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アレックス・ラミレス

アレックス・ラミレス(Alexander Ramon Ramirez、1974年10月3日 - )
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(外野手)。愛称ラミちゃん。

来歴・人物
実家はベネズエラの首都・カラカスから車で約45分ほどかかる「ピニャンゴ・デ・ジャレ」という小さな町にある。人口は約200人ほどで、うち3/4ほどがラミレスの一族だという。

ラミレスは5歳のときに兄の影響で野球を始め、8歳のときに地元のリトルリーグの監督にスカウトされ、15歳になると本格的に野球選手を目指すため学校を退学。当時は主に投手を務めていたが、18歳のときにベネズエラの国内選手権に出場した際にたまたま外野手として試合に出ていたところをクリーブランド・インディアンズのスカウトの目に留まりチームと契約する。1994年2月に現在の夫人と結婚。

1998年にメジャーに昇格し、2000年にはウィル・コルデロとのトレードでピッツバーグ・パイレーツに移籍。しかしパイレーツへの移籍直後は好調だったものの、8月に入るとスランプに陥りスタメンから外されるようになる。ラミレスによれば「打撃コーチに打席でのスタンスを変えるよう指示されそれに従ったところスランプに陥ったため、コーチに『スタンスを元に戻したい』と言ったら、次の日からスタメンを外された」という。

2001年、ヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)に入団。当時ラミレスはフロリダで家と車を購入したばかりでそのローンが残っていたため、当初は「1年だけ日本で金を稼いでローンを返済したらすぐに戻ってくる」つもりだったという。1年目から打率.280、29本塁打、88打点の好成績を残し、主に7番左翼手としてチームのリーグ優勝及び日本一に貢献。ちなみに当初チームと結んだ契約では「5番・右翼手」での出場を確約されていたが、キャンプ初日に当時のヤクルトで右翼手のレギュラーだった稲葉篤紀の守備を見て「自分は彼には勝てない」と感じ左翼手に転向したとのこと。

2003年、読売ジャイアンツに移籍したロベルト・ペタジーニに替わって4番に座り、打率.333、40本塁打、124打点で打点王・本塁打王・最多安打・ベストナインの各タイトルを獲得。

2004年末には代理人の意向もあって移籍が取り沙汰されたが、本人の希望もあってチームに残留。その際、義理の息子であるアレックス・ラミレス・ジュニアの入団が決め手となった。

2007年10月4日、横浜ベイスターズ21回戦(神宮)において、外国人選手、右打者としては史上初のシーズン200本安打を達成。最終的にはセ・リーグ歴代最多の204安打を記録した。シーズン終了後、ヤクルト側との契約の折り合いがつかずに退団が決まり、11月30日に自由契約公示。約1ヶ月後の同年12月29日、巨人への入団が正式に発表された。余談ではあるが、巨人初のビデオレターによる入団会見となった。入団会見に際し「このチームに足りないものを加えに来た」とコメントしている。

2008年、当初5番打者としてシーズンを迎えたが、開幕からコンスタントに結果を残し、すぐに4番打者に定着。前年の高打率を維持しながら長打力も発揮し、45本塁打、125打点で2年連続3度目の打点王を獲得。2009年のセ・リーグ最優秀選手に選ばれた。

2009年は全試合で4番に座り、前年に続く活躍。3割30本100打点を達成したほか、自身初の首位打者と3度目の最多安打を獲得し、チームの3連覇に貢献した。シーズン通しての調子のムラも少なく6月以外の月間打率はすべて3割以上だった。また7月以降の打率は.343だった。

移籍の経緯
2005年からの3年契約を結んでいたヤクルトとラミレスだが、2005年及び2006年の成績は決して推定年俸3億円に見合った成績とは言い切れなかった。しかし、2007年は打撃スタイルの変化により右打者として初の200本安打、セントラル・リーグの最多安打記録を更新。だが、球団側はラミレスとの交渉に消極的であった。シーズン終了後、球団側からラミレス側への残留要請が行われたが、提示された条件は契約年数1年、年俸4億円(推定)というラミレス側の希望とはかけ離れたものであった。

報道によるとラミレス側はシーズン終盤にもかかわらず残留要請が無かったことを不満に思っていた。7年在籍した球団に対する彼の希望は、高年俸ではなく契約年数であり、球団側が複数年契約を認めていれば残留するという選択も考えていた。実際ラミレスは後に「現状維持の2年契約の提示があれば残留していた」と記している。しかし前年、引き抜き阻止のためにアダム・リグスやディッキー・ゴンザレスの2選手と2年契約したものの、両者ともが故障や不振で満足のいく成績を残せずに終わったこと、過去ラミレスと複数年契約を結んだ場合に最終年以外の成績が満足できる結果ではなかったこと、という経緯から最終的に球団側は複数年契約を提示しなかった。

また、ラミレスの交渉が早く打ち切られた背景には、この年に最多勝のタイトルを獲得し、防御率も2位の好成績を残していたセス・グライシンガーとの交渉を控えていたことも一因だった。古田監督、石井一久など前年在籍した選手の大量退団、また本拠地明治神宮野球場の外野拡張工事などによる野球スタイルの変化を考慮し、この年のエースといえたグライシンガーと功労者のラミレスを天秤にかけた苦しい選択であった。結果的には、そのグライシンガーまでもがラミレスと同じく巨人に移籍するという、ヤクルトにとっては実に皮肉な結果となっている。

交渉が打ち切られ自由契約となったラミレスに対しては、右の大砲を欲していた巨人やオリックス・バファローズが食指を動かしていたが、オリックスは西武を退団した一塁手のアレックス・カブレラに方針転換。巨人がほぼ単独でラミレスと交渉を続け、獲得とあいまった。推定年俸は5億円(契約年数2年、総額10億円)である。ラミレスはそれ以前から「巨人では外国人選手がみんな大変な思いをしている」と聞かされていたため、巨人は「一番行きたくないチーム」であったが、巨人が自らの希望する複数年契約を提示してきたことに加え、原辰徳監督の指揮に以前から興味を持っていたこともあり巨人入りを決めたという。

プレースタイル
打撃
典型的な右の大砲で、好調な年は3冠王を狙うほどの実力がある。ヤクルトでは2003年以降、ペタジーニに替わるチームの4番打者として活躍。インコースに滅法強いが、その一方で外角低めに決まる(もしくはストライクからボールになる)スライダーに滅法弱く、空振り三振や強引に引っ掛けた併殺が多くなってしまい、三振数は来日から7年連続100三振以上を記録している(2008年にとぎれる)。初球から積極的に振りにいく打撃スタイルで、2007年の初球打ちの打率は5割を超えたが、それゆえに四球が少なく、打率の割には出塁率が低い。2006年はシーズンを通して636打席中、19四球という少なさでセ・パ両リーグの中で出塁率最下位を記録した。

2007年シーズンはこうしたバッティングスタイルが変化。常に長打狙いの打撃ではなく、アウトコースをライト方向へ流し打つなど成長を見せ、打率.343をマーク。四球の少ない傾向もあり右打者初の200本安打を達成した。このシーズンは途中から同僚のアーロン・ガイエルに4番を譲り、3番を打つことが多かった。2008年の巨人移籍後もこのバッティングスタイルに変化はなく、加えて長打力も再び発揮し、4番候補で左打ちの強打者であるイ・スンヨプや高橋由伸がケガや不振に苦しんでいた事もあり、シーズン途中から4番で起用されるようになった(144試合中125試合、4番で出場)。

守備・走塁
あまり足は速くないが、走塁のセンスはよく、2004年8月21日の阪神タイガース戦(明治神宮野球場)でトレイ・ホッジスから1回2死にランニングホームランを放っている。これは阪神のライト・桧山進次郎が、詰まり気味のライト前ヒットにバウンドを合わせ損ねて球がライト線に転がる間に一気に本塁を陥れたものである。また、200安打を達成した2007年には右打者でありながら22本の内野安打を記録している。ちなみに、200本安打を達成した際の安打は三塁手への内野安打であった。

外野守備については肩の強さ、捕球は水準以上だが、鈍足であるため守備範囲は狭く、また送球の正確さに難があるため、総合の守備能力は高くない。ヤクルト時代は広い守備範囲を持つ中堅手の青木宣親、遊撃手の宮本慎也が左翼のラミレスをフォローしていたためにさしたる問題は起こらなかったが、巨人に移籍した当初は、肘の手術をうけた谷佳知が中堅手、高卒2年目で経験の浅い坂本勇人が遊撃手だったためにラミレスの拙守が大きくクローズアップされ、古巣のヤクルトを中心に徹底したラミレス狙いの打撃が行われた[要出典]。シーズン後半は中堅手に守備範囲の広い鈴木尚広が定着し、また実戦慣れするにつれて坂本の守備力が大きく向上したため、ラミレスも無難な守備を見せるようになっている。ちなみに守備能力があまり高くないことについては本人も自覚しているようで、著書でも「日本に来たら、外野手はほとんどみんな、僕よりうまいんだ」と記している。

その他
野球全体について「試合を支配する要素の70%はメンタリティー、残り30%がフィジカル」との考え方を持っている。またメンタリティーの強化のためには「相手を研究し準備する」ことが不可欠であると考えており、そのためシーズン中は試合前に過去の試合のDVDを、試合後にはその日の自分の打席のDVDを観ることを日課にしている。過去のDVDを観る際は主に「得点圏にランナーがいるときのバッテリーの配球」に主眼を置くとのことで、特に日本に来てからは、捕手が配球の主導権を握る日本野球のスタイルに合わせ「捕手を中心に研究する」ようになったとのこと。そのような自らの意識から「日本の選手はフィジカル面ばかりでなく、もう少しメンタリティーに重きを置いてもいいのではないか」とも感じている。

エピソード
メジャーリーグの1994年のストライキの際、マイナーリーグの試合かどうか不明瞭なままメジャーリーグの試合に出場。スト破りとしてメジャーリーグ選手会からは追放されている。
入団の3年前から、ヤクルト編成部がリストアップしており、当時ピッツバーグ・パイレーツの4番を打っていたが、後にマイナー降格になったところでオファーをかけ、3年待って獲得した経緯がある。
ベネズエラ出身だが、現在自宅はアメリカ・フロリダ州にあり、オフ期間の大部分をフロリダで過ごしている。またメジャー・マイナーでの経験も長いため英語は非常に堪能。さらに長年日本で活躍していることもあって、日本語も簡単な日常会話程度なら概ねこなすことができる。選手同士の会話やヒーローインタビューでも、母語であるスペイン語を話すことはあまり無い。
陽気な性格でメジャー出身の選手らしくファンサービスの心得があり、チームメイト、フロント、ファンからも好かれている。さらに、チャリティー活動などにも熱心に取り組んでいる。打席で見せる鋭い眼光とは対照的に素顔は極めて温厚な紳士で、審判の判定や投手の内角攻めに対しても激昂することはない。巨人でもファンサービスを期待されている。
ヤクルトでは2007年まで7シーズン在籍していた。活躍しても、短期で移籍・退団することが多いスワローズの外国人選手の中では異例の存在であり、ヤクルトでは他の外国出身選手の良きアドバイザー役も務めていた。退団することとなったが、金銭よりも複数年契約を要求しており、2007年もリグスの不調や、神宮球場の外野守備拡張工事に備え自らファーストの守備に取り組んでいたほどであった。
2006年、アダム・リグス、グレッグ・ラロッカとの外国人野手トリオにFブラザーズというニックネームが付いた。
ヤクルト時代の応援歌は、かつて在籍したドゥエイン・ホージー、ジョニー・レイ と同じ。
巨人移籍後の打席登場曲はMINMIの「シャナナ☆」とヨーロッパの「ファイナル・カウント・ダウン」(第4打席以降)。
チームメイトへは常に尊敬の念を持っており、高橋由伸を「走攻守に素晴らしい素質を持っている。ケガさえなければ球界屈指の5ツールプレイヤーだ。」、小笠原道大を「彼のメンタル面の強さには敬服するよ。チームの精神的な柱だ。」と評し、その能力を高く評価している。他チームの選手に対しても同様で、2008年はシーズン終了まで激しい本塁打王争いを展開した村田修一(横浜ベイスターズ)に対し、「(自分は1本差で及ばなかったが)村田選手に心から敬意を表したい」と紳士的なコメントを残している。
外国人選手、特に中南米系の選手が審判の判定やピッチャーの投球に激怒して乱闘やトラブルになる騒ぎが多いがラミレスは紳士的な選手である為そういった事には無縁の選手である。
中日ドラゴンズのトニ・ブランコと仲が良い。ヒットで出塁した際一塁上で一塁手のブランコと話しているシーンがよく見られる。
パフォーマンス
ホームランを打った際やヒーローインタビューの際に行うパフォーマンスが、ファンの間で人気を博している。本塁打を打った際にはダッグアウト前でチームメイトとハイタッチを交わした後、ベンチ脇のテレビカメラ前でコミカルなアクションを披露する。特にホームゲームでは、マスコット(東京ヤクルト=つば九郎、巨人=ジャビット)とコンビでアクションを行う。パフォーマンスには毎年モデルチェンジが加えられており、近年はシーズン前にファンからパフォーマンス内容を募集している。下記にこれまでラミレスが行ってきた主なパフォーマンスの基本フォーマットを示す(括弧内はパフォーマンスの元ネタを演じているお笑い芸人)。またヒーローインタビューなどの際にパフォーマンスを行う際、開始前に「1、2、3(イチ、ニー、サン)」と日本語によるカウントアップを行うことがある。

ラミレスによれば、元々はキャンプ中にロッカールームで選手数人が互いに「アイーン」をやって遊んでいたのを目撃した際に、当時の同僚だった度会博文から「お前もやってみろ」と言われて、その日の練習中に数人の子供の前でやってみたところ大うけしたのがきっかけだという。メジャーリーグでは選手が試合中にパフォーマンスを行うことは相手選手を挑発しているように取られかねないため、一応通訳などに相談したところ「日本では問題ない」と言われたので、積極的にパフォーマンスを行うようになったとのこと[17]。その後もパフォーマンスを続けている理由としては、「野球のことをよく知らない小さな子供が『アイーン』『ゲッツ』として自分のことを覚えてくれるのが嬉しい」ことを挙げている[18]。

2001年・2002年
「アイーン」と右肘を前方にかざす(志村けん)。
2003年
「アイーン」(志村けん)
「ゲッツ」と両人差し指で前方を指し、そのままカメラからフレームアウトする(ダンディ坂野)。
5月28日の広島東洋カープ戦(神宮)の試合前、クラブハウスでダンディ本人と対面。取材陣の前で共演を果たした。
2004年
「ラミちゃんペッ」と鼻に右人差し指・中指を当てる(加藤茶の「カトちゃんペッ」をもじった)。
「アイーン」(志村けん)
「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
この年から、球団ウェブサイトなどでのパフォーマンスアイデア募集がスタート。約300通のうち11通寄せられた「ラミちゃんペッ」が採用された。浦添春季キャンプでは加藤から直々にレクチャーを受け、4月3日の開幕カード・横浜ベイスターズ2回戦(神宮)で初披露。ヒーローインタビューでは初回限定で、加藤ばりのハゲヅラと眼鏡、付け髭を着用してファンにお披露目した。
この試合でラミレスはエディ・ギャラードから決勝本塁打を放ったが、三塁を回る際に嬉しさの余り、三塁側の横浜ベンチに向かって「ペッ」のジェスチャーをして見せた。これが横浜側から「挑発的」と指摘されたことから、ラミレスが翌日「さすがにあれはやり過ぎた。もうあんな真似はしない」と謝罪するというおまけも付いた。
2005年
上記の「ラミちゃんペッ! アイーンゲッツ」を使用した他、下記のパフォーマンスもレパートリーとなっていた。
「俺の時代だ!」と自分を指す。
「ハイ! ハイ! ハイ、ハイ、ハイ!」と、左隣の人の肩に両手を添えながら足踏み(レギュラー)。
2006年
「ラミちゃんチッチキチー」と親指をカメラ前に差し出す(大木こだま)。
「ペッ」と鼻に人差し指・中指を当てる(加藤茶)。ただしこれは省略されることが多かった。
「アイーン」(志村けん)
「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
浦添春季キャンプ期間中の2月11日、日テレの番組企画で大木こだま・ひびきの両名と対面を果たし、直々にレクチャーを受け「こんなにうまくできる人はおらん」と太鼓判を頂戴した。
2007年
「ラミちゃん」と自分の顔を指す。
「カッチカチ」と左二の腕に力瘤を作り、右の拳で2度叩く(ザブングル・加藤歩の「見ろや、この筋肉! カッチカチやぞ!」がモチーフ)。
「アイーン」(志村けん)
「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
5月10日の横浜ベイスターズ戦(神宮)の試合前、ザブングルの両名と対面を果たし、加藤らと取材陣の前でパフォーマンスを共演した。
2008年
ジャイアンツがリードしている場面で本塁打を打った際のパフォーマンス
「そんなの関係ない!」と右拳を地面へ振り下ろし、さらに「はい、オッパッピー!」と両手を広げる(小島よしお。本来は「そんなの関係ねぇ!」だが、ラミレスは「子供たちへの影響も考え、丁寧な言葉にした」としている)。
「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
相手チームにリードを許している場面で本塁打を打った際のパフォーマンス
「ラララライ! ラララライ!」と両腕を上下させながら足踏み(藤崎マーケット)。
「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
前年の離日前、宮本慎也ら元チームメイトからお笑い芸人のネタを複数収録したDVDをプレゼントされ、これらを元にキャンプ、オープン戦の間アイディアを練り続けた。さらに東京ヤクルト時代に引き続き、2月下旬には球団Webサイトでパフォーマンスのアイディア募集を実施し、約600通のアイディアが寄せられた。またこの間、多くの有名人から本人直々にパフォーマンスの売込みもあった。主なものは「どげんかせんといかん」(東国原英夫)、スキップするように横向きに走る「欽ちゃん走り」(萩本欽一)。このうち欽ちゃん走りについては萩本本人と、東京ドームで初本塁打を打った折に本塁からダッグアウトに戻る際に披露すると約束を交わした(この欽ちゃん走りは4月18日の東京ヤクルト5回戦で移籍後東京ドーム初となる3号3ランを放った際に披露し、公約を果たした)。
こうして検討を進めた結果、ラミレスは同年のパフォーマンスを2本立てで行うことを決め、3月16日に東京ドームで行われたオープン戦前のファンイベントで発表した。まず巨人がリードしている場面でのパフォーマンスには「そんなの関係ねぇ!」を採用。「リードしていても気を抜かずに戦っていこう」という意味合いを持つ。一方、追う展開でのパフォーマンスには「ラララライ体操」を採用。「みんなでテンションを上げていきたい」とチームを鼓舞する気持ちが込められている。また、お立ち台ではこの2本をミックスしたパフォーマンスを行っている。蛇足だが、そもそもラミレスが1月25日に来日した際、当初から今季のパフォーマンス候補としていたのがこの2本であった。
なお小島は同年7月1日の東京ヤクルトスワローズ戦(東京ドーム)を観戦した際、同日2本塁打を放ったラミレスの「オッパッピー」に対し「動き的に物足りない」と辛辣な評価を下した。これを試合後に伝え聞いたラミレスは「時間に限りがあるし、物足りないのは分かっている」と釈明している。また藤崎マーケットは、球団側から所属事務所を通じて「ラララライ体操」の使用許可を求められ、承諾したと語っている(テレビ朝日系『アメトーーク』にて)。
2009年
「ら!み!」と、茶道のように茶碗を回すジェスチャーをする。
「茶!」と、茶を飲み干すジェスチャーをする。
「ゲッツ」、そしてフレームアウト(ダンディ坂野)。
2月の宮崎春季キャンプの期間中には例年通りパフォーマンスのアイディア募集も行われたが、ラミレス自身は前年フリーエージェントの資格を得たため、同年から選手登録が日本人扱いとなるのに因み、パフォーマンスに『和』の要素を取り入れたいと考えていた。そんな折のキャンプ休日、ラミレスは宮崎学園高等学校の生徒の手解きで茶道を体験した。この席上、ある女子生徒から「今年のパフォーマンスに、茶道を取り入れてほしい」とリクエストされたのを受け、ラミレスは茶道の作法をアレンジした『らみ茶ゲッツ』を考案した。
また9月8日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)では、同日始球式を務めた加藤茶と再会し談笑。試合前、加藤と往年のパフォーマンス復活を約束したラミレスは本塁打を放ち、約束通りカメラ前で「ラミちゃんペッ」を「この夜限りのスペシャルバージョン」(本人談)として披露した。
これらパフォーマンスの中でも特に「アイーン」と「ゲッツ」を気に入っており、2003年以降、パフォーマンスの締めには「アイーン」「ゲッツ」が使用されている。またアンダーシャツやグラブ、打撃グラブ、リストバンドなど用具類にも「アイーン」「Get's」「ラララライ」「らみ茶」などの刺繍を入れている。

略歴
1974年、ベネズエラの首都カラカスで生まれる。
1992年、クリーブランド・インディアンスと契約。
1998年、メジャー昇格。
2000年、シーズン途中にピッツバーグ・パイレーツに移籍。この年は主力の怪我が多く、メジャーで初めての4番打者も経験する。
2001年、ヤクルトスワローズに入団。
2002年、前年度同様、主に6番以降を打つ。
2003年、打率.333、40本塁打、124打点と惜しくも三冠王は逃すものの、来日以来最高の成績を残す。
2006年9月16日の試合で、プロ野球史上5人目の4年連続100打点を記録した。
2007年
4月21日の対中日ドラゴンズ戦で、外国人選手としては球団史上初の1000本安打を達成した。
7月から9月まで連続で月間MVPを受賞。3か月連続はプロ野球史上初。
8月19日の対読売ジャイアンツ戦で、金刃憲人からソロホームランを放ち、外国人選手としては球団史上初の200号本塁打を達成した。
9月14日の対横浜ベイスターズ戦で、山口俊から2点タイムリーを放ち、史上3人目、外国人選手では初の5年連続100打点を達成した。
9月25日の対広島東洋カープ戦で、連続試合出場を473試合とした。これは外国人選手としては歴代1位の記録である。
9月27日の対広島戦で、シーズン24度目の猛打賞を記録。前田智徳が持っていたセ・リーグのシーズン最多猛打賞記録を塗りかえた。また、この試合で安打数を195まで伸ばし、ロバート・ローズが持っていたシーズン右打者最多安打記録も更新した。
10月4日の対横浜戦で、三橋直樹からサード強襲の内野安打を放ち、史上3人目、また外国人選手、右打者としては史上初のシーズン200本安打を記録した。
10月8日の対横浜戦で、青木宣親のセ・リーグ記録を塗り替えるシーズン203安打を記録。さらに翌日の対広島シーズン最終戦で1安打を追加し、204本に記録を更新した。しかし首位打者のタイトルはこの年まで同僚の青木宣親が獲得している。200本安打を放ちながら首位打者を逃したのは両リーグ通じて初めてである。
2008年
3月28日の対東京ヤクルトスワローズ1回戦で、「全球団から本塁打」を達成。
5月3日の対東京ヤクルト戦から6月4日の対オリックス・バファローズ戦まで、巨人の球団歴代2位、外国人枠選手としては球団新記録となる27試合連続安打を記録した。
5月7日対阪神戦(東京ドーム)で左中間へオーバーフェンスの打球を打ったが、阪神ファンがフェンスより前で手で叩き落とした為、二塁打と判定された。
5月8日の対阪神戦で来日から8年連続2桁本塁打を達成。この試合のホームラン談話で「今日は阪神ファンがいないところ(バックスクリーン)に打ったよ」とコメントした。
9月3日の対広島戦で王貞治以来プロ野球史上2人目の6年連続100打点を達成した。
9月17日の対横浜戦でプロ野球53人目の通算250本塁打を達成した。
9月21日の対阪神戦でスコット・アッチソンから通算1338本目の安打を放ち、与那嶺要が持つセ・リーグの外国人最多安打記録を更新した。
10月25日のクライマックスシリーズでの第二ステージでの対中日戦での同点の場面から中日の高橋聡文から決勝2ランホームランを放ち6対2で巨人が中日ドラゴンズを下して勝利をしアドバンテージ含む3勝1敗1分けでクライマックスシリーズでの第二ステージを制し、2001年以来の日本シリーズ出場となり、クライマックスシリーズのMVPを受賞した。
埼玉西武ライオンズとの日本シリーズでは7試合シリーズでの個人最多となる併殺4を記録してしまうなど不調のときもあったが、第2戦ではサヨナラ本塁打を放つなど随所での活躍を見せ、日本シリーズ敢闘選手賞を獲得した。
シーズンを通じて活躍し、自己最高の本塁打、打点、出塁率、長打率、OPSを記録した。そして来日して初めて三振が2桁で収まったシーズンでもあった。
2009年
8月26日の対中日戦で川井雄太から1500本目の安打を放つ。
8月30日の対阪神戦で下柳剛からシーズン150本目の安打を放つ。これにより8年連続150本安打のプロ野球新記録を樹立した。
9月30日の対中日戦で7年連続100打点を達成した。これは王貞治と並ぶ日本プロ野球タイ記録。
判定
以下のような「疑惑の判定」に絡んだことがある。
2001年8月16日 横浜戦(神宮) 12回表、佐伯貴弘の打球をダイレクト捕球したと判定されるも、横浜側がワンバウンドで捕球したと抗議し中断、森祇晶監督が退場処分。
2008年5月7日 阪神戦(東京D) 7回裏、レフトスタンド際のオーバーフェンスの打球に対し、阪神ファンの男がフェンスより前に身を乗り出して打球を手で叩き落とした。男の妨害が無ければスタンドに入っていた可能性が高かったが、判定はツーベースになった。このシーズンには自身最多となる45本を放ったがこれにより1本差でホームラン王を逃している。
タイトル
首位打者:1回(2009年)
本塁打王:1回(2003年)
打点王:3回(2003年、2007年、2008年)
最多安打:3回(2003年、2007年、2009年)
表彰
最優秀選手:1回(2008年)
ベストナイン:3回(2003年、2007年、2008年)
月間MVP:7回(2003年4月、2004年9月、2007年7月 - 9月、2008年5月、2009年8月)
セ・リーグ会長特別賞(2007年)
オールスター出場:4回(2002年、2003年、2007年、2008年)
オールスターMVP:1回(2007年第1戦)
クライマックスシリーズMVP:1回(2008年)
日本シリーズ敢闘賞:1回(2008年)

背番号
3 (2001年 - 2007年)
5 (2008年 - )




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