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2000年03月09日 の記事一覧

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岡田彰布

岡田 彰布(おかだ あきのぶ、1957年11月25日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(内野手)。引退後、コーチ・プロ野球監督・野球評論家を経て、2010年からオリックス・バファローズ監督。

愛称は、「どんでん」。特に阪神ファンの間でそう呼ばれている。由来は、味の素のうどん・おでんだし「どんでん」のCMに出演していたからである(CMの項参照)。 現役時代は「ノムカン」(野村克也と藤山寛美を足して2で割ったような顔をしているため)。

目次 [非表示]
1 経歴
1.1 アマチュア時代
1.2 プロ時代
1.3 コーチ時代
1.4 阪神監督時代
1.5 野球評論家
1.6 オリックス監督時代
2 監督としての岡田彰布
2.1 野球関係者からの評価
3 人物・交友関係
4 詳細情報
4.1 年度別打撃成績
4.2 監督としてのチーム成績
4.3 背番号
4.4 タイトル・表彰
4.5 個人記録
5 歌
6 著書
7 CM
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク


経歴 [編集]
アマチュア時代 [編集]
大阪市東区玉造(現・中央区玉造)で町工場を経営していた父親が、村山実・藤本勝巳ら阪神タイガースの選手と親交があったことから、幼少時よりタイガースと縁深く育った。幼稚園児の頃に、当時のタイガースの三塁手であった三宅秀史とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという。後に阪神に入団した岡田が背番号16を希望したのは、かつて三宅がつけていた番号だからである。また父の会社では草野球チームを結成し、彰布少年も投手として村山の背番号「11」を付けてマウンドに登った[1]。岡田家では、岡田の小学生時代から阪神甲子園球場の年間指定席を取っていたが、その場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく、敵側ベンチのある三塁側ベンチ横だった。その場所は阪神のライバル・読売ジャイアンツの三塁手・長嶋茂雄を一番近くで見ることができるので、そこからヤジを飛ばすためという理由だった[2]。

1972年、明星中学校3年生時に中学野球大阪府大会で優勝。1973年3月、村山の引退試合の前に村山のキャッチボール相手を務める。

1973年、北陽高校に進学し、1年生時には大阪府大会決勝戦(対PL学園)で先制2ランを放つなど活躍し、夏の甲子園に出場。甲子園での打撃成績は2試合で6打数3安打。3年生の夏は大阪府大会決勝で興国高校に敗れ、甲子園出場は果たせなかった。

早稲田大学野球部のセレクションを受け、15打数14安打14本塁打という驚異的な打撃をみせて合格。早大では1年生秋から三塁手としてレギュラーに入り、法政大学の江川卓から3安打を打ち注目される。2年生からは主軸に定着し、1979年春の大会では主将として東京六大学野球リーグ連覇に貢献した。学生時代より人柄の良さは知られており、人望が厚く先輩後輩問わず慕われてきたその人心掌握術によって早くから幹部候補生として期待されていた。主将になってからは自分でスタメンを決めていた。一方で、「熱狂的阪神タイガースファンクラブ(早大猛虎)」という学生の応援サークルに所属しており、一般学生と一緒にコンパやソフトボールを楽しむ一面もあった。[要出典]。

大学時代の成績と記録は以下の通り。

リーグ通算88試合出場、309打数117安打、20本塁打、81打点、打率.379
(打点と打率は東京六大学リーグ記録)

1977年秋季リーグから5季連続でベストナイン
1978年春季リーグ、対東京大学2回戦で史上2人目のサイクルヒット
1978年秋季リーグで戦後4人目の三冠王
東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したため、プロ野球各球団の岡田獲得競争は加熱。1979年秋のドラフト会議の目玉となった。逆指名・自由獲得枠のない当時、指名前に選手側が希望球団を公言することはできなかったが、記者の取材に「(希望は)どことは言えないがセ・リーグの在阪球団である(セ・リーグの在阪球団はもちろん阪神しかない)[3]」と答えた。ドラフトでは6球団が1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得。岡田の阪神入団が決まった。

プロ時代 [編集]
入団1年目の1980年、監督のドン・ブレイザーは「岡田はまだ新人。じっくり鍛えた方がいい」という考えのもと、岡田に二塁や外野の練習をさせていた。岡田はブレイザーとの初対面で通訳兼任のコーチを介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーリーグでは最初からいきなり試合起用することはない」と告げられ、「そんなの関係ないやろう」という反骨心が芽生えたと後に著書に記している[4]。当時は三塁に掛布雅之、遊撃手に真弓明信、二塁手に中村勝広、榊原良行、ヤクルトスワローズから獲得したデイヴ・ヒルトンと、岡田の入る場所がなかった。しかも、ヒルトンはアリゾナキャンプの途中からチームに合流したため、二塁へのコンバート計画を聞いていた岡田は「なぜ二塁手のヒルトンを獲得するのか」と複雑な気持ちになり、まもなくブレイザーからは外野の練習をするように指示されたという[5]。

オープン戦から結果を残せなかったヒルトンは、シーズン開幕直後から不振に陥ったものの守備面が評価されて起用され続け、その後、掛布が負傷した時も岡田の起用が見合わせられたため(この時、岡田も負傷していたという説もある)、ファンの間から「なぜ岡田を出さない」という不満が盛り上がり、ファンの一部からはヒルトンやブレイザーを悪者扱いし、さらには妊娠中の夫人が同乗していたヒルトンの車を取り囲み罵声を浴びせ、車を蹴るといった嫌がらせが激しくなった。そこで球団は不明瞭な形でブレイザーを解任し、コーチだった中西太に監督を交代させた。その後、出場機会が増え、新人王につながったが、自らの力でチャンスを掴みたかったので、当時ヒルトンが出場する度に「オカダ・オカダ」とコールがわいたことに対して、後年のインタビューで「あの岡田コールは嫌だった」と苦言を呈している。また、後年、ブレイザーに親しい人物からブレイザーの「憎くて使わなかったのではなく、期待されて入団してきたルーキーだから余分な力みを生まない楽なところから使ってやりたかった。だから時期がずれた」というコメントを伝えられ、「今となればこのメッセージはある程度、理解できるようになった。ブレイザーもかなり悩んだのだろうし、考えたのだろう。自分も監督になり、そのことはよくわかった」と著書に記している[6]。

1981年には初めて全130試合に出場し20本塁打、1982年には初の3割を記録。1983年も開幕から79試合で18本塁打を記録し、本塁打王争いにも加わっていたが、7月に足の肉離れを発症し、残りのシーズンを棒に振る。以後、脚部の負傷に悩まされることになる。

1984年、平田勝男の台頭により真弓が二塁に回ったため外野へコンバート。ランディ・バースの帰国時などに時折一塁も守った。しかし外野手としては事実上この1年のみで、翌年からは真弓と入れ替わりに二塁に戻る。

1985年には選手会長兼5番打者として打率.342、35本塁打、101打点の好成績で、真弓、バース、掛布らとともに球団初の日本一に貢献。特に4月17日での甲子園での巨人戦ではバース・掛布に続きバックスクリーン3連発の締めを行った。この時、バース・掛布と続いた後の岡田の打席にかかるプレッシャーは大きく「ヒットでいいという考えはなかった。こうなったらホームランを狙うしかないやろう。絶対スライダーしかないな!」と後に振り返っている。

8月には打率.429、10本塁打、31打点でプロ入り初の月間MVPを受賞し、さらに、9月15日の甲子園での中日戦でサヨナラ2ラン本塁打、翌16日にもサヨナラ中前打と2試合連続サヨナラを記録。バックスクリーン3連発前日の巨人戦でも1-2で迎えた4回裏2アウト、四球で出塁した岡田は、佐野仙好が放った平凡なフライを遊撃手河埜和正が落球する間に一塁から一気に本塁生還し、大量7点の猛攻へとつなげた。吉田義男監督も「あの岡田の全力疾走が大きかった」と評価した。

またこの年の8月12日、当時の球団社長だった中埜肇が日本航空機墜落事故で死亡するという悲劇も起こった。特に阪神ナインの中でも中埜に目をかけてもらい、自らも“飛行機派”と称していた岡田の受けたショックは大きく、この事故の直前に生まれた息子に向かって「お前が生まれた年にこんな大事故があったんやぞ!」と泣き叫んだ。

1987年は打率2割5分台本塁打14本とチームの不振を語るような成績になるが、その後は3年連続20本塁打を記録。

1989年、掛布の引退に伴い大学時代に守っていた三塁にコンバート。6月25日の甲子園での巨人戦、1-4で迎えた8回裏2アウト満塁でビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放った。奇しくも30年前の天覧試合と同じ日で、スコアも5-4と裏返しとなり、天覧試合勝利投手の藤田元司巨人監督の目の前で、敗戦投手だった村山実監督の仇討ちを果たした。イニングの最初にスコアボードを見て「2アウト満塁なら自分まで回ってくる」と思っていたら本当に回ってきたと後に語っており、ヒーローインタビューでも「3点差だったので満塁で回ってきたらホームランしかないと思った」と胸を張った。この本塁打を含めて月間8本塁打などの活躍で、同じく9本塁打のチームメートのセシル・フィルダーを抑えて、プロ入り2度目の月間MVPを受賞。1990年からは八木裕の台頭により二塁に戻る。

1992年、日本プロ野球選手会会長としてFA制度導入に尽力する。選手としてはこの年から二塁を和田豊に譲り一塁にコンバートされたが、新庄剛志や亀山努の台頭に加えて、打率1割台と深刻な打撃不振により先発出場は激減。4月25日の試合では代打に亀山を送られた場面もあった。この夜、遠征先の宿舎で食事中に亀山が謝りに来たのに対し「お前はなんも悪ないやろ」と答えたが、その模様を他の若い選手が見て見ぬふりをしているのに気づき、自分に周囲が気を遣っていると感じていた[7]。

1993年、「体力の衰え」という理由で阪神を自由契約になり、翌1994年のキャンプイン直前に仰木彬監督の率いるオリックス・ブルーウェーブに入団。その会見では「これからも阪神ファンであり続ける…」と涙ながらにタイガースとの別れを惜しんだ。その直前、週刊誌上で不倫スキャンダルを暴露され、そのまま現役引退の危機に晒されるが、調査によってスキャンダル自体が自称「愛人」の女が金銭目当てにでっち上げた作り話と判明、さらには岡田が恐喝され200万円を脅し取られる被害を受けていた事が明らかとなり、警察の強制捜査に発展し、最終的にはこの女が恐喝容疑で逮捕されて一件落着となった。この際には、豊富な技術と経験を持つ岡田を諦めきれないオリックスが、リース会社が本業であることから社内に豊富なノウハウを持つ調査要員を有しており、これを動員して真相の端緒を掴み、後に恐喝事件としての刑事捜査に繋がっている[8]。

1995年、出場機会も減り10年ぶりの優勝をオリックスで経験したのを花道に現役を引退。

翌1996年3月、古巣・阪神とオリックスのオープン戦が引退試合として行われ、岡田は試合終了後に阪神・オリックス両選手から胴上げされてグラウンドを去った。

コーチ時代 [編集]
1996年、オリックス二軍助監督兼打撃コーチに就任。

1998年、二軍助監督兼二軍打撃コーチとして阪神に復帰。またこの頃、自動車運転免許を取得。翌1999年には二軍監督兼二軍打撃コーチとなる。ここで育成していた選手たちが後に主力選手に成長することになる。2000年から2002年までは二軍監督(専任)。2000年にはファーム日本選手権で優勝し、2年連続日本一となった。後の一軍監督退任時に思い出として「二軍で若手が育っていくのが楽しみで、それが(一軍監督時よりも)思い出に残る」と語っている。

2003年に一軍内野守備走塁コーチへ配置転換。三塁ベースコーチを担当し、判断の良さには定評があった。

阪神監督時代 [編集]
2003年オフ、星野仙一監督が健康問題のため勇退したのを受け、後任として一軍監督に就任。就任時の挨拶は「期待してもらって結構です」。監督初年度の2004年は井川慶ら優勝に貢献した選手の不調に加えジョージ・アリアスの好不調の波の激しさ・マイク・キンケードの度重なる死球によるけが、更にジェロッド・リガンの負傷やその年に開催のアテネオリンピックの野球に出場したジェフ・ウィリアムスと安藤優也の不在による戦力低下が響いて4位に終わった。

2005年9月7日、中日ドラゴンズとの2ゲーム差での首位決戦において、9回一打サヨナラ負けのピンチに監督就任後初めてマウンドへ向かう。ここで、クローザー・久保田智之にかけた言葉は「お前は悪ないからな。オレが責任持つからもうムチャクチャ放れ!」。岡田に闘魂注入された久保田は後続を連続三振で抑え、11回表の中村豊の本塁打が決勝点となり死闘を制す。

この一見投げやりにも取れる言葉の裏には、たとえこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負うという強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日の落合博満監督に「今日は監督で負けた」とまで言わしめた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ね、9月29日、甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成。奇しくも優勝当日は亡父の誕生日であった。

しかし、日本シリーズは千葉ロッテマリーンズに4戦4敗のストレート負けとなった。また、その際にリードされているからという理由でJFK(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之)を起用しなかったことにファンや解説者にマスコミなどから不満があがった。

11月19日、甲子園球場で開催されたファン感謝デーのイベント「夢のOB交流戦」という紅白戦で、岡田は白組のプレイングマネージャーとして出場。試合の最後に「代打、オレ」で打席に立ち、見事にサヨナラ2ラン本塁打を打ちMVPに輝いた。

2006年3月6日、絶滅が危惧されている野生のトラを保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備を寄付すると表明。そして、2006年の勝利数と同じ84個分の装備品の代金75万6,000円(1セット約9,000円)を寄付した。この活動が評価され、12月12日にインド政府から「阪神の最後まで諦めない姿勢に勇気づけられた。支援に非常に感謝している」などと記された感謝のメッセージを受け取っている。

2007年6月8日の対オリックス・バファローズ戦(甲子園球場)の8回裏、打者鳥谷敬の守備妨害を巡り球審の谷博に抗議を行った際に谷の胸を突き飛ばし、現役・コーチ及び監督生活を通じて初めての退場処分を受ける。8月16日の対中日ドラゴンズ戦(京セラドーム)では、8回裏に一塁走者が二塁でアウトになったことをめぐり二塁塁審の井野修に抗議して胸を突き飛ばしたため、2度目の退場となった。なお、同じシーズン中に2度退場になった監督は他にも複数いるが、阪神では岡田が初であり、セ・リーグ日本人監督でも初めてであった[9]。

2008年、チームは開幕からスタートダッシュに成功し首位を独走していたが、北京オリンピックの野球日本代表に主力である新井貴浩・矢野輝弘・藤川球児を派遣して以後、チーム状態が空転し始め、打撃陣の不振や故障者の続出などで、一時は13ゲーム差をつけていた巨人に終盤で逆転されペナントレース優勝を逃した。この責任を取る形でこのシーズン限りでの辞任を発表した。クライマックスシリーズ第1ステージ最終戦で敗退したことでこのシリーズが最後の指揮となった。試合終了後、赤星憲広選手会長の発案により、選手・コーチから監督を務めた年数と同じ5回胴上げされた。

野球評論家 [編集]
2008年11月、デイリースポーツ新聞社と客員野球評論家として契約を結び、自伝コラムを年末にかけて執筆。2009年2月1日の朝日放送「虎バン」で解説者としてデビューし、朝日放送・スカイ・Aを中心に在阪局でプロ野球解説者として出演した。

4月12日の巨人対阪神戦(東京ドーム)での日本テレビによる中継に招かれ、解説者としての全国デビューも果たした。特定の局の専属解説者になるのは「どこかの専属で行動を縛られるのは避けたい」という岡田本人の意思もあり、見送られた。

オリックス監督時代 [編集]
2009年10月13日、2010年シーズンからオリックス・バファローズ監督就任が発表された[10]。契約内容は3年契約の1億円、チーム編成、広報面などで全権を任されており実質GM兼任となる[11][12]。

岡田自身は10月14日に就任記者会見を行った。これにより岡田は旧ブルーウェーブ選手時代のOBとして初めてオリックス・バファローズの監督となった。

監督としての岡田彰布 [編集]
この節の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。

監督としては堅実を重視するスタンスである。岡田は著書で「こと野球に関してはマイナスから考えるのだ。常に最悪の事態を想定してゲームを進める。これが自分の監督論といえる」と記している[13]。

メジャーリーグで開発された確率論を根底にするセイバーメトリクスに近い考え方をベースにしたチーム作りを理想とする。岡田は著書『頑固力』(角川SSC新書、2008年)の中で、セイバーメトリクスに関する本を読んだことはなく、文献や理論の存在を知ったのもあとからであって、自分の実践した野球が「少し、セイバーメトリクスを使った野球に重なっていた」と記し、「セイバーメトリクスの戦略を用いている」という巷間の噂は「正しく言えば、それは間違いである」としている(同書P61 - 62)。

阪神監督就任当時少なかったバントが2008年にはリーグトップとなった。これについて「考えが変わったわけではなく、チームの陣容が変わり、チームのストロングポイントを最大限に生かせる確率を追究した結果」と説明している[14]。バントについて基本的には「アウトを何で一つやるのん」という思いが根底にあるとしながらも、状況に応じた必要性は否定していない。ただし、スクイズについては打者に与えるプレッシャーの高さからサインを出さないという[15]。

選手のコンディションや相性で打順をいじったり、ローテーションを崩すことは基本的には好まない。ベンチワークの必要のないスタイルの確立されたチームこそ最強という持論がある。岡田は理想の監督像として「ベンチで何もしないで、言葉も出さず、気がついたら1対0で勝っていた、そういうゲームができるチームの監督が理想」と記している[16]。2004年に金本知憲を4番に据えてから好不調にかかわらず5年間一度も動かさなかった[17]。また投手分業のJFKの確立なども、岡田の勝利の方程式を重視する思想が色濃く反映された結果だといえる。

ピンチに陥った投手などに対して、他の監督では自らマウンドに行く光景がしばしば見られるが、岡田の場合は2005年9月7日の対中日戦、2006年6月1日の対楽天戦の久保田智之に対してと、2006年8月31日の対中日戦、2008年7月18日の対中日戦の藤川球児に対しての4度だけである。いずれの試合もこれらの投手が踏ん張り勝利している。岡田は著書『頑固力』の中で「マウンドに行き、投手、もしくはバッテリーにアドバイスを送るのは監督ではなく、ピッチングコーチの仕事である。"任せる"というキーワードが監督とコーチの信頼につながるのだ」と記し、マウンドに行ったケースのうち2005年と2008年の中日戦はいずれもペナントレースで重要な意味を持つ試合と考えていたと明かした上で、「本来こういうマウンドパフォーマンスは、私には似合わないし、決して好きな行為ではない」と述べている[18]。

自身は二軍の下積み経験がほとんどないが、二軍監督を長年やっていたためか、二軍の若手選手への思い入れが人一倍強い。阪神監督時代は試合のない日もよく二軍の阪神鳴尾浜球場で目撃されていた。「ファームからも若い選手をしっかりと育てて野球を仕込む。そして監督が、あれこれ手を尽くしてチームの結果を積み重ねていく、そういう監督業こそが面白いのである」と『頑固力』にある(同書P74 -75)。

選手起用において個人記録を重視しており、「チームの勝利が最優先であることが大原則ではあるが」という条件つきながら、「監督として手助けできることがあれば最大限に手を貸したつもりである」と著書で述べている[19]。金本知憲の連続試合フルイニング出場、鳥谷敬の連続試合出場の記録更新にも全面的に協力する姿勢を貫いていた。

2008年の終盤に「JFKを酷使した」と批判されたことについては、常に彼らの疲労度を見ながら起用していたと反論し、「彼らにとっては、その1球、1イニングが自らの年俸や評価をアップさせる生活の糧なのである」と記している[20]。

日本シリーズやクライマックスシリーズなどの、短期決戦で行われるポストシーズンゲームでは、その時の選手のコンディションよりも、シーズン当初からのチームの理想形にこだわるタイプであり、成績は芳しくない。この点は前任者の星野と同様である。

野球関係者からの評価 [編集]
2004年に投手コーチを務めた佐藤義則は退任する際、「頑固過ぎる、人の意見を聞かない」と苦言を呈した。

2005年の日本シリーズで阪神と対した千葉ロッテマリーンズのボビー・バレンタイン監督は、シリーズ終了後、その時点の岡田を評して「10年前の私を見ているようだ」とした。

野村克也は、2006年のシーズン前に「(中日監督の)落合のが常識の野球であって、岡田のほうがよほど変わった采配をしている」と評した。野村は2008年の開幕前に刊行した著書『あぁ、阪神タイガース-負ける理由、勝つ理由』(角川書店)の中で、岡田がサインを出さず選手任せにしていると金本知憲から聞き「監督の仕事を放棄している」「理解に苦しむ」と記す一方、JFKのリリーフ陣を構築したことは「新しい方程式を作った」として「素直に評価しなければならない」としている。その上でこの「六回までは選手主導でやらせ」るJFKや「選手任せ」は、選手個々の問題意識を高める考え方に基づく可能性があり、もしそうなら名監督となる器かもしれないが、それは今後の阪神の成績が明らかにすると書いている[21]。

これに対して岡田は阪神監督退任後の著書『頑固力』の中で、野村が自分を「何を考えているのかわからない」と言っていることに、「自分では自分なりの野球に対する考え方を持っている」「サインや作戦に作戦に関しても状況に応じて作戦は立てている。当たり前のことだ」「どちらかと言えば野村さんと自分の考えは正反対なのかもしれない」と記している[22]。

人物・交友関係 [編集]
座右の銘は「道一筋」で、周囲の不理解や反対があっても、自分の信じた道を突き進めという意味。これは岡田の父親と親交のあった村山実が贈った「道一筋」と書かれた掛け軸が実家に飾られていたことに影響を受けたとされる。色紙にサインする時にもこの言葉を添えることが多い。第三者にこの言葉が商標登録されていて、話題になったこともあった[23]。

口癖は「そらそうよ」。これをモチーフに、「そらそーよ」という焼酎まで作られた。大阪弁に独自の方言を混ぜた岡田の口調は、ネット上での愛称どんでんから、「どん語」と呼ばれ一部のファンに親しまれている。

現役時代に務めた日本プロ野球選手会会長時代より一貫して1リーグ8球団制の提唱者である。球団再編問題時にはパ・リーグファンから批判を受けた。

クライマックスシリーズについては、「そこで敗れ、日本シリーズ出場ができないと、144試合もの長いシーズンを戦った努力と、過程と評価の価値を否定されることになる」として否定的である[24]。また、数球団を渡り歩く外国人選手が、年俸を高騰させて球団経営を圧迫したり若手日本人選手の働き場所を奪っているとして、外国人出場選手枠の減少(場合によってはゼロ)を、プロ野球改革の試案として示している[25]。

雄弁ではないものの思ったことを短い言葉で表現することが多く、人物に対する評価がしばしば辛口である。

小学校低学年の頃から将棋を趣味としており、2008年1月24日に日本将棋連盟からアマ三段の免状を授与された[26]。将棋を覚えたランディ・バースとは、川藤幸三とともにその相手を務めていた[27]。

ルーキーの頃に、プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーが「コイツは、絶対に大物になる」と岡田に賛辞を送って以来、ブッチャーとは交友がある。岡田の後援会・岡田会は当時、ブッチャーの後援会もしていた。岡田は今でも恩を感じており、2005年の阪神のリーグ優勝の際には祝勝会にブッチャーを招待するプランもあったが、実現はしなかった[28] 。

阪神時代、シーズンオフに大阪市内の実家近くで近所の小中学生とソフトボールをしていたとき、一人だけずば抜けた野球センスを持つ中学生がいた。それが後に横浜ベイスターズで阪神キラーとなる三浦大輔投手であり、高校生の時、阪神がドラフトで指名しなかったことに激怒していた。[要出典]

詳細情報 [編集]
年度別打撃成績 [編集]

度 球
団 試
合 打
席 打
数 得
点 安
打 二

打 三

打 本

打 塁
打 打
点 盗
塁 盗

死 犠
打 犠
飛 四
球 敬
遠 死
球 三
振 併

打 打
率 出

率 長

率 O
P
S
1980 阪神 108 403 376 44 109 19 0 18 182 54 4 2 1 0 23 6 3 45 6 .290 .336 .484 .820
1981 130 524 485 70 140 23 3 20 229 76 1 0 2 4 28 3 5 43 13 .289 .331 .472 .804
1982 129 521 466 57 140 22 1 14 206 69 10 5 2 5 44 12 4 30 13 .300 .362 .442 .804
1983 79 289 246 44 71 9 0 18 134 44 7 3 1 5 36 5 1 23 3 .289 .375 .545 .920
1984 115 366 323 38 96 14 2 15 159 51 3 1 0 7 33 4 3 41 13 .297 .361 .492 .853
1985 127 532 459 80 157 24 3 35 292 101 7 3 0 6 64 3 3 41 11 .342 .421 .636 1.057
1986 129 551 474 67 127 21 0 26 226 70 11 3 0 4 70 5 3 57 14 .268 .363 .477 .840
1987 130 518 474 54 121 24 3 14 193 58 5 2 0 2 40 2 2 75 12 .255 .315 .407 .722
1988 127 524 454 65 121 22 1 23 214 72 10 5 0 5 63 6 2 75 16 .267 .355 .471 .826
1989 130 557 492 66 138 20 1 24 232 76 8 3 0 7 57 3 1 81 15 .280 .352 .472 .823
1990 130 571 486 75 129 27 0 20 216 75 7 2 0 4 74 5 7 87 12 .265 .368 .444 .812
1991 108 428 383 45 92 11 0 15 148 50 1 3 0 3 40 3 2 68 9 .240 .313 .386 .700
1992 70 212 185 9 35 11 0 2 52 19 1 0 0 3 22 1 2 48 3 .189 .278 .281 .559
1993 42 62 53 2 9 1 0 1 13 7 0 0 0 0 9 1 0 24 0 .170 .290 .245 .536
1994 オリックス 53 117 101 10 28 3 0 2 37 12 1 1 0 1 14 0 1 20 3 .277 .368 .366 .734
1995 32 46 39 3 7 0 0 0 7 2 0 0 0 0 7 0 0 9 1 .179 .304 .179 .484
通算:16年 1639 6221 5496 729 1520 251 14 247 2540 836 76 33 6 56 624 59 39 767 144 .277 .351 .462 .813

監督としてのチーム成績 [編集]
レギュラーシーズン
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打 チーム
打率 チーム
防御率 チーム
得点 チーム
失点 年齢
2004年 阪神 4位 138 66 70 2 .485 13.5 142 .273 4.08 637 610 46歳
2005年 1位 146 87 54 5 .617 - 140 .274 3.24 731 533 47歳
2006年 2位 146 84 58 4 .592 3.5 133 .267 3.13 597 508 48歳
2007年 3位 144 74 66 4 .529 4.5 111 .255 3.56 518 561 49歳
2008年 2位 144 82 59 3 .582 2.0 83 .268 3.29 578 521 50歳
通算:5年 718 393 307 18 .561 Aクラス4回、Bクラス1回

ポストシーズン
年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
2005年 阪神 日本シリーズ 千葉ロッテマリーンズ 0勝4敗
2007年 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ 中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) 0勝2敗
2008年 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ 中日ドラゴンズ(セ・リーグ3位) 1勝2敗

背番号 [編集]
16 (1980年 - 1993年)
10 (1994年 - 1995年)
85 (1996年 - 1997年)
80 (1998年 - 2008年、2010年 - )
タイトル・表彰 [編集]
新人王 (1980年)
ベストナイン:1回 (1985年)
ゴールデングラブ賞:1回 (1985年)
オールスターゲーム出場:8回 (1980年 - 1982年、1985年、1986年、1988年 - 1990年)
オールスター最優秀選手:2回 (1980年第1戦、1988年第2戦)
月間MVP:2回 (1985年8月、1989年6月)
セ・リーグ最優秀監督賞:1回 (2005年)
通算1000試合出場 1988年6月22日(277人目)
個人記録 [編集]
初出場:1980年4月11日、対大洋戦(甲子園)
初安打:1980年4月22日、対大洋戦(横浜) - 8回、竹内宏彰から
初本塁打:1980年5月1日、対巨人戦(甲子園) - 2回、新浦壽夫から
歌 [編集]
逢えば涙になるけれど(1982年)
阪神タイガースのマスコットガールだった岡田真弓(元ラブ・ウィンクスの平田和子)とデュエット
ビクトリー(1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし)
原辰徳・高橋慶彦・宇野勝・遠藤一彦・荒木大輔とともにコーラス参加。
著書 [編集]
『頑固力 ~ブレないリーダー哲学』角川SSC新書 2008年、角川・エス・エス・コミュニケーションズ、ISBN 978-4827550511
『なぜ阪神は勝てないのか? ~タイガース再建への提言』(江夏豊との共著)角川ONEテーマ21 2009年、角川書店、ISBN 978-4-04-710206-4
『オリの中の虎 ~愛するタイガースへ最後に吼える』ベースボール・マガジン新書 2009年、ベースボール・マガジン社、ISBN 978-4-583-10231-3
CM [編集]
岡田は、出演本数こそ少ないが、強烈なインパクトのあるCMに出演している。

日本サンガリアベバレッジカンパニー(現役時代)
味の素 ほんだし うどんおでんだし(引退後、坂田利夫と共演。どんでんの愛称の由来はここから)
オリックス自動車 カーシェアリング事業「プチレンタ」(2010年より予定)
脚注 [編集]
^ 岡田の証言によれば、野手は阪神二軍の若手選手だったという
^ 宝島社『別冊宝島 プロ野球名選手読本』1998年
^ 2009年に発売された『阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎列伝』Vol.11収録のインタビューでは「ボクは一人っ子だったことで母が「関西に帰ってきて欲しい」と思っていたから、実際は阪神だけでなく阪急・近鉄・南海という関西の球団ならどこでもよかった(なおこの3球団は全て岡田を1位指名している)と語っている。
^ 『頑固力』(角川SSC新書、2008年)P89
^ 『頑固力』P90
^ 『頑固力』P163
^ 『頑固力』P110 - 111
^ スポニチアネックス『野球 日めくりプロ野球10年1月【1月28日】1994年(平6) キャンプイン4日前 岡田彰布“復帰”決定(野球)』
^ 「過去いないセ日本人監督シーズン二度」 日刊スポーツ
^ オリックス:岡田新監督発表 Yahoo News 2009年10月13日閲覧
^ [日刊スポーツ 2009年10月2日] http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20091002-550638.html
^ [夕刊フジ 2010.03.05]http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20100305/bbl1003051248000-n2.htm
^ 『頑固力』P164
^ 『頑固力』P61
^ 『頑固力』P64 - 65
^ 『頑固力』P33 - 34
^ これについては、金本が「休まず試合に出るチームの柱」という岡田の考える4番打者にふさわしい選手だからであるとしている(『頑固力』P37 -41)。
^ 『頑固力』P58 - 60。この中で岡田は自らマウンドに行って檄を飛ばしたのはこの2度のみと書いており、2006年の楽天戦、中日戦にはなぜか触れていない。
^ 『頑固力』P99。その背景として、自らが現役時代首位打者にあと一歩に迫りながらそれを逃した経験があるとしている。
^ 『頑固力』P30
^ 『あぁ、阪神タイガース』P178 - 184。野村はこうした選手主導のやり方を「アメリカン・スタイル」と記し、メジャーの影響かもしれないと書いている。
^ 『頑固力』P132
^ デイリースポーツ、2005年11月18日号
^ 『頑固力』P151 - 152
^ 『頑固力』P153 - 154。もっとも同書の別の箇所では阪神が今後「他球団でそこそこの数字を残し、日本の野球に対応できる可能性を秘めた外国人を、獲得していくのが賢明」(P169)と記しており、長期的な球界改革案とは違う考えを示している。
^ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年6月30日号20-23ページ「5年目岡田野球の変貌」
^ 『頑固力』P95
^ 『デイリースポーツ』2007年3月9日付「ブッチャー 旧友岡田監督に毒針エール」

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