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2000年07月02日 の記事一覧

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中嶋聡

中嶋 聡(なかじま さとし、1969年3月27日 - )
北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(捕手)。2007年からバッテリーコーチを兼任している。
愛称は「サメ」。妻はモデルの中嶋愛。


経歴

阪急~オリックス時代
秋田県立鷹巣農林高校から、1986年のプロ野球ドラフト会議で阪急ブレーブスに3位指名され入団。

1988年10月23日、阪急としての西宮球場最終戦にて、ダメ押しとなる3ラン本塁打を放ち、同郷である山田久志の引退試合に花を添えた。

1989年に球団名がオリックス・ブレーブスに変わってからは、正捕手だった藤田浩雅の不調により正捕手を獲得。球界随一の強肩もさることながら、優れた打撃センスも持ち合わせていたため、一時は「メジャーリーグに一番近い捕手」とまで言われた。四番打者を務めたこともある。しかし、90年代中盤あたりから徐々に打撃が低迷し、藤田とのトレードで読売ジャイアンツ(巨人)から移籍してきた高田誠や三輪隆との併用となっていった。

1990年10月6日の対ロッテオリオンズ戦では、満塁でインフィールドフライをわざと落球し併殺を狙ったが、逆にロッテに点を与えてしまった

西武・横浜時代
1997年オフ、フリーエージェント宣言し、メジャーリーグ挑戦を表明。アナハイム・エンゼルスの入団テストを受けたが、エンゼルス側がマイナー契約を提示したためメジャーリーグ移籍を断念し、西武ライオンズに移籍。正捕手の座に挑むも、長年西武一筋で信頼感のある伊東勤に勝つことは出来なかった。その後、1999年に入団した松坂大輔専用の捕手として起用されることが増えたが、打撃の低迷に加えて西武が若手捕手育成の方針を取ったため次第に出場機会が減少していった。

2000年に和田一浩と背番号を交換したが、中嶋によると「(当時の)背番号5は、捕手の番号でない様な気がするから」という理由により、当時は捕手登録ながら、既に外野手としての出場が多かった和田に持ちかけたものだという。また、同年5月20日に長野オリンピックスタジアムで初めて行われたプロ野球公式戦の対オリックス戦で、2回裏に同スタジアムの公式戦第1号本塁打を左翼スタンドに放っている(投手はテリー・ブロウズ)。

2002年には大半を二軍で過ごし、同年オフに石井義人と細見和史との交換トレードで富岡久貴と共に横浜ベイスターズへ移籍。2003年の開幕戦では先発マスクを被ったが、故障もあり結果を残せないままオフに金銭トレードで北海道日本ハムファイターズに移籍した。

日本ハム時代
2004年9月、横浜球団のキャンペーンガールをしていたモデルの制野愛(現在は中嶋愛)と入籍。

2005年は当初3番手の控え捕手のはずだったが、正捕手高橋信二の度重なる故障と實松一成の不調もあり、捕手でチーム最多の出場機会を得た。

2006年は先発出場は僅か2試合と激減したが、ストッパー・マイケル中村との相性の良さから、試合後半を任される「抑え捕手」の地位を獲得。以後、マイケルが巨人へ移籍する2008年シーズン終了までマイケルの専属捕手のような状態だった。結局、2006年は捕手としてはチーム最多の79試合に出場し、チームのリーグ優勝と日本シリーズ優勝に貢献した。また、6月19日の対阪神タイガース戦の試合前に行われたスピードガンコンテストで球速146km/hを叩き出し、中嶋より遥かに若い阪神・日本ハムの選手達を抑え優勝。強肩健在ぶりを大いにアピールした。

2007年からは選手と一軍バッテリーコーチを兼任。開幕直後に一軍登録を抹消されるも、調子の上がらないマイケルをサポートするため再度昇格し、そのまま最後まで一軍で抑え捕手として活躍。2008年も、シーズン後半からではあるが再度一軍昇格し、抑え捕手を務めた。また、不調に陥った多田野数人をサポートする為に、1試合のみではあるが2年ぶりに先発出場を果たした。

2009年は大野奨太の入団とマイケルの巨人への移籍があって、捕手は鶴岡慎也と大野の併用が多くなったために出場機会が無かった。7月18日に一度登録されるも、試合の雨天中止により、出場しないまま登録抹消された。しかし大野がインフルエンザに感染した為8月16日に急遽一軍登録され、その日の対埼玉西武ライオンズ戦(札幌ドーム)の9回からマスクを被ってシーズン初出場を果たした。この試合に出場したことで実働23年になり、捕手としては野村克也に次ぐ歴代2位タイとなった。また、8月21日の対福岡ソフトバンクホークス戦では、ダルビッシュ有の先発捕手として出場し、自身も1安打を放った。

10月初旬に、2010年も選手兼任コーチとしての契約を行う事が決まった。

人物
アマチュア球界でも中嶋の強肩は知れ渡っていて、古田敦也(当時トヨタ自動車硬式野球部)がプロ野球ドラフト会議の指名候補選手になった際、レギュラー獲りへの不安からか「中嶋選手のいるオリックスだけは遠慮したい」と語っていた。

1990年9月20日の日本ハム戦(東京ドーム)で、星野伸之が田中幸雄に投じた球を素手(右手)で直接捕球した。星野は、90km/hを下回るスローカーブが持ち球の、球速が遅いことで有名な投手である。さらにこれをそのまま140km/h近い剛速球で投げ返したこともあって両軍ベンチで大爆笑が起こり、ベンチに戻った星野は中嶋に激怒している。この「素手キャッチ」は星野が投球練習をする時にもしばしば見られたことである。当時は、「星野が中嶋に投げる球より、中嶋が星野に返球する球の方が速い」とまで言われていた。

普段は近視のためコンタクトレンズを着用しているが、2005年シーズンの一時期だけ眼鏡を掛けてプレーしていた。

表彰
ベストナイン:1回(1995年)
ゴールデングラブ賞:1回(1989年)
最優秀バッテリー賞:1回(1995年、投手は平井正史)
オールスターゲーム出場:6回(1989年、1990年、1991年、1995年、1996年、1999年)

記録

初記録
初出場・初先発出場
1987年10月18日、対南海ホークス26回戦(阪急西宮球場)に八番・捕手として先発。
初安打
1988年4月30日、対ロッテオリオンズ4回戦(阪急西宮球場)。投手は仁科時成。
初本塁打・初打点
1988年6月22日、対西武ライオンズ13回戦(西武ライオンズ球場)で本塁打を打った。投手は森繁和。
初盗塁
1988年7月4日、対日本ハムファイターズ7回戦(東京ドーム)。

通算記録
通算1000試合出場
1999年6月26日、対福岡ダイエーホークス15回戦(西武ドーム)に出場して達成。史上351人目。

その他記録
日本シリーズに3球団で出場し安打
2006年10月22日の中日ドラゴンズとの日本シリーズ第2戦(ナゴヤドーム)の9回表に右前安打して達成。過去、オリックス、西武時代にも日本シリーズに出場し、安打を打っている。3球団での出場は史上7人目だが、3球団での安打は史上初。

登場曲
スキマスイッチ『奏(かなで)』

背番号
53(1987年~1988年)
27(1989年~1997年)
5(1998年~1999年)
22(2000年~2002年)
35(2003年)
32(2004年~)



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