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2000年03月11日 の記事一覧

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秋山幸二

秋山 幸二(あきやま こうじ、1962年4月6日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球監督、野球解説者。現在は福岡ソフトバンクホークス監督。

目次 [非表示]
1 人物
2 経歴
2.1 西武時代
2.2 ダイエー時代
2.3 現役引退後
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 タイトル・表彰・記録
3.3 監督としてのチーム成績
3.4 背番号
4 エピソード
5 著書
6 出演CM
7 解説者としての出演番組
8 関連項目
9 脚注
10 外部リンク


人物 [編集]
現役時代は西武ライオンズと福岡ダイエーホークスで活躍した。ポジションは三塁手、のち外野手。

中堅手としての球界屈指の守備範囲と強肩、盗塁技術、そして長打力を併せ持つ走攻守3拍子揃った万能選手であった。全国的な知名度と人気があり、1985年から18年間、引退するまでオールスターゲームにファン投票で選ばれ続けた。この18年連続ファン投票選出による出場は歴代最長記録である(連続ファン投票選出は王貞治、野村克也がともに21年連続を記録しているが、2人とも途中1度の出場辞退がある)。その得票数は引退が近い年まで毎年セ・パ両リーグ全選手の中でも1・2位を争う多さであった。2リーグ分立以降、本塁打王と盗塁王を両方獲得したのは秋山のみである。(ちなみに通算400本塁打以上のいわゆる「強打者」にあって盗塁王のタイトルを獲得したのは衣笠祥雄(広島)がいるが本塁打王のタイトルは無かった(通算は504本塁打)。また首位打者タイトルの常連であった張本勲はやはり衣笠と同数の通算504本塁打で、尚且つ通算盗塁数も300を超える俊足の持ち主であるが、本塁打王と盗塁王のタイトル獲得は成らなかった。)

引退後は福岡ソフトバンクホークス二軍監督を経て、2007年は総合コーチ、2008年はチーフコーチを歴任。前任の王貞治を後継し、2008年10月8日に同監督に就任した。

日本プロ野球名球会会員でもある。

フリーアナウンサーの片平夏貴(東国原英夫の元妻)は義妹(夫人の実妹)にあたる。

経歴 [編集]
小学3年生時に母の勧めで地元に設立されたばかりの少年野球チームに入る。小学生時代からバック転をするなどスポーツ万能であったが野球は不得意な部類だったという。中学時代はサードやセンターを守っていた。

熊本県立八代高等学校に進学後ほどなくして野球部に入部し、監督の「お前は背が高いからピッチャーだ」の一言で投手にコンバートされる。1980年、3年時の春の九州大会で準優勝。最後の夏の甲子園熊本県予選では、決勝で大津一洋と伊東勤がバッテリーを務めていた熊本工高に4-6で敗れはしたものの、無名の高校を引っ張った大型右腕投手としてスカウトの間では評判となっていた。ほとんどの球団が投手としての獲得を目指したが、西武と巨人は秋山の打撃能力に注目。当初は各球団からのドラフトでの指名方針を断り、スカウトを受けた九州産業大学への進学を決めていたが、秋山自身も投げることより打つことの方が好きだったこともあり、根本陸夫監督の「4年後にはクリーンナップを打たせる」という言葉が秋山とその母親の心を動かし、西武ライオンズにドラフト外で入団した。

西武時代 [編集]
西武入団当時の背番号は71で、推定年俸は240万円と当時のドラフト外入団高卒選手では平均的待遇だったが、契約金は5000万円と当時のドラフト1位指名選手の契約金をも超える破格であった。入団と同時に三塁手に転向。1年目はパ・リーグの優勝が決まった後(西武は前期・後期とも優勝を逃す)の消化試合で初の一軍昇格を果たし、初ヒットを放っている。2年目の1982年は背番号が24になり、一軍出場は無かったが、イースタン・リーグの本塁打王(19本)を獲得。

1982年から1983年にかけて、3度野球留学でアメリカ合衆国に渡り、1Aチームのサンノゼ・ビーズ(現サンノゼ・ジャイアンツ/1983年5月28日~8月28日)とアリゾナ・アストロズ(1982年9月中旬~10月、1983年9月14日~11月1日)でプレーする。走塁や守備、長打力など、多彩な分野において頭抜けた能力を見せる秋山にメジャー関係者も驚き、西武に獲得を打診したため、西武はすぐに連れ戻した。サンノゼでは主に3番を打っており、4番を打っていたのが後のヒューストン・アストロズの4番であり、阪神でもプレーしたグレン・デービスであった。上記のエピソードや日米野球で対戦したメジャーリーガーや関係者に高く評価されたことから、「メジャーに一番近い男」と呼ばれていた。

1984年、春季キャンプから一軍入りし、7番・サードで開幕スタメンの座を獲得。4月14日にプロ初本塁打。しかし怪我をしたこともあり、54試合出場にとどまる。

1985年、主に6番・サードに据わりレギュラーに定着。王貞治と並ぶ史上最年少(23歳)での本塁打40本を記録し、この年三冠王を獲得した落合博満を向こうに回してオールスターファン投票1位を獲得する。これ以降、2002年までファン投票選出され続ける。

1986年、監督が森祇晶に交代。開幕を5番で迎えるが、ジョージ・ブコビッチの不振により4番の座を任される。この年も本塁打40本以上放ち、初のベストナインに外野手として選出される。日本シリーズでは史上唯一の第8戦で有名な「バック宙ホームイン」を披露する。シーズン終盤本塁打王を争うため、ルーキーの清原和博と4番を交替し3番に座ったことが好結果を生んだことでAK砲の原型が完成している。オフに背番号を1に変更。結婚もしている(後に離婚→現夫人と再婚)。

1987年、これまではスタメンはサードで入り、勝ち試合の守備固めでセンターを守っていたが、バッティングに集中させるという狙いでセンターに転向。西武打撃陣が軒並み打撃成績を落とす中、3番・センターの「定位置」へ定着したこともあってか、秋山1人が成績を維持。5月21日に日本人最速で通算100本塁打を達成し、最終的に43本塁打で3年連続40本塁打以上を記録する。前年オフに落合が中日に移籍したこともあり、初の本塁打王のタイトルを獲得。史上初の40本塁打・40盗塁も期待されたが、38盗塁で惜しくも達成ならず。130試合という試合数を考えれば驚異的な数字である。アメリカ・メジャーリーグ初の『40-40』は1988年にホセ・カンセコによって達成された(158試合での達成記録:42本塁打、40盗塁)。

1989年、チームは前年に続くデッドヒートの末、近鉄バファローズに優勝をさらわれるが、初の3割を記録。打率.301、31本塁打、31盗塁で日本プロ野球史上5人目のトリプルスリーを達成。

1990年、盗塁王を獲得。35本塁打、51盗塁を記録し、プロ野球史上初の30本塁打・50盗塁を達成。2リーグ分立後では史上初の本塁打王受賞経験者による盗塁王となった。2年連続300刺殺(フライアウト)を達成し、外野手としての評価も確立する。当時の西武の日本人選手の中では、秋山が年俸1億円に最も近いと言われていた(1990年の秋山の推定年俸は8400万円)。しかしこの年のオフの契約更改で、清原を名実ともにチームの顔にしたいと考えた球団の意向により、秋山は推定9800万円の掲示を受ける。秋山はこれを不服として闘ったが、最終的に判を押す。秋山が契約更改において一発でサインしなかったのは後にも先にもこの年だけである。このときに球団から「1億円プレーヤーとなるには君には華が足りない」と言われたのが、翌年の躍進の引き金となった。

1991年、前年の年俸闘争をバネにして発奮。2度のサヨナラアーチを含むサヨナラ打3度の大活躍でチームを引っ張る1年となる。オールスターゲーム第2戦12回表に右目に自打球を当て負傷退場(その後代打に立ったのが野茂英雄、レフトの守備に入ったのが工藤公康である)、右目の視力は0.7から0.2にまで低下した。日本シリーズでは4本塁打を放ちMVPを受賞している。これらの活躍が評価され、正力松太郎賞も受賞。推定年俸は1億4000万円と大幅アップし、念願の1億円プレーヤーの仲間入りを果たした。

1992年、前年に引き続き安定した成績を挙げ、チームも3年連続パ・リーグ優勝を達成。日本シリーズでは2度の決勝打を放つなど3年連続日本一に貢献、優秀選手賞を受賞した。

1993年は、30本塁打を放つ(=9年連続30本塁打以上は現在もパ・リーグ記録)も低調なシーズンとなり、日本シリーズでは6番で出場している。シーズンオフに渡辺智男、内山智之とともにダイエーの佐々木誠、村田勝喜、橋本武広との大型トレードが発表される。この際のトレード交渉は西武・堤義明、ダイエー・中内功の両オーナーすら知らない水面下で画策されたもので、球界史上に残る世紀のトレードと呼ばれる。トレードをとりまとめたのは、球界の寝業師と呼ばれた根本陸夫である。

ダイエー時代 [編集]
1994年9月17日の対千葉ロッテマリーンズ戦から10月7日の対西武戦まで11試合連続で長打を放ち、プロ野球史上最長記録となった。オフに入籍(再婚)。FA権を取得した。一度はFA権を行使して他球団へ移籍することをほぼ決意していたが、当時監督だった根本に説得される形でFA権を凍結。秋山が引退までホークスに骨を埋める決意を固めたのはこの時からだと言われている。以後、秋山は獲得したFA権を行使せずに引退した。

1999年からダイエーの初代主将に就任。シーズン終盤からは1番・ライトで出場し、文字通りチームを牽引した。西武との優勝争いの最中であった9月8日の対西武戦で松坂大輔から顔面に死球を受け頬骨を骨折するが、その後の試合ですぐにベンチに復帰。フェイスガード付きの特製ヘルメットを作ってスタメン復帰も果たし、9月25日の優勝決定試合で先制点となる先頭打者本塁打を放つなど、ダイエーにとって初めての優勝に大きく貢献する。中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、第1戦で野口茂樹投手から先制本塁打、第2戦で川上憲伸投手から先頭打者本塁打、第3戦では守備で右翼フェンスを駆け上がり飛球をキャッチしその後一塁ランナーも刺すという超ファインプレーを披露するなどの活躍を見せ再びMVPに輝き、史上最年長(2008年現在破られていない)および史上初の2球団での日本シリーズMVP受賞を達成した。

2000年、シーズン開幕戦で先頭打者本塁打を放つ。8月18日、対ロッテ戦で出場2000試合目で2000本安打達成(史上28人目、ドラフト制度確立後のドラフト外入団選手では史上初)。6月1日に通算1588三振を記録し、歴代1位(当時)に(現在は清原和博が1位)。

2001年、キャンプ中に右肩を痛め、二軍で開幕を迎えた。

2002年、「(今季の)優勝が現実的に遠のき、気持ち的にもやっていくことがなくなった」と語り、8月26日に現役引退を表明。引退試合は10月5日(西武ドーム)と10月6日(福岡ドーム)双方で行われ、それぞれ超満員の観客が秋山の現役最後の雄姿を見届けた。西武ドームでは秋山が打席に入るとダイエーの応援団からはダイエー時代の応援歌が、西武の応援団からは西武時代の応援歌がそれぞれ交互に演奏された。そして、西武ドームでの試合後には西武の選手たちから、翌日10月6日の福岡ドームでの引退試合ではダイエーの選手たちから胴上げされ、大観衆の涙を誘った。さらに福岡ドームの引退試合では、相手チームであったロッテの選手・観客も、試合終了後とどまって秋山の引退を見送り、秋山が球界の宝であったことを実感させる引退試合となった。現役最終打席はライトライナー。引退セレモニーでの「野球選手を卒業します」というコメントは、幼かった長女に現役引退を理解してもらうために考え出されたコメントである。

背番号1は福岡ダイエーホークスの永久欠番となる予定であったが、柴原洋が1番を希望し、秋山も了承したため永久欠番とはならなかった。

現役引退後 [編集]
2003年、2004年はRKB毎日放送・TBSテレビ・TBSラジオ野球解説者、西日本スポーツ野球評論家として活動。また、文化放送にゲスト解説として出演することもあった。

2005年、ダイエー改めソフトバンクの二軍監督に就任。2007年からは一軍の野手総合コーチを歴任した。体調不良で出場辞退した王貞治監督に代わり、コーチとして初めてオールスターゲームへ出場した。

2008年10月2日に、去る9月23日にシーズン終了を以っての退任を表明した王監督の後任としてソフトバンク新監督に就任することが発表された。2011年までの3年契約。

詳細情報 [編集]
年度別打撃成績 [編集]

度 球
団 試
合 打
席 打
数 得
点 安
打 二

打 三

打 本

打 塁
打 打
点 盗
塁 盗

死 犠
打 犠
飛 四
球 敬
遠 死
球 三
振 併

打 打
率 出

率 長

率 O
P
S
1981 西武 3 6 5 1 1 0 1 0 3 0 0 0 0 0 1 0 0 2 0 .200 .333 .600 .933
1984 54 154 140 16 33 5 2 4 54 14 6 1 1 0 10 0 3 32 4 .236 .301 .386 .686
1985 130 542 468 93 118 16 0 40 254 93 17 9 1 3 66 0 4 115 13 .252 .348 .543 .890
1986 130 562 492 88 132 19 3 41 280 115 21 8 0 7 58 5 5 94 10 .268 .347 .569 .916
1987 130 550 496 82 130 13 2 43 276 94 38 12 0 3 48 5 3 102 8 .262 .329 .556 .886
1988 130 577 517 93 151 23 2 38 292 103 20 12 0 2 50 5 8 132 11 .292 .362 .565 .927
1989 130 555 478 92 144 24 4 31 269 99 31 14 0 4 68 4 5 93 10 .301 .391 .563 .954
1990 130 559 476 84 122 16 0 35 243 91 51 9 1 9 68 0 5 120 11 .256 .349 .511 .860
1991 116 515 455 97 135 23 3 35 269 88 21 5 0 5 53 3 2 96 8 .297 .369 .591 .960
1992 130 566 480 92 142 26 2 31 265 89 13 4 1 2 77 1 6 114 6 .296 .398 .552 .950
1993 127 536 470 67 116 23 4 30 237 72 9 8 0 1 61 2 4 136 11 .247 .338 .504 .842
1994 ダイエー 129 567 473 93 120 26 5 24 228 73 26 6 0 4 83 6 7 125 9 .254 .370 .482 .852
1995 122 529 476 61 127 25 1 21 217 66 13 4 0 5 46 5 2 101 17 .264 .331 .456 .787
1996 121 512 466 53 140 27 0 9 194 66 13 4 0 5 35 1 6 78 12 .300 .354 .416 .770
1997 97 421 371 46 91 20 2 12 151 52 11 5 2 1 43 0 4 62 9 .245 .329 .407 .736
1998 115 473 423 43 110 32 4 10 180 49 7 7 1 3 42 2 4 76 11 .260 .331 .426 .756
1999 113 420 386 41 99 16 2 12 155 44 3 2 3 1 26 2 4 83 12 .256 .309 .402 .711
2000 124 488 427 44 112 23 1 5 152 48 2 4 6 4 49 2 2 63 13 .262 .338 .356 .694
2001 82 287 269 31 77 13 3 11 129 32 1 0 0 0 17 0 1 43 6 .286 .331 .480 .811
2002 76 244 229 14 57 7 0 5 79 24 0 2 4 2 9 0 0 45 10 .249 .275 .345 .620
通算:20年
(順位) 2189 9063 7997 1231 2157 377 41 437 3927 1312 303 116 20 61 910 43 75 1712 191 .270 .347 .491 .839
(22) (13) (11) (19) (14) (13) (13) (13) (25) (17) (2)

各年度の太字はリーグ最高
通算成績の下行の括弧内数字は、NPBにおける歴代通算順位
タイトル・表彰・記録 [編集]
本塁打王:1回 (1987年)
盗塁王:1回 (1990年) ※本塁打王と盗塁王両方の獲得経験があるのは、他に金山次郎のみ。
最多勝利打点:2回 (1985年、1987年)
ベストナイン:8回 (1986年~1993年)
ゴールデングラブ賞:11回 (1987年~1996年、1999年) ※福本豊の12回に次ぐ、歴代2位。
正力松太郎賞:1回 (1991年)
日本シリーズMVP:2回 (1991年、1999年) ※2球団でシリーズMVP獲得は史上唯一、37歳でのMVP獲得は史上最年長。
日本シリーズ優秀選手賞:2回 (1987年、1992年)
月間MVP:2回 (1985年5月、1991年5月)
トリプルスリー:1回 (1989年)
サイクル安打:1回 (1989年7月13日)
9年連続シーズン30本塁打以上(1985年~1993年) ※王貞治の19年連続に次ぐ、歴代2位。
5試合連続本塁打(1985年5月19日~5月26日、1991年5月4日~5月9日)
9試合連続打点(1985年5月17日~5月30日)
5試合連続勝利打点(1987年5月16日~5月22日) ※日本記録。
2試合連続満塁本塁打(1993年8月21日~8月22日) ※史上3人目。
11試合連続長打(1994年9月17日~10月7日) ※日本記録。
シーズン30本塁打以上・50盗塁以上(1990年) ※史上初。
通算400本塁打・300盗塁達成(1999年) ※張本勲に次ぐ、史上2人目。
通算833試合連続出場(1985年4月6日~1991年6月16日) ※歴代12位。
オールスターゲーム出場:18回 (1985年~2002年) ※18年連続出場は、史上最長。
オールスターゲームMVP:1回 (1994年第1戦)
通算1000試合出場:1992年6月10日(301人目)
個人記録
初出場・初安打:1981年9月29日、対近鉄戦(日生) 7番・三塁で先発、3打数1安打
初盗塁:1984年4月2日、対南海戦(西武)
初打点:1984年4月4日、対ロッテ戦(西武) 2回、深沢から押し出し四球
初本塁打:1984年4月14日、対阪急戦(西武) 2回、森から左越ソロ
監督としてのチーム成績 [編集]
リーグ公式戦
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打 チーム
打率 チーム
防御率 年齢
2009年 ソフトバンク 3位 144 74 65 5 .532 6.5 129 .263 3.69 47歳
通算:1年 144 74 65 5 .532 Aクラス1回

ポストシーズン
年度 球団 大会名 対戦相手 勝敗
2009 ソフトバンク パ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ 東北楽天ゴールデンイーグルス
(パ・リーグ2位) 0勝2敗

背番号 [編集]
71 (1981年、2006年)
24 (1982年 - 1986年)
1 (1987年 - 2002年)
79 (2005年)
80 (2007年 - 2008年)
81 (2009年 - )
エピソード [編集]
この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2009年8月貼付)

高校時代から身体能力は抜群。入団当時の監督・根本陸夫に「オリンピックの十種競技に出場できる」と言わしめた。とにかく引っ張ってレフトスタンドに叩き込むことしか考えていないバッティングや、日本シリーズでのバック宙ホームイン(1986年・vs.広島、1990年・vs.巨人、1991年・vs.広島)などは、「チームプレーができない」「三振三振また三振」「これほど外に逃げる横の変化球に弱い選手はほかに見たこと無い」と酷評されることもあったが、秋山のバッティングは根本や後を継いだ広岡達朗による「大きく育てたい」という考えの結果である(当初はホームランバッターとして育てるか、アベレージヒッターとして育てるか、広岡も悩んだという)。
西武時代、二軍ではホームランバッターとして育成され右打ちやバント等の練習は一切しなかった。かわりに外角の球をバックスクリーンや強引にレフトへ引っ張るか、内角の球を引っ張ってレフトにホームランを打つ技術を学んでいった。本人もいかにホームランを打つかということのみを考えていた。
いわゆる「バック宙ホームイン」は、当時の地味なイメージを払拭するために「何か派手なパフォーマンスを」と考え出されたもの。文化放送ライオンズナイターの名物リポーター中川充四郎のアイデアであり、中川が番組内で秋山に約束させた(元々は「サヨナラホームランを打ったらバック宙をする」という約束だった)[1]。過去にパリーグ公式戦で2度、日本シリーズで3度の合計5度披露している。初披露は1986年の日本シリーズ「第8戦」(広島市民球場)の6回に放った同点本塁打のホームイン時で、三塁を回りながら、三塁コーチの近藤昭仁に「やっていいですか?」と許可を取ってから行っているが、この時は当時の広島方面から相当顰蹙を買うことになった。またこのバック宙の際、最後の両足の着地と同時にその足がホームベースを踏んでいるというつもりであったが、少し手前で着地してしまった為、後ずさりするような形でホームを踏んだ。その他1987年にサヨナラホームランを打った時は着地点がホームベースを通りこしていたため、前かがみで右手でホームにタッチした。1990年の巨人戦、1991年の広島戦でも披露。最後となった広島戦では、着地後尻もちをつき、以後封印することとなった。1991年のシリーズで披露したホームインはアメリカのスポーツ専門ケーブル局であるESPNのスポーツセンターでプレイ・オブ・ザ・デーで紹介されたこともある。[2]
プロ入り7年目に外野手に本格転向すると数々の好プレーを見せた。彼にしかできないプレーはチームメイトや敵チームの選手からも畏怖の対象となる。三角蹴りキャッチ(1999年・vs.中日)は、秋山の身体能力の高さを示す好例であり、今なおファンの心に残っている。身体能力が衰えだした現役終盤においてもたびたびファンを唸らせる頭脳プレーで魅せた。特に外野オーバーのあたりを平凡な外野フライと思わせて二塁走者のスタートを遅らせ得点を阻むプレーなどは、全盛期の焼き付けられた守備のイメージを利用した、ベテランのしたたかさを発揮した美技と言える。
後年は腰を痛め全盛期の派手なプレーは影を潜めたが、経験則から頭脳的なプレーを見せた。40歳になってもその守備力は健在で、敵チームを恐れさせた。当時オリックス・ブルーウェーブに在籍していたイチローも「あの歳になっても、単に打つだけの選手ではない。秋山さんのようになりたい」と語ったほか、怪童・中西太は2001年に怪我から復帰してチームプレーに徹するようになった秋山を見て「彼は老いてバッティングが上手くなった」[3]、中西とともに西鉄の黄金時代を築いた豊田泰光も1999年の日本シリーズでのファインプレー(前述の三角蹴りキャッチ)を見て「今まで見た秋山のファインプレーの中で一番凄い。37歳にして肉体が進化している、恐ろしい野球人」と評した[4]。
ダイエー時代は1番で起用されることも多く、1999年に主将に指名されたが文字通りチームを牽引した。1999年9月25日の優勝決定試合、2000年のシーズン開幕戦など通算5本の先頭打者本塁打を記録している。1999年の日本シリーズ第2戦でも川上憲伸から先頭打者本塁打を放っており、1番打者としても印象に残る活躍を見せた。
40歳を過ぎても第一線で現役を張れた理由として、豊富な練習量が挙げられる。引退後の検査で腰椎分離症と診断された腰は「普通の人だと歩けない状態(秋山談)」であったが、医師に見せたところ、秋山は腰の周囲の筋肉が人並み外れたものであるためカバーされていると言われたという(週刊ベースボール・石毛宏典との対談で明かした)。同郷の松中信彦が秋山の自主トレに同行した2000年春、既に秋山は38歳になろうとしていたが、松中がやっとの思いでこなせるほどの練習メニューを秋山は楽々クリアしていた。しかし、対談の中で、腰が悪いために「いつガタが来るか分からないので盗塁はもう怖い」と語った。腰は現役引退直後に手術しており、解説者時代にダイエーの練習を手伝った際「現役に戻ろうかなぁ」と冗談交じりに話すほど、状態は回復している。
西武ライオンズの広報を務めた鈴木恵一は「野球選手のトレーニングは甘い。肉体的な完成度は低いが、秋山だけは例外。彼ならどんなスポーツをやらせても世界でもトップを争ったでしょう」と評している。
引退してしばらく経つ現在でも強肩は健在で、引退して6年が経つソフトバンク監督就任直後の2008年秋季キャンプでも97mの遠投を見せている[5]。
花粉症持ちであり、シーズン開幕当初はスロースターターであった。花粉症の癒える5月から爆発することからミスターメイの異名をとった。秋山は月間MVPを3回獲得しているが、うち2度は5月である。
常勝軍団であった西武から弱小だったダイエーホークスに放出された秋山は、移籍当初ダイエーの選手たちに「勝ちたい」という意識が薄いことに愕然としたという。当時のダイエーの選手たちは怠惰で、藤本博史らが試合前のロッカーで将棋を指すなど、常勝西武の控え室を知っている秋山にとって、彼らの態度は信じ難いものだったという。西武からダイエーに移籍した工藤公康の著書によると、森祇晶監督時代の西武の控室は他の選手には近寄り難い緊張感があったと言われている。ただし、実は秋山も元々どちらかと言えばスロー調整のマイペース型だったと言われる。しかし、ホークスでの秋山は誰よりも練習し背中で選手を引っ張ることを自らに課すことになる。ホークスに移籍したことで、一選手としての秋山も生まれ変われたともいえる。
秋山がホークスで打った本塁打は437本中109本であり、またフォア・ザ・チームに徹してバッティングスタイルを変えたのでもない。彼の背中を見て小久保裕紀が育ち、さらに後を追うように松中信彦、城島健司、斉藤和巳、井口資仁など後の強豪ホークスを支える選手たちが育ち、現在の若手選手は彼らを手本として練習に励む。小久保は現在も「尊敬する野球人は王監督に秋山さん」と語っている。
ダイエー時代、足の打撲で試合を途中退場した際、宿舎で王貞治監督から馬肉の差し入れがあった。王は「馬肉のスライスを患部に貼って腫れを引かせ、翌日元気にプレーする姿を見せてほしい」という気持ちで差し入れたのだが、秋山の出身地である熊本県は馬刺しが名物であることから、秋山は「監督から馬刺しを差し入れてもらった」と勘違いしてしまい、食べてしまった。次の日には腫れも引いており、秋山は試合にも出場したという。
後輩や裏方を大事にする選手であった。ヒーローインタビューにおいても「○○がよく投げていたから」「○○がよく繋いでくれたよ」などの人を立てるコメントが多く、それらのことから「覇気がない」という印象を与えることもあった。しかし、これが秋山が後輩らに慕われる所以である。引退を発表した2002年8月26日も「他の若い選手の邪魔になるから」という理由でシーズン途中での登録抹消を申し出、他の選手が球場入りする前に会見を済ませ、すぐに自分のロッカーを整理した。球場に到着して秋山の引退を知り、空っぽになったロッカーを見てショックを受けた選手もいたという。
俳優の松村雄基やタレントの長江健次は親友。松村はRKBテレビで放送された秋山引退記念番組のナレーションを務めた。
2003年11月21日、福岡県築上郡椎田町(現・築上町)の椎田中学校体育館落成式の記念講演に数学者の秋山仁を呼ぶはずだったが、依頼側の手違いで当日に秋山幸二が訪れるという珍事が起こる。依頼者側も驚きながらも講演会を中止する訳にもいかず、秋山幸二に事情を話し、断られるのを覚悟で「よければ講演していただけませんか」と要請すると(事情を了解した上で)講演を引き受ける。当日の講演内容は『私と野球人生』に急遽変更されるが、ホークスの地元・福岡県に住む生徒にとって中心選手だった秋山幸二の登場はこれ以上ない「嬉しいハプニング」だったと伝えられている。後日、京都大学で講演を行った秋山仁は、壇上に上がると「こんにちは、秋山幸二です」と言って聴衆を笑わせている。
秋山には兄がいたが、秋山の生まれる1年前に日射病のため、7歳で夭折している。そのため両親は秋山が生まれた時に「この子には兄の分まで2倍幸せになってほしい」と願い、「幸二」と名付けたという。
現夫人との間に長女と長男が生まれたが、長男を病気で亡くしている。
著書 [編集]
『卒業』(2003/7 西日本新聞社 ISBN 4-8167-0576-7)
出演CM [編集]
国民年金基金
サンコー
解説者としての出演番組 [編集]
THE BASEBALL 野球烈闘
RKBエキサイトナイター
TBSラジオ ザ・ベースボール
文化放送ライオンズナイター - ゲスト解説
関連項目 [編集]
熊本県出身の人物一覧
埼玉西武ライオンズの選手一覧
福岡ソフトバンクホークスの選手一覧
脚注 [編集]
^ 【スポーツ群像】仰天! 他局のマイクでリポートも ライオンズナイター・中川充四郎さん卒業裏話(MSN産経ニュース)
^ 1991年10月30日午後版スポーツセンター参照。
^ RKB野球中継にて
^ 週刊ベースボール内の自身のコラムより
^ 2008年11月2日付西日本スポーツ

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