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武田久

武田 久(たけだ ひさし、1978年10月14日 - )
プロ野球・北海道日本ハムファイターズに所属する投手。

経歴
生光学園中学校2年までは主に内野手を務め、投手として活躍しはじめたのは3年生になってからだった。軟球でスライダーやカーブを投げられ、四国大会での優勝に貢献するなど活躍したが、投手にはこだわりをもっておらず誘いを受けていた強豪高へ進学し野手転向を考えていた。しかし、本人が留守中に生光学園高等学校の野球部長と監督が家を訪れ、父親を説得して同校への進学が決まってしまった。周囲に説得され、投手を継続した。[1]

駒澤大では1年生春から登板し、1年生秋には防御率1位で優勝に貢献し最高殊勲選手に選ばれた。東都大学通算63試合登板し23勝18敗、防御率2.27、232奪三振。23勝は駒澤大では、新井富夫の30勝、橋本時男の25勝に次ぎ、河原純一の23勝と並ぶ3位タイ。

社会人時代は日本通運に所属し、2001年の第72回都市対抗野球大会で2勝を挙げて若獅子賞を受賞した。準々決勝・JT硬式野球部戦では史上6人目の毎回奪三振を達成した。

2003年、二軍スタートも4月に1軍昇格。中継ぎの一角に入り6月にはプロ初勝利を挙げたが、その後故障で離脱し13試合の登板にとどまった。この年は眼鏡をかけてプレーしていた。

2005年も夏場までは二軍だったが、中盤に一軍に昇格し、球宴以降は閉幕まで15試合22イニング連続無失点を記録し、勝ちパターンの継投に名前を連ねた。防御率0.79という成績を残した。

2006年は中継ぎエースとして、マイケル中村・岡島秀樹らと共にリリーフで起用され、球団記録となる75試合登板(従来の記録は1968年に森安敏明が記録した67試合)。ともにリーグ新記録の40ホールド、45ホールドポイントで最優秀中継ぎ投手に輝き、チームの25年ぶりのリーグ優勝と44年ぶりの日本一に大きく貢献した。被本塁打はシーズン通して1本のみ、与四球は9イニング換算でわずか0.88個という少なさだった。

2007年、8月に調子を落とし一時は防御率も3点台まで落ち込んだが、最終的にリーグ2位の64試合に登板し防御率2.42、ホールドポイントもリーグ2位の35HPを記録し、球団史上初の連覇に貢献した。

2008年も序盤からセットアッパーとしてチームを引っ張った。しかし、8月以降、蓄積疲労の影響で不調になり、自己ワーストの7敗を喫し、防御率も4点台に落ち込み、終盤には建山義紀が代役を務めた。特に、優勝した西武に対しては1勝4敗、防御率9.00、2位のオリックスにも勝敗こそ1勝1敗だったものの、防御率は5.87と打ち込まれた。このオフの契約更改では、「行列ができる法律相談所」に出演している人気弁護士の北村晴男を代理人として立てて話題になった。[2]

2009年には、ストッパーに回り、シーズン無敗。オールスターでは青木宣親に勝ち越し弾を浴び敗戦投手となった。2009年10月1日をもって残り試合の換算でこの年のセーブ王が決まった。

エピソード
日本通運時代は、配送業務を担当していた。「日通の大エース」という異名も持っていた。
同じ日本ハムに同姓で投手の武田勝がいるため、かつて日本ハムの監督を務めていたトレイ・ヒルマンは、審判に投手の交代を告げる際、間違えないように右投げの久を「タケダ、ミギ」、左投げの勝を「タケダ、ヒダリ」と呼んでいた。
オリックス・バファローズの清原和博は、武田を「最高のストレートを投げる」「セ・リーグに藤川球児(阪神タイガース)がいるようにパ・リーグにはお前(武田)がいる」と評価している。また、岩本勉(日本ハムOBの野球解説者)などから「オーバースローながら渡辺俊介(千葉ロッテマリーンズ)並みの球筋が実現できている」とも評価されている。
2006年シーズン終了後、北海道内のマスコミなどがチーム選手、コーチ、裏方などに「今年のチームのMVPは誰か?」と問いかけたところ、全員が即答で武田の名を挙げた。
身長は170cmと公称しているが、2006年11月19日に行われたファンフェスティバルで「今朝の健康診断で(身長は)168.4cmでした」と告白した。武田は11月22日の旭川市でのトークショーでは「プロの選手は誰だって身長を2cmはサバを読んでいる」と語っている。また、自分は球界で一番身長の低い投手ではないと言い、一番はヤクルトの左腕(石川雅規)じゃないですかと語っている。投手としてかなり身長が低くても、プロで活躍していることから、背の高くない少年や高校球児から「武田さんをみていると勇気付けられる」と言われることがあり、そういう人を代表していることも自覚してプレーするようになったという。また、同じく小柄な同僚の谷元からあこがれの選手として挙げられている。
投手としては小柄な選手でありながら年間50試合以上登板を毎年続けても大きな故障をせず安定した活躍を見せる事から「小さな鉄腕」と評される。
2005年4月のイースタン戦と2006年6月の交流戦で、横浜の吉村裕基に対し死球を与え、いずれも骨折させた。
二軍にいた頃、ファイターズスタジアムで好結果を出した事から一軍のはしご出場を頼まれ、その日の飛行機で札幌ドームへ行って投げたという。
武田のシュートボールをどうしても打てなかった清原和博は、札幌の寿司屋で武田と会った際に「もうシュートを投げないでくれ」と本人にお願いし、寿司を全額おごった。それ以来武田は清原にシュートを投げなくなったらしい。

プレースタイル
MAX146km/hのストレートとスライダー、シュート、フォーク、カーブを投げる。

ひざが地面に着く沈み込むフォームで、球持ちが良く、低身長も相まってオーバースローながら非常に低いリリースポイントからの、伸びのある直球と制球力の良さが武器。

タイトル・表彰
最優秀中継ぎ投手:1回(2006年)

記録
オールスターゲーム出場:4回(2006年 - 2009年)
最多登板(2006年)
シーズン60試合以上登板(2006年 - 継続中)
シーズン登板:75(歴代5位)
シーズンホールド:40(歴代2位)
シーズンホールドポイント:45(歴代2位)
通算ホールドポイント:94(歴代2位)
継投ノーヒットノーラン - 2006年4月15日の対福岡ソフトバンクホークス4回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)。八木智哉、マイケル中村とともに達成。日本プロ野球では65年ぶり、延長回を含む試合では史上初(3投手の継投も史上初)。
初登板:2003年4月27日、対大阪近鉄7回戦(東京ドーム) ― 7回表無死から救援、打者:川口憲史
初奪三振:同上 - 7回表無死、打者:川口憲史
初勝利:2003年6月2日、対大阪近鉄9回戦(東京ドーム)
初ホールド:2005年8月19日、対オリックス12回戦(スカイマークスタジアム)
初セーブ:2005年9月22日、対オリックス17回戦(スカイマークスタジアム)

背番号
54(2003年)
21(2004年 - )

登場曲
ベント・ファブリック「Juke box」



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