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藤田宗一

藤田 宗一(ふじた そういち、1972年10月17日 - )
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(投手)。左投左打。175cm、80Kg。背番号は37。
主な球種は直球とスライダー。ほぼこの2球種のみだが、まれにカーブ、シュートも投げる。
スライダーは「伝家の宝刀」とも言われ、左打者にとってはかなりの難敵である。また牽制、クイックも得意。


経歴
1997年、ドラフト3位で千葉ロッテマリーンズに入団。
1998年、4月4日近鉄戦の8回に初登板。4月11日西武戦で初セーブ。5月4日西武戦で初勝利。河本育之に次ぎ、チーム2位の7セーブをあげる。
1999年、65試合登板でリーグ最多試合登板。
2000年、70試合登板で2年連続最多試合登板。最多ホールドのタイトルを獲得。
2001年、オールスターゲームに初出場。
2003年、28試合の登板にとどまり、6年連続50試合以上登板を逃す。
2004年、4年ぶりの勝利を挙げるなど62試合に登板。
2005年、ロッテの勝利パターン継投「YFK」の一角として31年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。
2007年、5月3日日本ハム戦の9回に登板。通算500試合登板を達成。10月27日に戦力外通告を受け、11月7日に読売ジャイアンツと契約。
2008年、4月5日阪神タイガース戦で中継ぎ登板。527試合連続救援登板日本記録を達成。

来歴・人物
中学校までを京都府八幡市で過ごし、長崎県の島原中央高等学校に野球留学。西濃運輸では抑えとして素質が開花し、1996年の社会人野球日本選手権大会ではチームが準優勝し、自身も敢闘賞を受賞した。翌年も都市対抗でのベスト8入りに貢献している。1997年にドラフト3位で千葉ロッテに入団。1年目から河本育之の故障もあってリリーフ投手として活躍し、入団から5年連続で50試合以上に登板した。これは秋山登、岩瀬仁紀(継続中)の9年連続に次ぐ3位の記録である。社会人時代に肩を壊し、リハビリ生活を余儀なくされた経験が故障しない頑丈な体を作っている。

薮田安彦と共に、抑えの小林雅英につなぐ中継ぎを担った。プロに入って先発登板したことは未だにないため「中継ぎのスペシャリスト」とよく言われる。薮田、藤田から小林に繋ぐリレーは千葉ロッテの“勝利の方程式”であり、一部メディアからは阪神タイガースの勝利の方程式「JFK」を捩って「YFK」と名付けられた。2006年にはWBC日本代表に選ばれ、3試合に登板して優勝メンバーとなった。

2007年5月3日に史上79人目の通算500試合登板を達成。すべてリリーフ登板であり、初登板からの500試合連続リリーフ登板は史上初である。同年6月20日には、連続リリーフ登板が512試合連続となり、パ・リーグ新記録となった。31試合に登板したものの防御率12点台と極度の不振で、左打者のワンポイントで登板しては打ち込まれるという試合が続き、肩の故障も相まって二軍落ちも経験。10月27日に戦力外通告をされ、球団からのコーチ就任を要請されるが、あと3試合にせまった日本記録(橋本武広の526試合)もあり現役続行の道を選ぶ。

戦力外通告となると、合同トライアウトには参加せず他球団のオファーを待った。複数球団が興味を示し、ソフトバンク・王貞治監督(兼GM)などは「(費用対効果もあるが、前年の年俸程度の)1億出す。ロッテ戦に優先的に投げさせる」とまで言い切り、かなりの争奪戦が予想されたが、11月7日交渉が解禁されたわずか90分後に巨人と契約。背番号は「初心に返りたい。12番以外なら」ということで37。退団した前田幸長に代わり若いリリーフ陣の経験不足をカバーする役割を果たす。

エピソード
ロッテ時代は「中継ぎ」という仕事の評価が低い事に不満を持ち、例年契約更改がこじれていた(同様のことを行った選手で代表的な投手としては元広島の清川栄治、元阪神の伊藤敦規などがいる)。
2005年10月17日、ロッテが31年ぶりのリーグ優勝を成し遂げたときに誕生日を迎える。また、同日の試合で勝利投手になった。
2006年WBC日本代表の優勝メンバーである(3試合 0勝0敗0セーブ 防御率9.00 1回投球 1奪三振 自責点1)。
2007年の5月27日の阪神戦で金本知憲に3球続けて胸元に投げ、結果死球を与えて乱闘騒ぎになった(この試合はそれまでに福浦和也が二死球を受けるなど荒れていた)。ファンから激しい罵声を浴びて、プロ野球に入ってこれが一番恐怖を感じた経験だという。翌日には謝罪し、金本も「こういうのは仕方ない」と言い、2人の間にわだかまりはないと言う。
ロッテ退団後、複数の球団からオファーがあったが、巨人から真っ先に声をかけられたことに誠意を感じ巨人入団を決めたと言う。1度は巨人のユニフォームを着たいという思いもあったと語っている。
2008年5月20日に古巣のロッテとの交流戦で二死満塁のピンチで登板。千葉マリンスタジアムの観客席から彼に対するブーイングも飛び出す中、見事救援に成功した。そして翌日の登板では、前日にブーイングを浴びせられた古巣のファンからも拍手で迎えられた。
家族は妻と子供が2男1女。
WBC出場選手としては初めて戦力外通告を受けた選手でもある。
テーマ曲はGeorge Thorogood & the Destroyersの「Bad to the Bone」。

タイトル・表彰
最多ホールド:1回(2000年)
千葉市市民栄誉賞:(2006年)

背番号
12 (1998年 - 2007年)
37 (2008年 - )

個人記録
初登板:1998年4月4日、対近鉄バファローズ1回戦(大阪ドーム)、8回裏に救援登板
初セーブ:1998年4月11日、対西武ライオンズ2回戦(千葉マリンスタジアム)
初奪三振:1998年4月21日、対福岡ダイエーホークス1回戦(福岡ドーム)、8回裏に吉永幸一郎から
初勝利:1998年5月4日、対西武ライオンズ6回戦(西武ドーム)、9回裏に救援登板・完了
初ホールド:2005年3月30日、対オリックス・バファローズ3回戦(大阪ドーム)
500試合登板:2007年5月3日、対北海道日本ハムファイターズ7回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に救援登板 ※史上79人目
連続救援登板日本記録(527試合:2008年4月25日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場)



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