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2000年07月16日 の記事一覧

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多田野数人

多田野 数人(ただの かずひと、1980年4月25日 - )
北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(投手)。東京都墨田区出身。


経歴
高校・大学時代~渡米
高校3年の夏、千葉県予選では4回戦以外無失点で抑える活躍(防御率0.23)で、チーム打率.196(甲子園出場校の中では地方大会最低打率)の八千代松陰高等学校を甲子園(第80回大会)に導いた。本大会は初戦でPL学園高等学校に敗れた。

立教大学時代には松坂世代の1人として和田毅(早稲田大学)、土居龍太郎(法政大学)、長田秀一郎(慶應義塾大学)、一場靖弘(明治大学)らと投げ合い、大学通算56試合で20勝16敗、防御率1.51、奪三振334(通算5位)の成績を残す。特に和田とは全日本選抜でチームメイトとなり現在も親交がある仲だが、この2人は「右の多田野、左の和田」と並び称されるほど高い注目を浴びる存在だった。また、上重聡(日本テレビアナウンサー)は同じ立教大学の同期生で同じ投手として野球部のチームメートになり、共に戦った。上重とは現在も親交があり、一緒に野球の観戦などもしている。

東京六大学野球リーグ屈指の右腕投手と高く評価され、プロ野球ドラフト会議での上位指名は確実と見られていたが、後述のスキャンダルにより日本球界での指名を受けることなく渡米。各球団の入団テストを受け、2003年にクリーブランド・インディアンスとマイナー契約をした。

米球界時代
1Aからスタートした2003年シーズンには3Aまで昇格し、翌2004年4月24日(現地時間)には日本人21人目のメジャー昇格を果たした。日本でのプロ球界を経ることなくメジャー昇格した日本人選手は、マック鈴木に続き2人目である。7月2日(現地時間)のシンシナティ・レッズ戦ではメジャー初先発初勝利を挙げた。2005年シーズンまでの2年間で主に中継ぎとしてメジャー15試合に登板した。しかし、メジャー契約の選手が故障者リスト入りなどしたときの代わりとして使われるだけであった。

2006年4月1日(日本時間)付でインディアンスから戦力外通告を受けたが4月4日(日本時間)にはオークランド・アスレチックスとマイナー契約を結び、メジャーへの挑戦を続けた。同年のシーズン終了後には日本へ戻り、9月22日から10月12日まで四国アイランドリーグにスポット参戦した。所属チームは徳島インディゴソックスだった。

2007年も引き続きアスレチックスとマイナー契約。2Aと3Aで19試合に登板し、8勝7敗・防御率4.86・奪三振133の成績を残すとともに3Aサクラメント・リバーキャッツがパシフィック・コーストリーグで優勝した時の胴上げ投手ともなったが、10月17日に解雇された。アスレチックスに所属した2年間でのメジャー復帰は叶わなかった。

日本プロ野球時代
2007年11月19日に開催されたプロ野球ドラフト会議(大学生・社会人ほか対象)で北海道日本ハムファイターズから1巡目指名を受けた。大場翔太(東洋大学)と服部泰卓(トヨタ自動車)の交渉権獲得に相次いで失敗した後の指名であった。契約金6000万円、新人としては異例の年俸3000万円で契約した。

2008年1月6日、都内でランニング中に転倒し左手首を骨折。1月18日、破片状になった骨の回復手術を受ける。シーズン開幕まで2ヶ月以上のリハビリ及び調整を行い、同年5月2日に一軍登録。その日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で先発し、7回を被安打1、失点0に抑え、日本球界初登板で勝利投手となった。その後もローテーション投手として好投を続け前半戦で6勝を挙げたが、8月以降の防御率は8点台と不調で、後半戦は1勝しか挙げられなかった。被本塁打の多さや、一度好投した相手でも二度目以降の登板では崩れる場合が多いことが課題として残った。

2009年7月10日の千葉ロッテマリーンズ戦ではロッテ打線を9回二死まで無安打に抑えていた。大松尚逸に安打を打たれノーヒットノーランは逃したが、初の完投と完封を達成した。

人物・プレースタイル
大きく振りかぶりながら最終的に野手のような手投げで投げる、ギクシャクした独特の変則フォームを駆使する。これは、股関節など体の硬さに由来し、投球時の踏み出しが普通の投手ならば6~7足分のところ、多田野は4足分程度であり、突っ立ったままのようなフォームである(それが故に、どの球種を投げるのか予測が付かない特徴がある)。しかし体の軸がしっかり一定しているため、コントロールが安定している。ボールを離すぎりぎりまで体が開かない特徴もある。総じて体の回転よりも後ろから前へ手を突き出す独特のフォームはアメリカで会得したという。高校時代に指導者からフォームを直すように言われたことがあった。大学時代は「最速153km/hの本格派」などと言われていたが、メジャーリーグから帰ってきたときは最速140km/h程度で、どのボールも微妙に揺れて芯やタイミングを外す、というメジャーリーグ特有の投球術を身に付けてきた(ただし球速が落ちたのは左手首が完治しておらず投球の際に上手く折り畳めないためであり、完治後は最大145km/h程度出るようになった)。

球種はスライダー、ツーシーム、チェンジアップ、フォークボールなど。サインは5種類と明かしている一方、後述のスローボールにもサインがあると語っている。特にスライダーは切れ味が鋭く、鬼スライダーとも呼ばれる。チェンジアップは数種類投げ分け、もっとも遅いものは球速90km/h台である。

他に大きな山なりの弧を描く、60~70km/hの超スローボール「ただのボール」を持つ。メジャー時代、アレックス・ロドリゲスに対して投げ、三塁手へのゴロに討ち取ったこともある。日本でも2008年6月18日のセ・パ交流戦・広島東洋カープ戦(広島市民球場)でスコット・シーボルに対して用い、遊撃手へのゴロに打ち取った。本人によると「流れを変えたかった」。このときはテレビカメラの撮影範囲外まで投球が上がり、「消える魔球」と呼ばれてスピードガンによる計測も出来なかった(広島市民球場の球速表示では107km/hと出たがそれを下回る速度なのは明らかであり、誤作動してしまったものと思われる)。なお、この時の球速は同年6月19日放送の『イチオシ!』(北海道テレビ放送)と『プロ野球ニュース』(スカイパーフェクTV!・フジテレビ739)においては約40km/h、同日放送の『スーパーJチャンネル』(テレビ朝日系)では48km/hという計算結果を出した。テレビ番組で多田野が特集される際には、この場面の映像が頻繁に使用されている。また、2009年4月21日の福岡ソフトバンクホークス戦(東京ドーム)においても松中信彦に対して「流れを変える」べく投じているが、このときは見送られ、その打席では本塁打を打たれている。

四死球がやや少ないことや、球質が軽いためか外国人選手などパワーのある相手に長打を打たれやすいことも特徴として挙げられる。また、ボーク癖がどうしても治らず、度々ボークを取られる場面が見受けられる。2008年5月16日のソフトバンク戦では1試合3ボークを記録している。1年目のシーズンオフに『FFFFF』(北海道テレビ放送)のインタビューにて「セットポジションの静止の基準でアメリカとの違いを大きく感じ、戸惑った」と語っている。このボーク対策として、2009年シーズン序盤、2軍にいる際にセットポジションのスタイルを変えた。それ以前は顔前にグラブを掲げる静止方法だったが、現在では腰の前にグラブを固定する静止方法にしている。

しかし、近年では二軍戦初登板を観戦した東北楽天ゴールデンイーグルスのスコアラーが「どんな球種を投げているのか分からない」とコメントしたことがあるように、調子が良好な時にはこれを活かしたピッチングで無類の強さを発揮するようになり、上記2009年7月10日には完投かつ完封勝利投手となった。

エピソード
生まれたときから異常に体が固く、そのことが現在の下半身の力を使わない独特の投球フォームを生み出す原因にもなっている。また子供の頃は相撲もやっていたが、体が固いため股割りは全く出来なかった。
将棋でよく「待った」を出すことから、チームメイトからは「待っ多田野」と呼ばれることがしばしばある。
同僚では藤井秀悟と仲が良く、しばしばブログに顔を出している。

記録

初記録(日本プロ野球)
投手記録

初登板・初先発登板:2008年5月2日、対東北楽天ゴールデンイーグルス9回戦(札幌ドーム) - 先発
初奪三振:同上 - 3回表二死、打者:渡辺直人
初勝利:同上
初完投・初完封:2009年7月10日、対千葉ロッテマリーンズ9回戦(札幌ドーム)
打撃成績

初安打:2008年5月29日、対東京ヤクルトスワローズ2回戦(明治神宮野球場) - 5回表無死、投手:石川雅規

その他記録
9回二死で逃したノーヒットノーラン
上記2009年7月10日の試合。多田野は9回表二死までロッテ打線を無安打(四球4、味方野手の失策による出塁1)に抑えていたが、31人目の打者・大松尚逸に安打を打たれノーヒットノーランを逃した。日本プロ野球では通算23例目、パシフィック・リーグでは10例目(8人目)。

背番号
32(2004年 - 2005年)
16(2008年 - )

スキャンダル
2002年の夏ごろからネット掲示板や週刊誌で「ゲイビデオに多田野そっくりの男が野球部の後輩たちと出演している」との噂が流れ、立教大学野球部の監督が事実を認めた。

この頃、多田野はプロ野球ドラフト会議の目玉選手の1人とされていて、自由獲得枠での獲得を目指した複数のプロ球団による争奪戦が展開されていた。特に有力視されていたのは横浜ベイスターズだったが、直前で指名を回避し、その理由を「諸般の事情を総合的に検討した結果」と説明した。その後、福岡ダイエーホークスが獲得に乗り出すなどの動きもあったが、同年秋のプロ野球ドラフト会議ではどの球団も多田野を指名しなかった。当時のスポーツメディアは、その理由を「故障のため指名回避」と伝えた。これには、同会議直前に多田野が右肩と右肘の治療を理由にインターコンチネンタル杯出場を回避していた事実も関係している。

2004年にメジャーデビューするも、アメリカでもゲイビデオ出演の過去が伝えられた。同性愛については日本に比べて理解のあるアメリカではあるが、同じロッカーで着替えもシャワーもオープンという米国スポーツ界では依然としてタブーであり、米国4大スポーツ(MLB、NFL、NBA、NHL)で現役時代に同性愛者と告白した選手は過去になく、多田野はゲイビデオ出演についてコメントが迫られた。2004年1月23日に記者会見で「大学時代に(そのような)ビデオに出たことがあり、今はとても後悔しています。当時は若くお金が必要でした。たった一度の過ちであり二度と同じ間違いはしません」「僕はゲイではありません。これだけははっきりと真実を伝えたかった」と説明した。

この釈明を経て多田野はチームメートに受け入れられ、アメリカで野球をプレーし続ける道を得ることになった[9]。横浜が多田野の指名を回避した当時、ゲイビデオ出演について報道しなかった日本のメディアも、この会見をきっかけとして真相を報道するようになった。

登場曲
フォール・アウト・ボーイ『Beat It feat. John Mayer』



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