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2000年03月10日 の記事一覧

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清水将海

清水 将海(しみず まさうみ、1975年1月9日 - )
中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(捕手)。


経歴
自身の名前「将海」の由来は、父親の「川の源流となる清水が将来大海に流れ出るかの如く、寛大な人間に成長するように」という願いにより、姓にも引っ掛けて命名された(これは落語家の5代目三遊亭圓楽=本名:吉河 寛海=の命名の由来に相似している)。

青山学院大学では同期の井口忠仁、澤崎俊和、倉野信次、1学年下の高須洋介らと共に黄金時代を築く。

1996年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから1位指名をされて入団。当時の背番号は8(当初、大学時代と同じ背番号22となる予定であったが、定詰雅彦の阪神タイガース移籍で空き番となった8へ変更された)。同僚に清水直行がいたため呼び名は区別して「清水将」。清水直行は同様に「清水直」で、これは清水将海が中日に移った現在も使用され続けている。

ルーキーイヤーであった1997年の開幕戦で小宮山悟とバッテリーを組み完封勝利を挙げる。以降は中日ドラゴンズから移籍してきた、打撃の良い吉鶴憲治と併用され、打撃の弱さを守備面でカバーして現在活躍する投手陣の発展期を支えた。2001年には、吉鶴、橋本将、椎木匠等との争いに勝利し、正捕手に定着した。2002年の日米野球に小林雅英(現クリーブランド・インディアンス)と共に出場し、3打数3安打と活躍した。

2003年、背番号8を中日から酒井忠晴との交換トレードで移籍してきた波留敏夫に譲り、自身は27に変更したが、シーズンでは圧倒的な打力を武器に台頭した里崎智也にレギュラーを奪われてしまう。シーズンオフにはボビー・バレンタイン監督が9年ぶりに就任。彼の構想は里崎と、里崎同様に打撃の良い橋本を相手チームの先発投手に合わせて起用するものであり、事実上の「構想外」となってしまった。

2004年オフに、山北茂利(現横浜ベイスターズ)との1対1の交換トレードで中日ドラゴンズに移籍。背番号は50。

2005年は谷繁元信という名捕手の存在などにより、初の一軍出場無しに終わった。2006年にようやく一軍出場を果たし、日本シリーズの出場資格者にも選ばれた。2007年からは背番号を39に変更。移籍後初となる開幕一軍入りを果たし、移籍後初スタメンを果たすなど力は戻ってきており、谷繁元信、小田幸平に次ぐ第三の捕手としてではあるものの一軍に留まる。シーズン終盤には一軍登録を抹消されたが、前年同様日本シリーズの出場資格者にも選ばれ、同年のアジアシリーズにも出場した。

2008年は開幕直前に右手親指を骨折する怪我により出遅れる。その後復帰し、第一捕手の谷繁、第二捕手の小田の相次いだ怪我により出場機会を増やし、立浪和義の代走としても起用されたが、8月終盤に登録抹消され前年よりも出場試合数は減少した。同年、国内FA権を獲得。

2009年は春季キャンプ、オープン戦も一軍に帯同するも開幕は二軍スタート。その後、谷繁元信が故障したため一軍登録されるが、小田、北海道日本ハムファイターズから移籍してきた小山桂司がマスクを被ることが多く、小川将俊に代わるように再び二軍に降格し、結局4月9日の1試合のみの出場に終わった。

背番号
8(1997年 - 2002年)
27(2003年 - 2004年)
50(2005年)
39(2006年 - )

個人記録
初出場:1997年4月5日、日本ハム戦(東京ドーム) - 9番捕手で先発出場
初安打・初本塁打・初打点:同上、7回関根裕之からソロ




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