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金村曉

金村 曉(かねむら さとる、本名・金村 秀雄(かねむら ひでお)、1976年4月19日 - )
阪神タイガースに所属するプロ野球選手(投手)。
愛称は名前が金村曉であること、その漢字をあかつきと読めることから「あかつき」、「キンソン」。
1997年に「秀雄」から「暁」に登録名を変更。2001年には「暁」から現名の「曉」に再変更した。座右の銘は「弱気は最大の敵」。


プレースタイル
変化球を主体に制球重視の投球をする。球質が軽く、強打されると本塁打になりやすいという欠点もあるが、コントロールと緩急をつけたピッチングで打者の打ち気を逸らす。一時期は球威の衰えもあり、丁寧にコーナーをつく投球をするためコントロールが良い割には四球が多くなった。

主な球種は高速スライダー、シュート、フォークボール、パームボールなどである。パームボールは深夜番組「NANDA!?」の「遅い球特集」を観て、高校時代に投げていたパームボールを実際に試してみたという。

非常にフィールディングに長けており、犠牲バント阻止も数多く見せているほか、投手ながらバッティングも良い。

元タレントの亜也子夫人との間に男の子の双子がいる。

経歴

プロ入り前
小学生の頃から日本ハムファイターズのファンで、当時のエースだった西崎幸広に憧れていたという。1994年に県大会決勝で櫻井幸博を擁する仙台工を破り、夏の甲子園に出場を果たし、甲子園ではベスト8まで進む。同年のドラフトで、日本ハムに1位指名され入団。この時日本ハムは甲府工の山村宏樹を1位指名する予定だったが、直前になって金村に変更した。入団記者会見ではハムをほおばるアクションを見せた。

「ガラスのエース」
3年目の1997年から頭角を現し始める。その後日本ハムのエースに成長したが、かつては怪我がちで「ガラスのエース」とも呼ばれていた。

1998年、開幕から中継ぎとして一軍定着し、初のオールスターゲーム出場を果たす。後半戦は先発ローテーションに入り、5完投も記録。135イニングでぎりぎりで規定投球回に到達し、防御率2.73で4年目、22歳にして最優秀防御率を獲得。

1999年、開幕ローテーションに入り、開幕から2試合連続完封勝利、3試合連続完投勝利。3戦目の9回にイチローに史上最速1000本安打となる本塁打を浴びるまで開幕から26イニング連続無失点を記録。試合直後に右肩の痛みを訴え離脱、9月まで復帰できなかった。この3試合の登板のみで初の月間MVPを獲得。

2000年、2年連続で4月に月間MVPを獲得し、順調な滑り出しを見せたが、直後に再び右肩痛で離脱。

2001年は初の開幕投手を務めた。故障がちだったため大島康徳監督が完投させず起用した結果、故障なく初めて1年ローテーションを守りきり、規定投球回にも到達という最低限の役割を果たしたものの、7勝13敗、防御率4.89と不振。故障のリハビリでウェイトトレーニング等で肩を鍛え、この年から故障での離脱はしなくなった。

4年連続二桁勝利
2002年は開幕からしばらくはチームの方針で中継ぎだったが、すぐにローテーションに戻る。安定感も戻ってシーズン通して活躍し、初の2桁勝利をマーク。フォークがさえ、自己最多の143奪三振を記録。2005年まで4年連続2桁勝利を記録し、日本ハムのエースとして活躍。

2003年は前半戦で3勝どまりと不振だったが、後半戦7勝と巻き返し2年連続の10勝に滑り込む。

2004年、日本ハムの本拠地移転1年目の札幌ドームの初戦で先発。勝利投手となり、ヒーローインタビューでは北海道弁を取り入れ「なまら最高です!」と叫び、北海道のファンを沸かせた。この言葉はその後、金村のトレードマークにもなり、「なまら最高タオル」などのグッズも発売される。このセリフは自身の公式ブログのトップにも記されている。自己最多の13勝をマーク、6年ぶりにオールスターにも出場。シーズンオフには、札幌グランドホテルで開催した「日ハム選手ディナーショー」に出演し、自慢の歌を披露しファンを魅了させた。

2005年、自己最多の174イニングを投げ、2年連続で13勝を挙げる。オールスター出場も果たすが、チームのローテーションの関係で登板はなかった。

舌禍事件
2006年、3度目の開幕投手となった開幕戦では、前年限りで引退した岩本勉の登場曲(CHAGE&ASKAの「YAH YAH YAH」)を引き継いで使った。同年4月16日、福岡ソフトバンクホークス戦でフリオ・ズレータの腹部に死球を与え、激昂したズレータに暴行を受けて負傷(ズレータが金村のいるマウンドに突進して行ったが、金村は逃げなかった)。4月後半を棒に振ったが、5月7日の東北楽天戦で復帰登板して勝利投手となった。

9月24日の千葉ロッテマリーンズ戦では、5年連続2桁勝利と6年連続規定投球回到達の記録がかかっていたが、立ち上がりから投球が安定せず、4-1で日本ハムの3点リードで迎えた5回裏に2死満塁のピンチを迎えるとトレイ・ヒルマン監督に交代を命じられた。この後のレギュラーシーズン中の登板予定がなかったため、シーズン成績9勝6敗、投球回数134回2/3(規定に1回1/3不足)が確定し、記録が共に途切れることとなってしまった。

試合後、金村は降板させられたことについて「絶対に許さない。外国人の監督だから個人の記録は関係ないのでしょう。顔も見たくない」とヒルマン監督を批判する発言をした。これが原因で、球団は「出場選手登録抹消」「翌25日に行われるチーム練習への参加禁止」を即日決定し、25日には「罰金200万円」と「プレーオフ終了までの出場停止」という厳しい処分を下した。金村はレギュラーシーズン終了後に選手・首脳陣などに謝罪し、ひとまず事態は収拾された。

ヒルマン監督は当初「(金村は)プライドの高い投手。あそこで交代させたのは少し軽率だった。だがチームのムードを壊す行為は許されない。私や選手が3年間通して作りあげたものを壊されたような感じだ。この件で使いづらくなった」とコメント。ただその後、金村に対し「あなたの9勝がなければ、我々はこの位置にいられなかった」とし、謝罪を受けて「わだかまりはない。来るべき時の準備を進めてほしい」とエールを送り、決して金村を責めることはなかった。また、その日のうちには金村を許すことを決め、球団にもシーズン中にリベンジの場を与えたいと話していたという。

一方、金村も冷静になって事の重大さに気付き、岩本勉に泣きながら電話をかけている。日本ハム時代の先輩だった片岡篤史・下柳剛からも「俺はお前にそんな事を教えたか!目を覚まさせてやる!」と直接叱責を受けたが、最後には「こういう経験がないと大きくなれない。いい勉強と思って前向いてやれ。成長するステップと思って頑張れ」という言葉をかけられた。

日本シリーズでの復帰が決まり、10月25日の第4戦(札幌ドーム)に先発投手として登板、マウンドに向かう時にスタンドから歓声が起きた。そしてマウンドに上がると、1塁側、本塁側、3塁側、そして左翼席と5度頭を下げた。この試合では5回を5安打、2奪三振、2四球、82球で無失点に抑え勝ち投手となった。試合後のヒーローインタビューでは「全国のファンの皆様、この場をお借りして改めて謝罪したいと思います、本当にどうもすいませんでした」と深々と頭を下げ、インタビュー終了後にヒルマン監督と抱き合った。このシリーズを制覇した日本ハムが日本代表として参加したアジアシリーズでは11月12日のチャイナスターズ(中国野球リーグ選抜チーム)戦に先発し、5回で6安打1四球84球ながらも7三振を奪うなど要所を締め、勝利に貢献した。財政再建団体になった夕張市を応援しようと、市民を毎試合札幌ドームに招待する「金村・夕張シート」を設けた。

2007年は、肘の不安で諦めていたカーブの習得に励み、数少ない先発の柱として2桁勝利を目指すも、5月に故障のため戦線離脱。交流戦終了後に復帰し、7月11日に完投で5勝目を挙げた時点で防御率も2点台と成績を残していたが、前半戦最終戦のソフトバンク戦でプロ最短の0回2/3を4失点でノックアウトされ、後半戦の千葉ロッテ戦でも2試合連続でKO(2戦目は自己ワーストの12失点)で二軍降格。結局そのままレギュラーシーズンで一軍に再昇格することはできず、日本シリーズではベンチ入りは果たすも登板はできなかった。11月9日、中村泰広とのトレードで阪神タイガースに移籍。

阪神タイガース移籍
移籍1年目の2008年は先発ローテーションの一員として期待を受けるも、オープン戦前の投球練習の際、左太腿を痛め開幕一軍を逃し出遅れる形となる。7月3日に一軍に昇格し移籍後初登板し勝ち投手こそ逃したものの1失点の好投を見せる。この試合以外は精彩を欠き一軍定着には至らず降格。結局その年は8試合登板するも1勝もできないままシーズンを終えた。

2009年7月17日の巨人戦に岩田稔の代りに登板し6回1失点の好投を見せた。

同年9月6日の広島戦で5回から3番手投手として登板し、1イニングを無失点に抑え、阪神移籍後初の白星をあげた。その後は手薄となった中継ぎ陣に加わり、リリーフとして活躍した。

タイトル・表彰
最優秀防御率:1回(1998年)
オールスターゲーム出場:3回(1998年、2004年、2005年)
月間MVP:2回(1999年4月、2000年4月)
開幕投手:3回(2001年、2004年、2006年)
4年連続2桁勝利(2002年 - 2005年)

個人記録

投手記録
初登板:1995年10月4日、対西武ライオンズ26回戦(西武ライオンズ球場) - 6回裏無死から救援登板
初奪三振:同上、6回表無死、打者:安藤真児
初勝利:1997年9月28日、対西武ライオンズ26回戦(西武ライオンズ球場)
初完投勝利:同上
初セーブ:1998年4月19日、対千葉ロッテマリーンズ3回戦(長崎ビッグNスタジアム)
初完封勝利:1998年9月12日、対西武ライオンズ23回戦(西武ドーム)
オリックス・バファローズ戦15連勝
2004年4月13日から2006年9月10日までの記録で、斎藤雅樹(元読売ジャイアンツ)が持つ大洋戦14連勝を抜いて同一カード連勝記録歴代5位。2007年3月27日の試合で敗れたため途切れた。

打撃記録
初安打:2006年6月19日、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子園球場) - 5回表二死、投手:井川慶

背番号
16(1995年 - 2007年)
13(2008年 - )



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