総額50億円の大型複数年契約を提示されたが[41]、これを断り当時プロ野球史上最高額となる年俸6億1000万円で単年契約した。契約更改後の会見では、来期にFA権を行使することを明言し、このまま巨人に残るか、アメリカに行ってみるか二者択一になる」と語った[45]。
2002年
「日本一」、「三冠王」の2つを目標に掲げてスタート[46]。開幕後間もない4月13日にFA権を取得。7月9日に黒田博樹から通算300号本塁打を放つ。28歳0カ月での到達は王貞治の27歳3カ月に次ぐ史上2番目の年少記録であり、1200試合目での達成は史上6番目に速さであった[47]。オールスター前までは、前年同様打球が上がらず76試合で18本塁打だったが、後半戦は64試合で32本塁打という驚異のペースで打ち続け、自己最多、史上8人目の50本塁打を記録する。セ・リーグでは1985年のランディ・バース以来17年ぶり、巨人では同じく1977年の王貞治以来の25年ぶりの快挙となった。本塁打における最強のライバルでもあるペタジーニに9本差をつけた50本目のホームランは2002年の本拠地最終戦のヤクルト戦(東京ドーム)で記録。最終打席はキャッチャーへのファールフライを打ったところ捕手の米野智人が落球。次の投球で本塁打を放った。7・8月と2か月連続で月間MVPを受賞。9月7日の広島戦でプロ野球新記録となる5年連続100得点を記録した。シーズン終盤までは打率3割5分台を維持し、三冠王目前だったが、シーズン終盤に調子を落とし、首位打者争いで福留孝介にタイトルを譲った。打率、本塁打、出塁率では自己最高の成績で、本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVPを獲得した。
シーズン終了後の10月11日には原監督と[48]、16日には土井球団代表とそれぞれ会談[49]。長嶋前監督とも長時間会談し[6]、残留を要請されたが、結論は日本シリーズ後に持ち越した。10月18日には、ニューヨーク・タイムズ紙でニューヨーク・ヤンキースが松井の獲得を狙っていることが報じられた[50]。日本シリーズで西武を下し、日本一の栄冠に輝いた翌日の11月1日、FA権を行使してアメリカ・メジャーリーグへの挑戦を表明。「最後の最後まで悩んで苦しかった。何を言っても裏切り者と言われるかもしれないが、いつか『松井、行ってよかったな』と言われるよう頑張りたい。決断した以上は命を懸ける」と決意を語った。[51]。本人はFA宣言をするときに自らを「裏切り者」と発言していたが、裏切り者だと考えるジャイアンツファンはほとんどおらず、日本球界全体で松井の成功を祈っていた。寧ろ彼がそれだけプロ野球ファンのことを考えている証左だとする賞賛の声や、移籍決断に至るまでの彼の苦悩に対し同情する声が少なくなかった[6][52][53][54]。球団関係者は沈痛な面持ちで「球界の財産である松井選手のアメリカへの流出を防ぐことができず、応援してくださるファン皆さんには何とお詫びしたらいいか…」と、まるで不祥事でも起こしたようなコメントを残した。メジャー球団との交渉にあたって、代理人のアーン・テレムに「ヤンキースとだけ集中して交渉してほしい。ヤンキースがダメだったら次のことを考えよう」と伝え、ニューヨーク・ヤンキースへの入団を熱望した。ボストン・レッドソックスやニューヨーク・メッツも松井獲得に名乗りを上げていたが、11月19日にニューヨーク・ヤンキースと3年総額2,100万ドルで契約に合意。ニューヨークの新聞各紙は「ゴジラがブロンクスにやってくる」という大見出しをつけた。契約後の会見で、松井は「ヤンキースはメジャーの中でも素晴らしい伝統がある。素晴らしいプレーヤーがたくさん在籍した球団。自分の中でも一番刺激があるチームで自分の力を存分に発揮したかった」と語った[55]。巨人からFA権を行使して移籍したのは1994年の駒田徳広(横浜へ移籍)以来2人目であった。
松井は長年ジャイアンツの精神的支柱であり、また、松井より後に入団してきた選手たち(特に仁志敏久、清水隆行、高橋由伸、二岡智宏)の目標となり、当然選手会長も務めていた。伝統である「ジャイアンツの4番は日本の4番」ともなり、他球団のファンでありながら松井を応援しているプロ野球ファンも多く、甲子園での阪神戦でも愛される数少ないジャイアンツ選手の1人であった。松井が抜けてから3年余り後の間のジャイアンツの低迷・人気の陰りは松井がヤンキースへ移籍したことが原因だと考えるジャイアンツファンが多い。松井在籍時の10年間巨人はリーグ優勝4回(うち日本一3回)だったが、松井が抜けた2003年以降、4年間にわたってリーグ優勝から遠ざかった。球団の人気、巨人戦のテレビ観戦視聴率、球場への観客動員数もそれぞれ低下し、また、松井/清原と共にMKT砲と呼ばれた高橋由伸が怪我や故障に苦しみ始め、長嶋全盛期の頃の選手が次々と他球団へ移籍もしくは現役引退し、以前に増して戦力補強が繰り返されるようになった。これらの出来事は、いかに巨人にとって松井の存在が大きかったかを物語っている。
ジャイアンツ時代の契約更改は、必ず毎年12月24日に行ったことで「クリスマス更改」と呼ばれた。大物選手は下交渉をシーズン中から行うのが慣例のため、球団との交渉時間よりもインタビューの方が長いほどで、松井はきれいに一発更改が続いていた。また、松井自身があまり金額に拘りを持っていなかったことも理由のひとつだという。その後、ヤンキースに移籍してからも契約更改を保留をしたことは一度もない。さらに巨人時代には更改の記者会見時にくす玉を割ったり、おもちゃのバズーカ砲を発射するなど、何らかのパフォーマンスをすることがお約束となっていた。松井は、マスコミに対して「この日(クリスマスイブ)あたりは、1人でヒマなんですよ。忙しくなれるようにしたいです」と冗談交じりで話していた。

ヤンキース時代
2003年
ニューヨーク・ヤンキースの一員としてメジャーリーグでのキャリアをスタート。3月31日、公式戦開幕試合のトロント・ブルージェイズ戦に5番レフトで先発出場し、初回にメジャーを代表する右腕のロイ・ハラデイ投手からレフト前へのタイムリーヒットを放ち、初打席・初安打・初打点を記録。4月8日の本拠地開幕戦ミネソタ・ツインズ戦では前打者のバーニー・ウィリアムスが敬遠された後の打席で2-3からジョー・メイズ投手の145キロをライトスタンドに叩き込み、第1号満塁本塁打。4月12日にはメジャー初のサヨナラヒットを放つ。その後はメジャー独特の手元で変化する速球と日本と比べて広いストライクゾーンの外角球に対応できず、ゴロの山を築き深刻な打撃不振に陥る。しかし、6月に入るとジョー・トーリ監督の「もう少しホームベースに近づいてみてはどうだ」というアドバイス[56]で10 - 15cmホームベースに近づいたことが功を奏して調子を上げた。
7月に行われたMLBオールスターゲームにファン投票のア・リーグ外野手部門で三位に入り初出場を果たした。日本人では1995年の野茂英雄、2001年のイチローに続く3人目のオールスターゲーム出場となった。しかし、日本からの組織票に助けられた形での選出に関しては現地メディアなどで賛否両論の論戦が起こり[57]、試合ではスタメン出場を果たし1安打を放ったものの、ブーイングを浴びせられた[58]。また、スター選手とのバット交換用に日本から24本のバットを取り寄せたが、誰にも声をかけることが出来ずに、結局全て持ち帰った。「来年はホームラン競争に出られるようなバッターになりたいです」と語り、翌年の再出場を誓った[59]。
7月17日、オールスター出場後の後半開幕戦のクリーブランド・インディアンズ戦でデービット・リスキー投手の146キロの速球を右中間スタンドに運び、日本人メジャーリーガー初のサヨナラ本塁打を放った。この時、ヤンキースの有名なラジオアナウンサージョン・スターリングは「SA・YO・NA・RA」と実況した。ヤンキースの新人としては67年ぶり3人目の100打点以上を記録した(26年のトニー・ラゼリ、43年のビリー・ジョンソン) 7月22日には松井のバブルヘッドが14歳以下の先着1万8千人にプレゼントすることになった。
地区シリーズではポストシーズン日本人初のホームランを放った。ボストン・レッドソックスとのリーグ優勝決定シリーズ第7戦では、8回裏にホルヘ・ポサダの適時打で同点のホームを踏んだ際に大きく跳び上がり、全身で喜びを表した。。フロリダ・マーリンズとのワールドシリーズ第2戦では、ワールドシリーズでの日本人初ホームランとなるホームランを放った。レギュラーシーズンでは、新人として、ヤンキースの選手として、21世紀になってメジャーリーグで初めてシーズン163試合に出場した選手となった[60]。しかし、期待されたホームラン数(レギュラーシーズン)はわずか16本に終わり、満足のいく結果を残したとは到底言えない内容であった。それでも、得点圏打率はチーム最高の.335、打点は主砲のジェイソン・ジアンビに1点差のチーム2位となる106打点を叩き出し、勝負強さを発揮した。二塁打数は42本で、1936年にジョー・ディマジオが記録したヤンキースの新人最多記録(44本)にあと2本と迫った。一方で、併殺打はリーグ2位の25個を数え、ゴロアウトはリーグ最多の223にも上った[61]。そのため、5月の打撃不振時には、地元メディアは内野ゴロの多さから“ゴロキング(Ground Ball King)”と揶揄した[62]。新人王の受賞も有力視されたが、投票ではアンヘル・ベローアにわずかに及ばず2位に終わった[63]。
2004年
前年に16本塁打に終わった反省から、シーズンオフに大幅な筋肉増量に取り組んだことにより、松井の身体、特に上半身は一回り大きくなった[64]。それが功を奏し、重心の位置を下げてスタンスを広めにしたことにより[65]、左方向へのHRも増加した。オープン戦は絶好調で本塁打と打点のチーム2冠王に輝いた[66]。タンパベイ・デビルレイズとの日本開幕戦(東京ドーム)に先立って開催されたヤンキースと巨人の親善試合では凱旋本塁打を放った。巨人の投手が松井に四球を与えるとファンからブーイングが起こった。デビルレイズとの開幕2連戦では「2番・左翼」でフル出場し、2戦目には日本のファンの前で第1号本塁打を放った。
米国に戻ってからは61打席本塁打なしであったが、4月24日のレッドソックス戦で観戦に訪れた両親が見守る中、久々の第2号本塁打を放った。その後は前年より大幅に速いペースで本塁打を量産し、6月4日には、前年より41試合早い53試合目で10号本塁打に到達。5月最終週には二度目の週間MVPも受賞した。6月19日、20日のロサンゼルス・ドジャース戦ではメジャー移籍後初の2試合連続本塁打を放った。前半戦だけで前年を上回る17本塁打に到達。オールスターゲームにはファン投票外野手部門での選出こそ惜しくも逃したが、最終投票で120万票を集めて選出され、「三十二番目の男」として2年連続で出場を果たした。トーリ監督からはホームランダービーへの参加を打診されたが、「僕が出たらビールの缶が飛んでくる」と辞退した[67]。
球宴明けの7月15日には日米通算350本塁打を達成、同時に日米通算1500試合連続出場に達した。8月7日、対トロント・ブルージェイズ戦でメジャーリーグ移籍後初の2打席連続本塁打を放った。8月15日のシアトル・マリナーズ戦で前年のワールドシリーズ以来の4番に座ると、シーズン後半には4番打者に定着した。9月30日、対ミネソタ・ツインズ戦で日本人選手初の3試合連続本塁打を放った。最終的には前年のほぼ倍にあたるシーズン31HRをマークし、打率こそわずかに3割を下回ったが、三部門全てで前年を上回る好成績を残し、ヤンキースの主軸打者としての地位を確立した。
プレーオフでは打棒が爆発し、11試合で51打数21安打、打率.412、3本塁打、13打点を記録。前年に引き続いての対戦となったボストン・レッドソックスとのアリーグチャンピオンシップシリーズではリーグチャンピオンシップシリーズ史上最多タイとなる14安打、28塁打を記録。第3戦には、これまた最多タイの1試合5安打、5得点を記録するなど絶好調であったが、チームは先に3連勝しながらまさかの4連敗を喫し、ワールドシリーズ出場は逃した。オフには徹底した筋力強化に取り組み、大幅な体重増(103kg→110kg)を遂げている[68]。
2005年
開幕前は本塁打王のタイトル獲得にも意欲を見せていたが[69]、4月9日から5月29日にかけて46試合、202打席連続本塁打なしという不調に陥った。誕生日の6月12日には右足首を捻挫し、途中交代するアクシデントもあったものの、DHでの出場も挟んで粘り強く出場を続けた。6月20日には自身3度目の週間MVPを受賞(6試合で打率.455、3本塁打、10打点)[70]。6月は全試合で出塁を記録し、月間打率.398、6本塁打、23打点と好調であったが、翌月の球宴には出場を逃した。7月28日は、アーニー・バンクスを抜いてメジャーデビューから425試合連続出場の新記録を樹立[71]。
シーズンを終えてみると、3年連続で全試合出場を果たすと共に、メジャーでは自己最高となる打率.305、116打点を記録。打率はイチローを上回るリーグ7位で、打点は8位。打率、本塁打、打点の主要三部門全てで日本人最高の成績であった。松井自身は打率と打点で前年を越える成績を残したことに満足感を示したものの、本塁打の減少については来年の課題にすることを誓った[72]。9月8日には日米通算400本塁打を達成。チームは地区優勝を果たしたが、エンゼルスとのディビジョンシリーズでは2勝3敗で敗退し、松井自身も20打数4安打の打率.200と押さえ込まれてしまった。第5戦では、5打席全てに走者を置きながらいずれも凡退し、8LOBという屈辱的な結果に終わった。ポストシーズンで5打席全てに走者を置いて凡退した打者は、MLB史上でビル・バックナーに次いで二人目であった[73]。
2005年限りで3年契約が切れるため、シーズンオフには契約延長交渉を開始。途中交渉が難航し、一時は移籍も考えたというが、最終的にはヤンキースと4年総額5,200万ドルで契約を延長。「最高に幸せです。」とコメントし、高評価での契約延長に満足感を示した。キャッシュマンGMが「松井はグラウンドでの才能だけでなく、日本のファンをひきつける力がある」と述べたように、ビジネス面での貢献度も評価された形となった[74]。なお、このときの契約にはトレード拒否、故障以外の理由によるマイナー降格を拒否する権利や、一定以上の出場機会が保証される条項が含まれているとされる。
2006年
開幕前に行われたワールド・ベースボール・クラシックの出場を辞退し、シーズンに備えた。春季キャンプでは、古傷の左ひざ痛が再発したり、持病の花粉症に悩まされるなど、万全とは言えない状態であり、本人も「正直よくない」と不安を漏らしていたが[75]、開幕戦で1本塁打を含む4安打を放ち、幸先の良いスタートを切る。4月18日にはデビュー以来500試合連続出場を達成。
5月11日に本拠地ヤンキー・スタジアムで行われたレッドソックス戦の1回表、マーク・ロレッタの放った浅めのフライを滑り込んでキャッチしようとした際にグラブが芝生にひっかかり、左手首を故障、そのまま途中交代した。1イニング守備に就かずに交代したため、巨人時代の1993年8月22日から続いていた連続試合出場記録が「1768」で途切れた。ニューヨーク市内のコロンビア大メディカルセンター病院で即日の検査を行った結果、左手首(橈骨)骨折と診断。翌朝に手術が行われ、リハビリ生活に入る。8月17日には98日ぶりにベンチ入りし、8月30日にはフリー打撃を再開した。2006年9月12日、124日ぶりに対タンパベイ・デビルレイズ戦ヤンキー・スタジアムに8番・指名打者で先発出場。満員の観衆からスタンディング・オベーションで迎えられ、4打数4安打の活躍で復活を遂げた。復帰後は14試合で打率.430を記録するなど好調で、最終的には51試合の出場ながら打率.302をマークした。チームも9年連続で地区優勝を果たしたが、デトロイト・タイガースとのディビジョンシリーズでは16打数4安打、0本塁打、打点1と目立った活躍が出来ず、チームも2年連続でディビジョンシリーズ敗退となった。
2007年
2月、著書『不動心』(新潮新書)を刊行。自らの人生を振り返りながら、心構えや思考法を説いた本書は30万部を超えるベストセラーとなった。開幕から4試合目の4月7日、オリオールズ戦の2回の第1打席目に捕ゴロで一塁へ走った際、左太股に一瞬つったような違和感を訴える。その後2イニングはストレッチなどで様子を見ながら守備に就いていたが、太股の張りが消えないため、4回の第2打席目の直前で首脳陣は代打を告げ、そのままベンチ裏に退いた。翌日よりDL入りとなった。MRI(磁気共鳴画像装置)診断の結果、左太股の軽い肉離れが判明。故障は順調に回復、DL入りの期限が切れる4月23日に出場選手登録され、同日のデビルレイズ戦へ16日ぶりにスタメン復帰となった。
5月6日、本拠地での対シアトル・マリナーズ戦で、日米通算2000本安打を達成。日本から駆けつけた金田正一名球会会長の目の前での快挙達成であり、名球会入りを果たした。当初は外野手のエラーと記録されたが、後にツーベースに訂正された。直後判定に両チーム乱闘が起こった。試合後のインタビューにて、記念のボールについて問われると「エラーだと思ったから、どっかにいっちゃった」と発言し、周囲を笑わせた[76]。「ひょっとして」と考えた球団職員が保管しており、試合後に本人に渡されていた[77]。日米通算2000本安打は日本人メジャーリーガーとしては、イチローに次いで2人目。その後は打撃不振に陥り、6月26日には、地元紙から他4選手と共に、勝てない直接の原因として名指しされた[78]。
7月に入ると一転して打撃好調で打ちまくり、出場28試合で打率.345、28打点の成績。長打率.735、13本塁打、31得点はリーグトップだった。8月2日には、7月のア・リーグ月間MVPに選出された。2003年6月に月間新人MVPを受賞しているが、月間MVPは初受賞。8月5日、ヤンキースタジアムでのロイヤルズ戦で、メジャー通算100号本塁打を達成。夏場の活躍とは裏腹に、終盤からプレーオフにかけては右膝の故障に苦しみ、目立った成績をあげられなかった。チームは3年連続で地区シリーズ敗退、松井も4戦で打率.182(11打数2安打)に終わった。シーズン成績は25本塁打・103打点と一定の数字を残したが、本人はオフのインタビューで「今季は失敗しかなかった。話になりませんよ」と振り返り、怪我や要所での凡退を繰り返したことに悔しさを滲ませた[79]。
シーズン終了後の11月14日にニューヨークの病院で右膝の軟骨を除去する内視鏡手術を受け、無事に成功した。オフにはトレード候補として名前が上がり、ストーブリーグの目玉候補の一人としてサンフランシスコ・ジャイアンツのティム・リンスカム投手とのトレードが日米で盛んに報じられた[80]。その他にも、ロサンゼルス・ドジャースやミネソタ・ツインズとのトレードの噂が持ち上がり、松井本人もトレードを打診された場合には契約条項にあるトレード拒否権を行使する可能性を示唆したものの[81]、結局トレードは実現せずヤンキース残留となった。打点を多く叩き出すため、この年にはチーム内で「パックマン」という愛称がついたことがある[82]。ゲームのキャラクターのように打点をパクパク呑み込んでいく連想からという。
2008年
3月26日、富山県出身の25歳日本人女性(元OL)とアメリカ合衆国ニューヨーク市内で挙式。翌日に新婦の似顔絵と共に記者会見を行い、結婚を報告した。相手が元会社員で一般人のため、プライバシーを考慮して、顔写真や出身地、氏名は公表していない[83]。
野球では監督の交代もあり、開幕前はレギュラーが確約されなかった。開幕は「8番・DH」からのスタートとなったが、序盤は打撃が好調で打順も上がり、一時は打率.337で首位打者に立った。4月から5月にかけては自己最長となる19試合連続安打を放った。また、2008年のオールスターは同年限りで閉場する地元ヤンキースタジアムで行われる最後のオールスターゲームということもあり、松井も「こんな舞台は二度とない。出られれば一生の思い出になると思う」と出場を熱望し、地元の石川県の公式サイト上でファン投票の呼びかけが行われた[84]が落選した。6月になっても好調を持続させ、首位打者争いをしていたが、6月18日の試合前、突然古傷の左膝に痛みが走り、患部に溜まった水を抜く治療を受けた後、ジラルディ監督とキャッシュマンGMの意向で6月27日に故障者リスト入りした。オフに手術した右膝を無意識にかばい、左足に負担が掛かっていたことが原因だった[33]。持ち上がった手術の話に関しては、7月17日の段階では「(手術を)球団に勧められれば受け入れる 」との考えを示していた[85]。しかし、2日後にGMから手術を勧められた際には態度を一転させ、2時間もの説得にもかかわらず手術を拒否した[86]。その後、2か月に渡る治療・リハビリののち、8月19日のブルージェイズ戦から復帰、主に「7番・DH」として出場をつづけたが、万全には程遠く打撃は低迷。チームのプレーオフ進出も困難になった9月後半からは再び控えに回り、21日のヤンキー・スタジアム最終試合の先発出場(「8番・DH」)を最後にシーズンを終えた。
直後の22日、左膝の内視鏡手術に踏み切った。その翌日、ヤンキースの14年連続プレーオフ進出の可能性が消滅、松井も「責任を感じている」と語った[87]。最終的に打率は3割を下回る.294、安打数は99、本塁打も一桁の9本と寂しい成績に終わった。シーズン終了後に、ニューヨーク・デイリーニューズが実施したアンケートでは、47%が松井の放出に賛成という結果になった[88]。11月にはシアトル・マリナーズとの間でトレード話が持ち上がったが、結局立ち消えになった[89]。
2009年
「3割30本100打点」[90]「4盗塁」[91]を個人成績での目標に掲げてスタート。膝のリハビリを最優先したために、スプリングトレーニングでの調整に出遅れてしまい、オープン戦も序盤は不振が続いたが、故障のため離脱したアレックス・ロドリゲスに替わって4番に座り、4月4日には、新ヤンキー・スタジアムの杮落としに花を添える本塁打を放つ等、オープン戦で4本塁打を放った。開幕戦では4番・指名打者として出場、7回に2点本塁打し、恩師である長嶋茂雄の通算444号を超え、日米通算445号となった。しかし打撃の調子はなかなか上がらず、5月に以降も膝の腫れや太もも痛などの怪我が断続的に発生した。ロドリゲスの復帰後は、打順が5番や7番に下がり、休養を入れながらのDHとしての起用が続いた。また、2009年からは完全に「DH(指名打者)」としての登録になったため、DH制のないナ・リーグの本拠地球場(ブッシュ・スタジアム)で行われるオールスターのファン投票にはノミネートされなかった。
5月下旬には守備練習を再開。5月27日、敵地でのテキサス・レンジャーズ戦では、日米通算450号となる6号本塁打を含むニ打席連続を放った。しかし、地元有力紙ニューヨーク・ポストは6月1日、複数のヤンキース首脳の話として、松井がどのような活躍をしても契約は今シーズン限りであると報じた[92]。キャッシュマンGMは同紙の報道を肯定も否定もせず、松井の来季契約についてはまだ白紙であるとした[93]。その後も18打席連続無安打を記録するなど打撃不振が続いた。また、DH制が採用されないナ・リーグ本拠地でのインターリーグ(交流戦)では全試合で先発を外れた。交流戦期間中の6月17日には阪神タイガースが松井の獲得に向けた調査を進めていることが明らかになり、松井本人は「ありがたい」と好意的なコメントを発表した。ほかにも巨人やオリックス、さらには独立リーグの石川ミリオンスターズが松井の獲得に意欲を見せていると報じられた。しかし、「それと日本に戻るという話は別問題」と語り、メジャーで現役生活を最後までやり抜くという決意は何一つ変わっていないことを強調した[94]。7月20日のボルティモア・オリオールズ戦では、2003年以来6年ぶり2本目のサヨナラ本塁打を放ったが、直後から13打席連続無安打に陥るなど、例年好調の7月も不完全燃焼に終わった。
8月13日のシアトル・マリナーズ戦では2本塁打を含む4安打5打点と爆発したが、直後に左ひざの状態が悪化してシーズン初の連続欠場となった。しかし復帰後8月21日のボストン・レッドソックス戦にて3ラン2本を放つなどして自己最高の一試合7打点を記録。2日後のボストン戦でも2HRを放つ活躍を見せた。こうして8月は中旬から比較的好調を維持して.281、25打点、8HRという成績を残し、勝負強い打撃を見せた選手に贈られる「クラッチ・パフォーマー賞」を贈られた[95]。9月19日のマリナーズ戦で26号本塁打を放ち、ドン・ベイラーを抜いて指名打者での年間最多本塁打の球団記録を更新した。一時は5年ぶり2度目の30発超えも期待されたが、惜しくも届かなかった。それでも、メジャー移籍後では2番目に多い28本塁打を放ち、チーム3位の90打点を叩き出す勝負強さで3年ぶりの地区優勝に貢献した。レギュラーシーズン全日程終了後、「明らかに打率が低いのは反省点。(28発は)よくも悪くもない」と総括した。また、4年ぶりに1度も故障者リストに入らなかったことを喜んだ[96]。米国のスポーツ専門誌「スポーティング・ニューズ」が選定するア・リーグ・オールスターメンバーにも指名打者部門で選出された[97]。
ポストシーズンには、主に「5番・指名打者」として出場。ミネソタ・ツインズとの地区シリーズ第1戦では、試合を決定付ける2点本塁打を放った[98]。ロサンゼルス・エンゼルスとのリーグ優勝決定シリーズでは、初戦で2打点と活躍し、チームを勢い付けた。第4、6戦では無安打とやや調子を落とし、打順も6番に下がったが[99]、ヤンキースは4勝2敗でエンゼルスを下し、メジャー1年目の2003年以来6年ぶりにワールドシリーズへと駒を進めた。迎えた前年の覇者フィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズでは再び5番に復帰し、持ち前の勝負強さを存分に発揮した。初戦こそ好投手クリフ・リーの前に1安打のみに終ったが、第2戦では1-1の同点で迎えた6回裏に、ペドロ・マルティネスから値千金の決勝本塁打を放った[100]。フィリーズの本拠地シチズンズ・バンク・パークで行われた第3~5戦は、指名打者が使えないため代打での出場となった。第3戦では代打で2試合連続となる本塁打を放ち、第5戦でも左前打を放つなど、僅かな出番ながらも結果を出した[99]。ヤンキースの3勝2敗で本拠地に戻った第6戦では先発メンバーに復帰し、2回にまたもペドロ・マルティネスから先制の2点本塁打を放つと、3回には中前適時打、5回にも右中間を破る適時二塁打で2打点ずつを加え、ワールドシリーズ・タイ記録となる1試合6打点をマークした。ファンからは「MVP!」の大歓声が沸き起こった。メジャー移籍7年目にしてチームの9年ぶりの世界一に貢献し、13打数8安打3本塁打8打点で日本人選手初となるワールドシリーズMVPに選出。両膝に不安を抱えながら過ごした2009年のシーズンを最高の形で締めくくった[101]。また、日本シリーズMVPとワールドシリーズMVPを共に受賞した初の選手となった。
ヤンキースとの契約満了に伴い、11月9日にFAを申請した[102]。

野球選手としての特徴

打撃
巨人時代は日本球界を代表する長距離打者。日本時代の10年間で332本塁打を放っており、王貞治超えも期待されていた。日本人打者の中では抜きん出たパワーが最大の魅力。ホームランの飛距離はメジャーでもトップクラスで、その並み居る強打者の中でも引けをとらない。大リーグ公式サイトで“moon shot“、”monster shot”などと形容される特大ホームランを連発する。日本時代の松井をよく知る古田敦也は、松井の凄さは並外れたパワーだけではなく、優れた打撃技術にあると語っている。古田によると、松井は比較的外めの球でも右方向へ引っ張る技術に長けており、どんなコースでも打球を前で捉えることが出来る打者だという[103]。しかし、メジャー移籍後は、日本よりも外に広いストライクゾーンと、本人曰く「見たこともないボール」という打者の手元で微妙に変化しながら外角に落ちる球(ムービング・ファストボール)に苦しみ、内野ゴロの山を築く大スランプに陥る。これにはかなり悩んだという松井だが、日本時代のようにボールを前で捉えるのではなく、出来るだけ体に近付けてから確実にバットの芯で捉えるスタイルへと切り替えた[104]。また、外角のボールに対しては、「打てないボールは、打たなくていい」という一種の“あきらめ”を持つと共に、左手を徹底的に鍛え、レフト側に強く打ち返すという気持ちを持つことで、次第に克服していった[30]。こうしてメジャーに適応していった松井だが、ボールを体に近付けてから打つスタイルに変えたことで飛距離が出にくくなり、ホームラン数は日本時代に比べて大きく減少した。しかし、次第にメジャーの投手が投げる球の軌道にも慣れ、2009年頃には再び体の前でボールを捉えることが出来るようになった。その結果、メジャー7年目にして自己最高の本塁打率を記録し、プレーオフでも4本塁打を放つ活躍を見せた[104]。

日本時代は狭い東京ドームを本拠地にしていたが、球場の広さは全く関係なく、広いナゴヤドームや甲子園球場でも本塁打を量産していた[105]。現在も左打者にホームランが出やすいヤンキー・スタジアムを本拠地としているが、球場に関係なく本塁打を放っている。2009年は28本塁打のうちヤンキー・スタジアムで放ったのは半分以下の13本塁打で、残りの15本塁打はビジターで放った[106]。右・中堅方向の打球は大リーグでも一級品であるが、右投左打の打者であることから「どうしても左手が弱い」と自己分析しているように[30]、左方向へ流し打つ打球はあまり伸びがない。メジャー7年間で放った140本塁打のうち、左方向への本塁打は10本にも達しない[107]。不調時には打球が上がらずに、内野ゴロが増える傾向にある。日本時代の2001年や2002年の前半も打球が上がらずに苦しんだ経験がある。最新のセイバーメトリクスなどを扱う米国の大手記録サイトFangraphs[2]によれば、シンキングファストボールに苦しんだ2003年のGB/FB(全ゴロ数÷全フライ数)は2.30に達し、全打球に占めるゴロの割合は54.7%に達した。一方で、フライの割合は23.8%に過ぎなかった。これはゴロが多いことで知られるイチローとほぼ同じ数字であった。しかし、メジャーに対応した翌年からは打球が上がることが多くなりフライ性の割合が増え、GB/FBも0.89~1.36の範囲で推移している。

メジャー移籍前は「メジャーでもホームラン打者でありたい」と語っていたが、先述の経緯からメジャーリーグ移籍以降は本塁打が減り、自らを「メジャーでは中距離打者」と評すことが多くなった[108]。各種データからも、強打者から巧打者への変身が見て取れる[109]。日本時代は5度のOPS1.00超えを果たしたが、メジャー移籍後は2004年の.912が最高であり、長打率も2004年と2009年を除いて.500を切っている。メジャーでの本塁打減少については、朝日新聞紙上の上原浩治との対談において、上原からメジャー移籍後は1シーズン50本塁打を打てていないことを指摘された際に、「打てるわけねえだろ!(ボールが)飛ばない。」[110]と答えていることから、日米のボールの質の違い(メジャーで使用される球は日本で使用される球より格段に飛ばないとされる)が大きく影響していると思われる。

それでも、他の日本人選手が例外なく本塁打数を大きく減らす中、松井はシーズン20本塁打以上を記録(4度)した唯一の日本人選手である[111]。2004年には、現時点でアジア人唯一の大台到達となる31本塁打を放ち、翌2005年は打率、本塁打、打点の三部門全てで日本人トップの成績だった。2009年終了時点でメジャー通算140本塁打を放っている。度々本塁打へのこだわりを滲ませる発言もしており[112]、2009年開幕前には、打率よりも本塁打にこだわる本来の姿に戻ることを明言した[113]。同年は本塁打にこだわる姿勢に戻り、先述のように技術的にも開眼したことで、本塁打率や長打率は上昇した。

長打だけでなく高打率を残す器用さも兼ね備えている。日本時代の通算打率は3割を超え、2001年には首位打者のタイトルも獲得している。メジャーでも2005年に打率.305を記録、それ以外の年も2009年以外は3割前後の打率を残している。選球眼に優れており、打席ではしっかりとボールを見極め、無闇に早打ちはしない。早いカウントでのボール球に手を出すことは少なく、2ストライクに追い込まれても簡単にはあきらめない[114]。三振の数もあまり多くない。「全ての打者に共通するのは打率」という意識を持っており、本塁打数よりも打率を調子・相性の判断基準にしている[115][116]。特に苦手としているコースが無いことも安定した打率を残せる要因であったが、2009年は外角球の打率が大幅に低下し、ヒットゾーンが限られたコースに狭まった[114]。また、引っ張る打球の率が上昇し、いわゆるプルヒッターとなった。そのため、夏場以降は相手チームから右方向への打球に備えた守備シフトを敷かれるようになった[117]。2009年はそれまで得意にしてきた速球に対する成績も低下し、外角球への対応と併せて打率低下の要因になったと見られている[114]。

メジャー移籍後は最もチームの勝利に直結する打点にこだわるようになり、勝負強さには定評がある。メジャー在籍6年間で4度も100打点以上を記録した。元MLBのコラムニスト、ラリー・ロッカは「松井はゲームに勝つために必要なさまざまな武器をもっている。それはホームランを40本打つよりも重要なことだ」と評価している[118]。

左打者ではあるが、対左投手も全く苦にしない。メジャー1年目の2003年は、対右投手と対左投手の打率は共に.287であり、翌2004年こそ対右投手が.314、25本塁打、対左投手が.265、6本塁打とバラつきが目立ったが[119]、2005年は対右投手が.281、15本塁打の成績だったのに対し、対左投手では.354、8本塁打と打ち込んだ[120]。2009年も左投手から本塁打を量産し、左打者としてはプリンス・フィルダーと並んで両リーグ最多タイとなる13本塁打を左投手から放った[106]。

2009年までにメジャーリーグで計625人の投手と対戦したが、20打席以上対戦した投手は36人である[121]、その中で対戦成績のOPSが1.000を超えている投手は9人で、特にジェームズ・シールズ(1.450)、 ジェレミー・ボンダーマン(1.398)、ダグ・ウェクター(1.378)、デレク・ロウ(1.315)とは相性がよく、完全にカモにしている。そして、サイ・ヤング賞2回のメジャーを代表する左腕ヨハン・サンタナも得意にしており、対戦成績は19打数7安打、打率.368、2本塁打、OPS1.166を記録している。
逆に分が悪いのが現エンゼルスのスコット・カズミアー(.567)である。また、メジャー移籍直後に多く対戦したペドロ・マルティネスには通算28打数4安打(OPS.450)、特にメジャー1年目の2003年は10打数無安打と抑えられていたが、2009年のワールドシリーズではホームラン2本を含む4打数4安打5打点と打ちまくった。また、通算56回対戦している同地区ボストン・レッドソックスのナックルボーラー、ティム・ウェイクフィールドに対しても苦手意識を持っている。ウェイクフィールドに対しては、2009年終了時点で通算49打数10安打の打率.204、OPS.671であり、「あの球は打てない。だって、あんな球を投げられる投手がいないんだから、練習のしようがないんだもの」と感服している[122]。また、メジャー初安打を放った相手であり、「最高の投手」と敬意を払うトロント・ブルージェイズのロイ・ハラデイとは全投手中最多の63回対戦しており、59打数14安打の打率.237ながら、全投手中最多の4本塁打を放っている。以前はハラデイを大の苦手にしていたが、近年は苦手意識を克服している[123]。

しかし、投手との相性は基本的に考えないようしており、「相手との相性は考えない。投手によって、ある程度狙い球を絞って打席に入るだけ」と語っている[124]。対戦機会が多いハラデイに対しても、対戦する時は狙い球を絞るようにしている[125]。

ちなみに、日本時代には、石井一久を大の苦手にしていた[126]。1999年には遠山奬志に13打数無安打に抑えられたが、翌2000年に遠山から本塁打を含む3安打を放つと、2001年以降は逆に打ち込んだように、努力・工夫を積み重ねて苦手投手を克服する忍耐強さを持っている[127]。


走塁
プロ入り時には俊足を買われて外野手にコンバートされたこともあり、元々走塁には定評のある選手だった。百メートル走のタイムは11秒台であり、メジャーリーグの中でも決して遅い方ではなかった[128]。巨人時代には、入団3年目と5年目には年間9盗塁を記録している。しかし、巨人が高橋由伸、清原和博、江藤智といった大砲を次々に獲得し、長距離砲で打線を固めるようになってからは、積極的な走塁を見せることは少なくなった。近年は相次ぐ脚の故障により、満足な走塁を行うことが難しくなっている。そのため、一部では走塁と守備については「三流」という厳しい声も上がっている[129]。

走塁中のアクシデントを防ぐために、日頃から足の爪の手入れを熱心に行っている[130]。

守備
守備位置は高校時代までは主に三塁手であったが、プロ入り後に外野手(主に中堅手)へコンバートされ、2000年から2002年まで3年連続でゴールデングラブ賞を獲得した。巨人時代もある時期までは三塁手復帰を熱望し、再コンバートが度々話題となったが、実現しなかった。ヤンキース移籍後は中堅のレギュラーにバーニー・ウィリアムスがいたため、主に左翼手として起用されるようになった。2008年シーズンまでの6年間で、左翼手として545試合、中堅手として76試合、右翼手として6試合に先発出場している。メインの守備位置である左翼では4,808イニングで22失策、守備率.980、Range Factor(RF、9イニング当たりのアウト達成数)2.06という数字を残している。

守備力に関しては、守備範囲こそあまり広くないが[131]、ボールを取った後のスローイングに定評がある[132]。また、クローズアップされることは少ないが肩は強い方であり[133][134]、補殺数はア・リーグ左翼手の中でも多いほうである。また、本人は球際の強さにも自信を持っている[135]。一方で、2003年のRange Factor(RF)、Zone Rate(ZR。守備範囲内の打球処理率)はいずれもア・リーグ規定試合数到達左翼手8人の中で下から2番目(松井より下はマニー・ラミレスのみ)であった[136]。2003年は守備率も8人中最下位であった[137]。翌2004年は、Range Factorは9人中6位であったが、守備率はマニー・ラミレスに次いで下から2番目であった[138]。2005年はRange Factorこそ9人中7位であったが、守備率は過去2年に比べて改善した[139]。ただし、松井自身は際どい球でも積極的に捕りにいく守備スタイルであるため[135]、エラー数や守備率のみで一概に低い評価を下すのは早計である。

しかし、2006年以降は度重なる故障もあって、守備に関する評価はあまり芳しくない。2007年8月26日には、コメリカ・パークで行われたデトロイト・タイガース戦では、カーティス・グランダーソンが放ったレフト線への詰まった飛球の処理を誤り、ランニングホームランを許してしまうということもあった[140]。守備力を重視するジラルディ監督は、膝に不安のある松井に代わって、ジョニー・デーモンを左翼手のレギュラーで起用するようになり[141]、松井は指名打者での出場が多くなった。2008年6月に左膝を痛めてからは指名打者専任となっており、同年6月16日のアストロズ戦で左翼を守ったのが、現在のところ最後の守備機会となっている。一時は一塁手へのコンバート案も出されたが、キャッシュマンGMはそれを却下した[142]。2009年はプロ入り後初めて一度も守備に付く機会がなかった。

守備率や失策数といった表面的な数字や、RFのような古い守備指標によって松井の守備は過小評価されているという声もある。実際に、2007年はそれらの数値こそ目立たない値に留まったが[143]、最新のセイバーメトリクスを用いた評価では異なる結果が現れている。セイバーメトリクスのシンクタンク「Hardball Times」[3]が各外野手の送球をKill+(捕殺ポイント)、Hold+(走者を先の塁に進ませなかったポイント)、Runs/200(200イニングあたりに防がれた失点数)などの各数値により総合的に評価した「Best Outfield Arms」では、MLBの正左翼手30人中6位と上位にランクインした[144]。また、現在米国で最重要視されているプラス・マイナス・システムやPMRといった守備範囲や打球処理を詳細に分析した守備指標でも、松井は決して悪い順位ではない。むしろ、既に膝を痛めていた2007年のPMRでは好守で知られるカール・クロフォードと大差がなく、正左翼手の中ではトップクラスという分析結果が出ている[145]。更に、同年のRZR(各ポジションに対し、一定の守備範囲を定義し、その範囲内に飛んだ打球の処理率。ZRの改良版)では、ア・リーグの左翼手で1位、中堅手と右翼手を含めたア・リーグ外野手全体でも11位と上位であった[146]。

連続試合出場
監督からの信頼、強い精神力が求められる連続試合出場は、2006年の故障で記録が途切れるまで、日本で1250試合、大リーグで518試合(メジャーリーグでデビュー以来518試合連続出場は、日本人選手としては歴代1位)、日米通算1768試合を数える。『きめ細かい体調管理による安定したフィジカルコンディションがその要因』と言われていたが、2006年の骨折後に『初めて体重計を買った』や、2007年のプレーオフ敗退時の『体調を整えるって大変なことだな。若いときはそんなこと考えもしなかったけど』という本人のコメントから、生来の身体の頑丈さが出場を続けられた一番の理由のようである。2005年には「本塁打より、むしろ連続試合出場」と話す[147]など、連続試合出場には並々ならぬこだわりを持ち、「遠いところからわざわざ来てくれるファンのために」という考えによって休養日にも代打や代走、守備交代でわずかな時間でも出場し、2006年の骨折まで記録を維持した。しかし、地元ニューヨークのメディアからは「記録より、疲れた時には休んだ方がチームのためになる」と、 連続試合出場に懐疑的な声が上がったこともある[148]。トーリ監督も「連続試合出場記録を途切らせて悪者にはなりたくないからな」と発言したこともある[149]。このように、連続試合出場に並々ならぬ拘りを持っていたが、2006年の骨折直後には、「心の中でおびえる自分がいた」と記録がいつか途切れるかもしれないことに大きなプレッシャーを感じていたことを明かした。それと同時に、連続出場をサポートしてくれたトーリ監督に感謝の意を示した[150]。

骨折翌年の2007年シーズン初頭には「もう、連続試合出場記録が途切れたわけだから」というトーリ監督の提案を受け入れ、完全休養日をとるようになっている。2008年初頭にはスポーツ紙に「もう一度全試合出場」を目標としてあげるなど、依然として強いこだわりを持っているが、同年は休養を入れながらの出場となった上、夏には3年連続となるDL入りをしそのまま戦線離脱、翌2009年には度々スタメン落ちするようになり、怪我がちとなって以降は目標の達成も困難となっている。

個人よりもチーム
星稜高等学校、読売ジャイアンツ、ニューヨーク・ヤンキースと、常に名門チームに在籍しているため、松井は自分の成績よりもチームの成績にこだわるようにしている。その徹底ぶりは「10打数10安打してヤンキースが優勝できないより、10打数10三振してヤンキースが勝った方がいい」[151]と発言するほどである。2001年5月23日のヤクルト戦東京ドームでは、単打が出ればサイクルヒット達成という状況の8回第5打席でヒットを打つが、個人記録よりもチームの勝利を選び一塁ベースを蹴って二塁に進んだ。ヤンキース1年目のキャンプ中に監督のトーリが「エンドランのサインを出してもいいか?」と訊ねたところ、松井は「何でもします」と答えた。日本では50本を記録するほどのホームラン打者だったがメジャー移籍以降、ホームランが少ないことに対してもトーリは「チームのためにヒット量産に移行した」と発言している。

「いい数字を残しても、チームにとってためにならない。そういう選手には、なりたくない」[152]、野球がもしも個人成績を全く争わないスポーツだったら?」という問いに対しても、「全然構わない。勝つためにプレーしているわけだから、勝てばそれでいい」と答えている[118]。

一方で、2003年のオフには「メジャーでも、打撃3部門のいずれかでタイトルを争えるような選手になりたい」という考えを示している[153]ように、高いレベルの個人成績も併せ持つ選手を目指している。究極目標としているのは、チームがワールドシリーズを制覇した上で、それに最も貢献した選手としてMVPに選ばれることである[154]。しかし、あくまでタイトルは「獲得できればうれしい」という程度の位置づけであり、「タイトルを獲得しようと思って野球をしたことはありません」と語っている[155]。

所属球団のヤンキースには強い愛着を示しており、2005年に契約延長が成立した際には、ピンストライプのユニフォームを着て、ヤンキー・スタジアムでプレーできることは「最高に幸せ」だと語った[74]。しかし、近年は地元紙などからにわかに不要論が囁かれていることもあり、「ヤンキースで野球生活を終わるのが目標?」という問いには、「目標というより、そうなればいいとは思う。ヤンキースが一番好きだし、ヤンキースでプレーしたいけど、それがかなわないなら仕方ないという割り切りも持っています」と答えており[156]、ヤンキース残留を望んでいるが、執着はしていない。

2001年5月23日のヤクルト・スワローズ戦の8回裏に迎えた第4打席では、既に本塁打、三塁打、二塁打を放っており、単打が出れば自身初のサイクルヒット達成という場面で、松井が放った打球は快音を発してレフト線へ抜けた。しかし、松井は全く迷わず二塁を目指し、この日の2本目の二塁打となった。一塁に止まっておけばサイクルヒットだったため、周囲からは「もったいない」という声も上がったが、チームプレーを最優先に考える松井は「チームは負けていたんだから。何で一塁で止まらなくちゃいけないの?」とコメントした。このエピソードは、松井の献身的な姿勢を象徴するものとしてしばしば挙げられる[157]。

評価
打撃については概ね高評価を受けている。フリーエージェント(FA)移籍の際、MLB機構とMLB選手会の労使協定に基づいて選手評価の資料として使われるPLAYER RANKINGS評価(米大リーグ公認の記録専門会社「エライアス」が過去2年間の成績を独自の算出方法で計算して得点を付けたもの)では、2003-2004シーズン[158]、2005-2006シーズン[159]、2007-2008シーズン[160]のいずれもイチローらを抑えて日本人打者ではトップの評価であった。その全てで「A」ランクの高評価を受けており、ア・リーグ全体での一塁手・外野手・指名打者部門での順位は7位(2003-2004)、14位(2005-2006)、16位(2007-2008)であった。

塁打、四球、盗塁などを点数化し、選手個人の得点生産能力を測る指標である「XR(extrapolated runs)」[161]では、NPB在籍10年ながらNPB歴代10位につけている[162]。しかし、渡米直前3年間と渡米後の1打席当たりXRを比較すると、リーグのレベルの違いが影響し、実に35%ダウンしている[163]。米国で攻撃力を評価する指標として最重要視されているOPS(出塁率+長打率)は、MLB在籍7年間で通算.852を記録しており、各種指標の中で最も得点への相関が高い総合打撃指標「XR27」(XRの改良版)[164]は同7年間で6.28をマークしている。これはいずれも日本人メジャーリーガーの中ではトップの数値であり、松井が日本人では最も攻撃力に優れた選手であることを証明している。

Fangraphsが発表している打撃・守備等を総合評価し選手にどれだけの価値があるかを示す指標「Value Win」では、2008年までの6年間の合計で、総額3680万ドル分の年俸に見合う価値があるとされた(実際に6年間で受け取った年俸は総額6000万ドル)。故障で長期離脱した2006年と2008年を除くと、総額3020万ドルの価値があるとされている(当該2年間を除く4年間の年俸は総額3400万ドル)。

2008年2月21日、米スポーツ専門誌『スポーティング・ニューズ』は、「成績の割りに高年俸を得ていると思われる選手」のワースト5をカテゴリ別に発表した。その中で、前年度までの契約期間が2年以下である「契約期間の短い打者」の部門で松井が2位にランクインした(1位はJ.D.ドリュー)。同誌は年俸800万ドル以上の選手のうち、前年度以前から複数年契約を結んでいる86人を抽出し、100万ドルあたりで何勝に貢献したかを査定した。その結果、松井は過去2シーズンで0.9勝分しか貢献できていないとされた(平均は1.4勝分)。同誌は、「松井はかつて『鉄人』だった」としながらも、近年は度重なる故障により出場試合数が減少していることを指摘した[165]。

張本勲は自身の著書である『最強打撃力』(ベースボール・マガジン新書発行)において、「松井はまだ自分自身のボールを捉えるポイントを掴んでおらず、小細工でごまかしているところがある。だから好調時は素晴らしい働きをするものの、調子を崩すとなかなか抜け出せない」と指摘している。例えば2005年の開幕四試合で3本のホームランを放った後、202打席ホームランなし、という事実からそれが裏付けられる。さらに、「松井にとって自己最高の成績を残した2002年の 50本を打ったときでも、私から見るとポイントを掴んでいなかった」と記している。この著書に加え、インタビューでも「松井の決定的に悪い癖は、投手が振りかぶった時に背伸びすること。打者の目線が横に動くのはかまわないが、縦に動くのは絶対にいけない。これをどうにかしないと、メジャーの超一流の仲間入りは出来ないでしょう」と語っている。張本は巨人時代から常に松井に対して辛口であり、松井本人も「張本さん、オレになんか個人的な恨みでもあるのかな」と語っている[166]。

各種の人気調査などでは、常に上位にランクインしてきた有数の人気アスリートであったが、近年は相次ぐ故障やそれに伴う成績低迷、WBC辞退などの影響で陰りが見えつつある。中央調査社が実施している「人気スポーツ」調査における「最も好きなスポーツ選手」の項目では、2003年、2004年に2年連続で2位以下に圧倒的な差を付けた1位となったが、その後支持率は毎年じわじわと下降を続け、2009年には4位に下がった[167]。バンダイが実施している「お子さまの憧れのスポーツ選手は?」では2004年に1位[168]であったが、2009年には圏外であった[169]。CMの出演料は、イチロー、松坂大輔らと共に1億円を超えるとされており、スポーツ選手ではトップクラスである[170]。

チームメイトで主将のデレク・ジーターは、「マツイはお気に入りの選手。いいスイングをしているし、好調時は手がつけられない」「彼が考えているのはチームが勝つこと。まさしくプロだ」と語っている[171][172]。同じくチームメイトのアレックス・ロドリゲスは「ヒデキは野球をよく知っている。打つだけではなく走塁などのレベルも高い」と評価している[173]。アンディ・ペティットは「マッティ(松井の愛称)は出会ったときからずっと勝負強い選手であり続けた。とにかく勝負強いんだ」と絶賛している[174]。

特筆

人物
 松井秀喜は恵まれた体格と運動能力を、日々の努力で磨き上げてきた「努力の天才」と言われる。小学3年生の時に父から贈られた「努力できることが才能である」という言葉を大切にしており、父がその言葉を筆で書いた紙を長く、勉強机の前に張っていたという[6]。試合や練習はもちろん、取材の対応からプライベートの過ごし方に至るまで、グラウンド外でも若手の手本となる選手である。松井ほど人間的に素晴らしい選手はいないとも言われる[175]。松井は自身の性格について、「けっこう冷めているところがあるんです、何ごとにも! 物事に動じない? うん、よく言えばねっ(笑)。だからいつもボケッとしているんですよ(笑)。一人でいるのが好きなんです。」 と評している。基本的に温厚な性格で、野球以外の場で怒ることは少ない[1]。ヤンキースのチームメイトであるCC・サバシアは、「松井は普段は大人しいけど、でもとてもいいヤツだよ。」と人間性を高く評価している[176]。

本人いわく「他人の悪口を言わない」ということが松井の信条の一つである。中学二年生時の家族との夕食の際、松井が何気なく友人の悪口を言ったところ、父が箸をおいて「他人の悪口を言うような醜いことはするな。ここで二度とそんなことはしない、と約束しなさい」と注意した。松井は「父との約束ですから、あれ以来他人の悪口を言ったことはありません」と語った[177]。父の昌雄は宗教法人の司教であるが、「宗教は人から強制されて信仰するものではない」という考えから息子に宗教的なことは一切教えなかったため、松井自身は信者ではない[178]。しかし、祈ることは幼いころから習慣になっており、精神を安定させることは自然にできるようになったという[26]。

グラブ、スパイクなど、野球用具をとても大事に扱っている。特にグラブは毎日磨いており、松井本人は、「野球を始めたときからずっとしています」と話している。ジョー・トーリ元監督も、「彼ほど道具に対してリスペクトを持っている選手は見たことがない」といい、松井の人間性を非常に高く評価している[179]。道具を大切にする姿勢については、“道具を大切にしなさい”という子どもの頃の教えを忠実に守っており、グラブ磨きは「僕の野球の原点」だと語っている。また、「一本のバット、一つのグラブは、いろいろな人の苦労によって出来上がっている」ことを強く意識しており、用具作りに携わった人々への感謝の気持ちを常に抱いている[180]。

元来は父親譲りの熱狂的な阪神ファンで、掛布雅之の大ファンであった[1]ため、元巨人の選手にもかかわらず阪神ファンからの印象も悪くない。ドラフト会議で巨人が交渉権を得た時に、周りにいた友人たちは松井が阪神ファンと知っていたことから歓声も拍手も出来ずに静まり返ってしまった。後に阪神へ移籍した広澤克実が掛布の背番号であった31番をつけた時には、「その番号は僕が付けたい番号」と縦じまの31番に対する憧れをみせていた。

高校時代、日本選抜に選ばれアメリカで試合を行っている間は、ロサンゼルス在住の日本人一家の元にホームステイしていた。交流は現在でも続いており時々スポーツニュースでも放送されている。松井は一家の主人のことをアメリカのお父さんと呼び慕っている。

巨人の4番を長らく務めた松井の中で一番印象に残っている巨人の4番打者は落合博満であり、2000年に初めて四番に定着しチームも優勝を果たした時に松井は報知新聞の手記に「あの人は4番らしかった。雰囲気を持っていた。自分の世界があったんだ。チームが苦しい時に矢面に立っていた。いわば風除け。それが信頼感にもつながった。」と書いている[181]。

1996年の重油流出事故では100万の義援金を寄付[182]。2004年12月26日に発生したインドネシア・スマトラ島沖地震の際には義援金として5000万円を[183]、2007年3月25日に発生した能登半島地震の際には1000万円を寄付した[184]。ジャイアンツ時代から天災やテロでの被害者・被害地への義援金を一度に数千万出資している。ベトナムの孤児として暮らす10人ほどの子供たちに対しても、経済的里親として支援金を送っている[183]。

本業の野球以外にもCM撮影やTV出演など激務にもかかわらず、練習後にファンにサインをねだられても断らず、記者への対応も丁寧である。こうした振る舞いから、2005年度の小学校、2006年度の中学校の道徳副読本に登場、甲子園で5連続敬遠四球を受けた時の対応など、「誠実さ」が取り上げられた。

長嶋監督はドラフトで松井の入団が決まったところから、三年間で彼を球界を代表する選手に育てるための「1000日計画」を立ち上げた[185]。東京ドームの試合ならドーム内練習場で、遠征先ならホテルの長嶋の部屋で、松井に素振りをさせ付きっ切りで指導をしていたという。その場で長嶋はスイングの音で、松井のスイングの良し悪しを判断していたとのこと[30]。また、長嶋がナイター試合終了後に松井の携帯電話に連絡をしたら、松井が息を切らせながら電話に出ることから、深夜にかかわらず彼がトレーニングをしていることを確認でき安心していたという。長嶋は松井について「多くの選手は最初は一生懸命に練習するが、少し結果が出るとすぐに手を緩めたがるものだが、松井君は結果に関係なく常に何年か先の自分の姿を想像して、長い目で物事を見つめながら練習できる、数少ない選手ですね。だから好不調に関係なく、いつも自分に厳しい練習を課していました」と評している。松井は「長嶋監督に褒められたことは一度もありません。どんなに結果を出したつもりでも、お前はそのくらい当然だろう、といわないばかりの態度でした」と振り返っている。

赤木ひろこの著書「ひでさん 松井秀喜ができたわけ」には、青年期までの松井の統率力には、ずば抜けたものがあったことが記されている。小学校時はクラスのいじめられっ子が松井の後ろに隠れただけで問題は解決し、五年生のリトルリーグの際、新たに赴任した監督が既にキャプテンは決定済みだったにもかかわらずそれを白紙にし「松井君には統率力があるから、頼む」と言わしめるほどの存在感を見せ[186]、中学校時代には「松井君さえ味方につければこのクラスは大丈夫」と担任教師に評価されたほどで[187]、星稜高校では前述されているとおり、山下監督により部員間投票の慣例を覆し、山下から直にキャプテンに指名された。

以上のように、真面目な性格という印象が強い松井であるが、意外にも遅刻魔としても有名で、遅刻に関するエピソードや記事は枚挙にいとまがない。2004年のオールスターでも遅刻し、アリーグ32選手中最後に球場入りしている[188]。巨人時代から、遅刻するとなぜか本塁打を打つことが多い[189]。2009年のワールドシリーズ第2戦の試合前には渋滞に巻き込まれて集合時間に30分遅刻したが、試合では決勝ホームランを放った。デレク・ジーターは「俺も明日から遅れてくるさ。まあ、本塁打を打ってくれるなら、毎日遅刻しても気にしないよ」と冗談交じりに語った[190]。米メディアでも、松井が遅刻すると何故かホームランを打つ「ジンクス」が報道された[191]。一方で、松井本人は「遅刻したつもりないんで、わからない(笑)」「え、反省?昔からしてない」と開き直っている様子である[192]。

英語力
自他共に温厚な性格と認める松井であるが、渡米して7年目になった今でも、まだ英語を流暢に話すことは出来ない[193]。インタビューなどの公式の場では、ロヘリオ・カーロン専属通訳を通して受け答えをしている[194]。しかし、7年間の米国生活で英語力は飛躍的に上昇し、日常生活やチームメイトとの会話も通訳なしで全く問題ないレベルまで向上している。それにも関らず通訳を入れている理由については「僕の拙い英語で万が一、誤解が生まれると困るから」と語っている。また、「仕事を奪ってはかわいそうだからね」と、カーロン通訳にも配慮している[195]。

ニューヨークの地元記者によると、松井のリスニング能力には定評がある[196]。チームメイトのCC・サバシアは、松井の英語力について「松井はいい英語を話すよ。こちらの言っていることは全て理解しているし、会話するには十分だ。」と評している[176]。

愛称
ニックネームは「ゴジラ」。初めてマスコミが「ゴジラ」の愛称を用いたのは、1992年の春の選抜大会前のことであった。名付け親は、日刊スポーツで高校野球を担当していた女性記者だった。当初、松井は「ゴジラなんて勘弁してくださいよ。もっと可愛いニックネームはないんですか?」と不満気だったが[197]、甲子園での活躍で全国に「ゴジラ」の愛称が一気に知れ渡ることになる。その後、街を歩いていた時に子供に「あっ、ゴジラがいるぞ!」と声をかけられたことで、自らの愛称を快く受け入れられるようになった。ちなみに、高校2年生の秋に選ばれたオールジャパンのチーム内では「怪獣」という仇名が付けられていた[198]。

2002年の映画『ゴジラ×メカゴジラ』、2009年の缶コーヒー「キリン ファイア」のテレビCMでは本物のゴジラと共演をした[199]。米国へ移ってからも「ゴジラ」の愛称はヤンキースファンに受け入れられ、ヤンキースタジアムで松井がホームランかタイムリーヒットを打つと、ゴジラの咆哮音が流される。英語では、ニックネームを名前の間に挟むのが通例のため、『ヒデキ・ガッズィーラ・マッツーイ(Hideki "Godzilla" Matsui)』と呼ばれることもある。ヤンキースの公式サイトにあるファンフォーラムでは「mats」、または好機に強いことから「Clutchzilla」と呼ばれ[200]、ヤンキースのチームメートは「mats」と呼ぶことが多いが、ジョー・ジラルディ監督やアンディ・ペティットは「matty」、巨人時代の原監督は「ゴジ」と呼んでいた。先述のように、2007年にはチーム内で「パックマン」という渾名を付けられたことがある。

インターネット掲示板「2ちゃんねる」の一部では、松井のことを「にしこり」と表現している。これは、松井を最も少ない文字数で表現した顔文字である。元々は「にっこり」であったが、改良を加えられて「にしこり」に落ち着いた。松井は記者からこのことを教えられ、「何これ、オレ?」「へえー、面白いじゃん。誰が考えたんだろうね」とほほ笑んだ[201]。

背番号
背番号は巨人・ヤンキースを通して一貫して55番を付けている。巨人に入団当時、本人は高校時代に付けていた5を希望していたが、当時は在籍していた岡崎郁選手が付けていた。たまたま55が空いていたため55になったという説もある。巨人時代に年間最多本塁打55本を打った同球団OBでの王貞治の記録にあやかって付けられたもの。ヤンキースに移籍した時には「背番号は何番でもいい」と言う発言をしていたが、たまたまその時にヤンキースで55番をつけている選手がいなかったため、ヤンキースでも55番をつけることができた。松井がヤンキースに移籍した後の巨人では2008年シーズン終了時まで誰も55番を付ける選手がおらず、事実上「暫定欠番」という扱いになっていた。しかし2009年シーズンから2008年度ドラフト会議で巨人に1巡目で指名された大田泰示が付けることになった。実績皆無の高卒新人に55番を継承させることについては、「松井に失礼」だという非難の声も上がった[202]。

趣味・好物
独身時代は東京スポーツの愛読者であるほか、アダルトビデオ(AV)鑑賞が趣味であることを公言しており、AVに造詣が深いことで知られていた。AV鑑賞は本人曰く「松井流ストレス解消」であり、「月に数本」のペースでAV鑑賞に勤しんできた[203]。しかし、2007年後半以降「AV封印」を度々口にするようになり、東スポ紙上でも北海道日本ハムファイターズの中田翔を「二代目下ネタ王」として後継者に指名した[204]。そして、2008年の結婚に伴い「保有していたAVを全て処分した」と語っており[205]、現在はAVとの関わりはないとされている。しかし、同郷の友人達からは「いや、最初だけでしょ」とAV封印を否定されている[206]。

東スポお薦めのAV(松井曰く「バイアグラAV」)を松井に贈呈する様子が東スポの一面を飾ったこともある[207]。なお東スポからAVを受け取る様子を紙面で紹介されたのは、スポーツ選手としては松井が史上初である(2008年現在も松井と小堀佑介の2人のみ)。2007年には、東京スポーツとソフト・オン・デマンドが共催した「AV OPEN〜あなたが決める!セルアダルトビデオ日本一決定戦〜」の特別審査員も務めており、その際に好みの作品として「ストーリーのしっかりした単体女優物」を挙げている。米国でもAV好きを公言しており、無類のポルノ好きで知られるバーニー・ウィリアムスと意気投合していたという[208]。しかし、それを皮肉ってロッカーにポルノ本を置かれたことがある[209]。好きなAV女優は有賀美穂[203]。

大好物は焼肉。高校時代から練習帰りに地元の焼肉店へ通っており、当時からその大食漢ぶりは周囲を驚かせていた。現在も記者との会食やバーベキューパーティーを欠かさない。現地では日本食以外にも、韓国料理、中華料理、インド料理、タイ料理など、アジア料理の店を順番に通っている[210]。スプリングトレーニングで滞在するタンパでは、タイ料理やベトナム料理、中華料理を中心に外食することが多いが、滞在先のコンドミニアムでは、石川県産コシヒカリを主食にしている[211]。また、大のコーヒー好きとして有名である[212]。ヤンキー・スタジアムで試合がある時は必ず、妻が握ったおにぎりを持参している[213]。シーズン中でも赤ワインを嗜むワイン通である[214]。

韓国ドラマ『冬のソナタ』の大ファンである。知人からDVDセットをプレゼントされ、一日3時間ずつ1週間で全話を制覇した。最初は暇つぶしのためだったが、次第にのめりこんでいったという。主要キャストの中ではチェ・ジウがお気に入り[215]。

打席に入る際の登場曲は、主に友人である布袋寅泰の楽曲を使用しているが、過去にはビートルズ[216]、井上陽水&奥田民生[217]の楽曲も使用していた。

交友関係

記者・マスコミ
広岡勲専属広報や、サンケイスポーツの阿見俊輔記者[218]をはじめとする各スポーツ紙の記者などマスコミとの関係は非常に親密で、ヤンキース移籍後も毎試合後に会見を行い、記者たちの質問にも真摯に答える。延長などで時間が遅くなってしまった場合、取材を優先してユニフォームのまま会見を受けることもある。雑誌や写真週刊誌の取材も、分け隔てなく受ける[219]。シーズン終了後に、番記者や通訳らをメンバーに加えて行われる「草野球」は毎年の恒例行事であり、松井本人も楽しみにしているイベントである。その際、松井は投手を務めるため、変化球の練習を密かに行っている[220]。投手としての松井は、推定120km/hの直球とカーブを投じる[74]。記者と食事、キャッチボールを行うことも多く、度々記事になっている。遠征先でも、チームバスに同乗せずに報道陣のマイカーで球場に向かうことがある[221]。また、記者とのバーベキューパーティーも毎年の恒例行事であり[222]、他にも常日頃から焼肉[223]、ステーキハウス[224]、しゃぶしゃぶ[225]などで記者との親睦を深めている。

巨人の元チームメイトである元木大介によれば、松井はチーム内で一匹狼であり、チームメイトと食事をすることも殆どなく、「うまい具合に記者とか連れて、『悪口を書かさないよ』っていう感じ」で交流をしているという。また、小学四年生のインタビューで元木が松井の私生活について聞かれて、「家でゴジラの着ぐるみでも着てるんじゃない?」と冗談交じりに答えている。実際に、食事を共にした記者に対し、「たまにはいい記事かけよ」[226]、「皆、もう僕の守備のこと悪く書けないね」[224]と発言したというエピソードがある。「メディアの後ろに、ファンがいる」という考えを巨人時代から持っており、ニューヨークの地元記者からの信頼も厚い。移籍初年度には、全米野球記者協会(Baseball Writers' Association of America)NY支部が取材に最も協力的だった選手を表彰する「グッドガイ賞」に輝いている[227]。

チームメイト
前述のように巨人時代からチームメイトと積極的に交友を深めるタイプではなく、日常的には広報や記者と共に行動することが多い。シーズンオフの自主トレも記者・広報と行うほどで、他選手との交友が報じられることはめったにない。しかし同い年で主将のデレク・ジーターとは野球を通じて深い信頼関係で結ばれているようである。独身時代にはジーターと同じマンションに住んでおり[228]、初めて出会った2003年2月以来、食事を共にしたり、ときには自宅でのホームパーティーに参加したりするなどして親睦を深めてきた[229]。選手として、天才肌ではなく努力でのし上がったジーターに自らと似た境遇を感じ、尊敬の念を抱いているといい、「ジーターともっと話したい」という理由から英会話を熱心に勉強するようになった[196]。「同い年だけど、ジーターのリーダーシップには感心する」と語っており、主将を務めるジーターをサポートする役割を果たしたいという思いが強い[230]。ジーターも松井に対し「マツイをサブキャプテンにするのは面白いアイディアだね」と2005年に発言している[231](もっとも、実際に副キャプテンのポジションは存在しない)。個人の記録よりもチームの勝利を最優先にプレーするという点で松井と共通しているジーターは、松井を非常に高く評価しており[172]、2005年シーズン開幕前には、同シーズン限りでヤ軍との3年契約が切れる松井に対し、「一緒に黄金時代を築きたい」という思いを込めて松井のヤ軍残留を熱望したという[229]。2006年に松井が骨折で戦線を離脱した際には、「彼の代わりは存在しない」と発言し、早期復帰を願った[232]。2009年のワールドシリーズで松井がMVPを獲得した際にも、ジーターは松井の活躍を誰よりも喜び、松井も「勝てない時代もチームを引っ張ってきた彼には特別な思いがある」と語った[172]。ジーターは、松井に教わった「トシヨリ」という言葉を様々な場面で好んで使っている。

元チームメイトの中継ぎ左腕マイク・マイヤーズとは、2人で寿司を食べに行ったり[233]、マイヤーズが趣味の狩猟で仕留めたバッファローの肉をプレゼントされたことがある[234]。マイヤーズは2007年限りで現役を引退したが、翌年再会した際には、「キミと対戦したくないから引退したんだよ」と声を掛けられ、松井も「久しぶりに会って懐かしかった」と再会を喜んだ[235]。ジョニー・デーモンやボビー・アブレイユとも関係が良好なことで知られている。2006年に新加入したデーモンに対し、キャンプ初日から積極的に歩み寄り親交を深めた。デーモンも「マツイは信じられないほどいいやつだから」と語っている[236]。同年には審判に空振りをとられ、腑に落ちない表情の松井が三振に倒れたことにデーモンが猛抗議をし、退場を宣告されたことがある[237]。アブレイユとはジョークを言い合う仲であり[238]、ジーターを加えた独身仲間3人で「誰が一番早く結婚するか」という賭けをしていた[239]

元チームメイトのバーニー・ウィリアムスは、“師匠”と仰ぐほどの存在である[240]。ミュージシャンとしても活動しているウィリアムスのコンサートに駆けつけたこともある[9]。ウィリアムスの2000本安打達成時にはヤンキースの主力選手で記念ボールに寄せ書きを行ったが、手違いからか松井には声が掛からず、後に日本プレスから事情を聞かされた時には「知りませんでした・・・僕は書いてません・・・」と絶句した[241]。

2009年からヤンキースに加入したマーク・テシェイラはキャッチボールのパートナーであり、毎日試合前にキャッチボールを行っていた[242]。ヤンキースのみならずメジャーリーグを代表するスーパースターであるアレックス・ロドリゲスのステロイド使用が発覚した際には、「残念ではあるが、過去はどうしようもない。大切なのはこれから」だとし、ロドリゲスに対する見方は変わらないと語った[243]。

読売ジャイアンツ時代は基本的にマイペースでむやみに他の選手とツルまない一匹狼であった[244]。しかし、唯一の高卒同期入団である村田善則は例外であり[245]、松井本人も村田善と一番仲が良いと語っている[1]。

上原浩治とも関係は良好である。松井にとって上原は「弟のような存在」であり、メジャー移籍後も電話やメールで連絡を取り合っている。オフには一緒に食事にも出掛けることもある[246]。2009年に上原がヤンキースと同地区のボルティモア・オリオールズに移籍が決まると、「おめでとう、対戦するのが本当に楽しみ」と、自分のことのように喜んだ[247]。上原にとっても松井は特別な存在であり、オリオールズ入団後は「一番興味のある打者は松井さん」と強く意識し、対戦を心待ちにしていた[248]。シーズンでは上原が右ひじの怪我のため途中で離脱するまでに、6度対戦し無安打に終った。

その他
ジャイアンツ時代から有名女優、タレントなどとの密会がすっぱ抜かれることも多く、女性関係の話題には事欠かない。独身時代は原田徳子[249]、草野満代[250]、松たか子[251]、早坂好恵[249]、酒井美紀[249]、戸田菜穂[249]らとの交際が報じられた。特に、パリへの旅行が報道されるなど、戸田とは極めて親密な仲であり、2005年に父・松井昌雄が結婚を示唆[252]したことで、結婚間近とも言われたが、翌年破局に終わった。「女性セブン」の報道によると、破局の際、戸田は結婚を否定する松井に不信感を抱き、知人に「松井さんは守ってくれなかった」と打ち明けたという[253]。

芸能人の人脈は非常に豊富であり、親交のある有名人は多い。特にミュージシャンの布袋寅泰とは極めて親密で[254][255]、自身の登場曲にも布袋の楽曲を使用している[256]。また、作家の伊集院静との関係も非常に親密で、シーズン中にもかかわらずニューヨークで行われた伊集院の出版会見に出席したことがある。伊集院は松井の人柄を非常に高く評価しており、「松井秀喜はアメリカに送り出した『もっとも美しい日本人!』」と著作の帯に記している[257]。既に1995年のプロ野球aiによるインタビューの中で、松井は最近読んだ面白い本として、伊集院の「受け月」を挙げている[1]が、1999年に新潮社が松井に対談の企画を持ちかけたところ、松井は作品を愛読していた伊集院を相手に指名した。その対談で伊集院が松井の人柄に惚れ込み、現在に至る交友関係が始まった[258]。

KAT-TUNの亀梨和也、キャスターの草野仁、歌舞伎役者の松本幸四郎、女優の松たか子、歌手の大友康平らとは公私に渡って親交がある[259][260][261]。

俳優のリチャード・ギアとは旧知の仲である。会った時はいつも英語で談笑をしている[262]。

第85代・第86代内閣総理大臣・森喜朗は松井の実家の隣の集落出身で、同じ根上町立浜小学校の卒業生でもある。森は松井の後援会名誉会長を務めており、ニューヨークまで激励に訪れることもある[263]。

2006年の大晦日にオーケストラ・アンサンブル金沢の演奏による松井応援歌『栄光(ひかり)の道』(宮川彬良作曲、詞は一般公募による)が初演された。オーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督・岩城宏之の企画によるもので、岩城は同年5月に松井へエールを送っていた。岩城は同年6月に逝去したため、生前に出した最後の手紙となった。

ジョー・トーリとの信頼関係
前ヤンキース監督ジョー・トーリは入団当初、松井を「ブンブン振り回すホームランバッター」という印象だったが、シーズンが終わる頃には「場面に応じたバッティングが出来る頭のいい選手だ」と評価した。松井はルーキーイヤーのトーリ監督の気遣いに感謝していると語っている[264]。2003年オフのイチローとの対談において、松井はスランプ脱出のきっかけをくれたのがトーリであり、トーリを信頼していたからこそアドバイスを受け入れることが出来たと語っている。

松井はトーリ前監督について、自らが寄せる信頼を繰り返し語っていた[265]。トーリ監督もまた、契約更改時に「世界中の金を集めてでもヤンキースは松井と契約すべきだ」との賛辞を送っていた。さらに同監督は「松井はウチで最も頼れる男なんだ。彼にはいつだって責任感とかキャプテンシーを要求するよ」と断言し、ジーターと並ぶチームの精神的柱になるように求めていた[266]。

松井のチームの勝利を最優先する献身的な姿勢については、トーリ元監督も「日本では50本塁打を打つスーパースターだったのに、こちらでは何でも嫌がらずにやってくれる」と賞賛している[175]。

イチローとの関係
1990年代中盤以降、松井は日本球界を代表するスーパースターとして、常に周囲からイチローと比較されてきた[267]。松井とイチローはタイプが全く違う選手だが、好打・長打のそれぞれでずば抜けた実力を持つ2人はことあるごとに比較の対象となった。ワールドシリーズMVPを受賞した翌日の朝日新聞「天声人語」は、「イチロー選手がカミソリなら、ゴジラはナタの切れ味だろうか」と評した[268]。同日の産経新聞「産経抄」は、2人を「記録のイチロー」「記憶の松井」として対比した[269]。漫画家のやくみつるは「クールなイチローは現代風ヒーロー。素朴な感じの松井は、長嶋さんや王さんのような昔の選手を思い出させる。これは新旧スターの対決だ」と分析している[270]。しかし、松井自身はイチローと比較され続けることについて、「正直、何とも思っていません。比較するのは2人以外のメディアやファンで、自分がコントロールできることではない。ボク自身も、自分をイチローさんと比べることはしませんから」と語っている[271]。

1歳年上のイチローとは、1990年6月24日に星稜高等学校のグラウンドで行われた愛工大名電との練習試合で初めて顔を合わせた。その時に一塁ベース上で会話をしたことをイチローは覚えていた。イチローは「一人、でかい選手がいて、振りがすごく速い。それが松井君でした」と語っている。松井は「イチローさんの打撃はうまかった。左へ右へきれいに打ち分けていたなあ」と述懐している[270]。翌年に愛工大名電の合宿所で再び顔を合わせた際には、風呂で偶然一緒になり、その後2人きりで将来のプロ入りについての会話をしている。松井はこの時のことは鮮明に覚えているという。共に高校野球界で頭抜けた存在だった2人は、当時から既に互いを意識していた[272][273]。

1996年のオールスター第2戦では、9回裏2死走者なし、打者松井の場面でパ・リーグの仰木彬監督がイチローをマウンドに送ったが、セ・リーグの野村克也監督は松井に代打高津臣吾を送ったため、両者の対戦は実現しなかった。

日本時代は異なるリーグに所属していたため対戦の機会はほとんどなかったが、マリナーズと同じアメリカンリーグに所属するヤンキースに移籍後は、対戦の際にしばしば松井の方からイチローへ挨拶に伺っている。2003年5月7日のマリナーズ対ヤンキース戦では、4回一死三塁(走者は松井)の場面で、フェンス手前への大飛球をキャッチしたイチローが、本塁へノーバンドの大返球をみせた。到底間に合わないタイミングであったが、イチローは「松井を刺せばネタになるでしょ。100%意識しましたよ」と語った[274]。同年のオールスターでは、試合前にはイチローから「一緒にやろうよ」と声をかけられ、2人でキャッチボールを行った[275]。シーズンオフには、テレビ番組の企画で2時間にも及ぶ対談を行っている。

2004年には、イチローは松井の印象について「愛嬌のある雰囲気というか、プレーそれぞれに憎めなさがある」と語っている[276]。

2006年のWBC前後には、複数のタブロイド紙や週刊誌などでWBC出場辞退の経緯を巡る「イチローの陰謀」説や2人の不仲説が伝えられた[277][278][279][280]。ニューヨーク・タイムズ紙は2009年に松井の去就問題を特集した記事の中で、「松井はイチローと友達ではないので、マリナーズで共にプレーすることを望まないだろう」と述べた[281]。

2009年9月にイチローが史上初の9年連続200本安打を達成した際には、「球をバットの芯でとらえる技術は大リーグでもトップクラス」、「イチローさんは常にファンを魅了することを意識しているのがすごい」とイチローを賞賛するコメントを出した[282]。

WBC辞退
ワールド・ベースボール・クラシックには、2大会連続で日本代表としての出場が期待されたが、いずれも辞退している。

第1回大会
2005年オフ、翌年3月に開催される第1回ワールド・ベースボール・クラシック、日本代表の4番打者としての出場要請を受けた。11月27日の段階では、「何も考えていません」と答えていたが[283]、29日の段階では、「みんなが『WBCに出てください』という感じになれば、そりゃ、出ますよ」と発言する[284][285][286]など、前向きな姿勢を示すようになっていた。しかし、12月2日、王監督から正式に出場要請を受けた後は「(4番や主将など)そういうふうに言ってくれるのは光栄ですが、それ以上のことは言えません」として返答は保留した[287]。7日には、ヤンキースのキャッシュマンGMが松井のWBC出場を容認する意向を示したと報じられたが、松井本人は慎重な姿勢を崩さなかった[288]。その後、1次候補選手に名前が入るという情報[289]を知らされると、「返事してないのに、俺の名前を入れちゃうわけ!?」と困惑しきりであった[290]。さらに3日後の11日には、「(WBCに)出たくない。」という松井の本音が報じられた[291]。

14日にはヤンキースへの貢献を優先することと、商業主義が見え隠れするWBCの開催に賛同しかねたことを主な理由として出場辞退の意向を固めた[292]。さらに、一部メディアではヤンキースのキャッシュマンGMからWBC欠場を要請する“親書”が届けられていたことが報じられた[293]。しかし、地元紙ニューヨーク・デーリーニューズの報道によると、ヤ軍がWBC事務局に不参加を要請した選手は年齢や故障が理由とされた先発投手マイク・ムシーナ、捕手ホルヘ・ポサダなど4名のみであり、松井への不参加要請は無かったという[294]。約2週間後には、ヤンキースのスモール球団代表もそのような文書の存在を否定した[295]。この“親書”報道については、2008年にキャッシュマンGM自身が「まったくのデタラメ」だと語っている[296]。しかし松井自身は2007年に出版した著書の中で、「ヤンキースから出場を見合わせてほしいという内容の手紙が届いていた」と記しており[297]、関係者間で主張が食い違うこの問題の真相は不明のままである。松井の出場辞退に関しては、米国でもメジャーリーグ選手会やWBC関係者の一部から批判と疑問の声が上がった[298][299]。

王監督側は尚も松井の参加を模索し続けたが、結局出場要請から約1か月後となる12月26日、正式にWBC辞退を表明した。その際には、「王貞治殿」と宛名を書いた便箋15枚の手紙を記者を通じて王監督の元へ送り、辞退の理由を説明した。熟慮を重ねた結果としての苦渋の決断であることや、返答まで1か月近くもかかってしまったことへの謝罪の言葉などを綴ったという[287]。

WBC開幕後、ニューヨーク・タイムズの特集記事[300]や産経新聞のインタビュー[301]において、WBC辞退は冷静に考えて出した結論だったことを強調した上で、批判に対しては「ボクが(信念を持って)突き進むことで、ファンが喜んでくれると信じている」とヤンキースの一員として結果を出すことで、ファンの理解を得ることを明らかにした。それでもやはり、同年秋に王監督を訪問する時まで、WBC辞退には心を痛めたままだったという[302]。

大会期間中、松井は日本代表の試合をテレビ観戦していた[211]。しかし、既にWBC辞退とそこに至るまで二転三転した経緯から、日本のファンの間でも松井を批判する声が上がっており、日本代表が優勝したことで、一部では松井批判が強まり、バッシングの様相も呈した。米国の全国紙USAトゥデイは、紙上で「WBCでイチローは勝利し、松井は“ルーザー(負け犬)”になってしまったようだ」[303]と評した。このことを振り返って、松井の広報を担当する広岡勲は、後に自らの広報戦略の失敗を認めている[304][305]。

また同年4月14日付けフライデー誌上のインタビューでは、辞退の理由を「この時期にベストパフォーマンスを見せられる自信がない」とした上で、次回大会以降も開催時期が変わらないようであれば出場は難しいとの見解を明らかにした。

2006年の年末には、テレビ東京系列「カンブリア宮殿」内の企画でサッカー元日本代表の三浦知良と対談した際、WBC辞退について、「サッカーに比べると野球はまだナショナリズムが弱いスポーツ。それが強くなっていった時、チャンスがあればやりたいし、国の誇りを感じられるんじゃないかと思う」と話した[306]。

3年後の2009年シーズン開幕前には、『Number』誌上のインタビューにおいて、「あのときはあのときの事情があったから。決して後悔はしていません。」と語っている[307]。

第2回大会
2008年シーズン中盤から予定されていた左膝の手術を9月22日まで引き伸ばした時点で、WBC出場の可能性は無くなったとされた[308]。しかし、オフには翌2009年の第2回WBC出場が取りざたされ、前回大会直後は第2回大会への出場にも消極的であった松井本人も意欲を見せたと報じられた[309]。しかし、ヤンキースは手術明けの松井に対して出場許可を出さない方針を打ち出した[310]こともあり、手術した左膝の回復を優先させるため、として11月末には辞退の意向を明らかにした。辞退の際には、原辰徳監督に直接電話をかけ、「申し訳ない気持ちで一杯」であったという[311]。それでも尚、原監督は暫定ロースター登録締め切りまで松井の参加を待ち続けたが、膝の回復が間に合わなかったとの理由で、翌年1月16日になって正式に招集を断念した[312]。

広岡勲専属広報によると、松井が出場を希望したのは、大型契約を結んだばかりで、ヤンキースでじっくりキャンプを過ごしたかった前回とは違い、今回は年齢的に日本代表として戦える最後のチャンスという意識が強かったためだという。また、今回は膝の手術と所属チームの反対という理由が存在し、広岡広報が国内の空気や流れを読んで、タイミングを図って辞退を発表したため、前回のようなバッシングは起こらなかった[305]。日本の二連覇が決まると、松井は「日本の野球が、それだけ世界に通用するということだと思う」とのコメントを発表した[313]。

『Number』誌上のインタビューでは、身体の状態が万全でなかったことが辞退の直接の理由となったことを改めて明言。さらに、4年後の第3回大会には、年齢的な理由から出場の可能性が極めて低いことを認め、「それは仕方ない。(WBCには)縁がなかったということでね」と語っている[307]。

その他
かつて中央競馬に「ヨバンマツイ」なる競走馬が在籍していた[314]。同馬は2004年に美浦トレーニングセンター・阿部新生調教師の厩舎からデビューしたが2006年8月6日新潟競馬場のレースまで9戦未勝利だったが、10月1日に中京競馬場で行われたレースで初勝利を挙げた。この時の馬番は4番だった。

星稜高等学校の学生時代、松山ホステス殺害事件の犯人で整形手術をして逃亡中だった福田和子が石川県根上町の和菓子屋の内縁の座にいた時に、松井は客としてよく菓子を買いに来て福田和子と会っていたエピソードがある。福田和子逮捕後のインタビューでは「きれいで愛想のいい奥さんだった」と松井は語っている。

タイトル・表彰・記録

日本プロ野球
MVP:3回(1996年、2000年、2002年)
首位打者:1回(2001年)
本塁打王:3回(1998年、2000年、2002年)
打点王:3回(1998年、2000年、2002年)
最高出塁率:3回(1998年、2000年、2002年)
ベストナイン:8回(1995年 - 2002年)
ゴールデングラブ賞:3回(2000年 - 2002年)
月間MVP:7回(1994年4月、1996年7月・8月、1998年5月、2001年9月、2002年7月・8月)
正力松太郎賞:1回(2000年)
最優秀JCB・MEP賞:5回(1994年、1996年、1997年、2000年、2002年)
優秀JCB・MEP賞:1回(1998年)
JA全農Go・Go賞(強肩賞):1回(1998年9月)
IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:4回(1996年 - 1998年、2000年)
ゴールデンスピリット賞:1回(1999年)
東京ドームMVP:3回(1996年、1997年、2002年)
7年連続シーズン30本塁打以上(1996年 - 2002年)※歴代4位タイ。
5年連続シーズン100得点以上(1998年 - 2002年)※日本記録。
5試合連続本塁打(1999年6月5日 - 6月10日)
65試合連続出塁(2001年5月5日 - 8月3日)※セ・リーグ記録。
1250試合連続出場(1993年8月22日 - 2002年10月11日)※歴代3位。読売ジャイアンツ球団記録
通算長打率:.582(1993年 - 2002年)※歴代2位。
オールスター出場:9回(1994年 - 2002年)
オールスターMVP:3回(1995年第2戦、1998年第2戦、1999年第1戦)
オールスターゲーム3試合連続本塁打:2001年※史上初。中村紀洋と同時に達成。
日本シリーズMVP:1回(2000年)
レギュラーシーズン、日本シリーズ、オールスターゲームでMVP選出 ※川上哲治、大下弘、福本豊に次いで史上4人目
年間最高出塁率:.463(2001年)※読売ジャイアンツ球団記録
年間最多塁打:346(2002年)※読売ジャイアンツ球団記録
フルイニング連続試合出場:574(1995年5月30日 - 1999年7月22日)※読売ジャイアンツ球団記録
通算1000試合出場 2001年4月12日(366人目)

メジャーリーグ
ワールドシリーズMVP:1回(2009年)
月間MVP:1回(2007年7月)
週間MVP:3回(2003年6月、2004年5月、2005年6月)
インターリーグ首位打者:1回(2003年)
月間新人MVP:1回(2003年6月)
オールスター出場:2回(2003年、2004年)
クラッチ・パフォーマー賞:1回(2009年8月)
シーズン新人最多出場:163(2003年)
デビューからの最多連続試合出場:518試合(2003年3月31日 - 2006年5月10日)
ワールドシリーズ1試合最多打点:6(2009年第6戦)※タイ記録。
リーグチャンピオンシップシリーズ最多安打:14(2004年)※タイ記録。
リーグチャンピオンシップシリーズ最多塁打:28(2004年)※タイ記録。
リーグチャンピオンシップシリーズ1試合最多安打:5(2004年第3戦)※タイ記録。
リーグチャンピオンシップシリーズ1試合最多得点:5(2004年第3戦)※タイ記録。

その他
日米通算1768試合連続出場(1993年8月22日 - 2006年5月11日)
日米通算2000本安打達成(2007年5月6日、日本時間7日)
グッドガイ賞:1回(2003年)※全米野球記者協会(BBWAA)のニューヨーク支部が取材対象である選手の人柄を評価する賞[315]
日本プロスポーツ大賞・内閣総理大臣杯:2回(2000年、2003年)
報知プロスポーツ大賞:3回(1996年、2000年、2002年)
毎日スポーツ人賞:2回(2002年、2003年)※2002年はファン賞、2003年は国際賞での受賞
在ニューヨーク日本総領事館在外公館長表彰[316]

CM出演
ミズノ
キッコーマン「赤だれ」「黒だれ」
アサヒビール「スーパードライ」
大塚製薬「オロナミンCロイヤルポリス」
ミサワホーム - 兄・利喜氏がミサワに勤務していることから出演。吹石一恵と共演もあり。
明治安田生命
久光製薬「エアーサロンパスEX」
NTTDoCoMo北陸
コマツ - 地元の石川県発祥及び父・昌雄氏が以前勤めていたという縁からCMキャラクターに。ヤンキースタジアムで放ったメジャー第1号ホームランがコマツの看板近くに球が飛んだため、広告効果が倍増した。
カゴメ
東芝
日本航空 - 2003年に国内線機材のボーイング747-400とエアバスA300にスペシャルマーキング「松井ジェット」として写真が使われた。
吉野家
サントリー「マグナムドライ」
ガリバー
2006 FIFAワールドカップ日本代表応援CM
キリンビバレッジ「FIRE」
他多数

映画
『ゴジラ×メカゴジラ』(2002年) - 本人役で出演。

ラジオ
松井秀喜 ワールドチャンピオンへの道
独占大リーグ情報・GO!GO!松井秀喜(本人のプレーのみを紹介)
コマツ・メジャーショウアップ(本人がタイトルコール及び提供読みをしている)

書籍

本人の著作
『不動心』新潮新書(2007)ISBN 978-4106102011
2007年12月時点で、売り上げは33万部を超えた[317]。「不動心」というタイトルについて松井は、2006年の怪我の療養中に長嶋茂雄に会った際、2つあった候補の中から「不動心」を選んでもらったという。その時に長嶋は、特に何も語らず「これ」と一言述べただけですぐに決められたという。

関連書籍など
The Hideki Matsui Story-Reaching for Your Dream 松井秀喜バイオグラフィ』(2006年6月刊)
ヒデキマツイ(2005年12月21日刊)
松井秀喜-日本を飛び出しメジャー・リーグで大活躍する野球選手(2005年7月刊)
松井秀喜メジャー物語-ゴジラ・松井は世界の頂点を目指す!(2005年4月刊)
松井秀喜 大リーグの真実(2005年4月刊)
松井秀喜-メジャーにかがやく55番(2004年4月刊)
松井秀喜-僕には夢がある (2004年3月刊)
ライジング・サンズ 2(DVD、2003年12月17日)
心が変われば 山下智茂・松井秀喜を創った男(2003年9月30日刊)
松井秀喜 完全版 〜夢と感動をありがとう(DVD、2002年12月11日)
GLORIOUS 松井秀喜〜10years of homerun memories〜(CD、2002年12月4日)
松井秀喜2000 〜最強の4番打者〜(VHS、2000年11月5日)
ホームラン神話(VHS、1996年11月21日)
翔け世界の頂点へ〜松井秀喜応援歌〜(父2)(CD、2006年9月27日)
公式応援歌「栄光(ひかり)の道」(CD、2007年3月1日)
  『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。

 p.78 他多数

脚注
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^ a b 松井秀喜 「危機感は常に持っている」 【連載最終回】[7年目の決意] MLBコラム - Number Web - ナンバー -
^ 松井秀「来年は気持ちも体も一新して」 SANSPO.COM(2008年9月23日)
^ 松井激白 WBC「出たい」…GM「絶対無理」も左ひざ順調 スポーツ報知(2008年11月15日)
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^ 松井秀WBC辞退…原監督に直接電話「申し訳ない気持ちでいっぱい」 スポーツ報知(2008年10月16日)
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^ ヨバンマツイ|馬|Um@SQL
^ 「グッドガイ賞」に松井 日本人では吉井以来2人目,47NEWS(2003年11月6日付),2009年9月12日閲覧
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^ ゴジラはベストセラー作家-。不動心はスポーツ本異例の33万部 東京中日スポーツ(2007年12月30日)

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