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2000年02月16日 の記事一覧

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矢野謙次

矢野 謙次(やの けんじ、1980年9月21日 - )
東京都出身のプロ野球選手。
読売ジャイアンツ所属の外野手。


人物
小学校2年の時に「三鷹リトルシニア」で野球を始める。同じリトルシニアに元中日の高江洲拓哉も所属していた。三鷹六中時代の「三鷹シニア」ではエース兼4番で関東大会出場。後國學院大學久我山中学校・高等学校へ編入。東都大学時代、リーグ2部で通算23本塁打を記録するなどと「井口2世」という呼び名が高く、ダイエーと日本ハムが獲得意思を示したが、矢野は高校時代から注目してくれていたという巨人入りを熱望した。球団関係者は「足が速いし、魅力がある。打撃もパンチ力があり、遠くへ飛ばす力を持っている」と高く評価していた。家族構成は両親、兄、姉。

経歴
2002年のドラフトで國學院大學から6巡目指名で読売ジャイアンツに入団。不動のセンターだった松井秀喜のFA移籍のため、ルーキーイヤーの2003年からキャンプに帯同。オープン戦では4順目長田昌浩(現オリックス)とともにヒットを放つが、ペナントでは活躍できず。
2004年にプロ入り初ヒット・初ホームランを記録、2005年のシーズンは主に2番打者として85試合、主に右翼手・中堅手として出場。打率2割8分、7本塁打の成績を残し、飛躍の年となった。
2006年は、4月終了時点でセ・リーグの打率ランキングで2位に付け、秋季キャンプで課題となっていたスローイングも補正され、ランナーを刺す場面も多くなり、とくに高橋由伸のセンターコンバートで空いた右翼手の守備に適性を見せる。6月12日に左足小指の骨折が判明し、登録を抹消される。7月11日の札幌ドーム対横浜ベイスターズ戦で1軍復帰スタメン出場。7月16日の対東京ヤクルトスワローズ戦で高津臣吾から決勝点となるシーズン第6号ホームランを放ち、試合後のお立ち台では「この勢いで甲子園(対阪神タイガース3連戦)でも3つ取って来ます!」と話した。(なお、同3連戦の結果は雨天中止・雨天中止・敗戦だった。)
その後故障の影響などもあり徐々に成績が下降したが、11盗塁、18二塁打と機動力がある事もアピールした。シーズン終了後には秋季キャンプを辞退し、ボルト除去手術を受けた。
2007年は成績次第ではライバルにもなるとも思われた高橋由伸の初球開幕本塁打、谷佳知の完全復活により代打起用でシーズンを迎える。開幕13試合目にスタメン起用されるとようやく初ヒットを放ち、以後徐々に復調すると、中堅手としてデーモン・ホリンズや鈴木尚広と併用されたが、矢野がセンター守備に不慣れな面を見せたことから、「(原辰徳監督曰く)攻撃と守備のバランスが取れた」ホリンズがスタメン起用され、矢野が代打中心に起用されることになる。しかし、これがこの年の矢野に数々のエピソード(後述)を残すこととなった。
終盤戦で不調の谷に替わり数試合スタメン出場したものの、(いわゆる1打席に集中した「代打のバッティング」に特化していたのか)19打席ノーヒット。再び代打に戻るも、代打成績も落ちこむという悪循環に陥ってしまい、クライマックスシリーズでも目立った活躍もなくスタメンを奪取するには及ばず。
めぐり合わせの悪い1年となってしまったが、シーズンわずか46安打で二塁打14、三塁打2、本塁打7を記録。序盤と終盤の不振もあったものの、シーズン出塁率.354、長打率.538という主軸打者に匹敵する数字を残した。
秋季キャンプでは脇谷亮太と共に強化選手に選ばれ、2008年オフは仁志敏久(巨人→横浜)にスローイングなど外野守備を師事。さらに渡辺俊介(千葉ロッテ・大学の先輩)らと行った初の海外(グアム)での自主トレでは、1日10時間トレを実行しており、いかに外野のレギュラーを奪取したいかが現れていた。
2008年シーズン開幕前に右ひじ関節の炎症と診断されたが、何日経っても痛みがひかないため数日後再検査に行ったところ、右ひじの疲労骨折と診断された。6月に1軍昇格するが、故障が再発し数日で2軍降格。9月に2軍戦復帰するが、フェニックスリーグで左膝を負傷し、その後手術に踏み切る。ケガに泣いた1年となった。
2009年、前年の膝の手術の影響(リハビリ)で、7月までは試合には未出場だったが、8月6日のイースタン公式戦(東京ドーム)で、4番指名打者で実戦復帰し、復帰初打席で しぶとくレフト前にタイムリーヒットを放ち、復帰後 初打席初安打初打点を記録した。
その後は、8月11日のイースタン公式戦で、復帰後初ホームランを放つなど、活躍している。 そして、矢野に対し 原監督は「後半戦は、矢野がキーマン。矢野が上がってくれれば心強い」と話し、2軍監督の岡崎監督は8/6の復帰戦で「もう矢野を壊したくないんだ」「これから10年は巨人を引っ張っていく選手」「あれだけのリハビリに耐えてきた」と、矢野に対する熱い思いを語った。

プレースタイル
巨人では貴重な右の外野手。遠投110m、50m走6.0秒と強肩俊足で、大学時代から中軸クラスの長打力にも定評がある。入団当初は初球からフルスイングする思い切りの良さが最大の持ち味だったが、近年はスコアデータなどを研究して投手の配球を読むことにも取り組んでいるという。
死球を避けづらいバッティングフォームだが、全く死球を恐れずフルスイングするスタイルのため、打席数の割りに死球が非常に多い。守備走塁時も高い身体能力を生かした積極的なプレースタイルをみせる。こうしたバッティングスタイル、プレースタイルゆえにプロ入り前から怪我の多い選手でもある。
2006年シーズンから亀井義行と熾烈なレギュラー争いをしている。伊原ヘッドコーチからは守備・走塁面でしばしばカミナリが飛んでおり、2007年春季キャンプの紅白戦1回表の攻撃でバントのサインを2度も見逃して、次の回の守備から交代させられたことから、2008年の春季キャンプの紅白戦での目標は「1試合全部出場したい」と語っていた。試合終了後「1試合試合に出ることができてよかった」とコメントを残している。

エピソード
2005年、7本塁打のうち4本を巨人キラーといわれる横浜ベイスターズの土肥義弘から打ったことで土肥キラーとして話題になった。2006年は土肥の不調もあって対戦機会が激減したものの、6打数2安打と相性は維持している。
2005年オフには、「とにかく将来的に1桁の背番号を付けたい」という気持ちも明かし具体的な番号としては清原和博退団後空き番となった5番をあげた。翌年オフには仁志敏久が退団し空き番となった8番を挙げていた。
2003年のシーズン終了後に結婚し、2005年の抱負(球団公式サイトの「2005年G戦士 今年の抱負」より)では『夫婦円満』と書いたことがある。
2006年8月、長男が誕生した。
2006年に18二塁打を数えたことから中畑清に『ミスター・ツーベース』と評された。
水泳の北島康介に似ていると言われる。矢野自身も似ている事を認めた。本人は、『北島さんが僕に似ているといわれるようになりたい』と語っている。
通称矢野ノートには「フォーク 結構落ちる」などの相手投手の特徴が書かれている。
2007年の打席登場曲には高校時代の同級生であるラッパー「SYZA」の「NO HORIZON」を使用していた。
2008年の打席登場曲は、「SYZA」の「太陽」を使用することが決まっているが、5/29の打席では、そのCDが発売前だった為流せなかった。ちなみにこの曲は、SYZAが矢野の為につくったものである。

代打としてのエピソード
2007年は巨人に貴重な右の代打としての活躍が目立った。5月31日の交流戦、対福岡ソフトバンクホークス戦では、0-3と劣勢の状況から6回裏に西村健太朗の代打・清水隆行のさらに代打で登場し、篠原貴行から逆転満塁ホームラン(プロ初満塁ホームラン)を放ち、チームの勝利に貢献。代打逆転満塁ホームランは巨人では1987年に現在の監督である原辰徳が記録して以来、球団史上5人目(他には樋笠一夫、広野功、駒田徳広。樋笠と広野はサヨナラ)、代打の代打による満塁ホームランは、1989年の駒田以来2人目の快挙となった。
さらに同年6月11日の対日本ハム戦の0-0で迎えた8回裏に2番手投手・林昌範の代打で登場し、武田勝から決勝ソロホームランを放ち、勝利に貢献。1-0勝ちの代打ホームランは1949年の藤本英雄以来58年ぶりの快挙となった。
この年の代打成績は39打数10安打で打率.256、代打本塁打4本という成績をマークした。代打打率はシーズン打率よりも低いが、この数字は開幕直後のノーヒット、終盤の不振も含めた成績であるため、中盤は代打として十分活躍したといえる。中盤以降戦力外通告でホークスから移籍した「右の代打屋」大道典嘉が復帰し結果を出し、また後半戦以降正センターは打撃優先で清水隆行とホリンズの起用が多かったが、矢野はそのまま代打に使われることが多かった。

個人記録
初出場:2003年8月19日・対横浜24回戦・東京ドーム
初安打:2004年7月24日・対横浜18回戦・横浜スタジアム(吉見祐治から)
初本塁打:2004年7月25日・対横浜19回戦・横浜スタジアム(スコット・マレンから)

背番号
48 (2003年 - )



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