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久保裕也

久保 裕也(くぼ ゆうや、1980年5月23日 - )
読売ジャイアンツ所属のプロ野球選手(投手)。


プレースタイル
普段のストレートの球速は140km/h台前半ほどで、制球もそれほど優れていないが、9種類の多彩な変化球を水準以上に投げられる器用さが特徴。フィールディング、クイック、牽制なども水準以上のレベルにある。
先発・中継ぎ・抑えと全てのポジションで使われ、ある程度の結果を出してきた投手である。かつてはセットアッパーを担当し、先発転向した2007年も平均投球回数6イニング超、先発時防御率3.46と、木佐貫洋・金刃憲人に匹敵する数字を残している。
投手としては打撃センスが高く、2007年は2軍で寺内崇幸(11犠打)に次ぐチーム2位の9犠打を23打席のうちに記録した。またスタミナにも定評があり(2007年、1軍再昇格後のエピソードを参照)、使い勝手の良さも特徴。
9種類の変化球の内容は、スライダー・カーブ・フォーク・シュートを主に使い、さらにツーシーム(ムービングボール)・カットボール・チェンジアップ・シンカーを投げることができる(G+内のミニ番組「ジャイアンツ先生」の本人のコメントによると、得意な変化球はカーブとのこと)。
このように投手として求められるスキルは全て満たしているといってよいが、「代名詞となるような絶対的なウイニング・ショットがない」「器用貧乏」と評されることがある。

経歴

アマチュア時代
5歳から小学5年生までは大分県で過ごす。久保の野球の原点は大分であり、家の近所のラーメン屋の主人とキャッチボールをしていた。その後父親の仕事の都合で九州を転々とし、沖学園高等学校から東海大学を経て2002年のドラフト会議で自由獲得枠で巨人に入団。当時の巨人監督が東海大学の先輩である原辰徳でありその点も注目された。
東海大学時代は、1年時はストッパー、2年からはエースとして明治神宮野球大会で共に準優勝。3年時は全日本大学野球選手権大会で優勝し、最高殊勲選手賞、最優秀投手賞を受賞。2年までは150kmを超える速球で三振を取る投球で、早くから将来のドラフトの目玉と言われたが登板過多により右肘を故障。打たせて取る投球に変更した。大学通算33勝9敗(歴代4位)、MVP4回獲得。

巨人時代
2003年
ルーキーシーズンは3月28日の中日ドラゴンズ戦にプロ初登板、4月2日の横浜ベイスターズ戦でプロ初勝利をあげた。最終的に38試合に登板し6勝7敗、防御率4.27の成績を収めた。

2004年
イースタン・リーグ開幕戦でノーヒットノーランを達成。5月16日のヤクルトスワローズ戦ではプロ初完投。7月6日の横浜ベイスターズ戦でプロ初セーブ。1軍では35試合(先発13試合、リリーフ22試合)に登板し、チーム最多の8セーブを挙げ、防御率4.08だった。

2005年
シーズン当初は先発だったが、チーム事情ですぐにリリーフに転向した。当初抑えを務める事もあったが、中継ぎ専任になってから投球が安定した。最終的に64試合に登板し7勝4敗7セーブ、防御率3.43。同様に先発候補であった林昌範と共にリリーフへ転向した結果、ダン・ミセリの不振など壊滅状態だった巨人の救援投手陣は、ブライアン・シコースキーを含めた3人で勝ち試合の救援パターンを作ることとなった。

2006年
シコースキーが2005年オフで退団したため、右の中継ぎとして林、豊田清、高橋尚成らとともに中継ぎ・抑えを担うことになった。8月までは防御率2点台であったが、9月に入ると打ち込まれ防御率が急激に悪化してしまった。厳冬更改で前の投手の残した走者を本塁に返したことをマイナス査定されるなどされ、年俸は1000万円の減俸となった。

2007年
春季キャンプでは、吉武真太郎の加入等激化する中継ぎ投手陣のサバイバルを生き残る為、サイドスローを試投する(その後再びオーバースローに戻す意向を表明している)。
結局開幕1軍には残れなかったものの、先発へ再転向し、5月5日の対ヤクルトスワローズ戦、8安打3四死球と毎回のように走者を背負う苦しい投球ながら9奪三振を奪い、プロ初完封を達成。しかし次の登板(5月12日の対中日ドラゴンズ戦)では3回5失点という内容に終わり、試合後2軍行きを通告されるなど、1軍と2軍を往復する日々が続いた。
主力投手が離脱し3人にまで減るとペナント終盤に再昇格し、野間口貴彦のような派手な活躍はなかったがチームの救世主のひとりとなっている(23日で21試合をこなす日程のなか中4日で4度先発、肩に古傷を抱えた木佐貫洋などのローテーションを崩さず回すことに貢献した)。しかし1年を通すと新人金刃憲人や福田聡志・姜建銘などと先発4番手・5番手を穴埋めするポジションに終わっており、2年連続の1000万円減俸の4000万円(推定)でサインした。

2008年
9月12日にリリーフで今シーズン初登板し1回を3者連続三振で抑え、9月16日には先発で8回1失点で今シーズン初勝利を挙げた。
最終的に6試合(先発2試合、リリーフ4試合)に登板し2勝0敗、防御率2.04。3年連続の1000万円減棒の年俸3000万円(推定)で契約更改。

2009年
開幕を2軍でスタートし、5月に1軍昇格。2試合に登板するもののその後すぐに2軍降格。しかし、8月に再び1軍に昇格し、8月20日の対横浜ベイスターズ戦で今季初先発。勝利投手の権利を得るまであと1アウトのところで降板させられた(その後チームは逆転勝ちしている)。再び廻ってきた8月27日の先発では7回途中まで2失点と好投し、今季先発初勝利。またチームに優勝マジック26を点灯させた。

エピソード
背番号11は2001年に引退した斎藤雅樹から引き継いだ。巨人の歴史上11番は初期には捕手の番号であったが現在ではエース級の背番号とされている。
当初は横浜が自由枠での入団を打診しており、久保も横浜志望であり、多田野数人(現・日本ハム)と共に自由枠での入団が決定的だった。しかし、日本大学の村田修一(現・横浜)からも好感触を得た横浜は、東海大出身で久保の担当スカウトだった長谷川国利に無断で多田野と村田に自由枠を使うことに方針転換し、久保の自由枠の話を取り下げ指名巡を繰り下げる事を決定。これに東海大サイドと長谷川が激怒し、東海大と横浜は絶縁状態に。長谷川は辞職、のち巨人に移籍する事件が起きた。
巨人の28人枠には十分残る能力のある投手だが、原辰徳現監督には大学の後輩のためか、実力以上に厳しく接せられており、2007年に初完封を挙げた時にも「まだ彼は発展途上だから」と口にされ、次回の登板で2軍に降格している。2006年のオープン戦では同様のパターンで連続被弾すると尻を蹴り上げられる(このことについて原は「ちょっとナデナデしてあげた」と報道陣に語っている)など、「叱られ役」になっているような面もある。
2007年11月23日に結婚を発表した。相手は楽天・山村宏樹夫人の実姉。
2007年の首位打者に輝いた青木宣親(東京ヤクルトスワローズ)は、久保を大の苦手にしており「どんな球でも三振が取れるピッチャー」と評している。
登板時のBGMはステッペンウルフの『ワイルドで行こう(Born to be wild)』(映画『イージー・ライダー』の主題歌)。
練習終了後には気軽にサインや写真撮影に応じてくれる。

背番号
11 (2003年 - )

個人記録
初登板:2003年3月28日、対中日ドラゴンズ1回戦(東京ドーム)、8回表に救援登板
初奪三振:2003年3月30日、対中日ドラゴンズ3回戦(東京ドーム)
初勝利:2003年4月2日、対横浜ベイスターズ2回戦(東京ドーム)、9回表に救援登板・完了
初先発・初先発勝利:2003年5月15日、対横浜ベイスターズ8回戦(東京ドーム)
初完投勝利:2004年5月16日、対ヤクルトスワローズ8回戦(東京ドーム)
初セーブ:2004年7月6日、対横浜ベイスターズ14回戦(東京ドーム)
初ホールド:2005年5月20日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(東京ドーム)
初完封勝利:2007年5月5日、対ヤクルトスワローズ8回戦(東京ドーム)

登場曲
DJ OZMA『Spiderman』



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