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2000年07月06日 の記事一覧

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二岡智宏

二岡 智宏(におか ともひろ、1976年4月29日 - )
北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(内野手)。


経歴

プロ入り前
広島県三次市出身。阪神タイガースの福原忍と小学校から高校(広陵高等学校)までチームメイトであった。

1993年(広陵高校2年生時)の秋、翌春の選抜高校野球大会の実質的な予選となる広島県秋季大会に出場。同大会の準決勝を応援に向かった父を交通事故で亡くす。この経験からプロ入り後、親が交通事故に遭った小・中学生を試合に招待する活動を行うことになる。1994年(3年生)には福原との二枚エース兼遊撃手のレギュラーとなる。この年の広陵高校は高校野球大会広島県予選の優勝候補筆頭であったが、新井貴浩のいた広島工業高校に敗れた。

高校卒業時にプロからの誘いもあったが、元々進学希望であったのでこれを断り、実家に近い近畿大学に進学した。

大学では1年生時からレギュラーとなり、7期連続ベストナイン、リーグ通算歴代1位の13本塁打、歴代2位の通算112安打を記録し、藤井彰人らと共に大学日本一など多くのタイトルを獲得。1997年には春・秋のリーグ戦、大学選手権、明治神宮野球大会、社会人選手権優勝チームとのアマ王座決定戦の全てで優勝し、史上初のアマチュア五冠達成の原動力となった。同年8月にはIBAFインターコンチネンタルカップに日本代表として出場、優勝メンバーの一員となる。

1998年には、二岡の獲得を巡って地元球団の広島東洋カープのほか、阪神、巨人が争うこととなった。広島は地元出身の二岡を高校時代から評価しており、希望入団枠制度枠で二岡以外の選手獲得には動かない姿勢を見せた。阪神は二岡が地元関西の近畿大学在学とあって、春先に1位指名を表明。この後松坂大輔指名にも動いたが断念し、再度二岡指名を表明した。だが最終的には二岡は2位指名が確実であった巨人(上原浩治の1位指名を予定していたため)を逆指名した。この選択は広島への入団を期待していた地元からの反感を買い、批判があった。入団経緯に関して二岡の母は、本人が「自分では決められない、くじで決めたいぐらいだ」と言うほど悩んでいたこと、「広島を拒否」などと身に覚えのない発言や契約金を巡った憶測を記事にする報道に対して本人がそれまでに見たことないほど怒っていた事、広島をひっそりと出発せざるを得ず「何も悪い事をしていないのに」と複雑な気持ちだったことを自著の中で明かしている。

プロ入り後

巨人時代
ルーキーイヤーの1999年、長期にわたり巨人の遊撃手のレギュラーだった川相昌弘からポジションを奪取。126試合に出場し打率.289、18本塁打の成績を残した。例年ならば新人王に選ばれても決しておかしくない活躍だったが、同期入団の上原浩治が20勝を挙げるなど投手主要タイトルを総ナメにしていたため、新人王は上原に譲った。

2000年シーズン序盤から右手親指の故障に苦しみ、118試合に出場したものの規定打席には大きく届かなかった。シーズン後半には優勝争いをしていたチームに復帰し、7月16日のヤクルト戦でサヨナラ本塁打、8月31日の阪神戦ではチーム7本塁打のうちの1本を打つなど活躍する。さらに、優勝マジックを1として迎えた9月24日の中日戦、0-4で敗色濃厚だった9回裏に江藤智が満塁本塁打を放って同点に追いついた直後、2者連続となる二岡のサヨナラ本塁打で巨人の4年ぶりセントラル・リーグ優勝を決めた。

2001年は、開幕直後からスランプに陥った上に7月19日の阪神戦で左手有鈎骨を骨折するなどで苦しみ、元木大介との併用が続いて結局86試合出場に留まり、打率も.233、5本塁打と低調な成績だった。

2002年、二番打者として定着し、一番に固定されていた清水隆行との一・二番コンビを形成、112試合に出場し3年ぶりに規定打席に到達するなど巨人のリーグ優勝に貢献した。また、この年24本塁打を放ち、巨人の遊撃手の20本塁打越えは球団初だった。同年秋の西武との日本シリーズでは、シリーズ史上初の3戦連続猛打賞、第1戦の第2打席から第2戦の第2打席まで5打席連続安打(1977年の土井正三と並んで日本シリーズ歴代3位、球団タイ記録)、第3戦では満塁本塁打を放つなど4試合通算で19打数9安打(打率.474)5打点の大活躍で日本一に貢献し、日本シリーズMVPに輝いた。

2003年は、5月15日、横浜戦で自身初の1試合3本塁打を記録。故障者が多発する中、自身初の全試合出場を果たし、リーグ最多の573打数を記録。最終的に打率でも初の3割越え、自己最多の29本塁打、67打点、14盗塁を記録してベストナインを受賞し、充実したシーズンとなった。

2004年、春季キャンプ中の紅白戦で左足を故障。故障者続出のチーム事情から調整不十分での出場を余儀なくされ、結局91試合出場、打率.269、88安打、9本塁打の成績に留まった。足痛の影響で、前年14個だった盗塁がプロ入り後初の0に減少した。またこの年より、交通事故によって親が死亡或いは重い障害を負った小、中学生を試合に招待する『二岡ボックス』の実施を始めた。

2005年は、139試合出場を果たし、打率.301、162安打を放つものの開幕から40試合本塁打がなく、最終的に16本塁打に留まった。41試合目に出た1本目の本塁打はソフトバンク戦(福岡)で打ったランニングホームランだった。安打は量産を続けて自己最高の打率を更新し、2年ぶり2度目の3割を記録。8月30日~9月29日まで22試合連続試合安打を記録。オフの12月18日、元フリーアナウンサーの用稲千春と結婚した。

2006年4月30日の中日ドラゴンズ戦で日本プロ野球初の2打席連続満塁本塁打を含む3本塁打10打点を挙げた。6月8日の福岡ソフトバンク戦で、前日に負傷した李承に代わり、球団第71代目の四番打者として先発出場。巨人の生え抜き選手での四番打者は高橋由伸以来7年ぶりであり、巨人の「四番・遊撃手」は1961年の長嶋茂雄以来35年ぶりであった。その後も安定した成績を残し、終盤に膝痛を発症しながらも試合に出場し続け、Bクラスに低迷するチームで唯一全試合出場と気を吐いた。

2007年は、開幕戦こそ怪我で欠場したものの、4月1日の横浜3回戦でシーズン初出場。その後は大きな怪我もなく主力として優勝に貢献。打順は主に五番を打つことが多く、打率.295、20本塁打、自己最多となる83打点を挙げた。

2008年、高橋由伸に代わり第15代目巨人軍選手会長に就任。同年の開幕戦に出場するものの、試合中に右ふくらはぎを肉離れし、翌日より二軍での調整が続いた。約4ヵ月後の7月20日の横浜戦で一軍復帰するも、本職である遊撃手の位置は完全に坂本勇人に奪われていたため、三塁手にコンバートされ(不慣れな守備面のネックもあり対左投手用の先発として)出場することとなった。 9月14日には右足首捻挫で再び二軍落ちし、ポストシーズンに出場することなくそのままシーズンを終えた。この年は打率こそ例年並みの.279を保つが、自己ワーストの31試合出場、1本塁打、7打点と不本意なシーズンとなった。

11月14日、マイケル中村・工藤隆人との交換トレードで林昌範と共に北海道日本ハムファイターズへ移籍。なお、巨人の選手会長の任期1年での解任と現役選手会長がトレードに出されたのは、共に球団史上初めての事であった。

北海道日本ハム時代
11月25日に札幌市内で入団会見を行った。背番号は本人から「7以外ならなんでもいい」という要望があり、23に決まった。

春季キャンプでは足の故障の影響で中盤から別メニューで調整し、終了後は二軍で調整していたが、3月11日に中田翔に代わって一軍昇格。3月14日の札幌ドームで行われた中日とのオープン戦で試合途中に移籍後初出場。また、3月17日に東京ドームで行われた古巣巨人とのオープン戦では移籍後初安打を放った。

シーズンが始まると、4月4日の対楽天戦(札幌)で移籍後シーズン初安打を放ち、4月7日の東京ドームで行われた対千葉ロッテ戦で移籍後初本塁打を放つ。

同僚の糸井嘉男は近畿大学の、稲田直人、吉川光夫は広陵高校の後輩にあたる。


プレースタイル

打撃
細身だが柔軟な手首を利かした打撃でライト方向へ大きな打球を飛ばすことができる。巨人時代には「ミスター右中間」の異名をとった。星野仙一日本代表監督からも右打者でライト方向に本塁打が打てる数少ない打者と評価され、北京五輪予選の代表の第一次選考にも選ばれた。

ルーキーイヤーから2007年まではコンスタントに2割8分20本塁打をマークする遊撃手であった。長嶋茂雄監督はその身体能力、潜在能力の高さを期待して「いつか3番打者を打ち、3割30本30盗塁を記録する」と発言した。ボールを振り切ることから脚力のわりに併殺打が非常に多く、主軸打者でなかったためか犠飛が少ない。原辰徳監督にも将来の主軸として期待された選手のひとりであったが、クリーンナップを打つようになった2007年には1死満塁で代打を送られ、「代打ということを感じさせない二岡になってほしい」といった趣旨の発破をかけられている。

近年はかつての俊足はやや影を潜めているものの、2005年にはランニング本塁打を放っている(右中間の打球を右翼手・出口雄大がダイビングキャッチを試みるも失敗)。

守備
プロ入り後のキャリア初期においては俊足と強肩を生かした遊撃守備を見せた。しかし、下半身の度重なる故障により徐々にスピードも衰え、守備範囲がやや狭くなっていった。2006年や2007年は井端弘和に匹敵する打球を処理し、華麗なダイビングキャッチや強肩で幾度となく投手陣を助けたものの、2008年には坂本勇人に遊撃手のレギュラーポジションを奪われた。同年からコンバートされた三塁守備では、当初は不慣れでエラーが多かったが、技術の向上が見られた。移籍した日本ハムでは金子誠、小谷野栄一が共に打撃好調であることもあり、専ら指名打者として出場している。

人物
小学校から高校まで福原忍(阪神タイガース)と同窓であり、中学校までは福原ではなく二岡がエースだった。

1993年10月2日、高校2年生の秋に広島県秋季大会の準決勝が行われたが、当日三次市の自宅から広島市まで応援に向かった両親が交通事故に遭う。二岡は準決勝戦の終了後に病院に向かったが、母親は無事だったものの父親が意識不明であることを知らされる。当日夜は父に付き添い、10月3日の決勝戦へ臨むこととなった。決勝戦は広島商業高校と対戦し9回裏二死まで8-0とリード、福原忍が完封目前であったが中井哲之監督の配慮で二岡が登板、3球三振で試合を決めた。父親は10月7日に他界。

実兄も広陵高校野球部に所属し、1991年の第63回選抜高等学校野球大会の優勝メンバーだった。

2003年オフに、それまで個人シートを設置していた川相昌弘が中日ドラゴンズへ移籍したこと、打率.300、29本塁打の好成績、ベストナイン受賞、年俸1億円突破などの功績で主力選手と認められたことで、2004年シーズンより二岡の自費によって観客を招く『二岡ボックス』の設置が球団から許可された。この二岡ボックスは、本人の「交通事故によって自分と同じような境遇にある子供たちに僕のプレーを見てもらいたい」という希望により、交通事故で親が死亡ないし重い後遺症を背負った小・中学生を対象に、東京ドームで開かれる巨人主催のプロ野球公式戦の全試合に各試合4人ずつを招待する(チケット並びに交通費など観戦費用の補助も含む)ための席として設けられる。二岡ボックスの実施により2004年11月には独立行政法人自動車事故対策機構から感謝状を贈呈されている。

グラウンドや打席ではポーカーフェイスを貫いている。これは中学・高校時代の「野球選手はグラウンドで歯を見せるな」教えを守っているものという[2]。

二軍調整中の2008年7月6日に、アナウンサーでタレントの山本モナと合コン後にラブホテルに出入りしていたことが明らかになった。この年の二岡は開幕直後に怪我で二軍落ちしており、復帰直前と目されていた最中の出来事だった。これにより一軍復帰も急遽見送られた。反省の意を含めてかトレードマークでもあった長髪を丸刈りにし、7月20日に改めて一軍に合流した際には謝罪会見を行った。同年オフでの、異例の選手会長放出ついては、ケガや若手の台頭ということもあったが、このことによる「左遷ではないか」とネットで話題になった。

表彰
ベストナイン:1回(遊撃手部門:2003年)
日本選手権シリーズ最優秀選手:1回(2002年)

記録
巨人の遊撃手として初の20本塁打以上
2002年。その後2003年、2006年、2007年の計4度記録している。
2打席連続満塁本塁打 (2009年現在、日本プロ野球史上唯一)
2006年4月30日、対中日ドラゴンズ6回戦(東京ドーム)の第三打席(4回裏)、第四打席(5回裏)で記録。相手投手はそれぞれ石井裕也、クラウディオ・ガルバ。1試合2満塁本塁打はプロ野球史上2例目で、1951年10月5日の飯島滋弥(大映スターズ)と並び史上最多、セ・リーグでは初。
1試合10打点
上記2006年4月30日の試合で記録。セ・リーグ最多タイ。1985年8月10日のレオン・リー(横浜大洋ホエールズ)、1999年7月22日のロバート・ローズ(横浜ベイスターズ)、同8月12日の江藤智(広島東洋カープ)と並ぶ。また、球団新記録でもある(従来の球団記録は1949年4月26日の川崎徳次と2001年6月9日の清原和博の9)。プロ野球記録は飯島滋弥の1試合11打点(1951年10月5日)。
初出場:1999年4月2日、対阪神タイガース1回戦(東京ドーム) ― 遊撃手として途中出場
初先発出場:1999年4月3日、対阪神タイガース2回戦(東京ドーム) ― 七番・遊撃手
初安打:同上 ― 投手:川尻哲郎
初本塁打:1999年4月14日、対広島東洋カープ2回戦 ― 投手:黒田博樹
初打点:同上(初本塁打と同時)
通算1000試合出場 2007年5月18日(417人目)
オールスターゲーム出場:6回(1999年・2000年・2003年・2004年・2006・2009年)

登場曲
移籍に伴い巨人時代の「スカイハイ」(ジグソー)から松山千春の「大空と大地の中で」に変更するつもりであったが、チームメイトである金子誠から「変えないほうがいい」と進言されたことで日本ハムでも継続されることになった。スカイハイに固定される前は、モーニング娘。の「ハッピーサマーウエディング」を登場曲にしたことがある。




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