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今岡誠

今岡 誠(いまおか まこと、1974年9月11日 - )
阪神タイガースに所属するプロ野球選手(内野手)。兵庫県宝塚市出身。
愛称は、「ゼブラくん」、「今岡さん」、「誠の救世主」など。
夫人はネイリストでタレントの今岡梨惠。


経歴

プロ入り前
PL学園高校3年時に第64回選抜高等学校野球大会に出場し、8強入りする。東都大学野球連盟所属の東洋大学に進学後は遊撃手として大学通算89試合出場、335打数100安打、打率.299、12本塁打、73打点を記録。ベストナインに2回選出され、同リーグの青山学院大学で同学年、同ポジションの井口忠仁と双璧ともいわれた。アトランタオリンピックでは日本生命の福留孝介も含めて3人の遊撃手が選出されたが、主に7番遊撃手井口、8番二塁手今岡、9番三塁手福留で起用され、打率.435を記録した。

1996年のプロ野球ドラフト会議で同大学初の1位指名選手として阪神を逆指名し入団。球団から背番号「4」「7」を提示され、憧れだった真弓明信と同じ「7」を選ぶ。

プロ入り後
1年目の1997年から二塁手として一軍に出場。翌1998年には2番打者としてほぼ全試合に出場して打率.293を記録。しかし、2000年は不振に陥り40試合に出場して打率.212に終わる。翌2001年は開幕2戦目、3戦目で本塁打を放ったが、それ以降の成績は平凡でシーズン中盤からは守備の負担を軽くするために三塁手として起用されたがシーズン4本塁打にとどまった。当時の野村克也監督との不仲説・軋轢説が、一部のファンやマスコミから指摘されることもあった(スポーツニッポン#疑義が持たれた報道)。

2002年は春季キャンプからの活躍が認められて二塁手のレギュラーを奪取。故障した赤星憲広に代わって1番打者に固定され、自己最高を更新する打率.317、15本塁打を記録する。2003年も1番打者として起用され、打率.340で首位打者のタイトルを獲得して1985年以来のリーグ優勝に貢献。二塁手としてゴールデングラブ賞を受賞した。同年は当時のセ・リーグ記録となる年間初回先頭打者本塁打を7本放ち(うち5本は初球)、2試合連続で先頭打者初球本塁打も記録した。2004年は3番を打ち、打率.306、28本塁打、83打点の好成績を挙げる。同年から阪神選手会長に就任した。

2005年は岡田彰布監督の意向で守備の負担を軽減するため三塁手にコンバートされ、打撃では勝負強さを買われて5番に抜擢されると藤村富美男の球団記録を更新して日本プロ野球歴代3位となる147打点を記録し、打点王のタイトルを獲得すると共にリーグ優勝に貢献した。同年の3番アンディ・シーツ、4番金本知憲、5番今岡らによるクリーンナップ3人の合計357打点は球団史上最高記録となった。一方で三塁守備では不安定さが目立ち、三塁手としてリーグ3位の14失策を記録。腱鞘炎の一種である「バネ指」が影響したと言われたが、一部のファンやマスコミからは「チャンス以外はやる気がない」などと揶揄された。同年で選手会長を引退し、後任として赤星憲広を推薦した。

2006年の春季キャンプでは低打率に終わった前年の反省から、「当てること(安打を打つこと)を目標にすれば、自然に打点も付いてくる。大事なのは当てること」と打撃フォームの改造に着手。しかし、バネ指がさらに悪化して打率は2割前後に低迷する。開幕から5番を任され続けたものの調子は上向かず、6月17日のオリックス・バファローズ戦で死球を受けて右手首を挫傷したこともあり、バネ指の手術に踏み切った。9月17日の中日ドラゴンズ戦に代打で復帰したが手術後のため送球ができなかったこともあり、復帰後はスタメンでの出場はなかった。

2007年も開幕から5番に座り前半戦は打率3割前後をキープするも、2005年とは逆に走者がいない場面では4割を超える出塁率を記録したが得点圏で打てず、前半戦は17打点にとどまった。7月25日に一軍登録を抹消され、9月27日に再昇格。5番三塁手の定位置に戻り、6試合で7打点を挙げた。同年のオリンピック・アジア予選の第一次候補選手(5月8日発表)に名を連ね、星野仙一日本代表監督に右のキーマンとして期待されていたが10月12日に発表された最終候補選手では選考から漏れた。

2008年のキャンプでは本塁打増産を目指して前年オフから始めた加圧トレーニングなどによる筋力強化に取り組み、FAで加入した新井貴浩との守備位置争いがファンやマスコミの注目を集めたが、岡田監督は早いうちから新井を一塁手、今岡を三塁手で起用する方針を明言。5番三塁手で開幕を迎えたが打率1割台前半と低迷して守備も失策やミスが目立ったことから、5月25日に一軍登録を抹消された。9月11日に一軍に再昇格して3番三塁手に復帰すると9月だけで5本塁打を放ったが、シーズン序盤の低打率を巻き返すことはできず、関本賢太郎やアーロム・バルディリスにスタメンを譲ることもあった。同年のクライマックスシリーズも代打で1打席しか出番を得られず成績も低迷した。

2009年は背水の陣で挑む覚悟と前年にコメントしたが不振から脱却できず打率1割前半と低迷して出場数も減り、9月1日に複数のメディアが引退、もしくは来季の戦力外構想と報じた。同年、10月10日に阪神タイガースから退団を発表。本人は現役続行を希望している。

プレースタイル
三振が少ない巧みなバットコントロールと勝負強さに定評がある。2003年シーズンの打撃を見たランディ・バースは左肘に遊びを持たせたフォームが対応力を増し、ボールの芯にミートする率を高めていると分析した。悪球打ちの名人でもあり、初球から積極的に打つ傾向にある。一方、走塁面では足が遅く併殺打も多い。入団当初は遊撃手でチーム屈指の強肩だった。和田豊の現役晩年からは二塁手、2005年からは膝蓋靱帯炎に配慮して三塁手にコンバートされた。故障の影響もあってか、三塁での守備範囲は狭く送球も衰え、守備面での貢献度は低下している。

人物
阪神のスポンサー企業である上新電機(赤星、矢野輝弘、藤川球児と共演、2008年まで)や、ハウス食品「六甲のおいしい水」のCMに出演している。

背番号
7(1997年 - )

タイトル・表彰・記録
首位打者:1回(2003年)
打点王:1回(2005年)
ベストナイン:3回(2002年、2003年、2005年)
ゴールデングラブ賞:1回(2003年)
月間MVP:3回(2002年4月、2003年7月、2005年9月)
最優秀JCB・MEP賞:1回(2005年)
シーズン147打点(2005年) ※歴代3位
オールスター出場:5回(1998年、2002年~2005年)
通算1000試合出場 2005年8月2日(406人目)

個人記録
初出場:1997年4月8日横浜戦(横浜) 9回より和田に代わり二塁守備に就く
初安打:1997年4月9日横浜戦(横浜) 米から左前安打
初打点:1997年5月31日巨人戦(甲子園)
初本塁打:1997年8月3日巨人戦(甲子園) 8回斎藤からソロ
FA取得・行使:2006年(現在も有資格者)




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