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赤田将吾

赤田 将吾(あかだ しょうご、1980年9月1日 - )
埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(外野手)。
松坂世代の1人。2007年から西武ライオンズ選手会の会長を務める。


プレイスタイル
俊足好守の中堅手。スタメン落ちした試合でも、終盤に代走や守備固めでの出場も多い。

来歴・人物
入団時は内野手(二塁手)で高卒新人の1999年フレッシュオールスターゲーム先発出場し一軍にも昇格、ルーズショルダーの影響で2年目より外野手に転向した。高卒新人で5盗塁を決めるなど俊足は期待されていたが、打撃がいまいちで足踏みしていた。2001年に二軍でイースタン・リーグ2位の打率.324、同リーグ3位の11本塁打、11盗塁を記録した。俊足を生かすため、もともと右打ちだったが2002年よりスイッチヒッターに転向、二軍で打率.288、11本塁打、6盗塁を記録。これが飛躍のきっかけとなる。

2004年
小関竜也の不調で終盤から2番打者に定着し、初の規定打席到達。佐藤友亮との1・2番コンビで高い出塁率(二人で.341)を誇った。5年間で3本しか打っていない本塁打をこの年だけで9本打ち、パンチ力も見せた。北海道日本ハムファイターズ、福岡ダイエーホークスとのプレーオフ、中日ドラゴンズとの日本シリーズでも活躍し、チームの12年ぶりの日本チャンピオンに貢献した。

2005年
2番・中堅手のレギュラーを獲得し、夏ごろから課題の打撃も向上して打率を急上昇させた。打率.272、自己最高の20盗塁を記録。またこの年の9月1日(25歳の誕生日)にオフィシャルサイト「侍魂」を設立。

2006年
ライオンズの主将に就任、名実共にチームを引っ張る立場になった。外野の層の厚い西武の中でセンターのレギュラーをつかみ、主に1番か9番で堅実な打撃を見せ、打率は自己最高の.293を記録した。またと並びリーグ最多タイの三塁打7本(西岡剛、鉄平、川崎宗則と並ぶ)、チーム3位(自己最多)の25犠打、3年連続2ケタ盗塁を決め、機動力を生かしてチームに貢献した。この年も夏場から調子を上げ、交流戦以降の打率は3割を超えた。

2007年
前選手会長の松坂大輔がボストン・レッドソックスに移籍したため、代わって選手会長に就任した。この年も中堅手のレギュラーとして期待されていたが、開幕直前の3月15日に右太ももを痛め、開幕1軍からは外れた。ケガのリハビリに予想以上の時間がかかり、シーズン終盤の9月5日にようやく一軍登録。9月12日のソフトバンク戦で猛打賞に輝き、復帰後初のお立ち台に上った。しかし打率は.162に終わり、レギュラー再獲得はならなかった。

2008年
新加入のヒラム・ボカチカやオープン戦で結果を残した松坂健太にポジションを奪われ、春先はベンチを暖めることが多かった。しかし両者の不振によって4月以降は出場機会が増え、4月25日のオリックス戦では自身「野球人生初」と語るサヨナラ満塁弾を放つなど徐々に調子を上げていた。ところが5月1日のソフトバンク戦において本間満の放った右中間への大飛球を追ってフェンスに激突、左足首関節捻挫で長期離脱を余儀なくされてしまう。8月に入ってようやく一軍に復帰、9月から10月にかけて打率3割以上を残し存在感を示した。クライマックスシリーズでは12打数6安打1本塁打3打点と、レギュラーシーズン中の鬱憤を晴らすかのように打ちまくり、チームの日本シリーズ進出に大きく貢献した。日本シリーズではボカチカ・後藤武敏らとの併用ながら11打数3安打という数字を残し更にアジアシリーズでも活躍し球団史上初のアジアチャンピオンにも貢献。

2009年
千葉ロッテとの開幕戦(千葉マリンスタジアム)に9番センターで先発出場。しばらくは一軍に帯同するが、打撃不振で二軍降格した。その後一軍に復帰し、代走や守備固めなどで57試合に出場。二軍では怪我人が多数出たことから6年ぶりにに二塁手・三塁手としても出場した。

エピソード
松坂世代の総会「昭和55年会」の会長を務めている。
2005年以降に記録した本塁打はすべて右打ちでのものである。
ファンへの意識が非常に強く、球場におけるファンへの気配りの他、2005年オフには自身のサイト「侍魂」を立ち上げ、毎日メッセージを発信している。主将選任に当たって伊東勤監督もその人間性を見込むなど、人望はチーム内外ともに厚い。
テレビ番組スポーツマンNo.1決定戦で2000年は総合5位、05年は同2位、06年は同5位、07年は同6位になるなど、身体能力の高さがうかがえる。まだ一軍に定着できなかった頃には、コーチに「お前はどうして一番苦手な球技のプロになったんだ」とからかわれたことがある。
現在、文化放送ライオンズナイター内で「赤田将吾の暴れん坊ショーゴ!」のコーナーを担当。内容はライオンズコメンテーターの中川充四郎が前の試合の感想と中継試合に向けての意気込みをインタビューするものである(これは後述の中島裕之のコーナーと同様インターネットラジオのBBQRでは流れず、無音声になる)。コーナーのジングルや、西武ドームでのテーマ曲もチャンス時だけ「暴れん坊将軍のテーマ」を使用する(通常は映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」のテーマ曲)。そしてコーナーの締めの挨拶は「暴れん坊ショーゴでがんばります」と言って終わる。ちなみに同番組で「中島裕之の何が何でもやったるで!」を担当している中島が負傷などで一軍から外されたときの締めの挨拶は「暴れん坊ショーゴでやったるで!」になる。なお、2006年オフでは「赤田将吾の暴れん坊マンデー」のパーソナリティを担当している。
高校生時代はレギュラーではなかったが、試合前のシートノックの時に赤田のフィールディングを見ていたプロ野球チームのスカウトが、日南学園の監督に守備のうまさを指摘したところ、レギュラーとして起用されるようになったという。
幼少期にはエレクトーンを習っていた(2007年9月8日放送、サタデーライオンズより)。小学校時代はソフトボールをしていた。出身地の鹿児島・大崎町が野球よりソフトボールが盛んだったこともあり、同郷の先輩である福留孝介(シカゴ・カブス)も同様であった。
週刊ベースボールのインタビューで、「二塁のままだったら今の自分はいない。外野にコンバートしたこととスイッチヒッターに転向したことで、俊足が生かせるようになったからプロでやっていけている」と語った。
2006年6月9日交流戦の阪神タイガース戦でユニフォームが届かなかったという理由で上田浩明コーチのユニフォームを着て出場した。そのときの背番号は「85」。なお、この試合で赤田は下柳剛投手から左中間に決勝タイムリーツーベースを放っている。
チャリティー活動にも熱心であり、ファースト・グラブ・プロジェクトにおいて、不要となったグローブなどの野球道具を、それらの恵まれない国々へ無償で送ろうとする活動を積極的に推進している。

交渉問題
2006年オフの交渉では、交渉中に球団代表・査定担当者が2日続けて携帯電話の着信音を鳴らせたことに対して、怒りをあらわにし「普通の会社の会議なんかではあり得ない。年に1回のビジネスの場である交渉と契約なのに」と発言し、交渉を途中退席し保留した。しかし、一般的に上司が緊急時のためにも、全ての選手のために携帯の電源を切ることは考えられず、ファンからも「世間知らず」との非難を浴びた。その後、自身のホームページで別件(自身のファンサービスが査定に反映されていなかった点)でもショックを受けていたことや、着信音のために交渉を中断したことに対しては謝罪をする意思を明らかにした。

背番号
9 (1999年 - )

個人記録
初出場:1999年8月20日、対オリックス・ブルーウェーブ20回戦(西武ドーム) 1番・指名打者で先発出場
初安打:同上、5回裏戎信行から
初打点:1999年8月21日、オリックス・ブルーウェーブ21回戦(西武ドーム) 6回裏金田政彦から2点適時打
初本塁打:2000年4月21日、対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム) 8回表下柳剛から左越へ代打2ラン
初盗塁:1999年8月20日、対オリックス・ブルーウェーブ20回戦(西武ドーム) 5回裏二盗

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