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2000年02月10日 の記事一覧

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豊田清

豊田 清(とよだ きよし、1971年2月2日 - )
読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(投手)。



経歴
鈴鹿高等学校、同朋大学を経てドラフトで、西武ライオンズから3位指名され入団。

1995年9月15日の近鉄バファローズ戦でプロ初登板を果たす。

1996年から本格的に一軍先発投手陣に加わった。同年7月14日の対福岡ダイエーホークス戦でプロ初勝利、9月1日の千葉ロッテマリーンズ戦でプロ初完封。1997年と1999年には2桁勝利を挙げるなど先発として活躍した。1997年5月7日のダイエー戦では、味方打線が当時のプロ野球記録となる1試合29安打を放ち、毎回得点記録を達成した中での完封勝利をあげている。

2000年10月8日にプロ初セーブ。2001年には前年抑え投手だった森慎二投手の不調を受け、当時の東尾修監督から説得もあり抑えに転向。8月に3本のサヨナラホームランを浴びるなど安定感を欠くこともあったが、翌年以降は安定し2002年は救援勝利6勝に加えてパシフィック・リーグ当時歴代1位となる38セーブ(現在は北海道日本ハムファイターズのマイケル中村が06年に39セーブをあげてリーグ歴代1位)、2003年にも2勝38セーブで2年連続で最優秀救援投手となるなどリーグを代表する抑え投手になった。2003年8月29日にはプロ野球史上15人目の通算100セーブをあげる。2004年の日本シリーズで3セーブをあげるなど活躍し、胴上げ投手にもなった。

2005年は過去のシーズンの疲労の蓄積からか精彩を欠いた投球が続いた。その年のオフにFA権を取得し権利を行使。11月27日に読売ジャイアンツと2年契約を結んだ。これに伴い人的補償として江藤智が西武へ移籍した。

巨人移籍1年目の2006年は開幕当初こそ安定感のある投球を見せたが、14試合目で初めてリリーフに失敗し、以降も度々失敗したため抑えを高橋尚成に奪われてセットアッパーにまわるなど、満足のいく結果は残せなかった。

2007年も開幕当初は抑えを務め、4月11日の対広島東洋カープ戦でプロ野球史上5人目の通算150セーブを達成。しかし4月中に2度のリリーフ失敗を喫するなど安定感を欠き、代わって上原浩治が抑え投手に就いて以降は中継ぎを担当。それからは比較的安定感のある投球を続け、上原への繋ぎ役として奮闘した。クライマックスシリーズでは2、3戦目に登板。対戦打者6人からすべて三振を奪い、3連敗で日本シリーズ出場を逃したチームの中で気を吐いた。

2008年はマーク・クルーンが抑えとして加入したため、開幕当初からクルーンへ繋ぐセットアッパーとして固定される。若手の山口鉄也、越智大祐ともに磐石の中継ぎ陣を形成し、チームトップの26ホールドを挙げた。登板数も移籍後初めての50試合に達し、巨人移籍後のベストシーズンになった。また、リリーフ陣に若い投手が多いため精神的な支えとしても十分に役割を果たした。

2009年、開幕から好調で10試合連続で無失点を記録するなど上々の滑り出しを見せた。7月に腰痛で登録抹消を経験するものの、9月以降もすべて無失点で抑えた。最終的に46試合に登板し2勝2敗5セーブ防御率1.99と安定した成績を残しリーグ優勝に貢献した。

プレースタイル
キレのある直球とストライクゾーンのコーナーをつく高い制球力を武器とし、フォークボールを駆使する。抑えに転向してからはあまり投げないが落差のあるカーブやスライダーも持つ。フォークは牛島和彦と同様に人差し指と中指のつけ根の関節を外してボールを握る物で、牛島同様に人差し指と中指の間にボールを挟んで指の間を広げようとしているうちに、関節を自由に外したり戻したりできるようになったという。

球速は140km/h台後半まで出るほどだが、調子が落ち込むと130km/h台に終始してしまうこともある。

人物
かなりの激情家である。抑え1年目の年に連続サヨナラ負けを繰り返しバケツに当り散らしたこともあった。さらに失点後、手を思い切りクーラーボックスに打ちつけ裂傷を負い、オリンピック代表の座を失ったこともある。

仁志敏久のような経歴なら野球エリートと言われるが、自分はそれとは正反対で現役一番だという自信があるという。高校や大学の同窓生の結びつきがプロの世界でもあるのがうらやましいと言い、いつか母校からプロ野球選手が誕生するのを期待しているという。

登板時のBGMは西武時代から巨人移籍後の2006年シーズンまではアース・ウィンド・アンド・ファイアーの『Let's Groove』を使用していたが、2007年シーズンからはエイジアの『ヒート・オブ・ザ・モーメント』に変更している。

2001年、前年抑えを務めた森慎二の不調などで、抑えに転向した理由について、東尾監督は一球一球に手を抜くことが出来ない豊田の性格を挙げている。

2001年夏に立て続けにリリーフ失敗した際、悔しさの余りにグラブを叩き付けたり、ベンチやごみ箱等を叩いたり蹴ったりするなど、時に感情を見境なく出し過ぎて怪我を負うことがしばしばあり、メンタル面の弱さを問題視された。これを受け、翌シーズンから登板時に決まったパフォーマンスを行うようになった。当時中堅を守っていた大友進選手への感謝の気持ちを表したのが始まりで、投球練習後にバックスクリーン方向を向いて胸に手を当て、言葉を唱えた後に胸元を軽く叩き、外野の各選手に帽子のつばを摘みながら一礼するというもの。この一連の動作はファンから「守護神降臨のポーズ」と呼ばれて親しまれ、巨人移籍後も続けている。その後救援失敗と二軍調整により一時期封印するも、若干抑え気味ながら復活させた。

2005年オフFA権を行使し、読売ジャイアンツに移籍した際、復帰した原辰徳監督は豊田に「あの集中力。マウンドに上がるときの、あの独特の間合い。朝青龍の土俵入りの雰囲気を、豊田にも感じる」という言葉を贈っている。

2006年シーズン後半から2007年シーズン序盤(上原が抑えに回るまで)の間は、特にセーブ失敗などの炎上が多く、一時期は一軍帯同しながらも試合に出ない時期が続いた。本人も「マウンドに上がるのが怖い」というほどに追い込まれており、完全に自信を喪失しており、中継ぎへの転向を言い渡された際には「ああ、もうすぐ切られるのかな」と覚悟したという。原辰徳監督の「ストッパーとしてダメだから中継ぎに降ろすわけじゃない。中継ぎはストッパー以上に難しい仕事。上原に抑えの経験を積ませるために今、このジャイアンツで中継ぎを安心して任せられるのはお前しかいないんだ。お前はパリーグですごい成績を残してきたピッチャーじゃないか。自信を持って投げてくれ」の言葉とコーチ陣の粘り強い指導に発奮し、全盛期には及ばないまでも強い球威とコントロールを取り戻し、2007年の巨人のリーグ優勝に貢献した。

背番号
39 (1993年 - 1994年)
38 (1995年 - 1997年)
20 (1998年 - )

個人記録

初記録
初登板:1995年9月15日、対近鉄バファローズ23回戦(藤井寺球場)
9回裏に救援登板・完了
初奪三振:同上、9回裏にリー・スチーブンスから
初勝利:1996年7月14日、対福岡ダイエーホークス17回戦(札幌市円山球場)
初完投勝利・完封勝利:1996年9月1日、対千葉ロッテマリーンズ23回戦(西武ライオンズ球場)
初セーブ:2000年10月8日、対日本ハムファイターズ27回戦(西武ドーム)
初ホールド:2005年5月14日、対読売ジャイアンツ2回戦(西武ドーム)

節目の記録
100セーブ:2003年8月29日、対オリックスブルーウェーブ21回戦(西武ドーム) ※史上15人目
150セーブ:2007年4月11日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場) ※史上5人目
500試合登板:2009年8月21日、対東京ヤクルトスワローズ14回戦(明治神宮野球場)
7回裏に救援登板、1回4失点(自責点はゼロ) ※史上83人目

タイトル・表彰・記録
最優秀救援投手:2回(2002年・2003年)
最優秀バッテリー賞:1回(2002年)
ファイアマン賞:1回(2002年)
オールスターゲーム出場:4回(1997年・2001年-2003年)



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