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高橋由伸

高橋 由伸(たかはし よしのぶ、1975年4月3日 - )
千葉県千葉市中央区出身のプロ野球選手で、読売ジャイアンツに所属。右投左打で、ポジションは外野手(主に右翼手)。
背番号は24。最初の1年は「高橋」と記されていたが、その後入団した同姓の高橋尚成がいるため、スコアボードには「高橋由」と表示される。労働組合「日本プロ野球選手会」副会長の1人(2005年12月1日 - )である。



来歴・人物

アマチュア時代
中学のポニーリーグ時代はエースとして全国制覇を経験し、桐蔭学園高等学校(以下、桐蔭学園)からスカウトされる。桐蔭学園では1年生時から3番・ライトのレギュラーの座を掴む。このころから強肩・好守に加えて勝負強さの片鱗を見せていた。夏の甲子園で3回戦に進出。1992年も夏の甲子園に出場するが1回戦敗退。1回戦で沖縄尚学とあたり本塁でのクロスプレーで腰を強打したとも言われている。2度の甲子園出場では、いずれも悲劇的なサヨナラ負けを喫した。チームメイトには、高木大成(2学年上)や副島孔太(1学年上)がいた。キャプテンを務めた3年時には1番打者を務めるも甲子園には出られなかった。高校通算30本塁打。

慶應義塾大学(法学部政治学科)に進学後には、野球部で1年時からレギュラー。東京六大学野球1996年春季リーグ戦では打率5割1分2厘を記録して三冠王を獲得、1997年には主将に就き、春季リーグ戦ではチームを9シーズンぶりのリーグ優勝に導く貢献、そして秋季リーグでは田淵幸一の持つ東京六大学リーグ本塁打記録を更新して歴代1位となる通算23本塁打をマーク(ちなみに23本目は法大の安藤優也投手から放った)。102試合出場し366打数119安打、62打点、打率.325。通算219塁打は歴代1位。六大学の同期である明大の川上憲伸投手とは、大学時代より数々の名勝負を繰り広げたライバルであった。同年秋のドラフトで読売ジャイアンツを逆指名して入団する。長嶋茂雄曰く「21世紀のヒーロー」「野球の天才打者」であった。

プロ選手時代
1998年
プロ1年目の開幕を7番ライトで迎え、後半戦は5番打者に定着。8月4日の広島戦では同じ背番号24の左腕大野豊から逆転スリーラン本塁打を放つ(大野はこれを機に引退を決意したという)。この年は右足を高く上げる独特の一本足打法から、打率.300・19本塁打・75打点の好成績を挙げ、新人王候補にも名を連ねたが、中日・川上憲伸が受賞した。新人としては異例のセントラル・リーグ特別表彰を受賞し、監督の長嶋茂雄(当時)は、高橋を「天才」と評し、「ウルフ」のニックネームを与えた。

1999年
バリー・ボンズをヒントに重心移動に取り組み、長打力もアップ。5月5日にはプロ2年目で巨人第66代の4番打者に指名される。9月14日の中日戦(ナゴヤドーム)での守備の際、外野フェンスに激突し鎖骨骨折の重傷を負いを離脱。それでも打撃タイトル3部門で好成績を残し、1億円プレイヤーに。

2000年
前半戦はプロ入り後初めてのスランプを経験するが、後半戦には復調。3番・高橋、4番・松井、5番・清原の強力クリーンアップの一員としてリーグ優勝・日本一に貢献。

2001年
江藤智とともに3番・6番打者を任され、2年連続で全試合出場。8月1日の中日戦ではライバル・川上憲伸からプロ入り通算100号本塁打を放つ。

2002年
度重なって死球を受け離脱するも、主に3番打者として2年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献。

2003年
6年目を選手会長として迎え、松井の移籍によりセンターコンバート。清原の欠場もあり、初めて開幕戦を4番で迎える。コンバートには失敗、故障による離脱などもあったが、シーズン中盤には好調をキープし続け、11打数連続安打、14打席連続出塁のプロ野球タイ記録を樹立。打率も自己最高の.323を記録。

7月15日、オールスターゲームで2打数2本塁打3打点の活躍、自身初のオールスターMVPを受賞。
2004年
初めて継続して開幕からシーズン中盤まで4番打者を務め、5年ぶりに30本塁打を記録。前年に続きセンターコンバートを試みるが、まもなく移籍したタフィー・ローズに譲る。後半戦で肘の遊離軟骨状態が悪化し、シーズンオフに右肘の手術を受ける。

8月13日 - 8月29日、アテネ五輪出場。
2005年、2006年
2005年は、シーズン中盤に右足首を痛め、昨年同様後半戦を離脱。プロ入り以来はじめて規定打席を割る。2006年も、シーズン序盤にセンターの守備でダイビングキャッチの際、左脇腹を痛め約1ヶ月の離脱。復帰して半月ほどたった5月27日の千葉ロッテマリーンズ戦で再びダイビングキャッチを試みて左肩を負傷。開幕は中堅手でプレーするが、中盤から右翼手、後半戦は左翼手でプレー。規定打席を割り、打率.260、15本塁打と不本意な成績に終わった。

2007年
心身ともに強い選手という意味で「強」を自らのテーマに掲げ、開幕戦から1番・右翼で起用される[1]。1年を通じて大きなケガや長期離脱もなく、3年ぶりに規定打席及び打率3割をクリア。また自己最多の35本塁打を放ち、OPSと得点圏打率においては12球団トップの数字を記録。チーム5年ぶりの優勝に大きく貢献し、8年ぶりにベストナインに選ばれた。

開幕戦の横浜戦(横浜スタジアム)、第1打席で先発・三浦大輔の初球を右翼スタンドへ本塁打を放ち、セントラル・リーグ史上初、衆樹資宏以来45年ぶりの開幕戦初球先頭打者本塁打を放つ。これにより、3年連続開幕戦本塁打となり、長嶋茂雄の5年連続に次ぐ歴代2位、現役では1位となる。
4月28日、FA権を取得するも、早い段階で宣言せずに残留することを表明。生涯巨人を宣言した。
7月26日、横浜・マット・ホワイトから、1シーズンでのプロ野球新記録となる9本目の初回先頭打者本塁打を記録。
2008年
4年総額16億の大型契約を更新。開幕からしばらくは前年同様1番・右翼で出場。その後4月下旬から4番で起用されるも、腰痛を再発させ2軍落ち。亀井義行・隠善智也などが穴を埋めたものの、1軍復帰後も痛みは引かずに本来の調子を取り戻すことが出来ず、1軍帯同したままで起用されない試合も増える。ポストシーズンでは代打起用のみとなるなど最後まで復調することなくシーズンが終了し、自己ワースト成績、年間出場打席数も2005年を下回った。チームはリーグ優勝したものの、本人は「今年はチームに迷惑かけっぱなしでした」とあまり喜べないものだった。この不振により、プロ入りして以来10年間3割以上をキープしていた通算打率が、ついに3割を下回った。

2009年
腰痛で調整が遅れ、プロ生活初の2軍スタートとなったものの、イースタン・リーグなどで調整を続けて1軍昇格を目指していた。 ようやく8月28日に一軍登録され同日の対阪神戦(阪神甲子園球場)の9回に代打で登場するも三振。しかしその翌日、腰痛が悪化し、本格的なリハビリ復帰を期して手術を受ける為、チームから再離脱し、今季絶望となった。

巨人球団節目の本塁打
2000年9月(東京ドーム・vs広島)では球団通算100号のサヨナラ本塁打、2002年6月(札幌ドーム・vs広島)には球団通算7500号本塁打と球団の節目の本塁打を放った。奇しくも対戦投手はどちらも高橋建である。

プレースタイル

打撃
右足を高く上げる一本足打法が特徴である。前足を上げる直前に軸足の踵を一瞬上げるなど、投手と重心を同期させる独特のモーションは手塚一志の提唱するシンクロ打法そのものである。また、広角に強い打球を放つ事ができ、アテネオリンピックでは王建民の外角の速球を逆らうことなくレフトスタンドへ本塁打を打っている。ちなみに、プロ通算10年間で打率3割以上を7度、本塁打30本以上を3度記録しているものの、打撃タイトル獲得経験は無い。

守備・走塁
積極的・攻撃的な守備が持ち味で、プロ入り1年目から6年連続・通算7度ゴールデングラブ賞を受賞した外野守備の名手である。遠投120メートル、入団当初の50m走のタイムは6秒0。

打球の落下地点に向かって一直線で向かうため、守備範囲は広い。元投手ということもあり強肩で、走者を刺すシーンが幾度となく見られる。走塁技術・判断力も高いが、5番~7番打者を任され中長距離打者としての評価を固めていったためか、盗塁数は非常に少ない(シーズン最多盗塁も5)。近年は度重なる足の故障や持病の腰痛も重なり、脚力は影を潜めている。

広い守備範囲が日本の球場特有の堅いフェンスや摩擦抵抗の大きい人工芝などと重なり、激突やダイビングキャッチによる負傷・離脱(特に外野が狭くフェンスが硬い東京ドームや旧広島市民球場での故障)が多い。松井秀喜のメジャーリーグ移籍後は毎年のようにセンターコンバートを試みていたが、特徴あるスローイングのためか不調あるいは故障を招き、守備力自体は劣る選手(タフィー・ローズなど)に任せ、アマチェア時代から一貫してライトが定位置となっている。アテネ五輪では広い守備範囲を生かしてセンターを守っていた。2006年終盤は足の故障の影響もありレフトを守った。2009年にはファーストコンバートも噂された。

使用用具
グラブは入団当時からミズノ製を使用している。茶色の本体に白色のイニシャル「Y」をあしらったウエブが特徴(キャンプなどは久保田運動具店製を使用していた時期があった)。
バットは高校時代からSSK製を使用している。カラーリングは施されていない。
スパイクは入団当時から2000年ごろまではナイキ製、2001年から2005年ごろまではフィラ製、2006年から現在に至るまでアシックス製の物を使用している。
手袋は入団当時からミズノ製を使用。白色に黒色のラインが入っている。
肘当て、すね当てを打席時に着用している。白色の本体に「y」の文字を銀色で入れている。

リーダーシップ
高校、大学時代にも主将を経験するなど、高いリーダーシップを兼ね備えた選手である。ジャイアンツにおいては、生涯選手「ミスタージャイアンツ」と目される存在であり、精神的な支柱として、内外ともに認めるジャイアンツの看板選手である。ここ数年のジャイアンツの生え抜き選手の大黒柱としてファンからの声援は移籍選手である小笠原道大、アレックス・ラミレス、生え抜きのスター候補生の坂本勇人などよりも数倍大きい。 近年のジャイアンツの数多い補強の中で高橋由伸の守るライトだけは聖域となっており、ジャイアンツに外野手が入ったとしても高橋の守備位置は変わらない。 アテネ五輪でコーチを務めた高木豊は、「宮本の次に日本代表を引っ張るのはヨシノブだ」と語った。 27歳だった2002年のオフ、同年限りで退団した松井の後任として翌年からの選手会長を任された。任期の通常の目安は2年ほどと考えられていたが、2003年から2007年まで選手会長を務めた。

タイトル・表彰・記録
ベストナイン:2回(1999年、2007年)
ゴールデングラブ賞:7回(1998年 - 2003年、2007年) 
月間MVP:5回(1999年4月、2000年8月、2001年8月、2003年6月、2007年6月)
セ・リーグ会長特別表彰(1998年)
オールスターゲーム出場:8回(1998年 - 2004年、2007年)
オールスターMVP:1回(2003年第1戦)
850試合目で通算1000本安打達成(歴代8位)
通算1000試合出場 2006年8月18日(412人目)

日本記録
入団から6年連続ゴールデングラブ賞受賞(1998年 - 2003年)
11打数連続安打(2003年6月7日 - 6月11日 3四球挟む) ※タイ記録。
14打席連続出塁(2003年6月7日 - 6月11日) ※タイ記録。
シーズン初回先頭打者本塁打9本(2007年)

背番号
24 (1998年 - )



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