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木佐貫洋

木佐貫 洋(きさぬき ひろし、1980年5月17日 - )
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(投手)。


経歴
東都大学リーグ通算31試合登板、12勝8敗、防御率1.80、225奪三振。4年生時は2季連続で最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインの三冠受賞。
2002年 亜細亜大学より自由獲得枠で巨人に入団。

プロ入り後
2003年
新人ながらシーズン10勝を挙げ新人王に選ばれるなど活躍。

2004年
勝ち星が伸びず、シーズン途中から一時抑えに転向する。

2005年
無理な起用法やバランスの欠いた筋トレなどにより相次ぐ故障。14試合の登板にとどまり未勝利(0勝1敗5セーブ)、7月に右肩甲骨下の手術を行う。

2006年
1月には二岡智宏とともに奄美大島でのホークス小久保裕紀(当時巨人)・斉藤和巳の自主トレに同行。復活が期待され、6月19日のオリックス・バファローズ戦で約1年ぶりに1軍登録、即先発するも、3失点で敗戦投手になる。合計3度先発のチャンスを与えられるが、いずれも序盤にKOされてしまい0勝3敗でシーズンを終える。2年連続未勝利という屈辱的な結果に終わった。

2007年
主力投手の上原浩治・ジェレミー・パウエルが故障で出遅れたため開幕一軍入りを果たし、自己最高となる12勝(9敗)・防御率3.09をマークして活躍。内海哲也・高橋尚成とともに一年を通してローテーションを守ったひとりとなった。

2008年
開幕から低迷するチームの中で好投し、4月で3勝(1敗)をあげ、敗戦による「8イニング完投」ながら2004年以来となる完投も記録した。しかし5月から調子を崩し、7日の阪神タイガース戦では3回途中金本知憲への頭部死球で危険球退場となる。以後、短いイニングで降板する試合が続き8月に1軍登録を抹消。そのままシーズンを終え、前半戦の貢献を主張するが認められず年俸減で更改した。年末会田有志などの成長株がドミニカウィンターリーグに派遣されることをうけ、本人の希望でドミニカへ渡った。

2009年
開幕先発ローテーション枠争いに敗れ、二軍スタート。8月のローテーションの谷間でようやくシーズン初登板・初先発のチャンスを得たが、3回途中3失点で敗戦投手となり、二軍降格。その後、一軍登板機会が得られぬまま、シーズンを終えた。二軍では先発の軸として活躍し、リーグ最多勝(9勝)、最多奪三振(94個)の二冠となったが、防御率は4.05と奮わなかった。

プレースタイル
もともとは常時150km/hを超えるほどの速球とキレ、落差のあるフォークボールを主体に三振を荒稼ぎする力の投球が特徴であった。またプレー時に感情を顔に出さないように意識していたようである。ブルペンでの投球をみた上原浩治から「お前は俺より、すごいストレート、フォークを持っているのになぜ試合でその球を投げない?」とコメントされたり、当時巨人に在籍した清原和博から「お前が試合でその球を投げてきたら俺は打つことが出来ないだろう」と言われるほどブルペンでは素晴しい球を投げているのに、試合になればその球を投げることができないメンタル面での弱さが際立っていた。
2007年は尾花高夫投手総合コーチとともにフォーム改造に着手、直球は140m/h前後までスピードを落とすものの安定性を増し、コースに投げ分けるようになったフォークを軸にして、ローテの軸として12勝を記録した。打たれた際に悔しさを表に出し自らを奮い立たせる場面も出てきている。
ここ2年は肩の故障からの復帰後ということもあり、ローテの間隔をスライドさせることなく優遇されているが、それでも試合終盤に突如の連打や本塁打で失点してしまうことが多く、スタミナ面で課題を残している。また、大きくなったモーションを盗まれて盗塁を許されてしまう傾向もあったが、2008年は2004年以来の完投を記録し、ドミニカで故障前のフォームを試投するなど、徐々に復活の兆しをみせている。
上原同様に「わかっていても打てないスピンの利いたストレート」を投げ、ストレートがシュート回転する傾向がある。

エピソード
高校時代から注目されていた投手で、速球とフォークのコンビネーションで三振の山を築くスタイルは当時からである。1998年、高校3年次の夏の選手権大会・鹿児島予選決勝では杉内俊哉を擁する鹿児島実業に1-3で惜敗。甲子園出場を逃した。鹿児島県大会はこの年まで準々決勝と準決勝の間に休養日がなく、日程の関係上、杉内は準決勝と決勝の2連投だったが、木佐貫は準々決勝から3日連続登板。準決勝は雨によりナイターゲームとなった為、翌日の決勝に疲労を残していた。鹿児島実業は1日の休養が有った。これを受けて県大会の日程に問題有りとされ、後に日程が見直される発端となった。
地元薩摩川内市内には「木佐貫ロード」(距離約1.7km)なるものが存在する。そこは木佐貫本人が中学・高校時代にトレーニングをした場所であり、同選手の活躍と更なる人材輩出を願って、地元市民団体によって名づけられた。2004年に出身地・川内駅で一日駅長も務めた。
登板時のBGMは入団してからずっとヴァン・ヘイレンの『JUMP』を使用している。打席に入るときはHOTEI & Charの『Stereo Castar』。
当時低迷していた巨人投手陣の再建を期待され招聘された尾花高夫投手コーチが実際に巨人の若手投手の投球を目にした際、「ソフトバンクを超える投手陣を作れる。」と、コメントしたが、特に木佐貫は「潜在能力は斉藤和巳(当時のソフトバンク投手陣のエース格)クラス。」と、そのポテンシャルが絶賛された。
2007年から背番号は21から41にかわった。原監督からは「巨人のトム・シーバーになってほしい」という期待のあらわれと、復活して欲しいという意味がこめられているものとみられる(巨人の41番は、かつての斎藤雅樹が着けていた番号でもある)。
妻(一般人・元介護福祉士)、山本健士は川内高校の同期。
ルーキーイヤーの2003年には、大学から同期で広島東洋カープの永川勝浩投手と、シーズン最後まで新人王争いを演じた。本人曰く、大雑把な性格だったが、亜細亜大に入ってから変わったと話している。
苦手なバッターは「赤星さんや井端さんのようなしつこいバッター」だが、質問に答えてから「ウチの大学の教えを実行しているひと(亜細亜大学の先輩)」と気が付いた。
2008年5月7日の阪神タイガース戦で金本知憲の頭部死球を与えた翌8日、試合前の練習中に本人のもとへ駆け寄って頭を下げて謝罪した。「また思い切り投げてこいよ。気にするなよ、大丈夫だから、と言われました。」と、笑顔で対応した金本の気遣いに感謝していた。
歴史学に優れており、ズームイン!!サタデー内のコーナー『プロ野球熱ケツ情報』では、出題されたテーマにまつわる歴史上の人物について語ることが多い。

タイトル・表彰
新人王:2003年

個人記録
初登板・初先発:2003年3月30日、対中日ドラゴンズ3回戦(東京ドーム)、2回5失点で敗戦投手
初奪三振:同上、1回表に福留孝介から
初勝利・初先発勝利:2003年4月25日、対横浜ベイスターズ3回戦(横浜スタジアム)、7回3失点
初完投勝利:2003年5月10日、対中日ドラゴンズ8回戦(東京ドーム)
初完封勝利:2003年7月29日、対中日ドラゴンズ18回戦(東京ドーム)
初セーブ:2004年7月4日、対広島東洋カープ18回戦(広島市民球場)

背番号
21(2003年 - 2006年)
41(2007年 - )

登場曲
ヴァン・ヘイレン『JUMP』
Hotei & Char『Stereocaster』(打席に入った時のみ)



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