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金田正一

金田 正一(かねだ まさいち、1933年8月1日 - )は、日本愛知県名古屋市出身の元プロ野球選手(投手)・監督、野球解説者・評論家、実業家。現役時代は日本プロ野球最多となる通算400勝を記録し、引退後ロッテオリオンズ監督や日本プロ野球名球会初代会長を務めた。

目次 [非表示]
1 概説
2 経歴
2.1 現役時代
2.2 引退後
3 プレースタイル
3.1 投球
3.2 打撃
4 金田のトレーニング、コンディショニング理論
4.1 コンディション管理
4.2 トレーニング
4.3 食事
5 エピソード
5.1 現役時代
5.1.1 国鉄時代
5.1.2 巨人時代
5.1.3 その他・現役時代
5.2 監督時代
5.3 その他
6 詳細情報
6.1 年度別投手成績
6.2 年度別打撃成績
6.3 背番号
6.4 記録
6.4.1 プロ野球記録
6.4.2 セ・リーグ記録
7 タイトル・表彰
8 監督としてのチーム成績
9 監督通算成績
10 CM
11 脚注
12 関連項目
13 外部リンク


概説 [編集]
愛称は「カネヤン」、あるいは「カネさん」。少年時代のあだ名は、その長身から「電柱」、「割り箸」等。

現役時代は国鉄スワローズ、読売ジャイアンツ(巨人)で活躍し、日本球界唯一の400勝投手となった。引退後はロッテオリオンズの監督を務めた。

現在は野球評論家。2009年12月3日まで日本プロ野球名球会(株式会社日本プロ野球名球会)会長(代表幹事、同社代表取締役社長)を務めた。また、2009年11月までは、経営する自身の個人事務所株式会社カネダ企画内に名球会事務局が置かれていた。

実弟は元プロ野球選手の金田高義、金田星雄、金田留広。息子は俳優の金田賢一。甥に元プロ野球選手の金石昭人がいる。

経歴 [編集]
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1933年、在日韓国人の子として愛知県に生まれる(1959年日本に帰化)。朝鮮名は金慶弘。

現役時代 [編集]
享栄商業高等学校のエースとして甲子園を目指したが、1950年夏の予選で敗退。その直後、高校を中退してシーズン途中で国鉄に入団。初登板は8月23日松山で行われた広島戦、押し出し四球でサヨナラ負けを喫している。国鉄は17歳の金田を即戦力として積極的に起用、8月デビューながら8勝を挙げた。

1951年9月5日対阪神戦(大阪球場)でノーヒットノーランを達成。18歳35日での達成は史上最年少記録。この年22勝を挙げ、以後14年連続20勝を記録。

1957年8月21日の対中日戦(中日球場)で完全試合を達成。登板の前日下痢を発症し、決して万全の体調とは言い難い状態で登板しての記録達成であった。しかも、達成直前の9回1死でハーフスイングの判定をめぐって中日が猛抗議し、43分間の中断があったが、金田は全く動じなかった。再開後に対戦した2人の打者を共にオール空振りの3球三振に仕留め、大記録達成に花を添えた。

1958年4月5日の開幕戦(対巨人、後楽園球場)では大物ルーキー長嶋茂雄から4打席連続三振を奪い、プロの意地を見せた。開幕戦直前、金田は人気ルーキー長嶋茂雄がオープン戦で左腕投手を打ち崩し「開幕戦でも金田投手を打ち崩せるかもしれません」の報道に激怒したという。結果、長嶋から4連続三振を奪ったが、試合後、金田は顔をこわばらせ、「あの小僧、ものになるかもしれない。三振は全部フルスイングだった」と答えた。ちなみに長嶋の金田との対戦は1964年までの7年間で打率.313、18本塁打を記録し、金田から最も多くの本塁打を打ったバッターとなっている。次の年は王貞治が入団し、開幕戦(1959年4月11日)で当たるがこちらも2打数2三振を奪っている。ONの公式戦デビューには何れも登板しており、何れも三振を奪っている。

同じ1958年6月5日、通算200勝を達成。24歳での達成は史上最年少記録である。さらに6月12日には、開幕よりわずか70日、51試合目で20勝を達成した。いずれも史上最速。この時点での成績は9完封を含む20勝2敗(ほかに13イニング2失点の完投引き分け1)、防御率0.57という圧倒的なもので、64 1/3イニング連続無失点の日本記録もこの間に記録している。

1962年9月5日、メジャーリーグのウォルター・ジョンソンの記録を破る通算3509奪三振を達成。

1963年6月30日、通算311勝を記録。別所毅彦を抜き、プロ野球歴代1位となった。

1964年までに14年連続20勝、通算353勝を挙げた。対巨人戦通算65勝は歴代1位。ただし、国鉄時代の通算353勝という数字から見ると特に巨人戦の勝ち星が多いというわけではなく、どのチームからもほぼ満遍なく勝ち星を挙げている(国鉄時代、最も勝ち星が多かった相手は広島で83勝)。また、巨人戦の敗戦数は72を数え、勝利数を上回っている。

1965年、B級14年選手制度を行使して読売ジャイアンツに移籍。巨人入団には、川上哲治監督の、巨人ナインも金田に見習って欲しいと言う思惑があった。金田入団後、巨人選手は「あれだけの実績を上げた人が俺達よりも走っている」と感嘆したという。長嶋茂雄も金田から身体作りの手ほどきを受けスランプを脱した。巨人時代の金田の成績は僅か47勝しかないが、選手の意識改革を促しチームの9連覇に貢献した。川上は金田のプライドを尊重し、勝ち星こそ少ないものの、あえて日本シリーズ第1戦先発に何度も送り出した(公式戦の開幕投手も在籍5シーズンの間に4回任されている)。大舞台に数々の修羅場をくぐってきた金田の経験を活かした川上の思いに、金田も見事こたえて好投した。

1969年10月10日、シーズン最終戦・対中日戦で球界初の通算400勝を達成したのを置き土産に現役を引退した。また、巨人での背番号「34」は永久欠番に指定された。

2008年4月11-13日の巨人対ヤクルト戦は永久欠番シリーズとして「川上哲治/金田正一シリーズ」として開催された。唯一の移籍選手として開催されたが、この日は1965年4月10日、「巨人の金田」としての初勝利を挙げていることに因んでいる。

引退後 [編集]
引退後は日本テレビおよびニッポン放送の解説者(1979年ごろ、フジテレビジョンプロ野球ニュースの解説者としても出演していた)。

1973年から1978年、1990年から1991年にロッテ監督。1974年にリーグ優勝・日本一を果たしている。なお、彼が就任してから千葉ロッテになるまで19シーズンにわたって使用されたユニフォームは金田がデザインした。ロッテ監督時代の1978年に名球会を設立し、2009年12月まで会長・代表幹事を務めていた。1988年野球殿堂入り。

私生活では結婚を二度・離婚一度を経験。初妻榎本美佐江とは1955年3月から同棲生活に入り、榎本の芸能活動引退、金田の帰化・日本国籍取得を経て1960年に正式に結婚。しかし榎本の存在がありながら宝塚歌劇団卒業生・雅章子との関係が生じたうえ金田と雅の間に1961年賢一が生まれる(金田-榎本の間に子はない)事態が発生。1963年8月、榎本と正式離婚を経て賢一を伴った雅と再婚。なお金田-雅の間には賢一の他に女児二人があることを公表している。うち金田幸子は1980年代の一時期タレントとして活動、資生堂の洗顔料「エクボ」のCM(父娘または兄妹共演もした)に出演していた。

プレースタイル [編集]
投球 [編集]
20年近くの現役生活で球種は速球とカーブ、それに晩年よく投げた超スローボールだけであった。その速球の威力はすさまじく、高校時代には金田の投球を捕球出来る捕手がおらず、苦肉の策として投球練習する際には捕手をマウンドの上に座らせ自身がホームベース上に立って投球練習を行ったという。金田のデビューした年、長野での阪神との試合で、阪神の主軸打者であった金田正泰が「あいつのボールは速過ぎる。あと、投手と捕手との間隔が短過ぎる」と審判に苦情をもちこみゲームは中断、金田正泰と審判とがメジャーで計ったところ、間隔は正確だった。金田本人や当時の選手たちによると「若い頃は間違いなく150キロ台の後半か160キロ台を出していただろう」という。

また、剛速球とともにそのカーブを讃える者も多い。有本義明は戦後最高のカーブの使い手として堀内恒夫、江川卓と並んで金田を挙げている。また、佐々木信也は「金やんのカーブは、真上に投げているのかと思ったら急激に曲がってストライクになった。あんなカーブは他に見たことがない」と語っている。金田のカーブは大小5種類あったといわれるが、特に2階から落ちると言われた縦のカーブが武器だった。しかしそのカーブは反面左肘に負担をかけ、毎年のように肘の痛みは金田を苦しめた。入団5年目あたりから引退までずっと肘が悪く、梅雨時や秋口は特に痛かったと本人が証言している。実際、快調だったシーズンでも梅雨時や秋口頃に1ヶ月くらい勝てない時期がよくあった。そのカーブでも「ものになるのに10年かかった」という。ただ、巨人時代は金田自身の力も落ち、巨人ではバックが安定していることもあり、フォークや小さな速いカーブ(スラーブやカットボール気味のボール)、まれにシュートも投げ、ピンチを技で切り抜けることも多くなった。

金田の大きな特徴は、奪三振が多いことである。1957年、プロ入り8年目にして通算2000奪三振を達成したが、これは金田が第1号である(金田より先輩にもヴィクトル・スタルヒン、若林忠志、野口二郎、中尾碩志、藤本英雄、別所毅彦、杉下茂などの本格派の大投手はいたが、彼らはいずれも2000奪三振に達していなかった)。これは、所属していたスワローズが弱くて「せっかく凡打に討ち取ってもエラーされては何にもならない」という思いが三振奪取に向かわしめたという。通算400勝とともに4490奪三振も歴代1位であり、来歴の項にあるとおり当時はメジャーリーグの記録をも凌駕していた(後にノーラン・ライアンが更新)。

国鉄時代はその豪快な人柄と圧倒的な野球の実力のため、監督以上に力のある選手だった。先発して大量点を取られたり、審判の判定に不服だと自分から勝手にマウンドを降りてしまうこともあった。別所毅彦は現役時代の金田について「監督を監督していたのはあいつぐらいのものだ」と語っていた。通算400勝中132勝(国鉄時代は353勝中114勝)がリリーフ勝利だったが、この時代のエース級投手はシーズン中先発・リリーフの別なく酷使されることが珍しくなく、稲尾和久は通算276勝中108勝、秋山登は193勝中89勝、杉浦忠は187勝中75勝がリリーフ勝利である。この他守備でも味方がエラーをするとグラブを叩きつけて罵倒したという。当時捕手の根来広光は後に「金田は機嫌を乱すと本当に荒れた、しかし彼ががんばらなければチームはどうしようもないので機嫌を直すのにとても苦労した」とインタビューで述べている。球場についても文句を言い、巨人戦で狭いことで有名な東京球場で先発してホームランを連発された際は「こんな狭い球場で投げれるか」と叫んだことがある(のちにロッテ監督に就任した際も「あんな狭い球場いらんわい。」といい、これが東京球場閉鎖につながっている)。

金田が入団した当時の国鉄はチーム力が弱く、金田は国鉄時代にリーグ最多敗戦が3度、20敗以上6度、入団以来15年連続で2桁敗戦、通算267敗を喫している。しかし、その弱い国鉄にいながら敗戦数を大きく上回る353勝を挙げている。これはこの間のチーム全体の勝星(833勝)の42%に相当する。またこの間の国鉄は3位が1回あるだけで他のシーズンは全て4位以下だったが、最下位は3回にとどまっている。

打撃 [編集]
金田は打撃も優れていた。投手として出場して36本塁打は史上1位。他に2本の代打本塁打を記録しており、選手としての通算本塁打は38本である。また、入団11年連続で本塁打を記録した。また、7度敬遠されている。二リーグ制以後の選手としては、野手転向した選手を除くと、投手として唯一1,000試合出場を達成している(一リーグ制時代を含むと野口二郎投手(517試合登板で237勝、野手や代打を含め1,098試合出場)がいるほか、藤村富美男選手も投手として一定の実績があるため)。

金田のトレーニング、コンディショニング理論 [編集]
スポーツ医学が発達していなかった当時、自身の経験と知識を元に体作りに対する独自の思想を纏め上げていたことは有名であり[1]、金田本人にとっても、その後のスポーツ医学の先駆者になっていることは誇りでもあるという。

コンディション管理 [編集]
金田はコンディション、特に左腕の状態を維持するために普段の生活からきわめて細やかな神経を配っていた。以下はその例である。

就寝時には利き腕の肘を守るためにサポーターをし、冷えたりしないよう万全のケアをしてから寝床に入った。
現役時代は乱闘時など、どんなに興奮していてもタオルで左手をグルグル巻きにして守っておいてから飛び出すなど、極端なほど左腕を大事にしていた。酒を飲んでいて興奮して机を叩いていても、いつも左手にはおしぼりが巻かれていたという逸話がある。
息子の賢一が「笑っていいとも!」出演時、「父は絶対に左手で子供を抱かなかった」と明かしている。
「一人前の野球選手が自分で車なんか運転したらいかん」と、自らは運転せず運転手付きの車で球場まで通っていた。その真意は運転することで神経を消耗すると野球に差し障りがあるから、と言うことらしい。また、車に乗る時は窓を開けた時に吹き込む風で左肩や腕を冷やさないように左側には絶対に座らなかった。
ヒゲを剃るにも、指先を切る恐れのある剃刀は使わず、電気シェーバーを使用。また外出時にも、つま先を剥き出しにするサンダルは絶対に履かないなど、普段の生活からケガの防止には人一倍気を遣っていた。
マッサージを受ける時は、一部分のみのマッサージはせずに必ず全身をマッサージするように心がけ、また鍼、灸の類は一切しなかったという。
また、シーズンオフの休養の重要性を現在も説いている。実際金田自身、オフは完全に休養に充ててコンディションを整えており、唯一1958年のオフに父親の死去であまり休養が取れなかった時はそれがたたって3年間ベストコンディションに戻らなかったという。(この3年間も20勝は達成していたが、1960年と1961年はちょうど20勝にとどまった。1960年は残り4試合でようやく20勝目をあげ、1961年には途中11連敗を喫して2か月以上勝星から遠ざかるなど苦しいシーズンを送った)
トレーニング [編集]
下半身強化を重視し(「下半身で野球をやっている人はピンチを招いても力まない。下半身の弱い人はピンチになるとだめになる」とコメントしている)、選手時代はまずランニングを最重要課題としていた。そのトレーニングは極めてハードなもので、オールスターゲームのときに、やはり練習の虫と言われていた阪神の村山実が金田のトレーニングに付き合おうとしたが、あまりのハードな内容に音を上げたという逸話がある。ロッテ監督時代もランニング重視のメニューを課しており、金田の練習と言えば「走れ走れ」と言うイメージが定着している(ちなみにランニングなどによる下半身強化の重要性はメジャーリーグの大投手、ノーラン・ライアンも自らの著書「ピッチャーズバイブル」で述べている)。当時のロッテ投手陣のリーダーであった八木沢荘六があまりのハードさにランニングの中止を申し入れると「そう言いにくるのは真剣に走った証拠だ」と褒めちぎったという。ロッテ監督時代の教え子である村田兆治によると「実績のあるピッチャーは投球練習をしなくてもいいから、とにかく走れ」と指導していたという。このことはロッテに1年在籍した野村克也も触れており、「走るだけでピッチングがうまくなるのか?」と疑問に感じたほど、金田が投手に課したトレーニングはランニング一辺倒だった。しかし、村田はランニング中心のトレーニングの結果「夏場になっても疲れが溜まらない。まるで高校時代に戻ったみたいに体が軽かった」と語っている。その村田に対して金田は「村田は他の投手よりもよう走った」とお墨付きを与えている。後年、ランニングを重視していなかった松坂大輔に対しても金田は「走らないと投球時のバランスを崩すから成績を悪くする」と出演したテレビ番組で指摘。この後、金田の言う通りに松坂の成績が悪くなったため、改めて松坂がランニングなど下半身強化中心のトレーニングに切り替えたというエピソードがある。ただし、走らせることにこだわっていたわけではなく、走ることが逆に選手にマイナスになるような場合には絶対に走らせないなど、状況に合わせた指導は怠っていなかった。
効率的なストレッチ運動を行うため、試行錯誤の末「カネヤンダンス」と称される柔軟体操を始め、更にお手製の健康器具を発明・発売していた。
食事 [編集]
体作りへのこだわりは食にも現れた。「いいものを食べなきゃダメ」が口癖で、キャンプには自ら食材を持ち込んでいた。金田本人の話では、当時のサラリーマンの月給分に相当する額を全て市場での買い物に使い、それをたった3日で食べてしまったという。サムゲタンやすき焼きなどの肉・野菜をふんだんに盛り込んだ鍋を毎日作り、チームメイトにも振舞っていたそうである。このサムゲタンは母親仕込みの本格派だそうで、国鉄に移籍してきた豊田泰光はその味に感動し、頼み込んでレシピを教わった。また巨人移籍後は、当時まだ若手の土井正三や高田繁らがその母親からキムチチゲを始めとする朝鮮料理の作り方を教わり、体力作りに役立てていたという。ロッテ監督時代も特にキャンプでの食事には質量共にこだわり(球団と掛け合い、質の良い肉を選手に食べさせるように交渉したこともある)、1回の夕食を全て食べ終わるのに2時間はかかったと言われる。また、豊田泰光が、伴淳三郎から紹介されたという当時珍しかったミネラルウォーターを金田に勧めて以来、水道の水を飲まずに、高価なミネラルウォーターを飲んでいたという。
ロッテ監督時代にはオープン戦で顔面に打球を受け骨折負傷した木樽正明を自宅に連れて行き、顔面が腫れて満足に食事もできない木樽に無理やり特製スープを飲ませるなどの独自療法を施し、わずか1ヶ月足らずで復帰させた(しかもその月は実働半月で3勝を挙げている)。
独自の調整理論を持っており、必要とする能力から逆算してトレーニングや食生活までを組み立てていた。2003年11月6日放送のNANDA!?(テレビ朝日系列)において本人が語った所によると、「肺活量向上のために走るトレーニングを主に行う日は、朝からオートミール等の消化の良い食べ物を食べる。その日のトレーニング内容によって食事や生活を変えるのは当然だ。」とのことだった。共演していたヤクルトの古田敦也も「そんなことはここ10年位でようやく詳しくなってきたことだ。50年前にそこまで考えていたのは凄い」と感心していた。
エピソード [編集]
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2009年8月貼付)

現役時代 [編集]
国鉄時代 [編集]
ニューヨーク・ヤンキースとの対決において、金田は主砲であったミッキー・マントルを三打席すべて三振にきって取っている。後に1962年、金田はヤンキー・スタジアムで行われたワールドシリーズ観戦に出かけた時に、マントルから握手を求められたエピソードがある。
阪神の本屋敷錦吾に2打席連続ホームランを打たれたことがある。金田はこの試合前の打撃練習で本屋敷の打撃を見たときに、「箱庭で野球でもやっとれ」というくらい、本屋敷の放つ打球には力がなかった。その打者にいきなり本塁打を打たれ、頭に血がのぼった金田は続く打席に同じような球を投げ、同じようにホームランを打たれた(本屋敷の通算本塁打は僅か13本しかなく、2打席連続はこの1回だけ)。金田はこのことで「ええ勉強になった。どんな相手にも油断したらいかん」と述べている。
巨人時代 [編集]
金田が国鉄スワローズを見限ったのは、1962年に産経新聞社とフジテレビが球団経営に参加した時にさかのぼる。この時の産経・フジのやり方に反発し、国鉄が経営から離れる1965年の移籍に繋がったと言われている(国鉄は同年5月10日付で産経・フジに球団を売却)。
巨人移籍後のある試合で、金田はホームランを打った長嶋茂雄の頭を叩くなどしてホームで手荒く出迎えた。しかしその時チームメイトから一斉に冷ややかな視線を向けられ、国鉄時代は「天皇」の異名を取った自分も巨人においては外様に過ぎないのだと思い知らされたという。
引退時のエピソードとして引退するつもりがなかったが石原慎太郎に「もう400勝を区切りに身を引くべきだ。」とさとされた。当初金田は「わしはまだできる。」と抵抗したが、石原が「誰もあなたが打たれるのを見たくはない。なぜならあなたは金田正一だからだ」というセリフに最終的には引退を受け入れたという。このエピソードが『文藝春秋』に石原本人の執筆で掲載されたことがある。
最晩年の金田が当時解説者をしていた青田昇のもとを訪ね「青さん。ワシと沢村栄治さんと球どっち速かった?」と真顔で聞いた。青田は「アホ!沢村さんに決まっとるやないか!お前と比べれるかい!」と一喝した。金田は悄然と去っていった。青田は後に「キツイこと言って悪いことしたな。沢村さんのことは大切にしなきゃいかんが、本当は金やんのほうがすごかったかもしれんなぁ」と述懐している。実際青田は沢村の全盛期の球威は知らず、戦前のスタルヒン、戦後の金田と評している。
その他・現役時代 [編集]
唯一苦手としていたのが、球界でも一二を争う小兵の吉田義男であった(現役通算で打率.267、66本塁打の吉田だが、対金田は53~69年までで通算打率.310、8本塁打。1960〜1965年の6年間は1個も三振を奪えなかった)。とにかく吉田にはよく打たれており、巨人阪神OB戦でも吉田に左翼ラッキーゾーンに本塁打を打たれ、金田は苦笑した。
金田の残した通算400勝の記録については、2000年代あたりに「今とは時代が違う」という批判が寄せられることもある。浅草キッドの水道橋博士と雑誌で対談した際そのことを指摘された金田は「この小童が!」と激高した。しかし、金田が活躍した1950年代、1960年代頃ローテーションが確立されていなかったが、その分故障しやすくなる中で長年投げ続けていた(実際、この時代は金田以外にも稲尾和久、権藤博、杉浦忠といった名投手がいたものの、いずれも酷使により故障し、早く引退している)。実際、この時代の投手ですら200勝を記録した人間は数えるほどしかおらず、また通算勝利数2位の米田哲也に50勝もの差をつけていることなどから、時代が違うということを差し引いても、金田が稀代の名投手であったことは間違いないと言える。また、その勝利の約90%の353勝は弱小球団であった国鉄時代に上げている。
現役晩年、400勝と並んで金田が記録更新を目指したのがヴィクトル・スタルヒンが持つ通算完封記録。金田の現役当時はスタルヒンの完封数が84と発表されていたが、金田の現役引退から数年後に集計ミスが発覚し83に訂正されている。結局金田は82完封で引退することになったが、もし前記の集計ミスが金田の現役中にわかっていればあと1まで迫っていただけにスタルヒンに並ぶかあるいは逆転もあったのでは…とする意見もある。なお、勝星を稼ぐために中継ぎ転向をしてはどうかというアドバイスもあったがこの記録の更新のために先発にこだわり続けたという。
その82完封のうち1/4以上の23試合は1-0のスコアであった(なお、既述のノーヒットノーラン、完全試合ともいずれも1-0である)。また0-1の完投敗戦が21あり、どちらも史上1位である。なお、1-0での完封勝ちはすべて国鉄時代に記録し、0-1の完投敗戦も巨人移籍後は1試合あっただけである。
打者としても一流だった金田が一番凄いと思った投手は権藤正利で、彼のカーブは凄かったと語っている。
監督時代 [編集]
1973年、ロッテ監督に就任した金田は親友の稲尾和久(当時太平洋監督)と相談し、パ・リーグ人気回復策として、ロッテ - 太平洋戦を盛りたてようと、互いに悪口の応酬をして『遺恨試合』を演出した。目論見は当り、ライオンズの本拠地平和台球場では客が集まりマスコミも注目、金田とファンが衝突し暴動まで起った。だが、警察沙汰となりせっかくのアイデアも世間の非難を浴びてしまった(ライオンズとオリオンズの遺恨も参照のこと)。
その豪放磊落な人柄で人気がある。ただし激しい気性から様々なトラブルも起こしており、先頭を切って乱闘に参加することも珍しくなかった。こんな時でも手は絶対使わず主に足で相手を蹴飛ばしていた。監督時代の1991年5月19日には、秋田市営八橋球場での近鉄戦で園川一美投手の内角攻めに激昂して暴れるジム・トレーバー選手の顔面にスパイクで蹴りを入れており、その時の映像は何度もフジテレビ系『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』でお茶の間に流された。自らの野球人生に汚点を残すこととなったパ・リーグの高木敏昭に対する審判暴行事件(1990年6月23日)も足蹴りである(その後、高木審判は「こんな奴がいるところでジャッジができるか!!」と激怒しシーズン途中で辞表を叩きつけ審判生活に終止符を打った)。その際に受けた出場停止中には、川崎球場のスコアボードの裏からベンチにサインを送っていて窒息しそうになったという。また乱闘では、足蹴り以外に右腕で殴る、バットを持って威嚇するというケースもあった。
投手分業制が確立された現在でも『先発完投こそが王道』というのが持論であるが、第二期監督期には多数の投手をつぎ込む事が多かった。伊良部秀輝や小宮山悟、前田幸長が台頭したが(伊良部は1990年に8勝した後一旦低迷し、本格的に主力投手になるのは1993年)、牛島和彦は故障の上に金田との確執が噂された他、小池秀郎に入団拒否されるなど投手力向上を果たせなかった。
後に『週刊ポスト』誌上の対談コラム内で、ロッテ監督時代にドラフトで交渉権を得たある投手にロッテ入りを断固拒否され、説得のために裏金を用意した過去を明らかにした。なお、その際金田は娘が運転する自動車のトランクに隠れるという力技でまんまと報道陣の包囲を突破した。しかし間もなくトランクの中が酸欠状態になり窒息寸前に陥り、更に裏金を渡そうとした野球部監督には「選手は金だけでは育たない」と逆に説教され、裏金は渡されずに追い返されてしまったという。
投手交代の際、自らマウンドへ行って投手からボールを預かり何故か自分が投球を行い、更にキャッチャーから返されたボールを右手、しかも素手でキャッチしたことがある。また、チームの紅白戦では自身が登板。4番、有藤道世をピッチャーゴロを打ち取るなど普通に打線を抑えてしまった。登板後には「これ以上やったら選手達が自信を無くす」とコメント。ちなみにその年のロッテは4位だった。
その他 [編集]
横山光輝の漫画「鉄人28号」の主人公・金田正太郎の名前の由来でもある。
引退後は巨人OBであることを公言しており、解説者を務めていた頃は巨人寄りの発言が多かった。2007年6月11日、巨人のV9時代のメンバーとして始球式に参加している。その一方で、国鉄OBであることも公言している。国鉄分割民営化の際に新聞に寄せたコメントの中では、労使が一体となって応援していたことを懐かしんでいた。また2001年に開かれた長谷川良平の野球殿堂入りを記念する祝賀会では「俺のふるさと国鉄スワローズはもうない。今でもカープファンの中にいられる長谷川がうらやましい」と、国鉄スワローズに対する現在の思いを吐露していた。また、OBのオールスターゲームに参加した際は、巨人のユニフォームと国鉄のユニフォームの両方を着用したが、長嶋茂雄が参加した場合は国鉄のユニフォームを着ることが多かった。だが反面、「国鉄スワローズというチームはもうなくなったから」との理由から、国鉄の後身であるヤクルトと関わりを持つ事は少なかった。
ただ、2000年代に入り、田口周・箱田淳・丸山完二と共に2001年の国鉄・サンケイ・ヤクルトのOB会組織統一に尽力し、2009年1月16日にはOB会総会で挨拶をし、同年5月24日には始球式に出席している。
一方で、自ら監督を務めたロッテについても愛着があり、日本テレビの解説者時代の1989年に行われたオープン戦ではロッテ寄りの解説を行い、興奮して放送席からロッテ選手に対して指示を出していた(ロッテの選手達には伝わっていない)。また、後年千葉ロッテマリーンズがOBデーを開催したときは、有藤道世らと共にOBのひとりとしてマリーンズのユニフォームを着て出場している。
気性の激しいイメージが強い一方、実は非常に気が優しく、よく人を気遣う性格でもあると言われている。有名なジム・トレーバーの乱闘事件では、本人自身が「顔面を蹴るつもりなど全くなく、あれは足を出したところに偶然顔が来てしまった」と言っている。また審判に対しても小声で「すまんがこれから怒鳴るから、悪いがしばらく黙って聞いててくれ」と前置きしてから大声で怒鳴る事も多かったと言う。
野球界が特待生制度の是非で揺れた時期に、自身がかつて各プロスポーツ関係者から特に手厚い待遇を受けていた「特待生の中の特待生」だった事を公言している。金田の弁によれば、中学・高校を通して学費を払った事が一切無いという。また、金田本人はプロ入り後の収入でそれらの金を返済するつもりだったが、現役時どころか現在に至るまで返済を求める者が現れず半ば無かった事になってしまったとの事。
特撮TVドラマ『ウルトラQ』に登場する怪獣ガラモンのアクションは、的場徹特技監督によると、金田のマウンドでの仕草を採り入れたものである。
球界の活性化の為には「巨人はパ・リーグに行くべき」だと主張している。
投手だけでなく現役選手にとっても畏れ多い存在である。最近では、2008年に金本知憲の2000本安打達成記念の名球会ブレザーを進呈するために阪神甲子園球場を訪問したが、阪神側のベンチに座った際も選手は近寄れなかった様子だった。
その実績とキャラクターから、野球を題材としたアニメやコミックなどの創作物に実名で登場する機会も多い。巨人の星では主人公の星に新しい投球(大リーグボール)を生み出すキッカケとなる助言を与えており、アニマル球場では現役引退記念試合が作品のクライマックスとなる試合に設定された。さらにアストロ球団ではロッテの監督として主人公達のチームと試合を繰り広げている。
一方で、1990年代後半以降の野球ゲームソフトにおいてOB選手が実名で登場するケースが増えている中、金田は登場したことがない(義弟留広と甥金石昭人は登場)。
ただし、それ以前、権利関係があいまいだったころの一部作品[2]には登場したことがある。
北京五輪野球日本代表監督を務めた星野仙一について「それだけの力がない。名前が先行しているだけで大監督じゃないんだよ」「あれしか出来なかっただけの能力の問題。コマーシャル出たり、『わしやったら上原を1週間で治してみせる(星野の発言)』。これは完全な驕り。言っちゃいけない言葉言ったら神様は勝たさないの」と星野を批判した。WBCの監督に関しては若松勉を推薦し(理由はアクがないとのこと)「愛される人間がやった方がいいものすごく険がある人間はやらないこと特に金田、星野は」と言っていた。ちなみに、巨人で400勝達成した時の負け投手は星野であった。
選手そして監督を通じて、選手では国鉄時代の完全試合達成、巨人時代の400勝達成、監督ではロッテとしての初の日本一と所属球団でそれぞれ大偉業達成をしたが、これらは奇しくも全て対中日戦である。
詳細情報 [編集]
年度別投手成績 [編集]

度 球
団 登
板 先
発 完
投 完
封 無

球 勝
利 敗
戦 セ

ブ ホ


ド 勝
率 打
者 投

回 被

打 被


打 与

球 敬
遠 与

球 奪

振 暴
投 ボ

ク 失
点 自

点 防

率 W
H
I
P
1950 国鉄 30 20 9 1 0 8 12 -- -- .400 727 164.2 132 12 127 -- 1 143 1 3 93 72 3.93 1.57
1951 56 44 25 4 0 22 21 -- -- .512 1488 350.0 257 22 190 -- 8 233 3 3 159 110 2.83 1.28
1952 64 41 23 7 0 24 25 -- -- .490 1527 358.0 280 17 197 -- 10 269 8 2 149 126 3.17 1.33
1953 47 33 24 6 1 23 13 -- -- .639 1233 303.2 222 10 135 -- 8 229 1 0 90 80 2.37 1.18
1954 53 39 28 2 7 23 23 -- -- .500 1435 345.2 290 19 114 -- 6 269 2 1 128 101 2.63 1.17
1955 62 37 34 9 3 29 20 -- -- .592 1565 400.0 279 19 101 2 8 350 2 1 91 79 1.78 0.95
1956 68 29 24 5 2 25 20 -- -- .556 1393 367.1 222 20 81 3 2 316 5 0 86 71 1.74 0.82
1957 61 35 25 5 3 28 16 -- -- .636 1378 353.0 256 17 93 9 2 306 1 0 88 64 1.63 0.99
1958 56 31 22 11 6 31 14 -- -- .689 1252 332.1 216 16 60 4 3 311 4 0 63 48 1.30 0.83
1959 58 25 14 4 1 21 19 -- -- .525 1187 304.1 222 26 79 5 3 313 0 0 96 86 2.54 0.99
1960 57 31 22 4 2 20 22 -- -- .476 1253 320.1 238 27 94 16 1 284 3 1 97 92 2.58 1.04
1961 57 32 23 6 1 20 16 -- -- .556 1292 330.1 257 27 81 9 2 262 3 0 88 78 2.12 1.02
1962 48 30 24 1 1 22 17 -- -- .564 1342 343.1 265 25 80 10 8 262 5 0 78 66 1.73 1.00
1963 53 30 25 9 4 30 17 -- -- .638 1308 337.0 234 20 83 4 1 287 2 0 83 74 1.98 0.94
1964 44 31 22 4 2 27 12 -- -- .692 1221 310.0 250 36 69 5 3 231 3 0 100 96 2.79 1.03
1965 巨人 28 17 9 3 5 11 6 -- -- .647 542 141.2 95 12 36 4 0 100 1 0 38 29 1.84 0.92
1966 19 12 1 0 0 4 6 -- -- .400 341 84.1 72 12 25 3 3 58 2 0 36 32 3.43 1.15
1967 33 22 6 1 1 16 5 -- -- .762 698 170.0 146 13 57 7 3 132 3 0 47 43 2.28 1.19
1968 32 19 4 0 0 11 10 -- -- .524 585 138.1 122 21 71 3 0 87 3 0 57 53 3.46 1.40
1969 18 11 1 0 0 5 4 -- -- .556 311 72.1 65 8 35 1 0 48 3 0 39 34 4.25 1.38
通算:20年 944 569 365 82 39 400 298 -- -- .573 22078 5526.2 4120 379 1808 85 72 4490 55 11 1706 1434 2.34 1.07

各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録
年度別打撃成績 [編集]


度 球

団 試

合 打

席 打

数 得

点 安

打 二

打 三

打 本

打 打

点 盗

塁 犠

打 犠

飛 四

球 死

球 三

振 打


1950 国鉄 31 70 65 6 13 1 1 1 3 0 0 - 5 0 11 .200
1951 56 136 124 12 21 0 0 3 15 0 3 - 9 0 22 .169
1952 65 133 129 9 31 0 1 2 8 4 1 - 3 0 17 .240
1953 50 128 120 9 33 7 1 3 11 1 2 - 5 1 18 .275
1954 57 136 124 9 28 3 1 3 4 0 5 1 4 2 43 .226
1955 68 165 151 17 27 3 1 5 14 0 3 1 10 0 43 .179
1956 81 144 131 10 24 6 0 1 13 0 5 0 6 2 18 .183
1957 69 139 120 11 20 5 0 3 15 0 8 1 9 1 24 .167
1958 60 131 123 10 20 1 1 2 12 0 3 2 3 0 20 .163
1959 58 109 101 6 12 1 1 1 3 0 2 0 6 0 28 .119
1960 57 118 106 5 24 5 0 2 9 1 4 1 7 0 19 .226
1961 57 131 124 5 15 2 0 0 2 0 5 0 2 0 15 .121
1962 63 147 135 10 23 3 0 6 18 1 1 0 9 2 16 .170
1963 76 160 148 13 36 6 1 1 16 0 1 3 7 1 17 .243
1964 49 126 114 11 27 6 0 3 13 0 4 0 8 0 15 .237
1965 巨人 31 56 49 5 6 1 0 1 4 0 5 0 2 0 12 .122
1966 19 26 23 1 4 1 0 0 2 0 1 0 2 0 1 .174
1967 34 65 59 6 16 2 0 0 4 0 3 1 1 1 7 .271
1968 52 78 76 3 19 0 0 1 7 0 0 1 0 1 13 .250
1969 20 35 32 2 7 0 0 0 4 0 1 0 1 1 8 .219
通算:20年 1053 2233 2054 160 406 53 8 38 177 7 57 11 99 12 367 .198

背番号 [編集]
34 (1950年 - 1969年、1973年 - 1978年、1990年 - 1991年)
記録 [編集]
ノーヒットノーラン:1回(1951年9月5日)※史上最年少記録(18歳35日)
完全試合:1回(1957年8月21日)
通算1000試合出場 1968年7月9日(131人目)
通算退場回数:8回(2005年5月29日に当時の巨人・タフィ・ローズに抜かれるまでは日本記録)
プロ野球記録 [編集]
通算勝利400
通算奪三振4490
通算投球回数5526 2/3
通算完投365
通算敗戦298
シーズン20勝以上:14年連続14度(1951年~1964年、回数・連続回数ともにプロ野球記録)
連続イニング無失点64 1/3(1958年4月30日~1958年5月27日)
最年少200勝達成(24歳309日)
セ・リーグ記録 [編集]
通算登板試合944
通算完封82
通算被安打4120
通算与四球1808
通算失点1706
通算自責点1434
シーズン完投34(1955年)
シーズン与四球197(1952年)
1試合奪三振16(1967年6月7日)
1試合与四球10(1950年11月4日)
タイトル・表彰 [編集]
最多勝利:3回(1957年、1958年、1963年)
最優秀防御率:3回(1957年、1958年、1965年)
最多奪三振(当時連盟表彰なし):10回(1951年~1953年、1955年、1956年、1958年~1960年、1963年、1964年)
沢村賞:3回(1956年~1958年)
ベストナイン:3回(1957年、1958年、1963年)
オールスターゲーム選出:17回(1951年~1964年、1967年、1969年)
野球殿堂入り(1988年)
監督としてのチーム成績 [編集]
年度 年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打 チーム
打率 チーム
防御率 年齢
1973年 昭和48年 ロッテ 2位 130 70 49 11 .588 2位・2位 139 .264 3.43 40歳
1974年 昭和49年 1位 130 69 50 11 .580 2位・1位 114 .265 3.18 41歳
1975年 昭和50年 4位 130 59 65 6 .476 6位・2位 108 .259 3.33 42歳
1976年 昭和51年 3位 130 63 56 11 .529 3位・3位 99 .258 2.96 43歳
1977年 昭和52年 3位 130 60 57 13 .513 5位・1位 111 .270 3.17 44歳
1978年 昭和53年 4位 130 53 62 15 .461 5位・3位 115 .269 4.01 45歳
1990年 平成2年 5位 130 57 71 2 .445 25 132 .262 4.22 57歳
1991年 平成3年 6位 130 48 77 5 .384 33.5 89 .260 4.23 58歳

※1 太字は日本一
※2 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄は前期、後期順位の順に表示
※3 1973年から1996年までは130試合制
監督通算成績 [編集]
1011試合 471勝468敗72分 勝率.502
CM [編集]
ロッテ(長嶋茂雄と共演。「野球は巨人、ガムはロッテ」のコピーで有名。)
チョーヤ梅酒 プラQ
公共広告機構(現:ACジャパン)
全日警
脚注 [編集]
^   『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。  p.44~ 「キャンプでの独自の食事、大の男を背負って坂道を登り降りする足腰の強化法」
^ 「燃えろ!!プロ野球」(ファミコン版)、パワーリーグシリーズ(「パワーリーグ5」「同'93」「スーパーパワーリーグ」※いずれも隠れチームとして登場したOBチーム)。なお、後者の作品では、日本野球機構に属するチームについては、承諾を得たうえで実名登録されている。

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